水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

敵を祝福する

ローマ12:14-21

序  「あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い生きた供え物としてささげなさい。」と始まった、礼拝としてのクリスチャン人生に関する勧めが続きます。前回は教会生活についてでしたが、今回は社会との関係、クリスチャンでない人たちとの関係について教えています。未信者の家族、職場、地域社会、学校の人たちです。しかも、パウロが想定するクリスチャンでない人たちというのは、特にキリスト教を嫌って迫害する人たちです。そういう人たちがいる社会で、クリスチャンである私たちはどのように生きていくのか。パウロの伝道者としての生涯を見れば、彼は常にユダヤ教の弾圧の下で宣教をし、後にはおそらくローマ帝国の弾圧したで殉教しましたから、彼がそういう意識をもっていたのは、当然なことでした。
「11:24 ユダヤ人から三十九のむちを受けたことが五度、11:25 むちで打たれたことが三度、石で打たれたことが一度、難船したことが三度あり、一昼夜、海上を漂ったこともあります。』(2コリント11:24,25)
 新約聖書におさめられたパウロの手紙の多くは獄中で記されたものです。彼は自由なときには伝道活動をし、牢屋に入るとペンをとって(正確には口述筆記)伝道活動をしたのです。そう考えると、敵がパウロを牢屋に入ってくれたからこそ、彼は多くの手紙を書き残すことになり、二千年間のキリスト教会は、神のことばを受け取ることができたのです。神さまのなさることは不思議です。ハレルヤです。
 
1.迫害者に対して

 パウロが手紙を書いている相手は、まだ見ぬローマの教会の兄弟たちです。手紙が書かれたのは、キリスト紀元58年ですから、ローマ帝国当局からの迫害は、この時にはさほどのものではありませんでした。しかし、当時のローマ皇帝はネロでした。この手紙が書かれてから6年後の64年にはネロは、ローマの大火を引き起こして、その責任をキリスト教徒たちになすりつけて、弾圧に乗り出しました。そんなことが可能となったのは、すでに急速にふえていたキリスト教徒たちに対して、敵意を抱く人々がローマの社会の中に徐々に増えていたからであろうと思われます。そういう人々は、キリスト教徒にその信仰のゆえに非難したり、意地悪をしたりしていたわけです。
 そういう人々にどのように対処するのか?それがこの箇所の課題です。現代でも中国や北朝鮮ではクリスチャンたちはたいへんな目に遭っていますが、私たちの国日本では、そんなことはありません。とはいえ、神様を愛して生きて行こうとするときに、あなたもきっと無理解な社会との間に軋轢を感じたでしょう。迫害やいじめにあうこともあったのではないでしょうか。
 パウロは、クリスチャンはただ我慢しなさいというのではなく、勝利の道を教えます。これがポイントです。しかし、その勝利とはこの世の人々がいう勝利ではなくて、主イエスにならう勝利、十字架の勝利です。どうすれば、あなたを迫害する人、ゆえなく苦しめる人々に勝利できるのでしょうか?聖書は命じます。
「12:14 あなたがたを迫害する者を祝福しなさい。祝福すべきであって、のろってはいけません。」
 自分に悪を成す人に対して悪いことを仕返しするとき、私たちは、勝利を得ているのでしょうか。結局、自分も悪いことをして、悪人のペースに巻き込まれ支配されてしまって、神の前に罪を犯してしまったのです。敗北です。しかし、神様を見上げて「父よ。彼らをゆるしてください。彼を祝福してください。」と祈るとき、私たちは主イエスにあって、勝利者です。悪者に調子を合わさせられるのでなく、神のペースに生き、キリストの足跡に従っているからです。

 

2.教会の一致


 続いて、15、16節で教会の一致のたいせつさが語られます。
「12:15 喜ぶ者といっしょに喜び、泣く者といっしょに泣きなさい。
12:16 互いに一つ心になり、高ぶった思いを持たず、かえって身分の低い者に順応しなさい。自分こそ知者だなどと思ってはいけません。」
 外の人々に対することが語られている文脈なのに、突然教会について語られるのはなぜでしょうか。クリスチャンでない社会の人々に対するクリスチャンのなによりの証は、教会が互いにへりくだり、愛し合い、一致しているという事実であるからです。主イエスもおっしゃいました。「あなたがたが互いに愛し合っているならば、世はあなたがたをわたしの弟子だと認めるのです。」
 キリスト教に対して悪意を抱いている人と言うのは、多くの場合、キリスト教会に対して偏見を抱いているものです。私自身もかつてそうでした。けれども、実際に教会を訪ねて、その交わりにはいってみると、そこにはなんともいえない麗しいもの、この世にない、そよ風が吹いているような愛の交わりを見たのです。
 世の人々の集まりというのは、たいてい誰が偉いかということで、暗い争いがあるものです。利害関係があり、派閥があり、ドロドロしたものがありがちなものです。こちらでいい顔しておいて、陰では悪口を言っているような、そんな醜いものがありがちなものです。もし、教会の交わりの中に、そんなものがあったなら、世の人々は「あの人たちはキリストの弟子ではないよ」という権利があるのです。しかし、教会が一つ心で、互いにへりくだって、尊敬しあう愛の交わりがあるならば、世の人々は、そこにこの世にはないものを見出します。振り返ってみると、私は、初めて訪ねた教会にそういう交わりを見たのです。赤ん坊、小学生、学生たち、おじさん、おばさん、おじいさん、おばあさん・・・いろいろな人がいましたし、話をすれば別にかしこまっているわけではなく、堅苦しくもなく、自分を飾ることのない、気楽で、誠実な人たちの交わりでしたが、そこには世にはないものがあることを私は感じました。 それは、キリストを中心として、お互いの人格を尊重しあう交わりであったということです。
 私が教会に行き始めて、しばらくたったとき、増永牧師が手紙をくださいました。その手紙に、先生は「私は、水草君という友人が与えられたことを心から嬉しく思っています」と書いてくださいました。私の父母の世代の人です。その人が、若造の私を「友人」と呼んでくださったのです。こんな経験は、小学校以来一度もしたことがありませんでした。教会における人間の関係は、世にない不思議なまじわりです。その中心に、イエス様がいらっしゃるからです。

 

3.悪に対して善をなせ

 

 そうして、もう一度話は迫害する世の人々に対する行動のあり方に戻ります。


「12:17 だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい。 12:18 あなたがたは、自分に関する限り、すべての人と平和を保ちなさい。」

 もう一度いいます。敵が悪いことをしたら悪いことをし返すというのでは、相手の奴隷です。サタンの罠にはまって、罪を犯したのです。私たちはキリストにあって、自由な王とされたのです。自由な王として、神様に相手の祝福を祈りながら、何をしてあげるのがよいかを考えるのです。具体的には、まずは、その人の祝福を祈ることです。あなたの悪口を言って回る人がいたならば、「神様、あの人を祝福してください。」と祈るのです。そうすると、天の窓が開きます。
 「あの人を祝福してください」というのはとても良い祈りです。私たちが、身の回りに困った人、自分にとって不都合な人がいた場合にしがちな祈りは、「あの人をああしてください。こうしてください。」という祈りです。その「ああして、こうして」というのは、自分にとって不都合な相手の欠点を取り除いてくださいという内容でしょう。経験的に言って、こういう祈りは、多くの場合聞かれません。「あの人のためになることを思って祈っているんです」というふうな言い訳を私たちはしますが、たとえば「あの人があんな悪口を言わないようにしてください」というような祈りには、敵意や恨みがこめられていることが多く、恨みとか敵意を込めた祈りを、きよい神様は聞いてくださらないのです。恨みは醜いものですから、神さまはその手の祈りのことばは敬遠なさるのでしょう。(マルコ11:23-25参照)

 だから、いろいろと嫌な思いをさせられたなら、その人のために「彼女を祝福してください。」と祈ることです。天の窓が開かれて、神様が最善のものをもって、その人を祝福してくださいます。

4.神の怒りにまかせる

 

 ただし、刑事罰に当たるような悪事をなしてくるような人がいた場合には、どうすべきでしょうか。放置しておいてよいのでしょうか。そういう問題の場合には、神の怒りにまかせることです。
「12:19 愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」
 クリスチャンが復讐せず、神の怒りに任せるというのは、具体的には、次の13章に出てくる「上に立てられた権威」にゆだねるということです。私たちは個人的に復讐をしようとすると、怒りが大きくなっていて適正な処罰ができません。そのために、神は世の権威を立ててくださいました。そうした悪事に関しては、警察や裁判所に訴えればよいのです。犯罪を放置することは、社会的によくないことですし、また、犯罪を犯している本人にとっても不幸なことです。ですから、公に訴えればよいのです。
 しかし、個人としてはどこまでも、悪に対しては善を報いるという道で生きていくのがキリストのしもべの道、神の子どもの道です。自由な王道です。
12:20 もしあなたの敵が飢えたなら、彼に食べさせなさい。渇いたなら、飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。
12:21 悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい。
 なにかいやなことをされたら、「よし。あの人を祝福してください。どんないいことで仕返しをしてやりましょう。」と自由な心で祈るのです。「彼の頭に燃える炭火を積む」とはどういう意味でしょう。誰かがあなたに悪いことをしたのに、あなたがその人のために祝福を祈り、よいことをはかってあげるならば、その人は、自分のした悪を恥じいって顔が赤くなってしまうという意味です。

 

適用
 私たちは、王なるキリストに結ばれた王です。自由人です。悪魔の支配は私たちに及びません。イエス様が、罪人の中にあって勇敢に歩み、十字架の上でさえ憎しみに支配された奴隷となることなく、敵のために自由な心で祈ったように、私たちも敵の祝福を祈りましょう。
 あなたの周囲にあなたに対して意地悪な人がいるでしょうか。あなたに悪意をもって接する人がいるでしょうか。どうすればよいでしょう。
 毎朝、「彼を、彼女を、神様祝福してください」と祈ることから始めましょう。毎朝毎朝「彼を祝福してください。」と祈るのです。
 そうしていると、自分のほうが心が変えられてきます。そして、相手も心が変えられるのです。相手を変えようとするのでなく、自分が敵を祝福するのです。すると天の窓が開きます。神様は摂理の御手を働かせて、あるいは、御霊の導きをもって、思いがけない素晴らしいことをしてくださいます。