水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

キリストのからだに生きる

ローマ書12章3-13節

 

 12:3 私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。

 12:4 一つのからだには多くの器官があって、すべての器官が同じ働きはしないのと同じように、

 12:5 大ぜいいる私たちも、キリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに器官なのです。

 12:6 私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。

 12:7 奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。

 12:8 勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれをしなさい。

 

  12:9 愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。

 12:10 兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。

 12:11 勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。

 12:12 望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。

 12:13 聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい。

 

 前回、パウロは「あなたがたの人生を丸ごと聖なる生きたささげものとして、神にささげること、それこそ、理にかなった礼拝である」と語りました。私たちは、生活の全領域で、主をあがめる生活をするのです。それは、具体的には生活の中心がキリストのからだである教会にすることによって可能になることです。ですから、続いてパウロは教会生活について語っていきます。

 

1.キリストのからだ

 

(1)キリストのからだに連なることが大切です

 パウロはここで、教会はキリストのからだであることを教えています。教会がキリストのからだであるということは、どんなことを意味するのでしょうか。

 12章4節「一つのからだには多くの器官があって云々」とか5節「大勢いる私たちもキリストにあって一つのからだであり、ひとりひとり互いに各器官なのです」

 私たちの信仰生活の具体的な中心は、やはり何といっても教会です。教会を離れて、自分の人生をまるごとキリストにささげた生活をすることは、絵空事になってしまいます。キリストのからだである教会につながり、そのキリストのからだから栄養分を供給されてこそ、私たちの具体的な信仰生活は育ちます。そのために心得るべきことを今日の箇所は教えています。

 自分で聖書を読んで聖書を研究すれば、それでいいと考える人がいるかもしれません。でもそれでは、どこまで行っても聖書研究者に留まることでしょう。キリスト者つまりキリストのいのちに満たされて、神に喜ばれる実を結ぶ生活をすることはできません。いろいろ理屈はあるでしょうが、なんだかんだ言っても、教会を離れて実際に主にある豊かな喜びといのちに満ちた信仰生活を送れるかと言ったら送れません。必ず、この世の価値観にのみ込まれてしまいます。

 奈良に住む姉がうどんの麺をつくる製麺工場でパートで働いていました。機械がガチャンガチャンと麺を切って行くのですが、そこに指を挟んで切ってしまいました。急いで指の先をビニル袋に包んで医者に行き、手術をして神経もつなぎ治りました。もしちょん切れた指を話したままだと、指はどうなりますか。死んでしまいます。指が体から離れると死ぬのです。その人は指をすぐにビニルで包んで病院に連れて行けば医者が神経をつないで、また動くようになりました。からだにつながると命が流れ込むのです。

 クリスチャンの信仰生活というのは、頭の中で考えているだけの抽象的観念的なものではなく、具体的でいわば肉体的なものです。ともに賛美をささげ、ともにご飯を食べ、ともに汗を流して奉仕し、ともに遊び、ともに笑い、ともに祈り、ともに泣く、そういうものです。そこに命があります。真の神は人格的な神であられて、父と子は聖霊にある愛の交わりのうちに生きておられます。永遠から永遠に向かって、父と子と聖霊は、たがいに愛を注ぎあい、互いに喜んで、ともに働いて生きておられます。教会は、三位一体の神の作品ですから、この教会の交わりのうちにあって、神のいのちを経験するのです。

 

(2)教会は、他の誰でもなくキリストをかしらとする。

 「キリストのからだ」ですから、かしらはキリストです。ほかの誰でもありません。教会のかしらは、パウロでもペテロでもアポロでもなく、ローマ教皇や国王でもなく、牧師でも役員でもなくキリストです。

 私たちクリスチャンが親しくなるには、私たち一人一人がイエス様と親しくなる必要があります。それは、ちょうど傘の中央にイエス様がいらして、私たち一人ひとりはその他のところにいるのです。私たちクリスチャンの兄弟姉妹が親しくなるというのは、私たち一人一人が、イエス様にことばを学び、また祈り、主の日を忠実に聖別する生活をているならば段々とイエス様と親しくなってきます。そうすると、私たちはまた兄弟姉妹互いにの距離が縮まってきます。キリストを抜きにした交わりではこうは行きません。 キリストを中心として、キリストをとおして、私たちはほんとうの意味で親しくなることができます。キリストがそこにおられたら恥ずかしくてできないような交わりや会話があってはなりません。

 

  • 私たちは自分に与えられた賜物をもって、互いに奉仕をして教会を建てあげます

 キリストにあって一つにされた私たちは単にぼんやりとしているため、また、ただ受けるために召し集められたのではりません。キリストのからだには使命があり、働きがあります。私たちのからだに、手足、鼻、口、目、胃袋、腸、肺、心臓、すい臓、腎臓、肝臓・・・とさまざまの器官があり、全体として助け合って、一つの仕事をするように、キリストのからだとして結び合わされた私たちにも、それぞれの働きがあって助け合って一つの仕事ができる者です。私たちのからだの器官には、なにもしないお客さんはありません。今日、このように礼拝ができるためにも、多くの兄弟姉妹たちが、さまざまの分担して準備をしてきたのです。

 キリストのからだに結び合わされてともに奉仕する上で大事な原則があります。それは己の分をわきまえつつ、積極的に奉仕せよということです。まず、分をわきまえることです。

 12:3 私は、自分に与えられた恵みによって、あなたがたひとりひとりに言います。だれでも、思うべき限度を越えて思い上がってはいけません。いや、むしろ、神がおのおのに分け与えてくださった信仰の量りに応じて、慎み深い考え方をしなさい。

 手には手の分、足には足の分、鼻には鼻の分、耳には耳の分、口には口の分があります。それを越えてはならないということを、私たちのからだの各器官は知っています。そのように、私たちの教会に連なっているお互いとして、その分をわきまえることがたいせつだということです。そうしないと、争いや分裂が起こって、イエス様のからだを引き裂くことになります。

 そして、賜物を積極的に用いて奉仕しなさいということです。

 12:6 私たちは、与えられた恵みに従って、異なった賜物を持っているので、もしそれが預言であれば、その信仰に応じて預言しなさい。
 12:7 奉仕であれば奉仕し、教える人であれば教えなさい。

 12:8 勧めをする人であれば勧め、分け与える人は惜しまずに分け与え、指導する人は熱心に指導し、慈善を行う人は喜んでそれをしなさい。

 それから、すこし飛んで13節
12:13 聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい。

 会堂清掃、説教、教会学校の先生、礼拝賛美とそれを支える奏楽、礼拝のプロジェクター、礼拝受付、慈善的な働き、教会を治める務め、会計の務め、訪問して励ます働き、看板掲示、昼食の準備、見えるところの働き、見えないところの働きなど様々の働きが教会にはあります。また、13節の「聖徒の入用に協力し、旅人をもてなしなさい」というのは、初代教会では大事な奉仕でした。当時はパウロとかアポロとかバルナバなど巡回伝道者がぐるぐるあちらこちらの教会を巡回してみことばの勧めをするという方法がとられていましたから、そうした巡回伝道者を家に泊めて世話をするという奉仕者がいてこそ、それが可能となったわけです。また、先日の小海キリスト教会の兄弟姉妹の訪問にあたっての交わり会のために、愛のご奉仕や指定献金をしてくださり、ほんとうに小海の兄弟姉妹は感激していました。

 また、年を取ってからだが動かなくなってきたならば、そうしたさまざまな奉仕が主にあって一致してささげられるように、陰でとりなし祈るという大事な働きがあります。どの働きも大事です。何一つ欠けてはいけません。私たちのからだの器官です。

 

3.教会生活の心得いくつか

 

  12:9 愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。

 12:10 兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。

 12:11 勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。

 12:12 望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。

  ローマ書12章9節から13節には、教会生活のもろもろの心得が出てきます。順不同ですが、三点確認しておきましょう。第一は愛、第二は勤勉、第三は希望

 

(1)愛について

まずは、キリスト教会の生き方は愛ですが、その愛について三つのことが勧められます。

12:9 愛には偽りがあってはなりません。悪を憎み、善に親しみなさい。

 12:10 兄弟愛をもって心から互いに愛し合い、尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思いなさい。

 ひとつは愛には偽りがあってはならないということです。愛ということばは美しいことばなので、いろいろな使われ方をするので、「大好きだという感情」が愛であると誤解する人もいます。聖書がいう真実の愛とはなんでしょうか?「愛するとは、相手が、神を愛することができるように助けることです。また、愛されるとは、自分が神を愛することができるように助けられること」です。

 また、真実の愛はなれなれしいものではなく、相手への尊敬を伴うものです。「尊敬をもって互いに人を自分よりまさっていると思う」ことです。相手が目上であれば当然ですが、そうでなくて、子どもであっても、イエス様は「子どものようにならなければ、あなたがたは神の国に入れない」とおっしゃったのですから、尊敬すべきことがあるのです。根本的に、相手は自分の所有物ではなく、神の作品であり、神のものであるという意識が、その尊敬の根本です。人は神の作品であり、神の所有ですから、こちらの思い通りにならないからといって嫌悪してはなりません。相手が相手であることを尊重するのです。

 

(2)勤勉で怠らず

 12:11 勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えなさい。

  この御言葉は、本田弘慈先生がいつも色紙に書いて下さったものです。恵みによって救われたのだから、何もせず怠け者でいなさなどと聖書は決してすすめません。恵みで救われたからこそ、「勤勉で怠らず、霊に燃え、主に仕えよ。」です。私が神戸の東須磨教会でイエス様を信じたあと、宣教師の先生たちと知り合いになりました。その中にオリナ・リン先生という美しい銀髪の先生がいらっしゃいました。先生はカベナンター書店というキリスト教書店を担当していらして、絶えず働いていらっしゃいました。時間を決して無駄にせず、主から託されたときたいせつにされたのです。やがて、主が迎えに来られたら、私たちは主の前に、自分の主のための奉仕の人生の精算するのです。自分の欲のために蓄えたものは地に置き去りにしてゆくほかありません。しかし、主を愛し、主がくださった兄弟姉妹を愛し、主がくださった務めのために、怠りなく働き、霊にもえて働いたならば、それが天の宝として罪たくわえられています。

 

(3)希望

12:12 望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい。

  初代教会当時、弾圧が段々と厳しくなって行きました。パウロの時代にはユダヤ教当局からの弾圧です。パウロ自身、キリストのゆえにむち打ちにあったり、何度も投獄されたりしました。後には、ローマ帝国当局が皇帝崇拝を国民に強要するようになったので、皇帝の偶像を拝まないクリスチャンたちは処刑されることさえあったのです。

 そうした困難の中で、彼らを支えたのはやがて主イエスが再び来られ、永遠の神の国が到来するという希望でした。その希望を抱いて、祈りに絶えず励んだのです。

 

結び

 キリストの十字架と復活による償いを根拠として、私たちは罪赦され、神の子どもとしていただきました。神の子どもとして、神の子どもらしく、立派に生きていくポイントを学びました。

 第一は、キリストのからだである教会に連なることです。ちょんぎれた指にならないことです。そして、キリストのからだの器官として、与えられた賜物を出し合って、キリストの使命を果たしていくことです。

 第二は、真実の愛、勤勉、再臨の希望をもって生きることです。