水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

礼拝の人生

ローマ12:1,2

 

 

 12:1 そういうわけですから、兄弟たち。私は、神のあわれみのゆえに、あなたがたにお願いします。あなたがたのからだを、神に受け入れられる、聖い、生きた供え物としてささげなさい。それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。

12:2 この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。

 

「そういうわけで、兄弟たち、神の憐れみによってあなたがたに勧めます。」

「そういうわけで」というのは、どういうわけでしょう。使徒パウロがローマ書の1章から11章まで語ってきたことがらを指しています。造り主である神様に背を向けていた私たちは、本来ならば、滅ぼされて当然です。ところが、神様がそんな罪に滅ぶばかりの私たちをあわれんで御子イエスの十字架と復活の御業によって、救ってくださった。だから、「神のあわれみによって、あなたがたにお願いします。」なのです。

 では、使徒はキリストの贖いのゆえに恵みによって信仰により救われた私たちに、なにを命じているでしょうか。それは、私たちが自分の人生を神様にささげて生きることであり、礼拝の人生を送ることです。

 

1.礼拝の人生

 

 「自分のからだを神に喜ばれる聖なる生けるいけにえとしてささげること」です。

 

(1)自分のからだを

 「自分のからだを捧げる」とはどういうことでしょう。聖歌313番に次のようにあります。これは「肉体をささげなさい」という意味でなく、「あなたがたの人生丸ごとを神様に捧げなさい」という意味です。後ほど歌う聖歌313番はこう歌います。

       

主よ わがいのち ささげまつれば わが手と足をみむねのままに 動かしたまえ

主よ わが声を 受け取りたまえ わが唇は さかえを歌い みむねを伝えん

主よ わが意志を ながものとなし わが心をば みくらとなして すべさせたまえ

主よ わが愛を ささげまつれば われをときわに なが手の中のものとしたまえ

 

 ですから、ここで使徒パウロがいう礼拝とは、主日ごとの公礼拝を中心とした、7日間の生活全体が神様に対する礼拝であるということにほかなりません。そこで、今日の説教題は「礼拝の人生」としました。そして、主の日の礼拝を大切にすることが、月曜日から土曜日までの生活が神様をあがめる生活として変えられていくための基本です十分の一献金といいますが、十分の一だけ神様にささげるのでは献身になりません。十分の十すべてを神様におささげして生きる。十分の一はすべての代表するものです。手元に残された十分の九も、あなたの経済生活を通して神の栄光の顕されるように用いるべく、あなたに委ねられているのです。

 お金の使い方だけでなく、洗濯をしている時も、勤め先で仕事をしているときも、学校で机に向かっている時も、食事をしているときも、風呂に入っているときも神様の主権を認めて行なう。趣味も、あなたの恋も、子育ても、生活の全領域において、神様をあがめて生きよということです。有名なことばがあります。「キリストは、この家のあるじ。食卓の全ての会話の見えざる聞き手である。」

 あなたの生活の諸領域のなかで、まだ神様におささげしていないところは無いでしょうか。「この点については、自分は神様におゆだねしていません。」と思っているところはないでしょうか。

 あなたの生活を一つの家にたとえるとき、イエス様を信じたとき、まずは玄関のドアを開いてイエス様を客間にお迎えしたでしょう。喜ばしいクリスチャン人生の始まりです。でもイエス様は、客間だけでは満足なさいません。あなたの台所にも、寝室にも、物置にも、入って来たいと思っていらっしゃいます。あなたの秘密の部屋にもはいりたいと思っていらっしゃいます。エス様はあなたのお客さんではなくて、あなたの主となることを望まれるのです。

 

(2)聖い、生きた供え物として

 しかも、それは「聖い、生きた供え物」として自分のからだを神にささげよというのです。「聖い」は神様のために世から取り分けたという意味です。不思議なのは「生きた供え物」であるという点です。旧約時代、神様に対する供え物は必ず、血が流されなければなりませんでした。罪から来る報酬は死であるからです。祭司は民の代表として牛や羊の頭に手を置いて、そしてこれを殺して血を流すのです。ヘブル書9:22には旧約の律法の原則が明言されています。

「こうしてほとんどすべてのものが、律法にしたがって血で清められており、血を流すことなしには罪の赦しはありえないのです。」

 ところがここでは「自分のからだを・・・聖い、きた供え物としてささげなさい」といわれています。なぜですか。この供え物は、罪の償いとしてのいけにえではなく、感謝のささげものだからです。旧約時代、穀物のささげものというのがあり、これは血を流さないものでした。流しようのないものでした。これは、血を流すささげものとあわせて、感謝の表現としてささげたのです。神のみ子イエス様がすでに、罪の償いとしてのいけにえとして十字架で血を流して死んでくださいましたから、もはや私たちは自分の罪の償いをする必要は一切なくなってしまいました。それでもなお私たちがなお神様に差し出すものがあるとすれば、それは感謝のみ、感謝のあかしとしての献身です。

 私たちは自分の罪のなかで滅びるべき者だったのに、神様は私たちをあわれみ、御子イエス様が私たちの罪の身代わりのいけにえとなって、いっさいの罪の償いを完了してくださいました。ですから、私たちは自分の罪滅ぼしのためではなく、神様への感謝のゆえに自分を主におささげするのです。これが、新約の時代に生きる私たちキリスト者の礼拝の原理です。

 

(3)こうした礼拝的生活が「理にかなっている」わけ

「それこそ、あなたがたの霊的な礼拝です。」と訳されていますが、むしろ「理にかなった礼拝」と訳すべきでしょう。「霊的な」ということばはロギコス(女性対格ロギケーン)というロゴスの形容詞のかたちです。つまり、「理にかなった」という意味です。どういうわけで、生活まるごと聖なるいけにえとして神様にささげて生きることが、理にかなっているのでしょうか?二つ理由があります。第一は私たちの礼拝する神様が創造主であって私たちはその作品であるからです。第二にキリストはあなたのために命まで惜しまなかった救い主だからです。

 みなさんが座っている椅子は、皆さんのお尻の下で「骨ばったおしりで痛いよ」とか「あなた重すぎるよ」とか「おならしないでよ」とか文句も言わないで、みなさんにひたすらお仕えしています。なぜでしょう。造られたものが、造ってくださった方に仕えるのは理にかなったことだからです。同様に、神様が万物の創造主であられて、私たちはその被造物(作品)ですから、作られた私たちは創造主なる神様にお仕えして生きることは理にかなったことです。

 もう一つの理由があります。みなさん『ロビンソンクルーソー』という話をご存知でしょう。ロビンソンは漂流して絶海の無人島にいたのですが、あるとき、その島の砂浜に二隻の丸木舟が上陸します。丸木舟には三十数名の人食い人種が乗っていました。ロビンソンが望遠鏡で見ていると、そのうち四人は縛られていて3人は殺され、解体されて料理されていくのです。ところが四人目の青年は、すきをみて逃げ出しました。それを二人の男が追いかけてきます。そこでロビンソンは青年を救ったのです。すると、青年はロビンソンのもとにひれ伏して、次にロビンソンの右足を自分の頭に載せるのです。ことばは通じませんが、身振り手振りで自分はロビンソンのしもべとして生きますと、命を助けてもらったことへの感謝と服従を誓うのです。これからは命の恩人の僕として生きていきますということでした。ロビンソンは、この青年にフライデーという名を与えました。彼が助けられた日が金曜日だったからです。

 神様のみ子イエス様は私たちのためにあの十字架に命を捨てて、私たちを罪と滅びと悪魔の支配から救ってくださいました。ですから、私たちも頭の上にイエス様の足を載せて、恩人である復活されたイエス様お方のために人生を捧げて生きることは、理にかなったことです。いのちを助けられながら、自分勝手に生きていくなら人の道を外れています。

 

2.礼拝的生活をするために

 

 では、この理にかなった礼拝者として生活の全領域で、神様をあがめ、神様の栄光を現して生きるために、実際的にどうすればよいのでしょう。第二節。「この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。 高校生の英語でいうnotA,butBです。神様に喜ばれる理にかなった礼拝的生活をするためには、「してはならないこと」と、「すべきこと」があるのです。してはならないことは、「この世に倣う」こと。しなければならないのは「自分を変えていただく」ことです。

 

(1)してはならないこととは「この世と調子を合わせること」す。

 私たちの日常生活も神様を礼拝する生活になるためには、どうすればよいか。新改訳聖書第三版では「この世と調子をあわせてはいけません」とあります。「この世アイオーン」とは何でしょう。(ギリシャ語の単語は違いますが)ヨハネはこう言っています。1ヨハネ 5:19 私たちは神からの者であり、世(コスモス)全体は悪い者の支配下にあることを知っています。また、次のようにもあります。「世」は悪魔の支配下にあるのです。「世」は肉の欲、眼の欲、生活のおごりに満ちています。これらの欲は悪魔から出ているのです。不況の時代になってもTV番組などで流されている情報は、まさに肉の欲、眼の欲、生活のおごりを満足させることこそ、人間のすべてであると宣伝しているのではないでしょうか。肉体的欲求も、好奇心も、生活のアクセサリーも神様がくださっているかぎりで楽しめばよいものですが、それがすべてだと思わせて、神様なんか忘れさせるならば、それは悪魔の罠です。

 私たちの生活は、神礼拝なのですから、こういうものに調子を合わせてはいけない。倣ってはいけませんい。悪魔の支配に陥り、最後には悪魔といっしょにゲヘナの炎に永遠に苦しむことになります。

 

(2「頭」(考え方)の一新によって自分を変えていただきなさい。

 では、生活全体が礼拝的なものとなるには、どうすればよいのか。「自分を変えていただきなさい」です。どうすれば自分を変えていただけるかそれは「心を新たにすることによって」です。でも「心を新たにする」とはどういうことでしょう。

 「心」という言葉は、日本ではたいてい情緒的なイメージのことばですが、ここで「心」と訳されることばはヌースと申しまして、英語の辞書ではmind、intellective faculty, understanding, reasonと訳されています。cool mind and hot heart(さめた頭と熱い心)というのですから、この「心を新たにすることによって」という場合、「心」ではなく、むしろ「頭」と訳すべきところです。「頭を新たにして自分を変えていただきなさい」です。これならば、具体的に何をすればよいかわかりそうです。

 私たちのからだは頭によって支配され、頭はことばによってコントロールされています。たとえばお財布が落ちていたら心の中でその瞬間あなたがつぶやいたことばで、あなたの行動はコントロールされます。その最初につぶやく言葉が「落とした人、困っているだろうな」とか「盗んではならない」だったら、あなたの足は交番に向かうでしょう。でももし「ラッキー、得をした」とつぶやいたらあなたは泥棒になるでしょう。

 では、どうすればよいか。私たちの頭に神みことば、正しい教理をたくさん蓄えることです。主の日ごとにみとばを味わい、たくわえましょう。また毎日御言葉を味わい、蓄えましょう。私たちの心は畑です。この畑に、すばらしい御言葉の種をこつこつと蒔きつづけるのです。やがて、時が来ると御言葉は芽を出し、実を結ぶにいたるでしょう。気づいたら、内側から変えられた自分を見出すでしょう。

 こうして私たちの生活全体が、神様への礼拝とされていくのです。あなたのからだを神に喜ばれる聖なるいけにえとしてささげなさい。それこそ主の御心です。