イエスの名を伝えよう
ローマ10.6-15
序 信仰のことばを求め、信じよ。
10:6 しかし、信仰による義はこう言います。「あなたは心の中で、だれが天に上るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを引き降ろすことです。
10:7 また、「だれが地の奥底に下るだろうか、と言ってはいけない。」それはキリストを死者の中から引き上げることです。
6,7節は不信仰なことばを口にするな。人間的な自分が見たことさわったことのないものはどんなことも信じないというような狭い了見でキリストのみわざを否定するなと言っているのです。復活したイエス様は、弟子たちが見ている目の前で天に昇って行かれたというのが信じがたいから、「心の中で、だれが天に上るだろうか」なんて言ったらだめです」ということです。また、7節はイエス様がよみに下って復活されたことを信じがたいこととしてはなりません、ということです。主イエスは父とともに万物を創造した全能者です。ではどうすればよいか。パウロは続けます。信仰のことばを信ぜよということです。すなわち、
10:8 では、どう言っていますか。「みことばはあなたの近くにある。あなたの口にあり、あなたの心にある。」これは私たちの宣べ伝えている信仰のことばのことです。
そして、今日の一番目の本論にはいります。信仰によって義と認められ、罪ゆるされて救われるという、その信仰とはどういう信仰なのかについてです。
1 信仰は告白的でなければならない
10:9 なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせてくださったと信じるなら、あなたは救われるからです。
10:10 人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。
主イエスはおっしゃいました。告白するとはギリシャ語でホモロゲオーと言いますが、その意味は「同じことを言う」です。心の中で思うのと同じことを、口で言い表すことを告白といいます。心にもないことを口で言うのは、ウソです。イエス様を心の中で私は信じると思っているなら、「あなたはイエスを信じていますか」と聞かれて、「はい。わたしはイエスを信じています」と公に言って初めて救われます。
「10:32 ですから、わたしを人の前で認める者はみな、わたしも、天におられるわたしの父の前でその人を認めます。 10:33 しかし、人の前でわたしを知らないと言うような者なら、わたしも天におられるわたしの父の前で、そんな者は知らないと言います。」(マタイ10:32,33)
心にイエスを信じていないのに、口で「信じている」と言っても救われません。また、心に信じているけれど、口では「信じていません」というようでは、神の前に信仰と認められません。神の御前で、最後の審判のときに通用する信仰とはどういう信仰とは、心に信じることと、告白することhomologeoとは一致していることです。
2 呼ぶべきは主イエスの名
次に、永遠のいのちを得るために、その心に信じ、呼ぶべきお方の名はイエス様だけであるということです。パウロは旧約聖書のイザヤ書とヨエル書から引用して、次のように言います。まず、イザヤ書28章16節からの引用。
10:11 聖書はこう言っています。「彼に信頼する者は、失望させられることがない。」
イザヤ 28:16 だから、神である主は、こう仰せられる。
「見よ。わたしはシオンに 一つの石を礎として据える。
これは、試みを経た石、堅く据えられた礎の、尊いかしら石。
これを信じる者は、あわてることがない。
イザヤ書で言われているシオンに据えられる一つの礎の石とはキリストを指しています。ペテロも手紙の中で、同じイザヤ書を引用して、イエス・キリストがその信頼すべき石であるとしています。父なる神が、「見よ。わたしはシオンに、イエス・キリストを礎の石として据える。」とおっしゃり、「イエス・キリストを信じる者は、あわてることがない」というのです。(1ペテロ2::6)は70人訳で「失望させられることがない。恥を見ることがないkataischunh」とあります。いずれにせよ、「彼を信頼する者は」ということばが指す「彼」とはイエス様のことです。
続いて、「イエスを告白する」ということが、「主の名を呼び求める」と言い換えられて、13節で主イエスを呼び求める者に、主は恵み深いのだ、救ってくださるのだとして、その根拠として、13節ではヨエル書2章32節の預言が引用されます。
10:12 ユダヤ人とギリシヤ人との区別はありません。同じ主が、すべての人の主であり、主を呼び求めるすべての人に対して恵み深くあられるからです。
10:13 「主の御名を呼び求める者は、だれでも救われる」のです。
ヨエル2:32 しかし、【主】の名を呼ぶ者はみな救われる。
要するに、9節「イエスを主と告白するhomologeo」と13節「主の名を呼び求めるepkaleo」とは同じことを言っているのです。13節は旧約聖書ヨエル28章16節の引用です。ここからわかることは、旧約聖書において、ヤーウェ(太文字の主)と呼ばれたお方がすなわちイエス様なのだということです。これはとっても重大なことです。イエス様がまことの神であり、イエス様が救い主なのです。もちろん私たちは万物の創造主である父なる神を信じているのですが、父なる神に至るための道はただイエス様だけなのです。
「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通して出なければ、だれも父のもとに来ることはできません。」
とおっしゃったとおりです。当時のイエス様に敵対したユダヤ人たちも創造主である父は信じているつもりでした。しかし、彼らはイエス様を拒みました。そして、イエス様を拒んだということは父なる神をも拒んでしまったのです。だから、イエス様の名が肝心なのです。「神様を信じましょう」でなく「イエス様を信じましょう」と言いたいものです。特に日本では、「神様」といっても、800万もいるそうですから、なおのことです。
3 主イエスの名だけが救い
なぜイエス様の名を伝えることは大事なのか。それは、イエス様のお名前以外に、救いはないからです。使徒ペテロは言いました。
「この方以外には、誰によっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」(使徒4:12)
これは厳粛な事実です。イスラム教であろうと、ユダヤ教徒であろうと、ヒンズー教徒であろうと、仏教徒であろうと、神道の信者であろうと、無神論者であろうと、そこには永遠のいのちに至る救いはありません。宇宙は一つであり、この宇宙の設計をされたのは父なる神であり、御子イエスは父の傍らでこれを創造したのです。人類はすべて、このお方によって作られました。そして、すべての人は、このお方の前で、この世にあって、心に思ったこと、口で言ったことば、手でなしたこと、すべてを裁かれます。仏教徒だろうとヒンズー教とだろうと、イスラム教徒だろうと、無神論者だろうと、みな例外なくこの万物の創造主の前に出ることになります。
この唯一の神は、その尊い御子イエスだけを人類の救い主としてお定めになりました。ですから、「イエス・キリスト」という名以外には私たちが救われるべき名はこの世に存在しません。イエス様を信じなければ、人は最後の審判に耐えることはできず、犯した罪にしたがって、有罪判決を受けて滅びるのです。
ただ、神の前に自分の罪を認めて、「ごめんなさい」とお詫びして、「私はイエス様を信じます」心の中の信仰を口で表す人だけが、イエス様の服従と十字架の償いを根拠として、罪赦されて、神の国に入ることができます。これは聖書が明白に述べていることです。世の人は、それを排他的であるとか、独善的だとかいって非難するでしょう。しかし、排他的だとか独善的だとか言われても、イエスのみが私たちの罪と滅びからの救い主であることは事実なのです。
イエス様の名だけが、創造主が私たちに与えた、それによって救われるべき名です。ほかには与えられていません。だから、救われるためには、「イエス様!私を助けてください」と呼ばねばなりません。お釈迦さんはインドにいた立派な哲学者でした。しかし、お釈迦さんの名を呼んでも救われません。それは創造主が私たちに与えた、救われるべき名ではないからです。ムハンマドの名を呼んでも滅びます。それは真の神が定めた私たちが救われるべき名ではないからです。聖母マリヤの名を呼んでも滅びます。それは真の神が定めた私たちが救われるべき名ではないからです。ただイエス・キリストの名を呼ぶ者が救われます。
十字架のかたわらの犯罪人は、「イエス様、あなたが御国の位につくとき、私のことをおぼえていてください」と申し上げて、パラダイスに入りました。イエス様を信じ、そのの名を呼ぶことが、救いのためになんとしても肝心なのです。ほかの難しい教理のことは、まず横に置いといて、「イエスさま!」と呼ぶことです。死を前にした病床にあって、まだ救いに与かっていない人に会ったら、私はとにかく「イエス様!と呼ぶことです。」と教えます。ほかのもろもろの聖書に記された教えは大事ですが、救われるための第一歩は、唯一の救い主であるイエス様を信じ、イエスの名を呼ぶことが肝心なことです。
4 良いことの知らせを伝える人々の足
しかし、イエス様の名を呼ぶためには、イエス様が救い主であることをまず教えてもらわねばなりません。あなたも、人生のどのときにおいてか、誰かに教えてもらってイエス様を信じて、イエス様の名を呼んだことでしょう。お友達が、親が、牧師が、教会学校の先生が、他の誰かが、あなたに「イエス様が救い主、神の御子なんだよ」と教えてくれたでしょう。だからこそ、あなたもイエス様が救い主、神の御子であると信じて、救われて礼拝者となっているのです。御国への切符もいただいています。
ここに、私たちの伝道という使命の重大さがあります。あなたの身近には、まだ「イエス様だけがあなたの救い主ですよ」と聞いたことのない人がいるのではないでしょうか。いるでしょう。なぜですか。あなたが伝えていないからです。
10:14 しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。
10:15 遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」
今、あなたの身近で、あなたを通してでなければ、イエス様という名が唯一の救いであるということを聞いたことのない人、聞かせたことのない人を目をつぶって思い起こしてください。勇気を出して、その方にイエス様こそが、イエス様だけが救い主だと伝える決心をしましょう。
最後に注目しておきたいことは、主の良い知らせつまり福音を伝える人は、からだのどこを褒められているかという点です。伝道者は大きな声で、またたくみなことばで語るから、唇や舌がほめられるでしょうか。伝道文書を書いた手がほめられますか。いいえ。「良いことの知らせを伝える人の足」がほめられるのです。なぜ足なのでしょうか。それは、人を滅びから救う福音伝道は、教会堂の中のすでにイエス様を信じた人々に対してではなく、教会堂の外の、まだイエス様を知らない人々に伝えることなのだという意味です。礼拝に集っている私たちのほとんどはすでにイエス様を、私の救い主と信じているでしょう。
わたしたちは何とかして、教会の外にいる方たちにイエス様を証して行かねばなりません。私たちの教会では、隔月で苫小牧通信2万部を出して、なんとかして外にいる方たちに広く「よいことの知らせ」を伝えています。駅前でトラクトを渡すこともよいでしょう。
けれども、それだけではこの異教世界の中で深いところまで福音を知らせることはできません。親しく、詳しく福音を知らせるには、やはり家庭集会のような場が、教会の外に必要なのです。教会に来るというのは、世のほとんどの人々にとって、とっても敷居の高いことですが、あなたと交流のある方が、あなたの家を訪ねてくることは、教会に来るよりもずっと容易でしょう。
あなたの家族、あなたのお友だちで、まだイエス様を知らない人々がいるのではないですか?でも、あなたが祈って勇気を出して「牧師さんが来てくれるから、うちでいっしょに聖書を読んでみない」と誘ってほしいのです。そうするならば、神様はあなたについても、「良いことの知らせを伝える人の足はなんと立派でしょう」とおっしゃってくださいます。
「この方以外には、誰によっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」