水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

子とされた恵み

ローマ8:14-17

2018年10月20日 HBIオープンデー

 

14,神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。

15,あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。

16,御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。

17,子どもであるなら、相続人でもあります。私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。

 

あいさつ 

 

1.最高の恵み

 

 「神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。」(ローマ8:14

 神がキリストを信じる者に、この世でくださる恵みは数々ありますが、その主なものは、義とすること、子とすること、そして聖とすることの三つです。そのうち、子とする恵みは、神が私たちキリストを信じる者を、ご自分の養子として神の家族に迎えてくださったという祝福です。キリストの完全な服従のご生涯と十字架の宥めのささげ物を根拠として、義と認めていただいたという恵みを土台として、与えられた最高の恵みです。

 神の前に義だと宣告されたのは、牢屋にいた囚人が、特赦を受けて、牢屋から出されたという出来事です。それは、実に驚くべき恵みです。しかし、牢獄の鉄の扉が開けられるとき、彼は不安でしょう。「ありがたいことだが、俺は独りぼっち。シャバの風はつめてえだろうな。」ところが、扉が開くと、そこにはあの裁判官が黒いガウンでなく背広を着て待っていて、「よく出て来たね、今日から君は私の子、私たちの家族の一員だ。今日からともに生きて行こう。」と迎えてくれた。それが、子とされた恵みということです。

 神は私たちのうちに御霊による新生を与えてくださって、自分の罪を悟らせ、イエス様の十字架は私の罪のためだったのだと信じさせてくださいました。そして、実子であるイエス様に連なって神の子ども、神の家族の一員に加えてくださいました。最高の究極的な恵みです。しかも、この最高の恵みは、クリスチャンであるならば、誰でも受けている恵みなのです。「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもである」とあります。

 

2.奴隷的クリスチャン

 

(1)再び恐怖に陥れる奴隷の霊

 ところが、クリスチャンは神の御霊を受けたにもかかわらず、ひとたび経験した神様からいただいた「神の子どもとされた恵み」の味わいを、信仰生活をしているうちに忘れてしまう場合があります。そのときには、信仰生活を送りながら「再び恐怖に」陥って、また自分が神様の子どもとされているにもかかわらず、自分は奴隷にすぎないのだと思い込んでしまうのだというのです。だからこそ、パウロは次のように強調しなければなりませんでした。

 「15,あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。(8:15

 クリスチャンが奴隷のいだくような恐怖にさいなまれるとはどういうことでしょうか。ここに「再び恐怖に陥れる」ということばがあります。かつてイエス様を知らなかったときには奴隷的な恐怖に脅かされる生活をしていた。けれども、イエス様に出会っていったんは、そういう奴隷的恐怖から解放されたのに、いつの間にか「再び」そういう奴隷的恐怖をいだくようになってしまったというのです。いつのまにかまた昔のイエス様を信じる前の、奴隷的な恐怖にしばられるような生き方をするようになっているのです。

 これはパウロがローマ書の5章12節から7章で語っていた事態を意味していると理解されます。パウロは5章12節から6章末尾までで、あなたがたは罪(サタン)から解放されて今やキリストの所有となったことを力説しました。7章前半では、キリスト者は罪から解放されたばかりか律法からも解放されて、これからは御霊によって奉仕の生涯を生きるのだと述べました。ところが、7章後半になるとパウロは「むさぼってはならない」という律法に捕らえられて、かえって罪深い衝動が刺激され、「私は自分でしたくない悪を行っているのです」というようなありさまになってしまうのです。その挙句、8章1-3節で、もう一度、そんな自分だがキリストにあるから罪に定められることはないと、義とされた恵みを再確認して、御霊によって生きることを説いているのです。

 つまり、自分は神の正義の基準である律法を守ることのできない罪人であることを認めて、ただイエス様を信じ、罪ゆるされてクリスチャン生活が始まったのだけれど、まじめに律法に従った生活をしているうちに、「自分はいつまで汚れた心なのだろう、役に立たないしもべなのだろう、もしかすると、自分は神に赦されていないのではないか」という恐怖に陥ったということです。 キリストにある恵みを知る以前、私たちはいつも何ができるか、何ができないかということで人を測り、自分をさばき、できると傲慢になり、できないと卑屈になったりして生きていました。クリスチャンは、時に、あのような奴隷的な精神状態に逆戻りしてしまうことがあるのです。

 

(2)やっぱり神の子どもなのです

 イエス様を信じて行いでなく信仰によってキリストの贖いをいただいて罪赦されたのに、またもこういう奴隷的恐怖に縛られるようになってしまうことがあります。そういう人々に対して、パウロは、「いや確かにあなたがたはすでに神の子どもとされているのであって、奴隷ではない」と強調します。子どもの場合はなにができるかできないかという成果以前に、父なる神はあなたの子どもとしての存在そのものを喜んでいるのです。HBIの神学生のうちに赤ちゃんが生まれました。赤ちゃんが生まれて、親は睡眠時間を削り、お金を使って、生活も勉学もたいへんになります。客観的にいえば何か役に立っているわけではありません。でも、親はその子の存在を喜ぶのです。罪ある人間でさえそうなのですから、神様はまさにあなたの存在を喜んでくださるのです。

神の子どもとされたという事実には、二つの側面があります。一つは、身分的・法的なことです。イエス様は神の実子ですが、イエス様を信じる私たちのことを、神様は私たちを養子として入籍してくださいました。あの放蕩息子は、父のもとに戻ろうとするとき、お父さんに向かっていうセリフを準備しました。「私は天に対して罪をおかし、あなたの前に罪を犯しました。もう、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇人のひとりにしてください。」ところが、実際に、父のもとに戻ってみると、父は息子に駆け寄り、抱きしめ、接吻してやみませんでした。そして息子が「・・・もうあなたの子と呼ばれる資格はありません。」とまで言うと、最後まで言わせませず、彼の指に相続人の証としての指輪をはめてくれたのです。「おまえは雇人や奴隷ではない。わが子だ。」と。

このときに指にはめられた子どもとしての保証の指輪こそ、御子の御霊なのです。父は御子イエスを信じる者のうちに保証として御子の御霊をくださったので、私たちは神様を父として慕う心を授かったのです。これは「子とされた恵み」の霊的・実質的側面です。「この御霊によって、私たちは「アバ、父」と叫びます。16,御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。(8:15,16

 御子の御霊は、私たちのうちに御父への信頼と愛と喜びを与えてくださいます。「父は私を愛していてくださる」という喜ばしい意識を継続的に与えてくださるのです。八木重吉という詩人は、この神の子どもとされた経験をこんなに素朴な詩に表現しています。

 

1925年大正14年2月17日より

 われはまことにひとつのよみがえりなり

おんちちうえさま

 

おんちちうえさま

 

と とのうるなり

 

 主にある兄弟姉妹。もしかすると、あなたは「私は神様の役に立っていない。こんな私を神様はしぶしぶ赦してくださっているのではないか。」という思いに捕らわれているかもしれません。しかし、天の父は、あなたがどんな働きができるかということ以前に、あなたの存在そのものを喜んでいてくださるのです。もし主のためにご奉仕がなにかできるとしたら、そもまた素晴らしい恵みです。ですが、病を得たり、年を取ったり、仕事を失ったりして、さまざまな状況のなかで、自分はなにもできないと落胆している方が、あるいは、いらっしゃるかもしれません。けれど、主は、そんなあなたの存在そのものを喜んでいてくださいます。この恵みを知らないでは、クリスチャンとしての生涯をまっとうすることは困難でしょう。

 

3.父の期待に応えて

 

 放蕩息子は罪赦され、かつ、子どもとされて、父の家での家族との生活が始まります。これが私たちクリスチャンの教会生活です。では、彼は「父さんは、ぼくの働きではなく、その存在そのものを喜ばれているから、何もしないゴロゴロしていよう」という怠け者となるでしょうか。

父は、使用人とわが子と、どちらにより多くの期待をするでしょうか。いうまでもないことです。使用人にではなく、わが子に対してより多くの期待をするにちがいありません。なぜなら、わが子は自分の財産と事業とを受け継いでいく相続人であるからです。

  17,子どもであるなら、相続人でもあります。私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。」(ローマ8:17)

 父なる神様の私たち神の子どもに対する期待は大きいのです。実際、旧約の律法の下にあったしもべたちに対する期待よりも、福音によって救われた神の子どもたちに対する期待のほうがずっと大きいのです。たとえばパウロのことばを引けば、律法には「盗むな」とありますが、新約では「盗みをしている者は、もう盗んではいけません。かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。」(エペソ4:28)とあります。旧約が「偽証をするな」といえば、新約は「真実を語れ」と命じます。もし律法が「1ミリオン行け」と命じるならば、福音は「2ミリオン行け」というのです。

 父は「イエスに似た者となるのだよ、わたしに似た者となるんだよ」とおっしゃいます。子どもが父の期待に応えて働くのは、奴隷のようにびくびくと主人の顔色をうかがうような恐怖からではありません。子が父の期待に応えようとするのは、一方的な恵みをもって注がれている父の愛に対する、自由な心をもってする喜びの応答であり献身なのです。ですから、旧約時代にはあの四国ほどの面積の地に閉じ込められていた救いは、全世界へと爆発的に広がってきたのです。私たちが奉仕に励むのは、私たちが福音を証するのは、神様が私たちのお父さんとなってくださって、私たちにキリストにある愛を注いでいてくださるからです。

しかも、私たちは一人ではありません。私たちはキリストの共同相続人です。長子である主イエスは私たちに「さあ、一緒に2ミリオン行こうではないか。」と仰せになります。

 

結び

 私たちは、なにか立派なところがあったから救われたのではありません。罪のかたまりでしたが、キリストのゆえに罪赦され義と宣告されました。さらに、神は私たちを子として神の家族(教会)に迎え入れてくださいました。私たちは御子イエスを兄とし、神を父とする神の家族のうちで生きるべく召されたのです。父は、あなたの存在を喜んでいてくださいます。私たちは子として感謝と自由をもって、奉仕の生活に生きるのです。

神の子どもである私たちは相続人ですから、かの日の新しい天と新しい地の栄光をめざして、今の世に神のみこころが成るように、父の愛をあかしして生きて行きます。簡単なことではありません。けれど、あせる必要はありません。胸のうちに平安がります。なぜなら、天の父が私たちとともにいてくださって、御子イエスにあって、今も私たちの存在そのものを喜んでいてくださるからです。