水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

万事相働きて益となる

ロマ8:28-30

 

2018年7月15日 苫小牧主日伝道礼拝

「 8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

 8:29 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。それは、御子が多くの兄弟たちの中で長子となられるためです。

 8:30 神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、召した人々をさらに義と認め、義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。」

 

 

1.神の摂理

 

 ローマ8章28節は、神の摂理を教える言葉です。神がご自分を愛する民のために、うれしいこと、かなしいこと、さまざまな出来事、出会いを上手に配分して、最終的に益にしてくださるということです。

 紀元前1800年ころ、イスラエル民族の先祖ヤコブの息子にヨセフという17歳の青年がおりました。彼は12人兄弟の11番目で、父から特にかわいがられて、頭もよくてその上ハンサムでした。父のえこひいきのせいで、兄たちから妬みを受けて、ヨセフはエジプトに行く隊商に奴隷として売り飛ばされてしまいます。

 エジプトでポティファルという高級官僚の家のしもべとなったヨセフは、やることなすこと成功して主人から信頼され、家の管理人マネージャーとなります。ところが、ある日、ポティファルの妻がヨセフに言い寄ります。「ヨセフ、あたしと寝ておくれ」。ハンサムが災いしました。しかし、ヨセフは言いました「神の前にもご主人に対しても、そんな罪は犯せませんと言います。」 ところが恥をかかされたと逆上した邪悪なポティファルの妻の讒言によって、主人は激高しヨセフを投獄してしまいます。

 囚人となったヨセフは、しかし、不貞腐れることなく牢屋でもマネジメントの能力を発揮します。また、ヨセフの後、王の怒りを買って牢屋のなかに入って来た献勺官いわゆるお毒見役の夢を神のくださった知恵によって説き明かしてやりました。お毒見役は、ヨセフの予告通り、三日後に出獄しました。お毒見役は、その恩を忘れてしまいます。

が、数年後のある日、エジプトの王ファラオが妙な夢を見ました。それは何か不吉なことを意味しているようで、気になって仕方ありません。周辺のだれに聞いても夢を説き明かせるものがおりません。そこでお毒見役は言いました。「牢のなかでヨセフという男に会いました。ヨセフは夢を説き明かすことができます。」そこでヨセフは王に呼び出されて、夢を説き明かしました。ヨセフは言いました。「王の夢の意味は、今後7年間大豊作がやってくるが、そのあと7年間大飢饉がやってきます。王は、初めの7年間に十分に食糧を備蓄して、続く7年の大飢饉に備えるべきです。」

王はヨセフの知恵に驚きまた尊敬し、ヨセフを緊急で総理大臣に取り立てました。果たして7年間の大豊作が来ましたが、ヨセフはその間に巨大な備蓄倉庫を造らせて、備えをしてまいります。7年が過ぎると大飢饉がやってきました。オリエント世界は飢えましたが、エジプトは大丈夫でした。そこでアフリカからもヨセフの故郷カナンの地からも食料の買い付けに来る人々の列ができました。その中に、あのヨセフをねたみ憎んで奴隷として売り飛ばした兄たちもおりました。ヨセフは兄たちを見つけ、最初は警戒しましたが、兄たちがヨセフを売ったことを心から悔いていることを知り、これは神の導きなのだと確信するにいたります。そうです。神は、イスラエルの民を生かしておくために、いっさいのことを配慮なさったのだとわかったのです。そこで、ヨセフは兄たちに告白します。

45:4 「どうか私に近寄ってください。」彼らが近寄ると、ヨセフは言った。「私はあなたがたがエジプトに売った弟のヨセフです。45:5 今、私をここに売ったことで心を痛めたり、怒ったりしてはなりません。神はいのちを救うために、あなたがたより先に、私を遣わしてくださったのです。 45:6 この二年の間、国中にききんがあったが、まだあと五年は耕すことも刈り入れることもないでしょう。 45:7 それで神は私をあなたがたより先にお遣わしになりました。それは、あなたがたのために残りの者をこの地に残し、また、大いなる救いによってあなたがたを生きながらえさせるためだったのです。 45:8 だから、今、私をここに遣わしたのは、あなたがたではなく、実に、神なのです。神は私をパロには父とし、その全家の主とし、またエジプト全土の統治者とされたのです。

 

まさに、神の摂理です。28節。

8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。

 たとい目先は不都合なこと辛いことであっても、神様を愛して生きる者たちには、神様は万事を働かせて益としてくださいます。摂理と訳されることばは、プロヴィデンスということばですが、これは「配慮」「配剤」とも訳されることばです。配剤とは医師が患者の病状にあわせて、あの薬、この薬と上手に組み合わせて処方することです。人生にはいろいろなことがあります。照る日、曇る日、嵐の日、神様を愛して生きる者たちにも、さまざまなことが起こります。けれども、神様を愛して生きる者たちには、神様は、結局は益となるように、すべてのことを相働かせて配慮をしてくださいます。

 ここで「働かせる」と訳されることばはsynergeiということばなのですが、synというのは「ともに」という意味です。「ともに働かせる」ということです。つまり、ヨセフが兄たちの恨みを買ってエジプトに売られたこと、これはつらいことです。エジプトで、ポティファルの家で管理能力を磨いたこと、その妻に陥れられて囚人となったこと、そこで、お毒見役と出会ったこと、エジプトの王が夢を見たこと。すべてが共に組み合わせられて、彼が総理大臣となり、カナンの地で一族滅亡の危機にあった家族を安全なエジプトに呼ぶことができるようになったのでした。それで、「万事相働きて益となる」です。だから、人生いろいろあっても、「ハレルヤ、感謝します」と毎朝言って生きていけるのがクリスチャンです。これは楽しい人生です。

 

 イエス様を私の救い主としてまだ確信がないけれども、聖書を読み始め求めはじめている方、あなたの人生に起こりくるさまざまなことも、益に変えられる、そういうすばらしい人生を手に入れたいとは思われませんか。そのように望むならば方向転換なさることです。神様なんかいらないと背を向けて来た人生を方向転換して、神とともに生きる人生を始めることです。

神なんか要らないと思って自力で生きてきたと思って来たけれど、振り返ってみれば、あの出来事も、あの出会いも、すべて神様のご配慮のおかげだったのだということに気が付かないでしょうか?本当に自力で生きてこられたのでしょうか?「ああ、今まで思いあがっておりました。確かにあのことも、このことも自分ではなくて、あなたの大いなるご摂理のおかげでした。」と神様にお詫びして、イエス・キリストをあなたの救い主として受け入れてください。神様ぬきで生きられる、そのご配慮に感謝もしないで生きて来たこと、それを聖書では罪といいますが、その罪を背負うために神の御子イエス様は十字架にかかって、三日目によみがえってくださいました。イエス様を救い主として受け入れ、日々、神様に感謝して生きるようになれば、あなたはこの世にあっても、次の世に入るまえの最後の審判においても、安心して歩んで行くことができます。

 

.救いの順序

 

 本日の聖書箇所8章28節は、こうした神のご摂理を教えていますが、もう少し詳しく読み進めますと、特に、神様が人間をお救いになる順序について教えていることがわかります。30節をご覧ください。ここで、記者は「救いの順序(ordo salutis) 」を述べています。

「①神はあらかじめ定めた人々をさらに召し、

②召した人々をさらに義と認め、

③義と認めた人々にはさらに栄光をお与えになりました。」

すなわち<第一に予定、第二に召し、第三に義認、第四に栄光を与える>という順序です。

 

第一に、「予定」とは、地の基が定められる以前に、私たちがキリストのうちに選ばれたということです。それは、恵みによることであり、神様のまったく自由なみこころによることです。エペソ人への手紙の1章では、「 1:4 すなわち、神は私たちを世界の基の置かれる前から彼にあって選び、御前で聖く、傷のない者にしようとされました。 1:5 神は、みむねとみこころのままに、私たちをイエス・キリストによってご自分の子にしようと、愛をもってあらかじめ定めておられました。」とあります。今あなたはここにすわってともに礼拝をささげていますが、実は、あなたが、神様を求める前、お母さんのおなかに宿る前、万物が創造される前から、神さまはあなたをキリストのものとして選んでいたのです。

 

第二に、「召し」というのは、神さまがその計画を歴史として実行に移されて行き、歴史の中にあなたが生まれ、神様があなたを「呼び出したこと」です。神様はこの召しを、内側と外側から実行なさいます。外側とは、福音の宣教です。キリストの福音を説教で聞かされることです。今、私は「イエスさまはあなたの救い主です。信じてください。」とお招きしています。これが外側からなされる、神様の召しです。内側の召しとは聖霊の照明、つまり、聖霊様があなたの心に、「牧師が今話していることは本当だよ。確かにキリストは、あなたの救い主だよ。信じなさい。」と教えて下さることです。

あなたがあるときイエス様の福音の宣教を聞いて、「ああ、イエス様は私の罪のために死んでくださったんだ」と信じた時、神様のキリストにある選びのご計画が実行に移されたのです。

 

第三に、「義と認めること」つまり義認です。このようにして神様のお呼びがかかった人は、神の前に罪を自覚し、イエス・キリストを救い主として信じるようになります。そして、イエスを信じた人は、イエス様の十字架における罪の償いと復活のゆえに、神様の御前に義と認められます。これが義認です。

 

第四に、「栄光を与えられる」これは、イエス様を信じて義と認められた人が、イエス様の栄光に満ちた似姿に造りかえられていくことを意味します。私たちは鏡のように、自分で輝くことはできません。主キリストの栄光を映しながら、生涯にわたってキリストに似た者へと変えられていくのです。聖書によれば、もともと最初の人アダムは神様の御子であるキリストに似たものとして造られ、その品性の完成を目指すものとして創造されました。しかし、アダムが神様を見失ってから、その目標を見失って、自己中心的・利己的になってしまいました。それが人を苦しめ、自分を苦しめているとわかっても、自分で自分を変えることができません。

しかし、悔い改めてイエス様を信じると、その人のうちにキリストの御霊が住んでくださるので、人は、イエス様の足跡にしたがって、生きることを望むように変えられていきます。それは言い換えれば、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」という御霊の実を結ぶということです。また言い換えると、愛である父なる神様に似た子どもに変えられていくということです。神学のことばでは、ふつう「聖化」といいます。その完成をとくに神学のことばでは栄化と言いますが、それは天の御国にはいるときに実現します。

 

 この「予定-召し-義認-聖化・栄光化」という大きな救いの順序の枠のなかで、28節と29節は理解されます。

 

3.神の配剤はすべてを「益」と変える

 

(1)「益」とは義認と聖化を意味する

 「8:28 神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」

 28節のみことばは、神の摂理を教え、私たちを励ますみことばです。激しい試みのなかにあるとき、私たちは幾度となくこの御言葉に励まされてきたでしょうか。この苦労も、いずれ益と変えられるのだという信仰をもって、私たちは病気や肉親の死や事業の失敗や失恋やいろいろなことをくぐり抜けてきたでしょう。ところで、ここに「神はすべてのことを働かせて益としてくださる。」という場合の「益」とはどのような益を意味しているのでしょうか。

  先に30節に見たように、大きな救いの枠組みを見ますと、それは明らかになります。予定と召しに続く益とはなんですか。そうです、義と認められること、そして、栄光を与えられるということです。神様の前にイエス様の十字架のゆえに罪赦され、子どもとされ、つぎに栄光を与えるとは御子イエスに似た者とされていくことです。要するに、28節は<神を愛する人々、すなわち、神のご計画にしたがって召された人々のためには、神様はその人を義と認め、父と御子イエスに似た者とするために、すべてのことを働かせるのだ>といっているのです。詩篇に「試みにあったことは幸いでした。そのことによって、私はあなたのおきてを学びました」とありますが、そういうことです。

 29節の前半も同じことをいっています。神様に予定された人を、イエス様の似姿にすると定めていたとあります。

「8:29 なぜなら、神は、あらかじめ知っておられる人々を、御子のかたちと同じ姿にあらかじめ定められたからです。」

 つまり、28節でいう「益」とは事業が成功するとか、お金がもうかるとか、望む人と結婚できるとか、第一志望の大学に進学できたとかいう類のことを意味していません。ここでいう「益」とは、神の前に罪赦され義と認められて神の子(クリスチャン)とされて、キリストに似た品性に徐々に変えられていくことを意味しています。そのために、神は、うれしいことも悲しいことも、成功も失敗も、すべてを働かせるのだと教えているのです。

 先にお話ししたヨセフの人生でいえば、ヨセフが苦難を経て、ついにエジプトの総理大臣になったことが「益」だというのではなく、ヨセフがあの憎んでも憎み切れないような兄たちを、主にあって赦すことができる愛の人として成熟したことなのです。苦難を経て、忍耐を学び、神への信頼を学び、人を赦すことを学び、知恵を身に着けていったことです。神の似た品性の実を結んだことが「益」なのだということです。 

 また、私たちは粘土です。神様は陶器師です。陶器師は一つの器を作る前に、まず粘土をしっかり踏みつけ、押えつけ、バンバンたたき、なかの空気、小石、不純物を出してしまうのです。そうしないと、焼いたときに割れてしまいます。神様は陶器師です。私たちをしっかり踏みつけ、押さえつけ、私たちの中の不純物を押し出してしまいます。それは自分でひそかに誇りに思っていること、神様に頼らないで自分で頑張れてしまうと思っている部分です。神様におゆだねしていない部分です。私たちは、神様のご摂理のなかにうめくかもしれない。涙することもありましょう。けれども、神様はそうした試練をもかならず益と変えて下さる。試練を堪え忍ぶなら、やがて神様のお役に立つ、有益な器としていただけるのです。それは、自分の能力や、力によらず、御霊に頼る人です。陶器師が、踏みつけ、押えつけた粘土を、その手の中でまるで魔法のようにしてひとつの器に造り上げ、、熱い釜の火のなかに入れると、見事な陶器ができ上がります。

  

.兄弟たちのなかで

  もう一つの大切な点は、「御子が多くの兄弟たちのなかで長子となられるためです」と言われている点です。多くの兄弟たちとは、すなわち、教会のことです。教会とは建物ではなく、主にある兄弟姉妹、クリスチャンの集いのことです。イエス様はその長男です。長男として、父なる神様の御前に私たちをとりなして下さるのです。

 私たちの成長、霊的な成長は、個人個人におけることではありません。それ教会の交わりの中でなされるのです。クリスチャンの成長は、個人個人ばらばらのことではなく、主にある兄弟姉妹との交わりのなかでこそなされていくのであるということなのです。なぜですか?それはクリスチャンの聖化とは、愛の成長であるからです。もし、聖化ということが、単に、いわゆる悪いことをしなくなるということであるというならば、人と会わないどっかのネパールの山奥の洞窟にでもはいって修業した方がよいかもしれません。人がいなければ、人を憎むことも、ねたむこともないでしょうし、話す相手もいなければ悪口をいう誘惑もないでしょう。盗む相手もいなければ、盗みようもないでしょう。けれども、それは聖書にいう、聖化とはちがうのです。

 キリストの栄光を映す者となるとは、愛する人、赦す人に変えられるということです。私たちは、具体的な主にある兄弟姉妹との交流の中で、愛されること、愛すること、赦すこと、赦されること、与える喜び、与えられる喜び、兄弟とともに泣くこと痛むこと、主にある兄弟とともに喜ぶことなど、すべてのことを経験しながら、主に似た者に造り上げられていくのです。

 

むすび

 神様の摂理によって、あなたの人生も導かれてきました。そして、この朝、ローマ人への手紙8章のみことばを聞いたこともまた、神様のご摂理です。自力で生きて来たと思っていたけれど、確かに振り返ってみれば、あのこと、このこと、あの出会い、この出会いは、神様のご摂理であったと悟り、神様に感謝する人生に立ち返りたい人はいるでしょうか。それならば、神様にごめんなさいと申し上げて、イエス・キリストを信じることです。

 

  すでにイエス様を信じ受け入れている兄弟姉妹。神様はあなたを永遠の昔にキリストのうちに選び、そして罪赦して神の子どもとしてくださいました。神様は神を愛する者を、ご自分に似た者として仕上げていくために、さまざまな出来事や出会いを経験させてくださいます。格別、キリストを長子とする神の家族の中で、私たちをキリストに似た者へと造り変えて行ってくださいます。

 

「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています。」