水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

父の期待に応えて

ローマ8:17-25

父の期待に応えて

相続人

 

 8:17 もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。

  8:18 今の時のいろいろの苦しみは、将来私たちに啓示されようとしている栄光に比べれば、取るに足りないものと私は考えます。

 8:19 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。

 8:20 それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。

 8:21 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。

 8:22 私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。

 8:23 そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。

 8:24 私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。

 8:25 もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。

 8:26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。

 8:27 人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。

 

 

1.子の宿題 その1  父と兄に似た者に

 

 罪赦され、かつ、神の子どもとされた私たちは、神の家族の中での生活をしています。これが私たちクリスチャンの教会生活です。神の王国の表現でいえば、私たち一人一人は王子であり王女です。私たちは、罪をキリストの贖いのゆえに無代無償で赦されました。さらに、神様は私たちを奴隷や使用人でなく子どもとして受け入れてくださいましたから、その働き以前に、存在そのものを喜ばれています。そうしたら何もしない怠け者となるでしょうか。

もしあなたが王さまで、家には使用人と自分の子ども王子や王女がいたら、あなたは使用人と子どもと、どちらにより多くの期待をするでしょうか。いうまでもないことです。使用人にではなく、自分の子どもに対してより多くの期待をするにちがいありません。なぜなら、子どもは自分の王国を担う相続人であるからです。

  「もし子どもであるなら、相続人でもあります。私たちがキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているなら、私たちは神の相続人であり、キリストとの共同相続人であります。」(ローマ8:17)

 父なる神様の私たち神の子ども、王子、王女に対する期待は大きいのです。実際、旧約の律法の下にあった人々に対する期待よりも、福音によって救われた神の子どもたちに対する期待のほうがずっと大きいと聖書は述べています。

エス様はおっしゃいました。

「 (律法の下にある)昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は燃えるゲヘナに投げ込まれます。」(5:22,23)

「(律法の下にある昔の人々に)『目には目で、歯には歯で』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。悪い者に手向かってはいけません。あなたの右の頬を打つような者には、左の頬も向けなさい。」(5:38,39)

 

 パウロのことばを引けば、律法には「盗むな」とありますが、新約では

「盗みをしている者は、もう盗んではいけません。かえって、困っている人に施しをするため、自分の手をもって正しい仕事をし、ほねおって働きなさい。」(エペソ4:28)

とあります。

 この福音の時代、父なる神様から私たちに対する期待は、旧約時代よりも大きいのです。クリスチャンの目指すところは、キリストに似た者となることであり、また、天の父に似た者となることです。天の父に似た者となるというのは、もちろん全知全能になれということではありません。最近、若い人たちの言葉遣いでなんでもかんでも「神」ということばを付ける傾向があります。サッカーでシュートが素晴らしいと「神シュート」とか、野球で走塁がうまいと「神走塁」とか言いますが、ああいう能力に関してすぐれたものとなることはまったくちがいます。天の父のようになり、御子イエスのようになるとは、御霊の実を結ぶこと、愛という実践においてです。品性において、父子聖霊のようになることです。

5:43 『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのを、あなたがたは聞いています。

 5:44 しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。 5:45 それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです。天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせてくださるからです。 5:46 自分を愛してくれる者を愛したからといって、何の報いが受けられるでしょう。取税人でも、同じことをしているではありませんか。 5:47 また、自分の兄弟にだけあいさつしたからといって、どれだけまさったことをしたのでしょう。異邦人でも同じことをするではありませんか。 5:48 だから、あなたがたは、天の父が完全なように、完全でありなさい。

 

 クリスチャンはイエス様を信じて、義と宣言していただき、神との平和を持つ者です。さらに、神の王国の王子・王女とされた者です。そして私たちクリスチャンの天の御国に帰るまでの宿題は、まず、天の父、長男のイエス様に似た者、御霊の実「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」の実を結ぶことです。天国とは神様とともに過ごすところですから、その備えとして、キリスト的な品性を磨いていくことが大事です。これが、クリスチャンの宿題その1です。

 

2.宿題その2 相続人の務め

 

 もう一つのクリスチャンに与えられた宿題は地の相続人、世界の相続人としての務めです。主イエスはおっしゃいました。「柔和な者は幸いです。その人は地を相続するから。」と。主イエスが再臨なさると、最後の審判を行われます。その時、「地と天は逃げ去って跡形もなくなる」と黙示録にあります。そうして、主は「新しい天と新しい地」を創造なさって、私たちを新しい地に住まわせてくださると約束されています。その「新しい地」を相続する相続人なのです。「地」というのは被造物世界のことです。現在、私たちが暮らしているこの被造世界は、アダムの堕落以来、虚無に服し滅びの束縛の下にあるのだと今日の聖書箇所は教えています。

 8:19 被造物も、切実な思いで神の子どもたちの現れを待ち望んでいるのです。

 8:20 それは、被造物が虚無に服したのが自分の意志ではなく、服従させた方によるのであって、望みがあるからです。

 8:21 被造物自体も、滅びの束縛から解放され、神の子どもたちの栄光の自由の中に入れられます。

 8:22 私たちは、被造物全体が今に至るまで、ともにうめきともに産みの苦しみをしていることを知っています。

 

 アダムが神に背いたとき、人間が堕落しただけでなく、被造物も虚無に服し滅びの束縛の下に置かれました。創世記3章は、その事態を「地は人間に対していばらとあざみを

生えさせる」と表現しています。被造物世界は、人間に対して従順でなくなり、反抗するようになったというのです。被造物世界は神の恵みに満ちていると同時に、呪いもまた入ってきています。私たちは田畑の作物を食べて生きて行けますが、田畑でものを作ろうとすれば、作物よりも雑草のほうがはびこります。動物たちもともに生きている世界ですが、ヒグマやライオンに襲われて命を落とす人々もいます。ミクロの世界でも納豆菌とか乳酸菌やビフィズス菌など有用な微生物がいる反面、病原菌もいて人間の健康と生命を脅かします。私たちが住むこの世界は神の祝福と、他方で呪いがあります。それが、被造物が虚無に福祉、滅びの束縛の中にあるという意味です。

 このように被造物はアダムの堕落以来、虚無に服しているのですが、主イエスが再び来ら、新しい天地が造られるときに、栄光のうちに入れられます。その有様を預言者イザヤは次のように描写しました。イザヤ11:6-9

「 11:6 狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、

   子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。

 11:7 雌牛と熊とは共に草をはみ、その子らは共に伏し、

   獅子も牛のようにわらを食う。

 11:8 乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。

 11:9 わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。

   【主】を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである。」

 

 想像を絶する神の愛と正義が支配するすばらしい世界です。キリストがくださる救いということは、単に人間の霊・魂だけのことではありません。「8:23 そればかりでなく、御霊の初穂をいただいている私たち自身も、心の中でうめきながら、子にしていただくこと、すなわち、私たちのからだの贖われることを待ち望んでいます。」とあるように、罪のしみひとつない復活の栄光のからだをも含めた救いです。いや、人間だけの救いではありません、被造物全体の救いです。動物も植物も微生物も被造物世界全体が、滅びの束縛から解放されて神を賛美するのです。

 クリスチャンの兄弟姉妹がときどき「うちで飼っていた犬が死んだんですが。あの子は天国に行けるのでしょうか?」と遠慮しながら質問なさることがあります。実は、中世のキリスト教神学は、人間の霊魂だけが救われて天国に行くという、聖書的というより、むしろギリシャ的な霊肉二元論の影響を受けました。霊肉二元論というのは霊は善だが、物質・肉体は悪だという考え方です。その考え方から、人間は肉体の束縛を離れて霊の世界である天国に行くことが救いであるということになります。人間の霊以外のものはみな物質的で肉体的だから救いの対象外だとされたのです。しかし、聖書はなんと教えているでしょうか。伝道者の書 3:21 「だれが知っているだろうか。人の子らの霊は上に上り、獣の霊は地の下に降りて行くのを。」を引いて、人間の霊は神のもとに行くが、獣の霊は地に下るのだと言いますが、よく読めば「誰が知っているだろうか」と書かれているように、それを確かなことと教えているわけではありません。

 善い神様が霊も魂も肉体も動物も植物も無機物も造られたのですから、基本的にすべてのものは良いものなのですから、霊だけでなく魂も肉体も動物も植物も無機物もつまり全被造物が救いの対象なのです。では、どの動物が救われるかといえば、もっとも正確には神がお選びになったものが救われるのです。あのノアの箱舟に入った動物たちのように。クリスチャンの飼っている動物が神様の救いの対象である可能性が高いことは、ヨシュア記7章のアカンの事件からも説明できます。神様がエリコの町を滅ぼされたとき、神様はそこにあるすべてのもの聖絶せよと言われていたのに、アカンという男が、欲に目がくらんでシヌアルの外套、銀、金の延べ棒を着服し、テントに隠しましたから家族も共犯でした。結局そのことが公になると、彼の家族だけでなく、家畜まで滅ぼされました。アカンがこの家族の契約のかしらであり、彼の家族も家畜もその契約の下にあったからです。このことから推論すると、クリスチャンが飼っているワンコとかニャンコもまたその契約のもとの置かれていますから、新しい御国に救われるということができるというのが聖書的な考え方であろうと思われるわけです。

 私たちは、アダムの時以来の滅びの束縛から解放された新しい被造物世界を、長男であるキリストとともに共同相続して、これを相続人として治めるのです。

 

3.希望と御霊によって生きる

 

(1)希望によって

 クリスチャンは、今の罪の世を何によって忍耐してい生きていくことができるのでしょうか。罪は、他人ごとではなく、自分自身がキリストにあって義と宣言されて神に赦され愛されているものでありながら、なおもまとわりつく罪ゆえに悩まされることです。そんな状況にあって、助けとなるのは、主の再臨への希望と御霊のとりなしによってであるとパウロは続けます。

 8:24 私たちは、この望みによって救われているのです。目に見える望みは、望みではありません。だれでも目で見ていることを、どうしてさらに望むでしょう。

 8:25 もしまだ見ていないものを望んでいるのなら、私たちは、忍耐をもって熱心に待ちます。

 

 今は罪と悪魔と世との闘いで悪戦苦闘をして、がっかりすることが多いとしても、私たちには希望があります。その希望とは、キリストにあって義と宣言された者、子として愛されている者として、主の用意してくださるきよい新しい天地が私たちを待っていることです。そこでは、いっさいの罪も悪魔も滅び去って、万物が父子聖霊の神を賛美しているのです。そこでは、人間だけでなく、獣も鳥もカエルも昆虫もミミズも木々も花々も微生物までもが、神を賛美しているのです。この驚くべき栄光の希望をもって、私たちはこの世を相続人として責任ある生き方をするのです。牧師や伝道者だけでなく、家庭の主婦、会社員、自営業、医療や福祉関係者、教員、学生、遣わされたところで、それぞれにふさわしい花を咲かせて生きればよいのです。また、私たちの遣わされた日本という国は国民主権という原則に立っていますから、そうしたこの国や地域の政治に対する責任をも有権者として与えられています。世に流されないで、神様のみこころはなんであるかをよくわきまえて、投票したり意思表示をしたりあるいは政治家に成ったりするすることが必要です。新しい天地はまだ来ていませんから、限界はありますが、その限界の中で、主のみこころが天で成るように地でもなるようにと努力するのです。

 その努力は無駄にはなりません。今の世においてなす努力は、次の世の人生のためのいわば予行演習のようなものです。今の世と次の世は、ちょうど今のからだと復活のからだのように、非連続性と連続性の両方があるのです。主は戻って来られたら、「あなたはわずかなものに忠実だったから、わたしはたくさんのものをあなたにゆだねよう」とおっしゃるのです。今の世にあって、主に対して忠実に、主がくださった務めに関して誠実に生きることは、次に来る永遠の人生のためにとても意味のある大事なことなのです。

 

(2)御霊のとりなしによって

 しかし、こうした努力も、もし人間の頑張りによるならば、へこたれてしまうか、傲慢になるかです。私たちがキリストに対する希望をもちながら、神のみこころが地になるために生き抜くのに必須なのは御霊に助けられて祈ることです。

 8:26 御霊も同じようにして、弱い私たちを助けてくださいます。私たちは、どのように祈ったらよいかわからないのですが、御霊ご自身が、言いようもない深いうめきによって、私たちのためにとりなしてくださいます。

 8:27 人間の心を探り窮める方は、御霊の思いが何かをよく知っておられます。なぜなら、御霊は、神のみこころに従って、聖徒のためにとりなしをしてくださるからです。

 

結び

 奴隷は主人の顔色を恐れて働くのでしょう。けれども、子どもが働くのは、父の愛の期待に応えようとするからです。恵みをもって注がれている父の愛に対する喜びの応答なのです。私たちが奉仕の生活に励むのは、神様に対する恐怖とか義理によるのではありません。あの御子イエスの十字架の愛を見たら、だれも自分のために生きることはできなくなって、主のために生きるようになるのです。

 私たちは神の子どもですから、長男であるイエス・キリストとの共同相続人です。教会は、お父さんが父なる神様、お兄ちゃんがイエス様、そして私たちは御子の御霊によって兄弟姉妹なのです。ですから、私たち教会はキリストとの共同相続人です。

 私たちは地の相続人です。それぞれの家庭に、地域に、施設に、学校に、この地域に、この国に、この世界に派遣されてまいりましょう。そこで、神様の愛に誠実に答えて生きていきましょう。そこで、キリストの弟、あるいは妹として、神の栄光を表すあゆみをすすめましょう。 そうして、やがて訪れる新しい天と新しい地での歩みに備えましょう。