水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

神の子どもとして

ローマ8:12-16

 

8:12 ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。

 8:13 もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。

 8:14 神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。

 8:15 あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。私たちは御霊によって、「アバ、父」と呼びます。

 8:16 私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。

 

 

1.最高の恵み

 

 キリストイエス様を信じてバプテスマを受けたとき、私たちはキリストとともに罪という主人に対して死に、新しい主人である神に対して生きるものとなりました。このことを私たちは先にローマ書6章で学びました。それは言い換えると、先ほどお読みしたように「8:12 ですから、兄弟たち。私たちは、肉に従って歩む責任を、肉に対して負ってはいません。 8:13 もし肉に従って生きるなら、あなたがたは死ぬのです。しかし、もし御霊によって、からだの行いを殺すなら、あなたがたは生きるのです。」ということです。肉と言うのは神様に背く自己中心の古い性質で、それが癖のように残っているのですが、それに死んで御霊によって生きていくのが私たちクリスチャンの歩みです。

 ところが、7章で私たちが知ったことは、クリスチャンは時として律法によって生きて行こうとすることによって、かえって自分の内側に住む罪が引き出されて、前にも進めず後ろにも退くこともできないような葛藤に陥ることを見たことです。神の前に正しい生き方をさせるはずの律法が、かえって罪を刺激して、罪を引き出すという奇妙なことが起こるのです。すべてではないかもしれませんが、多くのクリスチャンはパウロがしたような経験をするようです。

 その挙句、パウロはまず救いの原点に立ち返りました。ローマ8章1節「キリスト・イエスにある者は、罪に定められることはありません」ということです。キリストが私たちのために罪に定められ、罪の罰を受けてくださったからです。そして、私たちは罪をすでに赦された者として、私たちはキリストの御霊によって生きていくのです。これがクリスチャンの生き方です。大事なことなので、もう一度確認しますが、第一はクリスチャンはキリストに結ばれた者として、神の前に罪はすでに赦されたという認識が大事です。第二に、すでにキリストにあって罪赦された者として、キリストの御霊によって神のために実を結ぶ生涯を生きていくのです。この御霊は、私たちをキリストを長男とする神の家族、神様の子どもとしてくださるお方です。イエス様は実子ですが、私たちは養子です。

 「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもです。」(ローマ8:14)

 ローマ書においてこれまでパウロは1章から5章で、人は律法の行いによって神様の前に義と認められるのではなく、恵みのゆえに信仰によって義と認められるのだということを力説してきました。そして、6章、7章において罪を赦された者、義と認められた者として義の奴隷として正しく生きる原理的なことについて語ってきました。その上で8章において、神の子としての恵みのうちに生きることを教えるのです。

 この順序はなにを意味しているのでしょうか?神の子どもとされたという恵みは、信仰によって罪赦されて義と認めていただいたという恵みを土台として与えられた最高の恵みであることを意味しているのです。信仰によって義とされたことは、実にすばらしいことで、私自身その恵みに感激して、20歳の2月に神様の前に自分のいのちをおささげしたのです。自分の罪を知らされたとき、そして、私の罪のためにイエス様が十字架にかかってまで私を救ってくださったとわかったとき、「もはや自分のために生きたのでは申し訳ありません。神様、私の人生をあなたにおささげします。」と祈らないではいられなかったのです。ですが、パウロによれば、神の子どもとされたという恵みは、義とされた恵みを土台として、クリスチャンに与えられる最高の恵みなのです。最高の恵みというのは、これ以上ない究極的な恵みであるということです。

 しかも、この最高の恵みは、クリスチャンであるならば、誰でも受けている恵みなのです。「神の御霊に導かれる人は、だれでも神の子どもである」とあります。神の御霊によって、「イエス様は主です。神の御子です」と信じる信仰を与えられている人がクリスチャンです。神の御霊に導かれているのがクリスチャンです。すべてのクリスチャンは、神様の子どもとしていただいているのです。

 

2.奴隷的クリスチャン

 

 しかし、私たちクリスチャンは神の御霊を受けているにもかかわらず、時々、神様からいただいた「神の子どもとされた恵み」の味わいを忘れてしまうことがあるというのです。そのときには、信仰生活を送りながら再び恐怖に陥って、また自分が神様の子どもとされているにもかかわらず、自分は奴隷にすぎないのだと思い込んでしまうのだというのです。だからこそ、パウロは次のように強調しなければなりませんでした。

 

 「あなたがたは、人を再び恐怖に陥れるような、奴隷の霊を受けたのではなく、子としてくださる御霊を受けたのです。」(8:15)

 

 クリスチャンが奴隷的な恐怖をいだいているとはどういうことでしょうか。ここに「再び恐怖に陥れる」ということばがあります。かつてイエス様を知らないときには奴隷的な恐怖に脅かされる生活をしていた。けれども、イエス様に出会っていったんは、そういう奴隷的恐怖から解放されたのに、いつの間にか「再び」そういう奴隷的恐怖をいだくようになってしまったというのです。いつのまにかまた昔のイエス様を信じる前の奴隷的な恐怖にしばられるような生き方をするようになっているのです。

 いったい奴隷としての恐怖とはなんのことでしょうか?これは律法の下にある状態と、福音の中にある状態の違いとしてパウロがガラテヤ書3章から5章で力説していることです。奴隷と子どもの決定的なちがいとはなんでしょうか。それは子どもは自由だけれど、奴隷は不自由であるという違いです。奴隷は、主人から何ができるか、何がどの程度できるかという、その働きの多寡によって評価されるという恐怖に縛られています。けれども、子どもの場合はなにができるかできないかという働き以前に、父親はその子どもの存在そのものを喜んでいるのです。子どもはそういう自由をもっています。

 私たちはキリストを知る以前、いつも何ができるか、何ができないかということで人を裁いたり、自分をさばいたりして、生きていたのではないでしょうか。ある神学者(C.ホッジ)は、アダムが善悪の知識の木から実を取って食べて以来、すべての人は自力救済主義者となってしまったのだといいます。そうして、いつも何ができるできないで傲慢になったり卑屈になったりして生きているのです。

 

(2)やっぱり神の子どもなのです

 

エス様を信じて罪赦されたのに、またもこういう奴隷的恐怖にふたたび縛られるようになってしまった人々に対して、パウロは、いや確かにあなたがたはすでに神の子どもとされているのであって、奴隷ではありませんということをしきりに強調しています。

神の子どもとされたという事実には、二つの側面があります。一つは、身分的・法的なことです。イエス様は神の実子ですが、イエス様を信じる私たちのことを、神様は私たちを養子として入籍してくださったのだということです。 ある死刑囚がいました。彼は王様の一人息子を殺したかどで死刑が確定していたのです。いつ刑が執行されるのかと毎日ビクビクしながら、その癖、表面的には「死ぬことなんて何にも怖くねえや」と虚勢を張って獄中生活をしています。ところが、ある日、王から赦免が発令されました。突然のことに驚きながら手続きをすませると、彼は刑務所の鉄扉の前に立ちます。「二度と戻ってくるなよ。」と看守が声をかけます。「へい。お世話になりやした。」・・・ここまでが義と宣告されることです。

 「しかし、すねに傷ある俺にはシャバの風は冷てえだろうし、また舞い戻っちまうんじゃねえかな。」そんな不安が心をよぎります。ギーッ。扉が開きました。「アッ」そこには彼がその息子を殺した王様とその家族が立っています。「すみませんで済むとは思いませんが、俺はこのとおり赦しをいただきました。この上は、王様の奴隷としてなんでもさせていただきやす。」ところが、王は最後まで言わせず彼の肩をガバと抱き寄せて答えます、「いや、君は奴隷ではない。君は、これからわしの家族だ。この子たちも君と同じ境遇だったんだが、今は私の子たちだ。」そう言って、あろうことか王は彼の指に相続人の指輪をはめてくれました。・・・・これが子とされたということです。

私たちの救いにあてはめれば、このときに指にはめられた王の子どもとしての保証の指輪こそ、御子の御霊なのです。神の子供とされたという事実は一面、法的立場的なことですが、もう一つの側面は、実質的なことです。それは父はイエス様を信じる者のうちに御子の御霊をくださったので、私たちは神様を父として慕う心を授かったのです。

私たちは御霊によって「アバ、父」と呼びます。私たちが神の子どもであることは、御霊ご自身が、私たちの霊とともに、あかししてくださいます。」(8:15,16)

 御子の御霊は、私たちのうちに神様への信頼と愛と喜びをあふれさせてくださいます。自分は奴隷ではない、神様の子どにしていただけたのだという喜ばしい意識を継続的に与えてくださるのです。

 八木重吉という詩人は、この神の子どもとされた喜びをこんなに素朴な詩に表現しています。

1925年大正14年2月17日より

 われはまことにひとつのよみがえりなり

  

おんちち

うえさま

 

おんちち

うえさま

 

と とのうるなり

 

 主にある兄弟姉妹。天の父は、あなたがどんな働きができるか、どれほどうまくできるか、どれほど献金できるかということでなく、それ以前に、あなたの存在そのものを喜んでいてくださるのです。もし主のためにご奉仕がなにかできるとしたら、それは素晴らしい恵みです。ですが、病を得たり、年を取ったり、急な経済状況の変化で貧しくなったり、さまざまな状況のなかで、自分はなにもできなくなったと落胆している方が、あるいは、いらっしゃるかもしれません。けれど、主は、あなたの存在そのものを喜んでいてくださいます。

 

 

結び

 私たちは、なにか立派なところがあったから救われたのではありません。ただ罪のかたまりでしたが、神のあわれみの故に選ばれ、御子の贖いゆえに罪赦され義と宣告されたのです。

そのとき、神は私たちを単に義と宣告するだけでなく、私たちを子として迎えてくださいました。私たちは御子イエスを兄とし、神を父とする神の家族のうちで生きるべく召されたのです。私たちは子ですから、奴隷のように不自由ではありません。感謝と自由をもって、奉仕の生活に生きるのです。

神の子どもである私たちは相続人ですから、かの日の新しい天と新しい地の栄光をめざして、今の世にあって、父の愛をあかしし、正義が世になっていくように生きて行きます。簡単なことではありません。けれど、あせる必要はありません。胸のうちに深い平安がります。なぜなら、父なる神様が私たちとともにいてくださって、私たちの存在そのものを喜んでいてくださるからです。