Miz牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

神の民と地の民

創世記4:16-26

2018年5月17日 HBIチャペル

 

 ここ4章16節から26節には、二つの民の歩みが記されています。一つは16節から24節までに書かれている神に背を向けて去ったカインとその子孫の一族です。これをカイン族と呼ぶことにします。もうひとつは、25,26節に記されている、神がアベル亡き後に神がアダムとエバに与えたセツとその子孫の一族です。これをセツ族と呼ぶことにします。カイン族は、神なしで自力で生きることを誇りとする一族であり、セツ族は主の名を呼び求めて生きる一族です。アウグスティヌスは、著書『神の国』で、この箇所を「女のすえと蛇のすえの抗争」(創世記3:15)、神の国と地の国の歴史の絡み合いの歴史の発端として描きました。

 

1 カイン族

 

(1)エデンの東・・・反抗と不安

4:16 それで、カインは、【主】の前から去って、エデンの東、ノデの地に住みついた。

「ノデ」とは、さすらい・放浪という意味のことばです。兄弟を殺し悔い改めを拒んだカインは、大地に呪われて落ち着くところを持たずに放浪するようになりました。そんなカインは、エデンの東に住みますが、その地の名はノデというのです。その意味は、さすらい・放浪という意味ですから、皮肉です。

神に背を向けた人は自分自身の落ち着くべきところを持っていません。「自分は誰なのか?自分はどこから来て、どこへ行こうとしているのか?」がわからなくなるのです。自分の存在理由と自分の存在も目的がわからなくなってしまいます。造り主である神を見失った人はだれもが、その魂は落ち着く先を知らずさまよっているのです。世に生まれては来たけれど、生きる意味がわからず、むなしく死んでゆくのです。カインの末裔の悲惨です。

  

(2)レメク・・・一夫多妻主義・権力欲

 続く17節から24節には、神に背を向けたカインが町を築き、カインの子孫に最初の一夫多妻主義者レメクが生まれたということがしるされています。抜粋して読んでみます。

4:17 カインはその妻を知った。彼女はみごもり、エノクを産んだ。カインは町を建てていたので、自分の子の名にちなんで、その町にエノクという名をつけた。

 カインが妻を得たというけれど、この妻はどこから来たのかという議論が昔から論じられます。アダムとその妻エバから生まれた娘たちがいたのでしょうし、兄弟たちも他にいたということを意味しています。カインと同じように、神と父母に反抗して去った兄弟姉妹たちがいたのでしょう。こうしてカイン族が増えていきますが、そこにレメクという男が登場します。

 4:18 エノクにはイラデが生まれた。イラデにはメフヤエルが生まれ、メフヤエルにはメトシャエルが生まれ、メトシャエルにはレメクが生まれた。 4:19 レメクはふたりの妻をめとった。ひとりの名はアダ、他のひとりの名はツィラであった。

  結婚は、本来、神の第二位格である御子に似たものとして造られた男女が、全人格的な交わりをし、神と神の民、キリストと教会の交わりの麗しさを表わすために定められた制度です。けれども、レメクは二人の妻アダとツィラをもちました。レメクにとって妻とは、自分の情欲を満たすための道具にすぎなかったのです。また、女性のほうも「あなた好みの女になりたい」というふうな、奴隷に甘んじるような、しかし、本音のところでは、夫の人格でなくその財力や権力を自分の虚栄心を満たすアクセサリーとみているのです。

 レメクは、その妻たちに、自分の権力・暴力を自慢して歌うのです。

4:23 さて、レメクはその妻たちに言った。

   「アダとツィラよ。私の声を聞け。レメクの妻たちよ。私の言うことに耳を傾けよ。

   私の受けた傷のためには、ひとりの人を、

   私の受けた打ち傷のためには、ひとりの若者を殺した。

 4:24 カインに七倍の復讐があれば、レメクには七十七倍。」

 

 カイン族の精神は、神への反抗心と不安ですが、もう一つの特徴は、その不安を覆い隠すために、力を振りかざすということです。権力であれ、暴力であれ、経済力であれ、己の力でもって、神なしに成功してみせてやるという権力への意志です。

 

(3)都市・文明・芸術

 このカイン族から、都市と産業と芸術が生まれてきたというのは、注目すべきことです。

4:20 アダはヤバルを産んだ。ヤバルは天幕に住む者、家畜を飼う者の先祖となった。

 4:21 その弟の名はユバルであった。彼は立琴と笛を巧みに奏するすべての者の先祖となった。 4:22 ツィラもまた、トバル・カインを産んだ。彼は青銅と鉄のあらゆる用具の鍛冶屋であった。トバル・カインの妹は、ナアマであった。

 

 カインが最初に町を建てたことについて、フランスの哲学者ジャック・エリュールは著書『都市の意味』という書物のなかで、「都市の歴史がカインによって始まるということは、数 多ある些末事のひとつとみなすべきではないのだ。」と発言しています。労働・文化形成自体は神の命令です。しかし、堕落後の人類の歩みを見る ときに、特に都市文明というものが、カインの刻印を帯びているということに気付きます。カインは神の守りを信頼することが出来ないので住まいの周囲に塀を築き、やがてそれが都市となりました。しかし、都市について、聖書は一貫して、神に反逆し、やがて滅ぶべきものとして描いている点に注意しておくべきです。バベル、ソドム、ゴモラ、エリコ、バビロン、ツロ、ローマ、そしてエルサレムというふうに都市は人々の権力と欲望と罪が集中して、やがて、自然災害か、あるいは戦争で滅ぼされていくのです。

 また、神が明日も私たちを養ってくださることを信じない人々が、安定的に食料を得るために家畜を飼い、天使たちの賛美の聞こえない人々が自ら慰めるために音楽を工夫しました。そして、青銅と鉄器の発明者は最初は農機具は斧に、やがては他国を侵略するための武器をカイン族にもたらしました。その直後に、あのレメクの例の暴力を賛美する歌が出てきます。

「4:23私の受けた傷のためには、ひとりの人を、

   私の受けた打ち傷のためには、ひとりの若者を殺した。

 4:24 カインに七倍の復讐があれば、レメクには七十七倍。」

 

 都市と文明が、最初にカイン族から出てきたということを聖書が啓示している意味を私たちはよく考える必要があります。文明や技術や芸術は、後に、神の民によっても用いられていくもので、一般恩寵です。

 しかし、警戒すべき面があります。それは、都市というもの、また、文明の利器や芸術は、カイン族にとっては、神に代わるもの、つまり偶像であったということです。芸術も科学も産業もみな一般恩恵ですから用いてよいのです。しかし、芸術至上主義とか、科学主義とか、経済至上主義は、みな偶像崇拝です。文明・技術・芸術は、どこまでも神のみことばの支配の下に置くかぎりは有益ですが、神のことばの支配の外においてそれ自体を目的化するならば、科学も芸術も経済も有害なものとなってしまいます。

 

3.セツ族は主の御名を呼ぶ

 

 カイン族が華々しい文明・都市国家を築き始めているとき、他方で、神はアダムとエバに、今は亡き敬虔な息子アベルに代わるもう一人の子セツを授けました。

  4:25 アダムは、さらに、その妻を知った。彼女は男の子を産み、その子をセツと名づけて言った。「カインがアベルを殺したので、彼の代わりに、神は私にもうひとりの子を授けられたから。」

 このセツから、セツ族が出てきて、その系譜はノアに続きます。セツがどういう人物であり、その一族がどういう人々であるかを示すことが26節に表現されています。

 4:26 セツにもまた男の子が生まれた。セツは、彼の名をエノシュと呼んだ。そのころ、人々は【主】の名を呼ぶことを始めた。(2017訳)

 セツは自分に生まれた男児をエノシュと名づけました。エノシュというのは「人」を意味するもう一つのことばです。エノシュということばは、形容詞の「弱い」ということばと同根のことばで、特に、神の前における人間の小ささ、弱さを表現するときに用いられることばです。(たとえば、詩篇8篇) セツはわが子が生まれたとき、この子が病弱でちゃんと成長できるだろうかと心配して、エノシュつまり「弱し」君と名づけたのではないかと思います。セツは父親として、「主よ。この弱い子に、いのちを与えてください。」と神の前にひざまづいて祈りつつ、このエノシュは育てられていきます。神の前に虚勢を張るのではなく、神の前にありのままの自分の弱さを認めるところに、祈りが生まれてきます。祈りこそ、神の民セツ族の特徴でした。カイン族の力強さ、華々しさカッコよさに対して、セツ族はパッとしないのです。例えていえば、トランペットと鼻笛みたいな違いです。1コリント1章のことばです。

1:26 兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。

 1:27 しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。

 1:28 また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。

 1:29 これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。

 

 

結び・適用

 カイン族は城壁を築き、次々と文明の利器と芸術と強力な武器を生み出し、富を獲得して妻を何人もめとって華々しい歩みをしていました。他方、セツ族は、病弱の息子が生まれて、その子のために祈り始めました。世間というものは、こういう姿を見ると、カイン族が祝福されていて、セツ族はあまり祝福されていないというふうに判断するものです。いや、私たちキリスト者もカイン族の価値観に影響されてはいないでしょうか。ショッピングモールを兼ね備えたようなメガチャーチが神に祝福されていて、主の御名を真剣に呼び求めている細々とした群れには同情はしても、祝福されているとは思わないのかもしれません。

 イエス様がガリラヤで伝道をしていたとき、五つのパンと二匹の魚で男だけで五千人という群衆を満腹にしてやったことがありました。その時、人々はイエス様を王として担ぎ出そうとしました。自分たちはその利得にあずかろうとしたのです。しかし、イエス様はこの群集たちを避けて、この世の王として成功することを避けました。主イエスには、十字架にかけられて殺されてのち三日目に復活し、私たちを滅びから救うという使命があったからです。

 この世は、神に背を向けて、富と快楽と権力と栄誉を求めて生きています。しかし、主が祝福されるのは、「心の貧しい者」「悲しむ者」「柔和な者」なのです。

 「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。

  悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから。

  柔和な者は幸いです。その人たちは地を受け継ぐから。」マタイ5:3-15