Miz牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

愛とタラント

マタイ25:14-30、1コリント13:1-3

2018年5月 特別会議MBC

 

 私たちは、主の再臨を生きている間にお迎えするにせよ、あるいは、再臨の前に肉体の死という形で、主の前に立つにせよ、主の前にこの世における奉仕の生涯に関して収支報告をすべきときがやってきます。

 

1.それぞれにタラントを託された

 

25:14 天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。

 25:15 彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。

 

 主人は旅に出かけるにあたって、三人のしもべたちに自分の財産を預けて管理をゆだねます。ある人には5タラント、ある人に2タラント、ある人に1タラントというふうに。古代イスラエルにおける通貨の単位で1タラントは6000デナリで、1デナリは労働者の一日の賃金ということですから、仮に時給1000円として計算すると、4800万円という大金です。したがって、2タラントは9600万円。5タラントは2億4000万円にあたります。この主人はずいぶんなお金もちなのです。ですから、「1タラントの人はちょっぴりしか託してもらえなくて、ひがんでまじめにやらなかったのではないか?」などという推測はあたりません。

タラントは、イエス様が私たちに託された、「賜物」であるということが出来ましょう。イエス様が1タラントということを言われたのは、私たちひとりひとりに期待して、主が託されるものは異なるけれども、誰であれ主が託してくださった賜物は豊かなものです。

  では、主があなたに託されたタラント・賜物とはなんでしょうか。1コリント13章の前のほうに出てくる、異言、預言、強い信仰、慈善、殉教と言ったのは賜物です。ローマ書12章には、奉仕、教え、勧め、指導といった賜物が書かれています。いわゆる超自然的なものであれ、自然的なものであれ、神様から託された能力は賜物です。自分は何もかも普通で・特別な賜物はなにもない、と嘆く人がいたら、それほど平凡であることは非凡なことですから、それもまた主が託されたタラントでしょう。

 三浦綾子さんは、あるとき、与えられた大病が主に託されたタラントであることに気づきました。気づかなければ、毒のある不平ばかり言って周囲の人々をつまづかせて終わりだったでしょう。でも、この病気はタラントなんだと気づいて、そのことを文章に書かれました。そのことによって、どれほど多くの人々が励ましを受けたことでしょう。

 神様が私たちを創造し、この世界に置かれた以上、あなたの存在そのものがタラントなのです。

 

2.愛が肝心・・・それぞれのしもべのことばから

 

25:16 五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。 25:17 同様に、二タラント預かった者も、さらに二タラントもうけた。

 25:18 ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。 25:19 さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。 25:20 すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』

 25:21 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』 25:22 二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』

 25:23 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』

 

 5タラントの僕と2タラントの僕は、二人とも、忠実に、大胆にのびのびとそして熱心に活用しました。その結果、5タラントの人はさらに5タラント、2タラントの人はさらに2タラントもうけることができました。彼らは、主人に信頼されてこれほどの大金を託してくださったことを光栄に感じて、主人の期待に応えて、一生懸命にやったのでしょう。彼らは主人のことを愛していました。これが肝心です。

やがて主人が帰ってきました。このときの主人のことばから、主イエスのお心についていくつかのことがわかるでしょう。第一は、2タラントのしもべについても、5タラントのしもべについても、主人のほめることばは全く同じだという点です。人間の主人であれば、きっと5タラントもうけてくれた僕のほうを、2タラント儲けてくれた僕よりもほめるのではないでしょうか。でもこの主人は、それぞれ託されたものに関して誠実に一生懸命またのびのびと努力をしたことをほめたのですね。彼らが、主を愛してその託されたタラントに応じて努めたからほめたのです。この主人はたいそうなお金持ちなので、稼いだ財産の多寡にはさして関心がありません。

 同じように、主イエスもお戻りになったら、あなたがどれほど主を愛して、タラントに応じてあなたを評価なさいます。託してもいないものについて理不尽なことをおっしゃる方ではありません。主は万物の所有者ですから、あなたの仕事の成果の多寡についてはさほど関心がありません。主が関心をもっていらっしゃるのは、その奉仕が主への愛の現われであるかどうかです。愛が肝心です。どんな賜物も愛がなければ何の役にも立ちません。「異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいドラや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」(1コリント13章前半)愛がなければ何の役にも立ちません。自己顕示欲や冷たい使命感とかをもってどんなに熱心に賜物を用いても、神の前では無価値です。なぜなら、神は愛だからです。

 

3.奉仕 二つの秘訣

 

主への奉仕について二つの大事なことを学びたいと思います。

 

一つ目は、この主人は、「あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。」とおっしゃったことからです。わたしたちのこの世における営みは、次の世におけることにつながっているのです。この世における奉仕、働きは次の世のための予行演習なのです。この世での奉仕において、主イエスの信頼を得ることができたら、次の世ではもっと豊かに主から大切な仕事を託していただけます。天の御国は怠け者の国ではありません。働き者の国です。私たちの造り主である父なる神が、働き者でいらっしゃいますから。

 大谷翔平選手はオープン戦で、マスメディアから「所詮、高校生なみ」などと酷評されていました。でも、彼は大リーグに適応するための計画をちゃんと内側にもっていて、オープン戦では着々と試して調整していたわけです。そして、本番が始まると、ご存知のように投打にわたって大活躍して、米国でも日本でも大谷君のとりこになっています。

 この世の私たちの人生はオープン戦で、より多くのものを任される次の世が本番です。オープン戦ですから、失敗しても大丈夫です。のびのびやりましょう。オープン戦で失敗があるとしたら、失敗を恐れてなにもしないで縮こまっていることです。「ある者は岸に立ちて、沖をば見るのみ。主の恵みの深さなど、あえて知らんとせず」です。
 人の評価を気にする必要はありません。肝心なのは本番であって、今の世はオープン戦ですから、試行錯誤しながらのびのびとやってみることです。

 

二つ目は、今の世の奉仕の人生にあたって肝心なのは主人に対する愛と信頼であるということです。1タラント主人に託されたしもべは、主人に報告しました。

 25:24 ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。

 25:25 私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。

 

 何がこのしもべの問題点だったのでしょうか?答えは彼の主人に対するセリフのなかによく現れています。彼は、主人にむかって、「あなたは蒔かないところから刈り取る・・・ひどい方だ」と思っていました。彼は主人の愛を知りませんでした。

 米国から仏教国タイに出かけた一人の宣教師がいました。彼は博士号をもっているたいへん優秀な方でした。けれども、彼はタイに赴いてとても熱心に伝道しているようでしたが、しばらくすると、帰国せざるを得なくなってしまいました。彼が後に書いているのですが、「わたしは夜寝ると夢を見ました。夢の中で白い衣を着た人が来ると、その人は『私はあなたのために、こんなに犠牲を払ったのに、あなたはまた失敗したのか』と傷ついた手のひらを見せながら私に向かって怖い表情をするのです。」と。彼はまさに奴隷の霊を受けたような状態で、神は彼にとって恐怖の的でした。ですから、失敗してはならないと思うと怖くなり、病気になってしまったのです。

1タラントのしもべの問題はなんだったのでしょうか。タラントが少なかったことですか?いいえ。では、何が問題でしたか。それは、彼が主人をよく知らなかったことです。そして主人を愛しておらず、不信感の塊だったことです。彼に必要だったのは、主人の愛をよく知ることでした。 私たちが、実りある奉仕の生涯をまっとうするために大事なことは、主がどれほどに私を赦してくださったのか、そして、どれほど私を愛してくださったのかということをはっきりと知ることです。

 まず、そのためには「神様、あなたがどれほど私を愛していてくださるかを教えてください」と祈ることです。これは御心にかなった祈りです。そして、神様のみことばを読みましょう。

「4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。

 4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(1ヨハネ4:9-10)

 

 天地万物の主であられるお方が、あなたを愛されました。その愛の余りに、天の栄光を棄てて、地にくだり、自ら進んで十字架にかかり十分に苦しんで、あなたの罪をも償ってくださいました。それほどまでに、主はあなたを愛し、あなたを赦してくださいました。

 

適用

 主が注いでくださった愛こそが私達の奉仕としての生涯の原点であり、かつ、原動力です。主の愛を知ってこそ、私たちは、自分を主にささげて何か主のためにしたいと願うようになりました。そのことを決して忘れてはなりません。

 今の世の人生は、次の世の本番の奉仕のためのオープン戦です。だから失敗を恐れてびくびくせず、のびのびとやりましょう。でも、オープン戦なのだから、あすにつながることを覚えて、だらだら怠けずにしっかりとやりましょう。
「よくやった。よい忠実なしもべだ。あなたはわずかなものに忠実だったから、わたしはあなたにより多くのものを任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」と主に肩を抱いていただける日を待ち望みながら。