水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

カインとアベル――聖書的礼拝の根本原則

創世記4:1-7

 

2018年4月19日 HBIチャペル

 4:1 人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、【主】によってひとりの男子を得た」と言った。

 4:2 彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。

 4:3 ある時期になって、カインは、地の作物から【主】へのささげ物を持って来たが、

 4:4 アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た。【主】はアベルとそのささげ物とに目を留められた。

 4:5 だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。

 4:6 そこで、【主】は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。

 4:7 あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」

 

 

序・・・文脈をわきまえる   

 聖書のある部分を正しく読む上で重要なことの一つは文脈をわきまえることです。文脈とは、そのテキストの前後、創世記の中での位置、モーセ五書の中での記事の位置、旧約聖書の中での位置、そして、旧新約聖書全体の中での位置を考慮することです。聖書66巻は多くの記者たちが筆をとったのですが、唯一の著者聖霊の指導のもとに書かれたものであるからです。

 創世記4章のカインとアベルの礼拝の記事の場合、注目すべき文脈は3章からのつながりが一つです。カインとアベルの父母が、神に背いて罪を犯したとき、神はある動物を犠牲にして作った皮衣を着せて二人をエデンの園を追い出しました。二人は、こうして人類最初の家族が形成していきました。その家族の中で起こったのが4章の悲劇でした。

 もうひとつ注目すべき文脈は、カインとアベルの記事は、モーセ五書の中で最初に出てくる神礼拝の記事であるという点です。そういう意味で、真実の礼拝とは何かが示唆されているのではないかという視点をもって読むべきだということです。

 以上を前置きとして、本文に入っていきましょう。

 

1.原罪

 

4:1 人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、【主】によってひとりの男子を得た」と言った。 4:2 彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。

「産みの苦しみを増す」ということばのとおり、骨盤が割れるかと思うほどの苦しみをへてカインを産んだ時、エバは「私は主によってひとりの男子を得た!」と言いました。このことばは、先に神が彼女に与えたあの約束を意識してのことばです。つまり、「女の子孫が蛇の頭を踏み砕く」(3:15)という主の約束が自分の出産によって成就するのだと彼女は期待して、生まれたわが子カインを胸に抱いたのです。

ところが、それは思い違いでした。子どもたちが成長していくにつれ、互いに争ったり、意地悪をしたり、親にウソをついたり、反抗したりし始めたのです。子は親の鏡。その有様は、振り返れば親であるアダムとエバ夫婦の姿でもありました。そうして、ある日、息子のカインは、救い主どころか、人類の歴史における最初の殺人者となってしまうのです。自分が腹を痛めて産んだ子どもたちの一人が、もう一人を殺してしまうという、母親にとって、これ以上に悲惨な経験はありません。あの日、善悪の知識の木の実を盗って食べて神に反逆したことが、これほどに恐ろしい結果を生んでしまったことに慄然とさせられるのです。

罪は、親から子へ、子から孫へ、孫からひ孫へと遺伝していきます。「原罪」です。人は、生まれながらに罪の性質を帯びて生まれてくるのです。ダビデはあのバテシェバ事件の後に、このように嘆いています。詩篇51篇5節

 51:5 ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。

 

2.アベルの捧げものは神に受け入れられ、カインの捧げものは拒否された

 

 さて、「ある時期になって」(3節)、成長したカインとアベルとは、主のへのささげ物を持ってきたとあります。彼らは父アダム、母エバから、幼いころから造り主である神様に対して礼拝をささげることを教わって育ってきたのでしょう。アダムとエバとは、自分たちが神のことばに背いて楽園を追放されてしまったこと、それにもかかわらず、神は救い主を到来させる約束を与え、ある動物の血を流して罪の恥を覆う衣を着せてくださったのだと、子どもたちに語って聞かせてきたわけです。神に礼拝をささげる父と母を、子供たちは見てきたのです。 そして、今日、カインは大地を耕す農夫として、アベルは羊飼いとして、自立して働くようになって、いよいよ大人として神へのささげものをする、そのときが来たというのが、「ある時期になって」ということばの意味でしょう。

 4:3 ある時期になって、カインは、地の作物から【主】へのささげ物を持って来たが、

 4:4 アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た。【主】はアベルとそのささげ物とに目を留められた。

 4:5 だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。

 

 なぜ神様はアベルのささげものは祝福して受け入れ、カインのささげものには目を留められなかったのでしょうか?三つの解釈があります。

 第一の解釈は、神がどの人間のささげものを受け入れるかどうかは、神の主権に属することであって、人間は云々すべきでないという説です。ヨブ記で義人がなぜ苦しまねばならないか?とか、ある者は神に選ばれある者は選ばれないのはなぜか?といったたぐいの人間にはわからないことと同じように考えるべきだというわけです。

 しかし、神の捧げ物として何がふさわしいのかということについて、神が彼らに何も啓示していなかったとは文脈上、考えにくいのです。なぜなら、4章7節で、神はカインに対して「あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。」とおっしゃっているからです。ごく普通に推論すれば、カインは神にささげる正しい捧げ物とは何かを知っていながら、あえて正しく行わなかったから受け入れないのだと言われていることは明らかでしょう。私たちは、神の定めた捧げものの原則については、わからないというのでなく、わかるべきです。 

 

 第二の解釈は、アベルは心を込めてささげたが、カインは心をこめないで、おざなりにささげたから、その態度が受け入れられなかったのだという説です。「チェーン式新改訳聖書」の脚注には、「主がアベルのささげ 物に⽬を留められたのは、ささげ物に対する彼の態度である」とあります。つまり、捧げ物としては、動物でも大地の作物でもよかったのだが、アベルの態度はよく、カインの態度がよくなかったのだという解釈です。新改訳聖書第一版から第三版までは翻訳が、ことさらにアベルの態度が良かったという印象を与えるものになっています。 第三版では次のようです。

 4:3 ある時期になって、カインは、地の作物から【主】へのささげ物を持って来たが、

 4:4 アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た。【主】はアベルとそのささげ物とに目を留められた。

 

  4節は口語訳聖書、文語訳聖書では単に「肥えたもの」とあるだけです。新改訳2017では「自分の羊の中から肥えたものを持ってきた」とプレーンな訳に改められています。

 

 第三の解釈は、アベルは動物犠牲をささげたから受け入れられたが、カインは大地の産物をささげたから受け容れられなかったという理解です。三つ根拠があります。

 第一の根拠は、そもそも創世記第4章に書かれていることで、両者の礼拝の単純明白な違いは、アベルのささげ物は羊であったのに対して、カインのささげ物は大地の産物であったという一点だけだということです。「カインは農夫だから農産物をささげるほかなかったじゃないか?」という人がいるかもしれません。そんなことはありません。カインは羊をささげるべきだと知っているなら、アベルに頼んで「肥えた羊を、農作物と交換して譲ってくれ。」と言えばよかっただけのことです。カインはあえて、そうしなかったのです。ここに彼の問題があります。

 第二の根拠は、カインとアベルは、動物の犠牲の血が流されて自分たちの罪が覆われたという経験をした両親に育てられて礼拝の生活をしてきたということです。推測に属することですが、おそらく彼らは「罪が赦されるためには血が流されなければならない」という原理に基づいた礼拝を幼いころから教えられてきたはずです。しかし、カインはあえて、神の求めに背いて、俺流のささげ物を神の前に持ってきたということになります。

 第三の根拠は、はじめに話したように、カインとアベルの捧げものの記事は、モーセ五書における最初の礼拝の記事であるゆえに、ここには礼拝の根本的原理が表されている可能性が相当高いということです。その根本原理とは、「血を注ぎだすことがなければ、罪の赦しはない」(ヘブル9:22)ということです。

 

3.礼拝の根本原理

 

本日の箇所から礼拝の根本原理を学びます。

)熱心でも自己流の礼拝はだめ

 礼拝に関して、私たちが心をこめることが大切なのはいうまでもありませんが、心さえこもっていれば、俺流の礼拝でよいわけではないということです。私たちが心込めるべき点は、礼拝における神の定めに対して忠実であることについてです。これが聖書的な礼拝におけるregulative principleすなわち規制原理です。カインの過ちは、神の定めた礼拝の原則を無視して、自己流の礼拝をささげたということにあります。カインは主の定めに背いて、「俺が畑で汗して作った作物だ。神が受け入れてくださるのは当然だ。」という思いで、大地の作物を捧げものとして差し出して、神に拒絶されたのでした。

 聖書の中には、自己流の礼拝をささげて、神に打たれた人が他にもいます。ひとつの例は、大祭司アロンの息子ナダブとアビフです。彼らは(おそらく異教的な工夫をこらした)異なる火を神の前にささげて、神の火に焼かれてしまいました(レビ10章)。また、サウル王は妙に信心深い人でした。ですからペリシテとの戦の前にいけにえをささげないと、負けるんじゃないかと恐れました。それで預言者サムエルがささげるべき神へのささげものを、王である彼がささげて神の怒りをこうむりました(1サムエル13章)。

 神は、私たちの日常の行動については、私たちの自由裁量に相当まかせおられて、なすべきすべてが聖書に書かれているわけではありません。けれども、こと礼拝については、神は人間がさまざまな自己流のあるいは異教的な工夫を付け加えることを禁じています。「あなたがたは、私があなたがたに命じるすべてのことを、守り行わなければならない。これに付け加えてはならない。減らしてはならない。」(申命記12:32)というのが原則です。

 ウェストミンスター信仰告白は次のように述べています。

 「第21章 宗教的礼拝および安息日について

1 (前略)このまことの神を礼拝する正しい方法は、神ご自身によって制定され、またご自身が啓示したみ心によって制限されているので、人間の想像や工夫、またはサタンの示唆にしたがって、何か可視的な表現によって、または聖書に規定されていない何か他の方法で、神を礼拝すべきでない。

 

(2)血を注ぎだすことがなければ

 今日の箇所から聖書的宗教の本質を学び取ることができます。神様は、アダム以来罪に落ちてしまった私たちの礼拝に関して、「血を注ぎだすことがなければ、罪の赦しはないのです。」(ヘブル9:22)という根本原理をお定めになっています。旧約聖書レビ記における祭儀のなかには、全焼のいけにえ、罪のためのささげ物、和解のいけにえなどとともに、穀物のささげものというものも含まれていますが、穀物のささげものは単体でささげものではなく、血を流す生贄といっしょにささげられるものでした。

 旧約時代には牛や羊の動物犠牲が繰り返しささげられましたが、それらはイエス・キリストの十字架の犠牲という本体を指差す影でした(ヘブル10章)。新約時代には本体であるキリストの十字架の犠牲がささげられたので、もはや動物犠牲をささげる必要はなくなりました。もし今日動物犠牲をささげるとしたら、それはキリストの十字架の贖いの完全性を否定することになります。

エス様の十字架の死による贖罪を抜きにして、私たちの礼拝は成り立たないものであることを、覚えなければなりません。イエス様を抜きにして、私たちは父なる神に近づくことはできないのです。キリスト教信仰とは、近世のソッツィーニや近代自由主義神学や、近年キリストの代償的贖罪を軽んじる人たちが言うように、「キリストの愛に満ちた生き方をまねして生きて行けば、世界は平和になりますよ」という道徳ではありません。キリスト教信仰とは、私たちが神と和解するためには、キリストの十字架の死と復活が必要不可欠であったと主張する代償的贖罪の信仰なのです。新約の時代の教会では、聖餐式がそれを明瞭に表しています。

 

結び

 聖書的な礼拝の根本原理。礼拝については、神がお定めになったことに、人間の勝手で足したり引いたりしてはなりません。 確かに、新約時代には、旧約聖書レビ記にしるされたような事細かな規定は廃止されましたが、旧約新約を通じて貫かれている礼拝の根本原理は、「血を流すことなしに罪は赦されない」ということです。旧約時代には、動物犠牲の血が流され、新約時代にはもろもろのいけにえの本体である主イエス・キリストが十字架で成し遂げられた贖罪のわざを根拠として、私たちは神に近づくことができるのです。

 「(キリストは)やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」(ヘブル9:12)