Miz牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

心の割礼

ローマ2:17-3:2

 

1.ユダヤ主義者の偽善

 昔、保健体育の授業のなかで水難救助の話を聞いたことがあります。だれかが池でおぼれて「助けて―!」と叫びながらアップアップと暴れているのを見つけても、すぐに飛び込んで助けようとしてはいけないというのです。近づくとしがみつかれて、一緒に沈んでしまうからです。もう暴れることもできなくなって、力尽きたと思ったら、さっとうしろから近づいて救うのだそうです。自分では自分を救えないとわからないと、恵みは働かないのです。使徒パウロが、異邦人の罪、ユダヤ人の罪を徹底的に論じるのは、人間は決して自分で自分を救うことができないことを私たちに悟らせるためです。

 ローマ人への手紙1章後半でパウロは、異邦人が神の御前では滅びに値する罪があることをあからさまにしました。2章にはいると、そういう異邦人たちを獣に等しい連中だと軽蔑している誇り高いユダヤ主義者たちを取り上げました。たしかに、ユダヤ人であるあなたは真の神を知っており、神のくださった律法を持っている。だが、「あなたは」神の前に正しい生活をしているのかということを問います。2章でパウロは、「ユダヤ人は」と客観的・一般的な問いかけでなく、「あなたは」と問いかけることで、きびしく迫るのです。
「ですから、すべて他人をさばく人よ、あなたは・・・さばくあなたが、それと同じことを行なっている」(1)「あなたは自分は神のさばきをまぬかれるのだとでも思っているのですか。」(3)etc...パウロは、自分自身ユダヤ人ですから、ユダヤ人が抱えている霊的な問題性のことが誰よりもよくわかっていました。そして、なんとか同胞ユダヤ人も悔い改めてほしいと願っていましたから、その迫りは激しいのです。 まず17-20節においても「あなたは」とパウロは迫ります。ここでは、ユダヤ人たちの誇り高さが表現されています。


2:17 もし、あなたが自分をユダヤ人ととなえ、律法を持つことに安んじ、神を誇り、
2:18 みこころを知り、なすべきことが何であるかを律法に教えられてわきまえ、
2:19 20 また、知識と真理の具体的な形として律法を持っているため、盲人の案内人、やみの中にいる者の光、愚かな者の導き手、幼子の教師だと自任しているのなら、


 あなたはユダヤ人であり律法を持っていることに満足し、神を誇りとしている。たしかにあなたは異邦人のように石や木や動物を拝んだりなどしていない。それであなたは、異邦人たちを盲人に見立てて自分たちは彼らを導く役割を持っているとか、愚かな異邦人たちを幼子にたとえて彼らをしつけるのは自分たちユダヤ人だという優越感をもっていますねというのです。
 意外なことかもしれませんが、当時のユダヤ教は異邦人伝道に熱心で、主イエスも彼らに向かっておっしゃいました。「偽善の律法学者、パリサイ人たち。改宗者をひとりつくるのに、海と陸を飛び回」っている、と。たしかに、旧約聖書出エジプト記19章には、イスラエル国には「祭司の王国」として世界の諸民族の祝福の基となることが告げられています。彼らを通して、異邦人は神の祝福を受けるのです。ですから、彼らが異邦人伝道に熱心であったこと自体は良いことです。ユダヤ人たちは、ヘレニズム世界そしてローマ帝国が成立すると、東はペルシャ、西はイスパニアにいたる世界に広がって各地にユダヤ教の会堂を造り、礼拝を始めました。ユダヤ教の宣教によって異邦人の中には、先祖伝来拝んできた多神教の神々などというものがいかにも人間が作り出したものにすぎないことがわかり、旧約聖典に啓示された世界の創造主である神が真の神であると信じて、改宗する人々が起こったのです。
 けれども、イエス様は続けておっしゃいました。「海と陸を飛び回って、改宗者ができると、その人を自分より倍も悪いゲヘナの子にする・・・」(マタイ23:15)と。どういうことでしょう?せっかく改宗した異邦人たちは、あなたのようなユダヤ教徒たちの宗教生活の実態を知るようになると、あなたの偽善に倣って偽善的な宗教生活に陥っているではないかというのです。

 

2:21 どうして、人を教えながら、自分自身を教えないのですか。盗むなと説きながら、自分は盗むのですか。 2:22 姦淫するなと言いながら、自分は姦淫するのですか。偶像を忌みきらいながら、自分は神殿の物をかすめるのですか。 2:23 律法を誇りとしているあなたが、どうして律法に違反して、神を侮るのですか。 2:24 これは、「神の名は、あなたがたのゆえに、異邦人の中でけがされている」と書いてあるとおりです。


 イエス様のエルサレム神殿での「宮きよめ」の事件に、この残念な実態がよく表れています。いよいよエルサレムに入城なさったとき、主イエスはまず神殿に行かれ、異邦人の庭にはいりました。エルサレム神殿は一番奥から祭司の庭、イスラエルの庭、女性の庭、そして、異邦人の庭となっていました。主イエスが一番外側の異邦人の庭で見たのはなんでしたか。異邦人たちが礼拝の庭は、ひっきりなしに荷車をガラガラ引いて近道するために横切る商売人たちがいました。彼らは神殿の外側を通ると遠回りなので、近道をしていたのです。また両替人やいけにえのための動物やハトを売る商売人にたちが、「これはいい品だよ。やすくしとくよ。」とか言ってうるさくしていたのです。
 「異邦人の庭」というのは、異邦人改宗者たちの礼拝の場です。はるばる外国から過ぎ越しの祭りに天地の創造主をあがめにやってきた、異邦人改宗者である巡礼たちは、厳かな気持ちでエルサレム神殿まできたのに、そこは「強盗の巣」だったのです。せっかく異郷世界の中で、真の神を信じる一大決心をして回心した異邦人たちでしたが、その本山であるエルサレム神殿にやってきて失望しました。「なんだこれじゃあ、ゼウス神殿やアポロン神殿と何もかわらないじゃないかと。」長野県の善光寺とか、浅草の帝釈天みたいなものです。その庭には、イカ焼きとかお好み焼き綿あめとか金魚すくいとかいろいろ屋台が出ていて、にぎやかなもんです。「聖書の宗教は天地の創造主をあがめる真理だと思っていたけれど、所詮こんなものなのか。」と異邦人改宗者たちは思ったことでしょう。「神の名はあなたがたのゆえに、異邦人の中でけがされている」という状況です。商売人たちを神殿内に入れることを許可していたのは、ユダヤ教の祭司や長老たちです。主イエスは、あのとき非常にお怒りになって、両替人やいけにえのハトを売って商売している連中を神殿から追い出しました。

 

2.心の割礼こそ

 

 そして、使徒ユダヤ人が誇りとしている割礼について語ります。割礼とは、紀元前二千年ころアブラハムの時代に、神様が神の民のしるしとして定めた儀式です。創世記17章に記されています。

17:9 ついで、神はアブラハムに仰せられた。「あなたは、あなたの後のあなたの子孫とともに、代々にわたり、わたしの契約を守らなければならない。 17:10 次のことが、わたしとあなたがたと、またあなたの後のあなたの子孫との間で、あなたがたが守るべきわたしの契約である。あなたがたの中のすべての男子は割礼を受けなさい。 17:11 あなたがたは、あなたがたの包皮の肉を切り捨てなさい。それが、わたしとあなたがたの間の契約のしるしである。 17:12 あなたがたの中の男子はみな、代々にわたり、生まれて八日目に、割礼を受けなければならない。家で生まれたしもべも、外国人から金で買い取られたあなたの子孫ではない者も。 17:13 あなたの家で生まれたしもべも、あなたが金で買い取った者も、必ず割礼を受けなければならない。わたしの契約は、永遠の契約として、あなたがたの肉の上にしるされなければならない。 17:14 包皮の肉を切り捨てられていない無割礼の男、そのような者は、その民から断ち切られなければならない。わたしの契約を破ったのである。」

 ユダヤ人の男児は、生まれて8日目に割礼をほどこされました。また、血統的にユダヤ人でなく外国人であっても、割礼を受ければ神の民ユダヤ人とされるわけです。これが旧約時代における神の民のしるしでした。新約時代における洗礼式にあたる契約の印だということになります。ただ、割礼は女性にはほどこされなかったという点は洗礼とちがいますけれども。
 しかし、とパウロは言うのです。割礼を受けて私は神の民の一員でございますと胸を張っていても、もし神があなたに与えてくださった律法をないがしろにしているならば、神の民としての値打ちがないではないか、と。

2:25 もし律法を守るなら、割礼には価値があります。しかし、もしあなたが律法にそむいているなら、あなたの割礼は、無割礼になったのです。

 十戒は、偶像崇拝の禁止、安息日を守れ、父母を敬え、殺すな、盗むな、偽証するな、むさぼるなと言ったことを命じています。神の民であるなら、せめて十戒を守るべきです。それなのに、あなたは異邦人を「律法を知らないみじめな連中だ」とさばきながら、実は、「盗むなと説きながら、自分は盗むのですか。姦淫するなと言いながら、自分は姦淫し、偶像を忌みきらいながら、自分は神殿の物をかすめているのですか」というのです。パウロがなぜこんなことを言えるのかと考えてみれば、パウロはサウロと呼ばれた時代、熱心なパリサイ人として、ユダヤ教の祭司や教師たちの生活の実態を知っていたからであろうと思います。サウロ自身は、まじめ人間でしたが、ユダヤ教の祭司や律法学者の中にはこういう不埒な人々もいたのでしょう。真の神を知っていて、割礼という神の民のしるしを受けていて、真の神から律法をいただいていて、しかも人にはそれを教えている。それなのに、実は、その律法をあなどる生活をしている実情に対して、彼は憤りを感じていたのです。
 そこでさらにパウロはひっくり返して言います。

2:26 もし割礼を受けていない人が律法の規定を守るなら、割礼を受けていなくても、割礼を受けている者とみなされないでしょうか。
2:27 また、からだに割礼を受けていないで律法を守る者が、律法の文字と割礼がありながら律法にそむいているあなたを、さばくことにならないでしょうか。
2:28 外見上のユダヤ人がユダヤ人なのではなく、外見上のからだの割礼が割礼なのではありません。
2:29 かえって人目に隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、文字ではなく、御霊による、心の割礼こそ割礼です。その誉れは、人からではなく、神から来るものです。


 パウロは異邦人に伝道をするようになり、異邦人の生活ぶりを知るようになりました。悔い改めてイエス・キリストを信じた人々が、割礼など受けなくても、神を愛し隣人を愛する立派な神の民らしい生活をしているのを見るようになりました。もし、割礼というしるしを受けていなくても、神を畏れ、隣人を自分のように愛して神の律法にかなう生活をしている異邦人がいたら、その人こそまさに神の民ではないかというのです。それは、聖霊によって新生した人のことです。

 

3.ユダヤ人であること割礼⇒クリスチャンであり洗礼を受けていることの意義

 そして、第三のポイントに進みます。3章1節です。

3:1 では、ユダヤ人のすぐれたところは、いったい何ですか。割礼にどんな益があるのですか。

 割礼を受けていても、神の民としての実質が生活の中に伴わないユダヤ人たちをパウロは非難してきました。こういう議論をしてゆくと、ふつう、ユダヤ人のすぐれたところなどないし、神の民の印である割礼にはなんの益もないと続きそうです。ところが、パウロの答えはさかさまです。

3:2 それは、あらゆる点から見て、大いにあります。第一に、彼らは神のいろいろなおことばをゆだねられています。


 ユダヤ人たちが、神の民のしるしである割礼を受けていながら、律法に背く生活をしているからといって、割礼を受けていること、神の言葉である律法を授かっていることが意味のないことにはならないというのです。割礼も律法も、神様が彼らに与えてくださったすばらしい祝福であることに変わりはありません。ただ、彼らは神から授かった祝福を無駄にしてしまっていることが問題なのだということです。
 
 新約の時代の神の民、クリスチャンに適用してみましょう。新約の時代、割礼にあたる儀式は洗礼です。父と子と聖霊の名による洗礼を受けても、クリスチャンとして、神のことばに従って実を結んでいなかったら、洗礼はなんの値打ちがあるのでしょうか?洗礼を受けていながら、神を愛することと、隣人を自分自身のように愛することにおいて実を結んでいないなら、クリスチャンである値打ちがあるでしょうか。洗礼を受けていながら、肉の行いに走って、御霊の実を結んでいないとすれば、クリスチャンとなった甲斐がありません。
 しかし、洗礼やクリスチャンであることの値打ちがないわけではありません。パウロの論理にしたがっていえば、クリスチャンのすぐれたところ、洗礼の益は、あらゆる点から見て、大いにあります。第一に神の言葉である聖書がゆだねられています。神のことばを託されていることは、実に、驚くべき恵みであり特権です。その大いなる特権を無駄にすることがないように、私たちは神を愛し、神の言葉である聖書のことばに親しみ、忠実にしたがう生き方をして主のために実を結ぶものでありたいと思います。
 今年ももう2月まで来ました。この二か月間を振り返って、クリスチャンとしての日常生活はどうだったでしょうか。神の国とその義を第一に求める、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」(ガラテヤ5:22,23)という実りある生活を送ることができたでしょうか。そうは行かず、肉の思いと行いにとらわれたことがあったでしょうか。聖餐式を前に神様の前にひとりになって、自らを振り返りましょう。もし欠けがあったならば、それを主に告白して、悔い改めて聖餐にあずかりましょう。
 3月、主の日をたいせつにし、聖書通読に励み、この新しい月、神さまに応答して主のために実を結ぶ生活をしてまいりましょう。