Miz牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

道・真理・いのち

ヨハネ14:1-7

  14:1 「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。

14:2 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。
14:3 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。
14:4 わたしの行く道はあなたがたも知っています。」
14:5 トマスはイエスに言った。「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」
14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。
14:7 あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」

1.心を騒がしてはなりません・・・・死に対する恐怖

(1)歴史の事実
 お読みしたのは、まもなくイエス様が弟子たちのもとを去り、十字架に向かおうとしているとき、最後の晩餐の席上での、弟子のひとりトマスとの対話の場面です。まず、この出来事の日付を確認しておきます。歴史学者・聖書学者・天文学者の研究を調べてみると、この最後の晩餐の日付は西暦でいえば33年4月2日のようです。十字架にかかられるのは、その翌日です。
このように日付とを確認するのは、イエス・キリストは仏教の阿弥陀さんとか大日如来などのように空想上の宗教的存在ではなく、歴史上の現実のお方であることをまず憶えていただきたいからです。イエスは私たちが住んでいる時間と空間の中に実在していたお方であり、聖書に記されている出来事はいわゆるフィクションではなく、歴史の事実です。聖書は詩篇や雅歌といった部分を除いて、大半は文学書や哲学書ではなく、過去実際に起こったことが書かれている歴史書です。

(2)状況
「あなたがたは心を騒がしてはなりません。」と主がおっしゃるように、この時、弟子たちは心を騒がし恐れていました。なぜなら、彼らは主イエスの口ぶりや態度から、主が弟子たちのもとを去り、死ぬ覚悟でいらっしゃることを感じ取っていたからです。14章の冒頭には「さて、過ぎ越しの祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので・・」と書かれています。また、晩餐の席上ではイエス様が弟子たちの足を洗ってくださり、そのあと、「わたしがあなた方にしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。」(14:15)と遺言のようなことをおっしゃるのです。
 さらに、主イエスは「あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ります」(21節)と、ご自分が裏切られて、死に至るのだと驚くべき予告しておられます。
 そして36節では「わたしが行く所に、あなたは今はついてくることができません。」とおっしゃり、「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」と言われました。主イエスが、弟子たちのところを去って父のもとにゆくべき時が、今や刻々と迫っていると、弟子たちはひしひしと感じ、心騒がしていたのです。
それで、主イエスは「あなたがたは心を騒がしてはいけません。神を信じ、またわたしを信じなさい」とおっしゃいました。3年間、どんなときにも主に付き従って来た弟子たちとしては、不安でなりません。イエスさまがいなくなってしまうならば、自分たちが抱いて来た望みはどうなってしまうのか?と恐れを抱いているのです。また、イエスさまが裏切られて、敵に渡されてしまうということになれば、自分たちだってただでは済まないだろうとおもわれました。

 

(2)死が怖い理由
 実は、この「心を騒がしてはなりません」以下の聖書のことばは、しばしば葬儀の場面でも朗読されるところで、葬式の式文にも採用されています。愛する者を失った遺族を慰め、力づける主イエスのことばとして読まれるわけです。 弟子たちが恐れていたのも、死によって愛するイエス様から引き離されるということでした。また、それだけでなく、自分たちが主イエスの弟子であるということで、自分たち自身も当局に逮捕されて処刑されるかもしれないという恐怖もありました。死はすべての希望を奪い去ってしまうのです。

 人はなぜ死を恐れるのでしょうか?この世の愛する人々との別離があるので、寂しいから、というのは理由の一つでしょう。しかし、それがすべてでしょうか?そうではありません。愛する人々などこの世にはいない天涯孤独な人であっても、よほど特殊な人でない限り死を恐れます。なぜ人は死を怖がるのでしょう。
 私の父は、私が洗礼を受けた後、49歳のときに教会に通い始め、朝拝、夕拝に出ては、熱心に説教を聞いていました。しかし、なかなか信じることができないでいました。そんな父にとって、尾山令仁先生が書かれた二冊の本が役に立ったそうです。一つは『キリスト教一問一答』という本で、宗教とは、聖書とは、神とはといった項目を筋道を立てて、論理的に答えている本でした。父はこの本を会社の行き帰りに3回も4回も5回もボロボロになるほどまで読んでいました。もう一冊が『死への備え』という本でした。父が50歳で洗礼を受けたときの証で、「私はこの本を読んではじめて実感として自分には救いが必要であること、イエス・キリストという救い主が必要であることがわかりました」と話していました。
 人は死に不気味なものを感じます。それは、死の向こうに何か恐るべきものが待っているという予感があるからです。「死んでしまえば、火葬場で燃やされて大半は煙になり、残りの骨は墓に入れられておしまいだ」と口先では威勢よく言って、自分にいくら言い聞かせても、実は、死後にただならぬことが待っていることを人は感じています。
 実際、死後の体験というものをした人々は、自分の肉体から自分の霊魂は離れたという共通した証言をしています。ただ、そういう体験を証言する人々は生還した人々ですから、その先どういうことが待っていたのかということについては、沈黙するほかないのです。
 死後に何があるかということについて、正確に知っているのは誰でしょう?それは、この世界とともに死後の世界をも造り、これを支配している神だけです。その神が、はっきりと聖書を通して「人間には一度死ぬことと、死後にさばきを受けることが定まっている」(へブル9:27)と教えているのです。 その時、私たちは一人一人、神の法廷に立たされて、生前にその手で行ったこと、その口でしゃべったこと、その心に思ったことのすべてを、神によって吟味されることになるのです。そこで永遠の死に当たる罪について、ローマ書1章はこのようにリストアップしています。
「ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、 1:30 そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、 1:31 わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。 1:32 彼らは、そのようなことを行えば、死罪に当たるという神の定め」がある。
 このリストを読んで、あなたは神の前に一つの罪もありませんか。残念ながら、思い当たる節のない人はいないでしょう。つまり、このリストだけ見るならば、死後、天国にあなたの住まいはないということです。親鸞聖人が自分の心が汚れ果てている現実を見つめて、「地獄は一定、住処ぞかし」と嘆いたのはもっともなことでした。

 

2.天の家を備えるお方

 そこで、主イエスは、主との別離を恐れ、自らの死を恐れて心騒がせている弟子たちに対しておっしゃいました。  14:1 「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」 なぜ、死を恐れなくてよいと主イエスはおっしゃることができるのでしょうか。それは、主イエスが主イエスを信じる者のために天の住まいを用意するために、天の父のもとに行くからです。 
「14:2 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。 14:3 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」
 主イエスを信じる者たちのためには、主イエス様が、ちゃんと天の住まいを用意していてくださるのです。そして、用意がきちんとできたら迎えに来てくださるのです。だから、イエス様を信じる者は死を恐れる必要がありません。地上における務めが終わったら、イエス様が至福の御国に連れに来てくださいますから、どんなおうちかなあと楽しみに待っていればよいのです。

 では、イエス様は、どうしてこのようなだいそれたことを言う資格があるのでしょう。イエス様は、人類の歴史の中で、ほかの誰も決して言うことのできないことを宣言しました。


14:6「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。 14:7 あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」


 人類史上最も偉大な思想家を三人挙げなさいといえば、多くの人は、インドのシャカ(ゴータマ・シッダールタ)と、ギリシャの哲人ソクラテスと、中国の孔子をあげるでしょう。   
 ソクラテスが真理を探し求めてみて知ったのは、「私は何も知らない」という事実でした。そこで当時のギリシャで知者と呼ばれる人々を次々に尋ねて回りました。すると、実は誰一人、真理を知る人はいませんでした。ただソクラテスが彼らと違っていたのは、彼らは自分は知っていると思い込んでいましたが、ソクラテスは自分は知らないことを知っていたという一点でした。これを「無知の知」といいます。
 孔子も「知らないことを知らないとする、これが知るということだ」と言いました。また弟子たちから「死とはなんですか?」と問われた時には、孔子は「いまだ生を知らず。いわんや死をや。」と答えました。
 シャカは、真理を探し求め、ついに見つけ出したのは、人生は所詮、苦しみのかたまりであり、人が老いて、病気になって、死ぬものなのだあきらめなさいだとしました。あきらめたら若くあろう、病気になるまい、死にたくないなどという執着がなくなった分、少し気が楽になる、ということです。シャカは死後についてはまったく教えませんでした。
 真理はわからないことだけはわかる。人生は苦しみに満ちている。死はわからない。これが人類史上最大の思想家たちの到達点です。偉大な思想家が、いわば下から上に向かって懸命に父なる神に到達する道を探したり切り開こうとしたけれども、誰一人到達することはできません。神は無限にきよく、無限に偉大なお方ですから、有限であり、かつ、罪ある人間がどんなに頑張っても到達できないのは当然のことです。
 ところが、イエス様はなんとおっしゃいましたか。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」とおっしゃるのです。イエス様のお言葉は、人間が修行を重ね、探求して、ついに到達したことばでないことが一目瞭然でしょう。これは上からのことば、神のことばです。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」 イエス様が「わたしが道である」とおっしゃった意味は、続いて「わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」と言われたことからわかるように、イエス様だけが父なる神様への道、言い換えれば、死の淵をこえて天国への道なのだという意味です。なぜなら、イエス様は父の御許から来られた神の御子であるからです。
 イエス様は世界が存在する前から、父なる神とともに生きておられる神の御一人子です。イエス様はこのあと、こうおっしゃっています。ヨハネ17:5 「今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。」 人間が真理を求め神を求めたのではありません。神の御一人子でいらっしゃるお方が、私たち人間を求めてくださったのです。哲学者たちのように下から上に探求したのではなく、上から下に下ってこられたのです。有限の者が無限の神を求めても決して到達できないので、無限のお方が有限な人間の性質をおびてへりくだって来てくださったのです。そして、有限な私たちにわかる言葉をもって真理を語り、私たちに神は愛であることをおしえてくださいました。有限な私たちも、イエス様の愛と正義の生き方、イエス様のおことばの真実を聖書に見るときに、父なる神がどのようなお方であるかを見ることができます。主イエスは弟子のトマスに向かっておっしゃいました。 「14:7 あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」


3 主はどのように天の住まいを備えてくださったのか 
 
 最後の晩餐の席上、主イエスは、「あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。 14:3 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。」とおっしゃいました。どのように備えてくださったでしょう。この時から三時間ほど後、イエス様はゲツセマネの園で当局によって逮捕され、ユダヤ議会の法廷にかけられました。イエスを有罪とするためにさまざまな偽証がありましたが、どれもちぐはぐで証拠にはなりませんでした。そして、最後にイエス様がユダヤの法廷で死刑判決を受けた理由は、ただ一点でした。それは、イエス様がご自分を神と等しくしたという事実でした。そのあと、ローマ総督の法廷を経て、イエスは十字架刑に処せられました。
 十字架にはりつけにされると十字架の下の人々はイエスを嘲りました。しかし、苦しい息の下で、主イエスは「父よ。彼らをゆるしてください。彼らは自分で何をしているのかわからないのですから。」と祈られました。そのとき、さきほどまでイエスを罵っていたイエスの隣の罪人がイエスに言いました。「イエス様。あなたが天の御国の王座に着くときには、あっしのことを思い出してください。」すると主イエスは、「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいる。」
 イエス様の十字架の死は、私たちが父なる神の前に背負っているすべての罪の呪いを、身代わりとなって背負うためでした。そして、信じる者を罪の呪い、地獄の滅びから解放してくださるためでした。
こうして、神の御子であるイエス様が、私たち有限な人間と無限の父なる神とをつなぐ唯一の道をなり、イエスを信じる人々に天の国の住まいを準備してくださったのです。

 14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」

まとめ 

 神様と私たちを隔てているのは、二つのことです。
 第一は、神は無限であり私たちは有限者にすぎないという事実です。第二は、神は聖なる汚れなきおかたであるのに対して、私たちは心の想いと、ことばと、行いにおいて汚れた罪人であるという事実です。
 イエス様は、道であり、真理であり、いのちであるお方として、この二つの隔ての問題を解決してくださいました。
  第一に有限な人間が無限の神を求めても求め得ないので、神に等しい神の御子であるイエス様が、有限な人としての性質をおびて私たちのところにきてくださいました。それで、私たちは御子イエス様を見ることをとおして、父なる神を見ることができます。第二に、御子は私たちの罪を十字架の死と復活をもって処理してくださいました。ですから、私たちは神の前における自分の罪を認めイエス様を私の救い主として受け入れるならば、罪ゆるされて父なる神のもとに行くことができるのです。 
道であり真理でありいのちであるイエス・キリストをあなたも信じてください。そして主が、十字架の苦しみを受けることによって用意してくださったすばらしい永遠の住まいに迎えられるその日を楽しみにして生きる人生をともに歩みましょう。