Miz牧師の説教庫

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魂への負債

ローマ1:8-15

                                                    魂への負債

1 感謝
1:8 まず第一に、あなたがたすべてのために、私はイエス・キリストによって私の神に感謝します。それは、あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。

 手紙の冒頭自己紹介のあと、使徒パウロは神に感謝をささげます。「あなたがたすべてのために、イエス・キリストによって神に感謝する」とありますが、「ために」というよりも「ゆえにepi」です。パウロははるか遠くにいるローマの教会の兄弟姉妹のことを思うと、胸に感謝が湧きあがってきたのです。すばらしいことです。コリント教会やガラテヤ教会のことを思うと、むしろ心配の方が大きかったのですが、ローマの教会のことを思えば、使徒の胸には感謝が湧きあがってくるのです。
 なぜでしょうか。それは、ローマの兄弟姉妹の「信仰が全世界に言い伝えられているから」だといいます。信仰と訳されることばはピスティスといい、真実とも訳されることばです。まだ見ぬ都ローマの教会の兄弟姉妹ですが、彼らがどれほど真実にキリストを愛し、キリストを信じて生きているかという評判は、ローマからはるか遠くのマケドニア半島のコリントの町にまで響いていたのでした。テレビやラジオやインターネットなどなかった時代でしたが、地中海世界が一つであったということが感じられます。
 アンテオケから派遣されたパウロは、小アジア半島の諸都市を巡って福音を伝えて教会を設立し、さらにマケドニア半島にわたってピリピ、コリントといった町々に伝道して教会を設立してきました。福音宣教の拠点というべき都市部に教会をまず設立して、パウロがその群れを去った後にはそこから周辺へと宣教が拡大していくことを狙っていたのでしょう。そういう宣教プランを抱いているパウロにとっては、やはり都ローマは必ず行くべき地でした。世界のすべての陸路も海路もローマに通じていて、ひっきりなしにローマから世界へと人も物も文化も広がっているのです。地方の人々は、商売であれ役所の仕事であれ、ローマに仕事で出張しては、帰ってくるのです。ですから、もし都ローマが福音化されるならば、必ずや世界中に福音がひろがるでしょう。そう考えるパウロにとって、ローマにある教会の兄弟姉妹たちの信仰、主に対する真実な生き方が評判になって全世界にひろがっていることは、この上なくうれしいこと、感謝すべきことでした。
  日本でいえばローマは東京にあたるわけです。東京の教会がもっと活発になり、忠実に主に仕えているならばそのよい影響はかならず地方に及びます。この胆振地区でいえば、苫小牧がローマにあたります。苫小牧の地が福音化されていくならば、その福音の感化はやがて周辺地域へと及んでいきます。
 
2 ローマで何を

(1)ローマに行きたい
 次にパウロは心に抱く願、ローマでしたいことを述べます。


1:9 私が御子の福音を宣べ伝えつつ霊をもって仕えている神があかししてくださることですが、私はあなたがたのことを思わぬ時はなく、 1:10 いつも祈りのたびごとに、神のみこころによって、何とかして、今度はついに道が開かれて、あなたがたのところに行けるようにと願っています。


 どうやらローマの兄弟姉妹から、「パウロ先生、どうぞ私たちのローマにも来てください」という手紙は以前から何度も届いていたようです。16章3節に「プリスカとアクラによろしく」とあるように、パウロとたいへん親しい間柄で一緒に福音のためにともに働いたこのクリスチャン夫婦も、今はローマにいます。彼らは、アジア、マケドニアの諸教会が使徒パウロから明瞭に福音を説き聞かされてどれほど霊的な祝福を受けているかということを知らせましたから、ローマ教会の兄弟姉妹がパウロ先生に来てほしいと願うのは当然の成り行きでした。それで、パウロには何度かローマに来てくださいという書状が届いていたわけです。
 けれども、なかなかパウロのローマ行きは実現しませんでした。それで、9節、10節のように言っているわけです。いつだって、わたしはあなたがたのことを忘れたことがないことについては、神が証人となってくださる。「いつも祈りのたびごとに、神のみこころによって、何とかして、今度はついに道が開かれて、あなたがたのところに行けるようにと願っています。」というのです。神さまを証人として呼び出してまで、自分がどれほどローマに行きたいと願っているかということを真実なことだと証明して見せるのです。祈りを聞いていてくださるのは神様ですから、これほど確かな証人はありません。

 

(2)御霊の賜物を分けたい
 では、パウロはローマの教会の人々のために何ができると思ているのでしょうか。

1:11 私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでもあなたがたに分けて、あなたがたを強くしたいからです。


 「御霊の賜物」とはなんでしょう。これは主がじかにパウロに啓示してくださったところの福音にほかなりません。初代教会の伝道者の中で、パウロほどに旧約聖書に精通し、かつ、この新しい時代のキリストの福音の神髄を明確に啓示され、これを表現することができた者はほかにおりません。それは、神がパウロに託された御霊の賜物にほかならないのです。その明瞭な福音のすばらしさを知ることができたならば、ローマの教会の兄弟姉妹はどれほどさらに強められるでしょう。強められて平安をいただき、さらに福音のよい感化をローマと世界とに及ぼすことができるでしょう。そう思うと、パウロはなんとしてもローマにキリストの福音を携えていきたいと思うのでした。
 そうではあるのですが、ここでパウロは少し控えめに言い直します。

「 1:12 というよりも、あなたがたの間にいて、あなたがたと私との互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。」


 キリストから授かった使徒としての権威をもって言うならば、「御霊の賜物を分けてあげたい」というのは決していいすぎではありません。しかし、ローマの教会はパウロが開拓して設立した教会ではありませんから、彼は姿勢を低くして謙遜に言い換えて「私があなたがたを励ますだけではなく、私もまたあなたがたの信仰によって励ましを受けたいのです」というのです。「私が教えてあげましょう」というのでなく、「私もまたあなたがたから教えてほしいことがある」という姿勢です。
 「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」です。たとい正しい神学的知識、聖書の知識、御霊の賜物をどれほどたくさん持っていたとしても、御霊の実を結んでいないならば、もしかすると何の役にも立たないかもしれません。「私が純正な福音を知っているのだから、無知なあなたがたを励ましてあげよう」というような姿勢は、キリストの福音の伝道者にふさわしくありません。「愛は自慢せず、高慢になりません。」

 

(3)ローマ書の誕生の摂理

 そして、パウロはこういう切なる願いを持っているのだけれども、あちらこちらの教会の必要に答えるために、なかなかローマのみなさんのところに行くことが出来ないでいるのですよ、というわけです。今具体的なことをいえば、実際、ローマ書の最後の15章25節を見ると、パウロはこの手紙を出したらすぐにエルサレムマケドニアの諸教会からの義援金を届けに行くことになっていました。それは非常な危険な任務でしたが、必ず成し遂げなければならないことでした。実際、彼はエルサレムで兄弟たちにあった後、逮捕・投獄されてしまうことになります。


「1:13 兄弟たち。ぜひ知っておいていただきたい。私はあなたがたの中でも、ほかの国の人々の中で得たと同じように、いくらかの実を得ようと思って、何度もあなたがたのところに行こうとしたのですが、今なお妨げられているのです。」


 そんなわけで、パウロはただちにローマに出かけることはできませんでした。

 けれども、からだは行くことができないから、この手紙でもって、キリストの福音の真髄、神の救いの計画の全体について伝えようとしているのです。このことに気づいて、私は「ああパウロがローマに行く都合がなかなかつかなくてよかったなあ」と思いました。もしパウロがローマに行く都合が簡単についたならば、ローマ書は書かれなかったでしょうから。ローマに行けなかったからこそ、そして、これ以上、彼らを待たせるわけにはゆかないと思って、パウロはこのローマ書をしたためたのです。
 そして、ローマから福音の影響が世界におよぶことをパウロは意識していたので、このローマ教会への手紙において、救いの計画の全体をきちんと順序だてて書きました。神のご摂理です。ご配慮です。
 目の前のことしか見えない人間の視点からすると、不都合なこと、困ったことに私たちは足止めされたり、それによって苛立ったりすることがあります。「主よ、いつまでですか」とつぶやきたくなるものです。けれども、神の視点は高く、神の尺度は長いのです。人は1年とかせいぜい10年のスパンでものを考えるだけですが、神は千年、二千年の尺度をもって考えて、パウロを足止めなさり、そして、彼をローマ書執筆へと導かれたのでした。
 むしろ、パウロがそうしたように今、もしあなたがある限界の中に置かれているなら、今は理解できなくても、そこに神のより深い知恵による計画があるということを思いましょう。そして、その限界のなかで主のために最善を尽くすことです。

 

3 魂への負債

 今日の箇所の最後に、パウロは彼の福音宣教に対する強烈な責任感を披瀝しています。


1:14 私は、ギリシヤ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。
1:15 ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。


 「ギリシャ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも」というのは、「文明人にも未開人にも」彼は返さなければならない負債を負っているという意味です。主イエスパウロを「異邦人への使徒」としてお召しになりましたから、彼はギリシャ文化圏にある人々であれ、未開人であれ、とにかく異邦人であれば、だれに対してであれ、私には福音を伝える任務をキリストが与えてくださったのだというのです。
 「負債を負っている」というのが興味深い表現です。借金をしていながら、その借金を返さなければ、処罰されます。そのようにパウロは、自分は異邦人に対して福音を伝えなければ、イエス様からおしかりを受けなければならない、と言っているのです。福音宣教に関する負債意識です。 パウロはコリント人への手紙第一の中でも、次のように言っています。「9:16 というのは、私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、私がどうしても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったなら、私はわざわいだ。 9:17 もし私がこれを自発的にしているのなら、報いがありましょう。しかし、強いられたにしても、私には務めがゆだねられているのです。」
 これがパウロが伝道者として召されたことの印です。すべての信徒が、このような伝道にかんする負債意識を持つわけではありませんが、神が伝道者として召した人には、このような魂への負債の意識をお与えになります。チャールズ・スポルジョンはこの負債意識を牧師・伝道者としての召しのしるしの一つであると言っています。伝道者として召された人であれば、福音を宣べ伝えなければ、自分は返すべき負債を主にお返ししていないという意識を持つのは当たり前です。たとえば主が奏楽者としてお召しになった人は、奏楽の奉仕を離れていると、自分は主の前になすべきことをしていないという負債感を持つでしょう。私は奏楽をしなくても、そんな負債感はもちません。私は、この苫小牧に遣わされた伝道者ですから、この苫小牧市民になんとしても福音を伝えなければならないという負債感をもっていますので、「苫小牧通信」をはじめとして何とかして福音をこの地の人々のうちに満たしたいと願っています。

結び
 ですが、みなさん一人一人も、少なくともあなたの身近な人々については、魂のために負債を負っています。あなたのお友達、家族、あなたの近所の人たちなど、あなたからでなければ、その人にキリストにある救いの証を聞くチャンスがない人がいるのではないでしょうか。今、主の前に、思い浮かべてみてください。その魂は、主があなたに託された魂です。「その人は、神様があなたに託された魂です。あなたが、主の愛に答えて返すべき負債です。
 ひとこと「さあ、主の家に行こう」です。