Miz牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

蓮の花のように

Mt1章1節から17節

2017年12月24日 苫小牧クリスマス礼拝

 

 はじめて新約聖書を読もうとして、日本人なら誰もが最初に面食らうのは、この巻頭の「イエス・キリストの系図」でしょう。しかし、韓国の人たちはさほど驚かないでしょう。殉教者チュ・キチョル牧師の伝記を読んだことがありますが、いずれも巻頭にはその人物の系図が記されていました。チュ牧師の先祖は中国宋代の儒学者朱熹だそうです。系図というものを大切にする文化においては、誰かの生涯を記そうとするときには系図を確認するというのは常識のようです。

 マタイ福音書は当面ユダヤ人を読者として想定して書かれたので、その冒頭にイエスの系図を記しているわけです。旧約聖書に慣れ親しんだユダヤ人にとっては、メシヤ(キリスト)が、アブラハムの子孫のユダ族のダビデの家系から出ることは常識中の常識でしたから、そのことがここで確認されています。

 神様は、この系図をもって私たちに何かを語ろうとしていらっしゃいます。そのメッセージを読み取るために、その特徴に注目してみましょう。

第一の特徴は、「1:1 アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。」という表題です。

 第二の特徴は17節に記されるように、三つの時代に十四代ずつに区分されていることです。「1:17 それで、アブラハムからダビデまでの代が全部で十四代ダビデからバビロン移住までが十四代、バビロン移住からキリストまでが十四代になる。」

 そして、第三の特徴は、ところどころに「~によって~が生まれ」と特筆された4人の女性の名があることです。

 

1 表題

 

 

 まず、第一の特徴を見てみましょう。キリストの系図を説明するのに、二人の先祖の名アブラハムダビデが特筆されている点について。神さまは彼らにそれぞれキリストにあって成就する契約をお与えになりました。

 (1)アブラハム契約

 まずアブラハム契約について。バベルの塔の事件で人間が文明の力をもって傲慢になり自ら神のようになろうとしたので、神は国語を分けられたということが記されています。言語の壁が出来て、人類は多くの民族に分かれていきました。

しかし、そういうバラバラになった人類の中から、神さまはノアの息子セムのすえであったアブラハムをお選びになります。そして、アブラハムに一つの契約をお与えになりました。

12:1 【主】はアブラムに仰せられた。

   「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、

   わたしが示す地へ行きなさい。

 12:2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、

   あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。

   あなたの名は祝福となる。

 12:3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。

   地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」

 

アブラハム契約は相続の契約と呼ばれます。そのポイントは、アブラハムの子孫は星の数のようになり、まず彼の子孫は神の約束の地を相続するようになり、最終的にはアブラハムの子孫にキリストが来られて、世界中のあらゆる民族は祝福を受けるのです。言い換えると、信仰によるアブラハムの子孫が世界の相続人となるということでした。つまり、世界のあらゆる民族国語の壁を越えて、一度はバラバラになってしまった人類から、今度はキリストにあって神をあがめる一つの民、神の家族を造ろうというご計画です。キリストを長男とする神の家族、「聖なる公同の教会」です。

 

(2)ダビデ契約

 次にダビデ契約について。アブラハムが紀元前およそ2000年の人ですが、ダビデは紀元前およそ1000年の人と憶えてください。ダビデアブラハムの子孫イスラエルの王となり、エルサレムに都を置いたとき、ダビデはまず自分の住まいをレバノン杉で作りました。そして、自分がこんな立派な屋敷に住んでいるのに、神様を礼拝する施設が幕屋つまりテントであることを申し訳ないと思い、神様のために立派な神殿を造りたいと願ったのです。ところが、そのとき預言者ナタンを通して神様は彼におっしゃいました。第二サムエル7章です。

7:5 「行って、わたしのしもべダビデに言え。

  【主】はこう仰せられる。あなたはわたしのために、わたしの住む家を建てようとしているのか。 7:6 わたしは、エジプトからイスラエル人を導き上った日以来、今日まで、家に住んだことはなく、天幕、すなわち幕屋にいて、歩んできた。 7:7 わたしがイスラエル人のすべてと歩んできたどんな所ででも、わたしが、民イスラエルを牧せよと命じたイスラエル部族の一つにでも、『なぜ、あなたがたはわたしのために杉材の家を建てなかったのか』と、一度でも、言ったことがあろうか。」

 

 つまり、神様は幕屋でOKだよ。私は文句など言ってないよ、とおっしゃいました。そして、11節から

7:11 それは、わたしが、わたしの民イスラエルの上にさばきつかさを任命したころのことである。わたしはあなたをすべての敵から守って、安息を与える。さらに【主】はあなたに告げる。『【主】はあなたのために一つの家を造る。』

 7:12 あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。

 7:13 彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」

 

 ダビデ契約は王国の契約と呼ばれます。ダビデの子孫から王が出て、神殿を建て、彼の王座を確立すると約束されたのです。この約束は当面ダビデの息子ソロモン神殿で成就したかに見えましたが、ソロモンの罪ゆえにこれは破綻し、王国は分裂して結局滅びて本当の成就はキリストによって成就することになるのです。

 つまり、神の御子イエス・キリストダビデの家系に生まれて、私たちの罪を十字架と復活をもって解決して後、天に昇り、天の王座に着座され、世界中にキリストの弟子を派遣することによって、世界中に「神の王国」が拡張することになったのです。現在、世界のクリスチャンは23億人だそうですが、世界にキリストのみこころが成るために、私たちはそれぞれの場に派遣されているのです。

 

 まとめます。アブラハム契約とダビデ契約で、世界中のあらゆる民族国語から召されて神の家族となり、神のご支配が世界に及んでいく。これがキリストの系図が、「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」と呼ばれる所以です。

 

2.歴史の三区分

 

 キリストの系図の第二の特徴は17節に記されるように、アブラハムからキリストに至るまでの歴史が14代ずつ三区分されていることです。「1:17 それで、アブラハムからダビデまでの代が全部で十四代ダビデからバビロン移住までが十四代、バビロン移住からキリストまでが十四代になる。」

 アブラハムからダビデまでの14代というのは、アブラハムの選びとカナンへの旅、そしてアブラハムの孫ヤコブの時代にエジプトに移住して430年間のエジプトでの生活と人口増加、そして、モーセの時代15世紀にエジプト脱出と約束の地カナンへの帰還と定着、そして、王国の始まりという、いわば民族の歴史としては右肩上がりの時代であったということができるでしょう。子どものいないアブラハムに息子を与え、それが星の数のようになり、アブラハムの時代には土地もなにもなかったけれど、ダビデの時代にはついにこの地が平定されたのでした。神の言われたとおり、たった一人のアブラハムからおよそ五百年後には、一つの王国が出来るまでになりました。

 

 次に紀元前1000年から、ダビデからバビロン移住までの14代はどういう時代だったかというと、これは王国時代ということになります。ソロモンの栄華と呼ばれるようにイスラエルはこの時代非常に栄えました。そして、ソロモンはエルサレムに神の家つまり神殿を建設したのでした。けれども、ソロモンの死後王国は南北に分裂し北王国、南王国はそれぞれに王たちが登場して王国時代を築いてゆきます。けれども、北イスラエル王国偶像崇拝と罪ははなはだしくて、紀元前722年には早々と北王国がアッシリヤ帝国亡ぼされてしまいます。南ユダ王国も紀元前586年にはバビロンによって滅ぼされ、エルサレム神殿も破壊されてしまいました。そして、バビロン捕囚となります。

 

 ではバビロン移住のあとキリストまでの14代はどういう時代だったでしょうか。破壊されたエルサレム神殿の再建が許される時期はありましたが、かつてのように主権をもった国家に戻ることはありませんでした。バビロン王国、ペルシャ帝国、ヘレニズム帝国(シリア)そしてローマ帝国と支配者は交代しますが、イスラエルはずっと主権を奪われて支配下に置かれていたのです。キリストが人として生まれたのは、イスラエルが落ち目となってローマ帝国支配下にあって重税をかけられてあえいでいるときでした。

 

 このように紀元前2000年にアブラハムに与えられた約束、紀元前1000年のダビデに与えられた約束は、イスラエルの歴史のなかで部分的にまた一時的には成就したかにみえました。しかし、結局はイスラエルの民の罪ゆえに成就することはありませんでした。人間の力をもってしては、神の約束は成就しないのだということが、2000年間のアブラハムから始まるイスラエルの歴史によって立証されたということを示しているようです。

 

 人の女性の名が特筆された

 

(1)4人の女性の名

 ところで、キリストの系図に記されている人々の名を見ていくと、ほとんどが男たちなのですが、その中に「誰それによって誰それが生まれ」と、特筆されている4人の女性がいることに気がつきます。タマルによって(3節)、ラハブによって(5節)、ルツによって(5節)、ウリヤの妻によって(6節)です。

 普通、あなたが自分の系図を書くとしたら、そこに特筆したい名前というと、どのような人物の名でしょうか?石川五右衛門くらい有名になれば話は別でしょうが、普通、私の先祖にこんな泥棒がいましたとか、殺人鬼がいましたとか、乞食がいましたなどという不名誉なことは伏せて、なにか立派なことをした人の名を記すでしょう。では、この女性たちはどういう人たちだったのでしょう。

「1:3 ユダに、タマルによってパレスとザラが生まれ、」とありますが、口にすることもはばかられるような経緯があって、タマルは舅のユダと関係を結んでパレスとザラを産みました。(創世記38章)ユダは長男にタマルという嫁を迎えましたが長男が死に、ついで次男にめとらせましたが次男も死んでしまいました。ユダは怖くなって、三男の嫁として彼女を迎えることをやめて、やもめのままでいなさいということにします。けれども、彼女は子孫を残したかったので遊女に身をやつしてユダと寝て、子を得たのでした。

 「1:5aサルモンに、ラハブによってボアズが生まれ、」二人目の名はラハブです。ラハブのことは憶えているかたが多いでしょう。旧約聖書ヨシュア記に出てくる女性です。紀元前1400年頃の人です。彼女は、その罪ゆえに滅ぼされることになっていたエリコに住んでいたカナン人の女性で、しかも、遊女を生業としていました。けれども、ヨシュアが派遣した斥候をかばったことで特別に助けてもらったのでした。血筋を重んじるユダヤ人ですが、来るべきキリストには異邦人、しかも、遊女を生業としていた女性が含まれるとわざわざ記録しているのです。

 次に登場するのはルツです。やはり異邦人です。旧約聖書ルツ記に出てきます。「1:5bボアズに、ルツによってオベデが生まれ、オベデにエッサイが生まれ、」イスラエルで日照りが続いたので、ナオミと夫は隣国モアブに移住しました。そこで息子の一人に嫁としてモアブ人ルツを迎えたのです。イスラエルは血統とか純潔を誇るのですが、メシヤの家系にはラハブにせよ、ルツにせよ異邦人の血がはいっているのです。

 「1:6b ダビデに、ウリヤの妻によってソロモンが生まれ」そして、最後にきわめつけはこれです。この一節には恐ろしく悪質な犯罪の記録です。「ウリヤの妻によって」という書き方がなんとも異常です。子どもは自分の妻によって得るものではありませんか。他人の妻によって得るものではありません。王であったダビデは自分の忠臣ウリヤの妻に欲情を抱いてむさぼりの罪を犯し、権力にものいわせて我が物とし、まじめな人ウリヤをはかりごとにかけて戦地で死に至らしめました。このひどい行いに対して神は怒りを発せられ、英雄ダビデの後半生は悲惨なものとなってしまいます。ダビデはウリヤの死後、ウリヤの妻によってソロモンを産んだのでした。

 

 以上のように、アブラハムダビデの名を付けられたイエス・キリストの系図は、決してうるわしいものとしては書かれていません。この系図を見ていくと、つくづく人間の歴史は罪にけがれているのだなあという思いがします。しかし、こうした罪の泥沼のような系図の最後に次のように記されています。

「1:16 ヤコブにマリヤの夫ヨセフが生まれた。キリストと呼ばれるイエスはこのマリヤからお生まれになった。」

 真っ黒な泥沼の中から咲いた、一輪の純白の蓮の花。イエス・キリストの誕生はまさに奇跡です。

 

(2)4人の名が特筆された目的

 なぜ、聖書は、純潔を尊ぶユダヤ人相手に、わざわざこんな言わずもがな、書かずもがなと思われる、メシヤの家系の恥部をさらすようなことを書くのでしょうか。

①まず異邦人の名が記されているのは、メシヤ、キリストはイスラエル民族のための救い主ではなく、世界中のあらゆる民族国語の救い主としてこられたことを示すためです。アブラハムの子孫からキリストが出て世界のあらゆる民族が祝福されるという契約の成就です。キリストはユダヤ人だけでなく、インド人もフランス人も中国人もケニヤ人もアメリカ人も日本人も、このキリストにあって神の前に祝福を受けるのです。

 

②また、キリストの系図のなかに人間の罪を思い出させる女性たちの名が記されているのは、キリストが正しい人を招くためではなく、神の前に罪ある人を招いて救うために来られた救い主であることを示すためです。主イエスは言われました。マタイ9:12,13

9:12 「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。 ・・・わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」

 イエスさまは「正しい人間」には用がありません。「私は、心の思いと、ことばと、行いにおいて神様の前で恥ずべきことがあります。主よ、わたしをあわれんでください」とありのままの自分のみじめな姿を認める人にとっては、キリストは救い主となってくださいます。「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた』ということばはまことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」1テモテ1:15

 

結び

 わたしたちは異邦人であり、また、神の前には罪ある者です。イエス・キリストは、まさに私たちの救いのために来てくださった救い主です。