水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

復活

マルコ16:1-8、ルカ24:36-43

 

はじめに

 キリスト教の祭りといえば、クリスマスとイースターというのは聞いたことがおありだと思いますが、イースターは復活節のことで、これは春に行われます。ですが、実は、日曜礼拝は毎週復活節なのです。なぜなら、キリスト教会が週の初めの日、日曜日に礼拝をするようになったのは、キリストが週の初めの日に復活されたからです。それまで、ユダヤ教では土曜日を安息日としていました。キリストの復活という出来事は、キリスト教会にとって、とっても重要なことです。キリストの復活なくして、二千年におよぶキリスト教会は存在しません。キリストが死なれたとき、弟子たちはおびえて世界に福音を伝えに行く勇気などもちあわせていなかったのです。キリストが復活されたからこそ、弟子たちは勇気百倍となって世界に福音を伝えに行ったのです。十字架におけるキリストの死の出来事と、その日から数えて三日目の復活の出来事とは、キリスト教の中心です。

 本日は、キリストの復活と私たちの希望についてお話します。キリストの復活について記した二つの聖書箇所をお読みします。

 

マルコ16:1-8

 16:1 さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。

 16:2 そして、週の初めの日の早朝、日が上ったとき、墓に着いた。

 16:3 彼女たちは、「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか」とみなで話し合っていた。

 16:4 ところが、目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった。

 16:5 それで、墓の中に入ったところ、真っ白な長い衣をまとった青年が右側にすわっているのが見えた。彼女たちは驚いた。

 16:6 青年は言った。「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。

 16:7 ですから行って、お弟子たちとペテロに、『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます』とそう言いなさい。」

 16:8 女たちは、墓を出て、そこから逃げ去った。すっかり震え上がって、気も転倒していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。

 

 

ルカ24:36-43

 24:36 これらのことを話している間に、イエスご自身が彼らの真ん中に立たれた。

 24:37 彼らは驚き恐れて、霊を見ているのだと思った。

 24:38 すると、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。

 24:39 わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」

 24:41 それでも、彼らは、うれしさのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物がありますか」と言われた。

 24:42 それで、焼いた魚を一切れ差し上げると、

 24:43 イエスは、彼らの前で、それを取って召し上がった。

 

 1.キリストの復活の事実

 

(1)墓の石

 お読みした出来事は、イエス・キリストの復活の場面です。主イエス・キリストが十字架にかけられて処刑されたのは、ユダヤ暦ではニサンの月15日、西暦では33年4月3日いまでいう金曜日、エルサレムでの出来事でした。この日付は、同時代の小アジア半島のビテニヤ地方のフレゴンという人物の年代記からあきらかにされています。

 金曜日の日没から神を礼拝する安息日が始まりますから、ユダヤ人たちは忌まわしい十字架上の死体は取り下ろさねば、ということになりました。そのとき、イエスを信じていた国会議員アリマタヤのヨセフが引き取って、自分のために用意してあった墓に葬り魔性と申し出ました。

 彼がイエスの亡骸を丁重に墓に納めると間もなく日が西の山の端に沈んで、安息日が始まりました。ユダヤでは日没から日没を一日と数えます。安息日の間は24時間、決して物の売り買いも、会堂礼拝に行く以外には外出もできません。

 そして、週の七日目(土曜日)、太陽が西の山の端に落ちると、安息日が開けて、週の初めの日(日曜日)が始まりました。そこで、ようやくイエスの弟子であった女たちは市場に出かけて香料を買い整えて、イエス様のお墓に出かけて骸に香料を施してさしあげる準備をしたのでした。

 16:1 さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。

 ここを見ると、彼女たちはイエス様が復活するなどということなどまったく期待していなかったことがわかります。もしイエス様が復活してまたお目にかかれると思っていたら、日が山の端に隠れるやいなやきっと墓へとでかけたことでしょうから。準備を終わると彼女たちは床について数時間寝て、朝が来ると女たちはイエス様が葬られた墓へと急ぎました。でも、彼女たちは墓に向かいながら不安になりました。「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるかしら」(16:3)と。

 当時のユダヤの墓は、岩壁に横穴を掘って造られたもので、その穴の前に大きな円盤状の石を立てかけておいたものでした。主イエスが葬られたアリマタヤのヨセフの墓も同じ様式であって、今日、これがイエスの墓であったといわれる「園の墓」の石は、厚さ40センチ、直径は3メートル余りと非常に巨大なものであったと推定されています。到底、数人の女性たちの手で動かせるようなものではありませんでした。

 しかも、マタイ福音書の並行記事によれば、墓にはローマの番兵がついていて、誰にも近づけないように警戒していました。さらに、石には「封印」をしたとも記録されています。ローマ帝国の双頭の鷲の封印であって、これを破ることは決して許されないものでした。番をしている兵士だって、ローマ総督の許可なしにあけることなどできはしません。ですから、彼女たちは墓にやってきたものの、墓の入り口からあの石をころがしてくれる人がいるかしら」と心配になったのも無理はありません。

 

(2)墓は空っぽで、青年がいた

 ところが、墓までやってくると、あの封印は破られ、墓のふたの石はゴロリとわきに転がされていたのです。そして、ぽっかりと黒い穴が見えました。

 16:4 ところが、目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった。

 彼女たちは恐る恐る墓の中にはいってみます。

 16:5 それで、墓の中に入ったところ、真っ白な長い衣をまとった青年が右側にすわっているのが見えた。彼女たちは驚いた。

 ほかの福音書の並行記事では「み使い」となっていますが、マルコが「青年」と書いてあるのが、いかにもナマの証言という印象がします。青年は言いました。

 16:6「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。 16:7 ですから行って、お弟子たちとペテロに、『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます』とそう言いなさい。」

 

 女たちは鳥肌がたちました。青年つまりみ使いから弟子たちに大事な知らせをしなさいと言われたのですが、すぐにはできなかったようです。次のようにあります。

 16:8 女たちは、墓を出て、そこから逃げ去った。すっかり震え上がって、気も転倒していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。

 復活などという出来事に直面したり、天使に会うなどという出来事に直面すれば、人間は腰が抜けて、こんなふうに震え上がるものなのですね。異次元の出来事との出会いの恐怖というのでしょうか。実はマルコ福音書はここで終わっていたようです。この後に付け加えられているのは、ほかのマタイ、ルカ福音書の復活記事の要約です。初代教会で全福音書が各教会にそろっていない時代には、そうした付録が必要だったのでしょう。しかし、マルコ福音書が「恐ろしかったからである」で終わっていたということにも、復活という恐るべき出来事のリアリティが現れていますね。

 しかし、ほかの福音書を参照すると、やがて気を取り直すと彼女たちは弟子たちの所へ行き、墓が空っぽであることを告げました。するとペテロとヨハネが墓に行って、たしかに墓は空っぽであることと、そこにはイエスの亡骸を巻いた白い亜麻布が置かれているのを確認しました。

  

(3)弟子たちに現れた

 その日の夕方、主イエスは弟子たちが集まっているところに出現しました。そのことは、ルカ福音書ヨハネ福音書にくわしく記録されています。お読みした第二の箇所はルカ福音書です。弟子たちは最初はイエスの幽霊が現れたのだと飛び上がりました。「うらめしや。よくもわたしを捨てて逃げたな~」と言うかと思ったら、主イエスは手足をまくって見せて、「ほれ、手もあれば、足もあるよ」と示しました。そこには、十字架にはりつけにされた傷跡が見えます。それでも弟子たちがうれしすぎて信じられないので、イエスはそこにあった焼き魚まで神妙な顔をして食べて見せて、ご自分が復活のからだをもって現れたことを証明なさいました。

 

 マルコとルカの復活の記事から私たちが知ることができるのは、主イエスの復活というのは、肉体は死んだけれど霊だけがよみがえったというふうなことではないし、まして、弟子たちの心にイエスは生きていますというふうな文学的・抒情的な話ではなく、客観的な事実なのだということです。死んだ者が生き返るなんて、なんて馬鹿げたことを、と思うでしょう。実にそのとおりであって、主イエスの弟子たち自身も、最初、墓を訪ねた女たちの証言をバカバカしくて信じることができませんでした。また、復活したイエスが弟子たちの目の前に出現しても、なお不思議で信じることができなかったのです。ですが、現に、目の前に三日前にたしかに十字架で死んでしまったイエスが生きていて、腕まくり裾まくりまでして、自分が生きていることを証明してお魚まで食べているのを見て、ようやく信じることができたのです。

 仮死状態の人が蘇生したというのはときどき聞きますが、ほんとうに死んだ者がよみがえるということは、実際、普通はありえないことです。

 

2.復活の意義

 

 では、そのあり得ない出来事がなぜ起きたのか。これは、神が起こされた奇跡以外の何物でもありません。死者をよみがえらせることが出来るのは、無から生命を創造した神以外にはないからです。イエス・キリストの復活の奇跡の意義とは何でしょうか。聖書では奇跡をしるしといいます。サインです。サインはその意味を読み取らねばなりません。神さまは奇跡をもって、特別大事なメッセージを私たちに悟れとおっしゃるのですから、私たちはしるしの意味を悟らなければなりません。

 

(1)死とは罪に対する呪いである

 キリストの復活の意義を理解するためには、まず、死とはなんであるかについて知らなければなりません。聖書は死について何を教えるでしょうか。

 聖書は、死とは自然なことではなく、不自然なこと、非本来的なことであると教えています。ローマ皇帝でもあったマルクス・アウレリウスという哲学者は、<死とは人間が、寝たり起きたりご飯を食べたり呼吸をするのと同じように自然なことである。誰もが経験する当たり前の事、自然なことであって、恐れるに足りないことなのだ。>というふうに力説しました。 ところで、「人が寝ることは自然なことである」とか「人が呼吸するのは自然なことである」とか「人が食事をするのは自然なことである」などと一生懸命に主張する人がいるでしょうか?いませんね。なぜでしょうか?寝ること、呼吸すること、食べることなどはほんとうに自然なこと、当たり前のことであるからです。自然な当たり前ことについては、別に力説する必要はありません。

 「死は自然なことである」と哲学者が力説し、私たちを説得しようとするのは、死が不自然なことであるとを誰もが感じているからにほかなりません。不自然なことというのは、本来あるべきでないことです。人は、「ご飯ですよ」「もう寝る時間だよ」と声をかけられてもショックを受けませんが、医者から「あなたは末期がんです」などと宣告を受けるとショックを受けます。

 死とは不自然なもの、本来あるべきでないものとは、もっと具体的にはどういうことなのでしょうか。死とは、人間の罪に対する神の怒り、神からの呪いとして入ってきたものであると聖書は教えています。ローマ書に、

「罪からくる報酬は死です」(3:23)

また、

「ちょうどひとりの人の罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、それというのも全人類が罪を犯したからです。」(ローマ5:12)とあるとおりです。

 そして、聖書はこの肉体の死後には、聖なる審判者の前でさばきを受けなければならないと断言しています。

「人には一度死ぬことと、死後にさばきを受けることが定まっている」(へブル)のです。そして、そこで有罪であると判決がくだれば永遠の死に陥ることとなります。

 

  • 復活とは死に対する勝利である

 ところが、イエス・キリストは確かに死んだにもかからわず、三日目によみがえられました。この神が引き起こされた奇跡には、少なくとも三つの意義があります。

①第一に、イエス・キリストの復活は、イエスが人となってこられた神の御子であるということの証です。イエスさまと3年間寝食をともにすごした弟子たちは、イエス様のことばと行動から不思議なことを経験しました。いくつか思い出してみましょう。

 弟子ペテロはその三年間を思い起こして、「キリストは罪を犯したことがなく、その口に偽りを見いだされませんでした」と証言しています。結婚をして寝食をともにするようになって3年間、「この人はほんとうに罪のない人なんだ」というふうに思える人はいないでしょう。もう三日目には「ああ、この人にも罪があるんだと気づくでしょう。でもイエス様には罪がなかった。

 またイエス様の行動です。その行動が人間ではありえないことでした。ある日、ガリラヤの湖に小舟を出して弟子たちと一緒に出た時、突然、空が掻き曇ったと思ったら嵐になりました。舟は荒れ狂う湖の上で木の葉のようにもみくちゃになりました。そのとき、主イエスは弟子たちにたたき起こされて、やおら立ち上がると吹き荒れる嵐に向かって「黙れ。静まれ。」と命じました。すると、急になぎになってしまいました。弟子たちは鳥肌が立って言いました、「湖や風という自然現象にまで命令すると、いうことを聞くとは、いったいこの方はどういうお方なのだろう。」

 そして、十字架の上での主イエスの態度です。イエスはねたむ人々によってとらえられて裁判にかけられ死刑判決を受けて、十字架上で処刑されてしまいました。十字架上のイエスはいのられました。「父よ。彼らをゆるしてください。彼らは自分で何をしているのかわからないのです。」と。自分を無実の罪で殺そうとする者たちのために、こんな愛を注いで祈ることができるとは、いったいこの方はどういうお方なのでしょう。

 罪を犯したことがなく、自然法則を覆すような力をもち、敵をも心からの愛をもって赦すことができるお方。このお方に向かって弟子ペテロは「あなたは生ける神の御子キリストです」と告白したのでした。イエスの復活の出来事は、まさにイエスは罪のない神の御子であるということを鮮明にしているのです。

 

②第二に、キリストは、私どもの罪に対する、神の聖なる怒りを受け尽くされたのです。神は正義の審判者ですから、罪に対して怒り正当な罰をお与えになります。私たちは神の前には罪があるので、他人の身代わりになることはどできません。ただ自分の罪のゆえに地獄で刑罰を受けるほかありません。しかし、神の御子イエスキリストは、私たちの罪に対する神の聖なる怒りを身代わりとなって受けてくださったのです。

 何かの理由で刑務所に入った人も、その刑期を完了したならば、すべての刑罰は終わったのだということで、出所してくるでしょう。「罪から来る報酬は死である」とは神の定めですが、キリストは罪の刑罰をすべて受けつくされたので、その証として復活されたのです。

 

 第三に、キリストは「初穂としてよみがえられ」(1コリント15)たのです。麦畑に初穂が実ると、それに続いてあちらでもこちらでも穂が実り始めます。そのように、キリストを信じる者は、キリストにあって新しく生まれただけでなく、キリストのように新しいからだをいただいて、新しい天と新しい地、完成した神の国に復活します。そうして、新しい天と新しい地に、神とともに永遠の喜びのうちに生きることになります。

「神は彼らの涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものはもはや過ぎ去ったからである。」(黙示録21:4)

 

結び 復活を受け取るには

 

 紀元33年4月3日すでにキリストは、人として地上に来られ、十字架にかかって私たちの罪を身代わりに背負って十字架で刑罰を受けてくださいました。そして、4月5日によみがえられたのです。

 キリストは今は父のもとで生きていて、私たちの祈りを聞き、聖書と聖霊をもって私たちに人生の導きを与えてくださいます。私たちのためにとりなしていてくださいます。キリストを信じる者の心には聖霊が与えられて、あたかも身近にキリストがいてくださるようにして、この世を生きることができます。キリスト信仰とは死んでしまった偉い人を偲ぶというふうなことではありません。今、生きて働かれるお方とともに生きることです。

 私たちがこのキリストにある、すばらしい救いをいただくには、ただ、いったい何をすればよいと聖書は教えているのでしょうか。ただ、「神に対する悔い改めと、主イエスに対する信仰」です。神に背を向けた人生から方向転換をし、主イエスを神の御子救い主として受け入れることです。あなたも、死と死後の恐ろしいさばきが待つ人生でなく、死に対する勝利、復活の希望をもって、神の栄光をあらわすための人生を生きることができます。

 「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」