水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

大胆に神のもとへ

マルコ15:34-38、詩篇22篇

 

15:33 さて、十二時になったとき、全地が暗くなって、午後三時まで続いた。

15:34 そして、三時に、イエスは大声で、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」と叫ばれた。それは訳すと「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。

15:35 そばに立っていた幾人かが、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言った。

15:36 すると、ひとりが走って行って、海綿に酸いぶどう酒を含ませ、それを葦の棒につけて、イエスに飲ませようとしながら言った。「エリヤがやって来て、彼を降ろすかどうか、私たちは見ることにしよう。」

15:37 それから、イエスは大声をあげて息を引き取られた。

15:38 神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。

 

1.旧約聖書詩篇22篇の成就

 

 十字架上の主イエスは、呪いの暗闇を切り裂くように、「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫びました。この主イエスの十字架のご受難は、旧約聖書詩篇22篇の成就でした。開いてみましょう。

22:1 わが神、わが神。

  どうして、私をお見捨てになったのですか。

  遠く離れて私をお救いにならないのですか。

  私のうめきのことばにも。

 主イエスはご自分の今の苦しみが、詩篇22篇の成就であるということを自覚なさっているのです。続きを読んでみましょう。

 22:2 わが神。昼、私は呼びます。

  しかし、あなたはお答えになりません。

  夜も、私は黙っていられません。

 22:3 けれども、あなたは聖であられ、

  イスラエルの賛美を住まいとしておられます。

 22:4 私たちの先祖は、あなたに信頼しました。

  彼らは信頼し、あなたは彼らを助け出されました。

 22:5 彼らはあなたに叫び、彼らは助け出されました。

  彼らはあなたに信頼し、彼らは恥を見ませんでした。

 22:6 しかし、私は虫けらです。人間ではありません。

  人のそしり、民のさげすみです。

 22:7 私を見る者はみな、私をあざけります。

  彼らは口をとがらせ、頭を振ります。

 22:8 「【主】に身を任せよ。

  彼が助け出したらよい。

  彼に救い出させよ。

  彼のお気に入りなのだから。」

 

 この詩篇22篇7,8節のように、十字架の下の祭司長、律法学者、長老たちはイエスを嘲りました。

マタイ27:42 「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。 27:43 彼は神により頼んでいる。もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい。『わたしは神の子だ』と言っているのだから。」

 

 主イエスが「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と叫んだとき、十字架の下の人々は「エリ」つまり「わが神」ということばを聞いて、預言者エリヤを呼んでいるのだと聞き違えたようです。

 15:35 そばに立っていた幾人かが、これを聞いて、「そら、エリヤを呼んでいる」と言った。 15:36 すると、ひとりが走って行って、海綿に酸いぶどう酒を含ませ、それを葦の棒につけて、イエスに飲ませようとしながら言った。「エリヤがやって来て、彼を降ろすかどうか、私たちは見ることにしよう。」

 十字架の下には死刑囚ののどの渇きをいやすために酸いぶどう酒がバケツに入れて置かれていて、これに棒の先につけたスポンジを浸して囚人の口に差し出したそうです。十字架の下の人々は、主イエスが叫ぶのを聞いて、渇き苦しんでいると見たのです。

 主イエスの渇きも詩篇22篇15節の成就でした。

 22:9 しかし、あなたは私を母の胎から取り出した方。母の乳房に拠り頼ませた方。

 22:10 生まれる前から、私はあなたに、ゆだねられました。

  母の胎内にいた時から、あなたは私の神です。

 22:11 どうか、遠く離れないでください。

  苦しみが近づいており、助ける者がいないのです。

 22:12 数多い雄牛が、私を取り囲み、バシャンの強いものが、私を囲みました。

 22:13 彼らは私に向かって、その口を開きました。引き裂き、ほえたける獅子のように。

 22:14 私は、水のように注ぎ出され、私の骨々はみな、はずれました。

  私の心は、ろうのようになり、私の内で溶けました。

 22:15 私の力は、土器のかけらのように、かわききり、

  私の舌は、上あごにくっついています。

  あなたは私を死のちりの上に置かれます。

 

 15節に主イエス渇きが預言されています。ヨハネ福音書の並行記事には、「わたしは渇く」というイエスのことばが記録されています。そこで十字架の下の人々は、イエスに酸いぶどう酒を差し出したのでした。十字架の上で主イエスは憔悴しきって、渇かれたのです。「わたしを信じる者は決して渇くことがありません」(ヨハネ6:35)と言われたお方が渇いたのです。ご自分が渇くことによって、私たちを潤すためでした。ご自分のいのちを注ぎだして、私たちの渇きをいやされたのです。続きを読みましょう。

 22:16 犬どもが私を取り囲み、悪者どもの群れが、私を取り巻き、

  私の手足を引き裂きました。

 22:17 私は、私の骨を、みな数えることができます。

  彼らは私をながめ、私を見ています。

 22:18 彼らは私の着物を互いに分け合い、私の一つの着物を、くじ引きにします。 

 

 十字架上の主イエスのお姿は骨と皮だけになってしまい、十字架の下の人々はその骨を数えることができるほどでした。十字架上で起きたさばきは、単に地上のローマ帝国の官憲によるさばきではなく、永遠の法廷におけるさばきでした。

 しかし、神の御子が自分の罪のためにも苦しんでおられるということを知りもせず、ローマの兵士たちはふざけて、くじを引いてイエスの着物を分け合ったとマタイの並行記事には記されています(マタイ27:35)。これも詩篇22篇18節の成就でした。

15:37 それから、イエスは大声をあげて息を引き取られた。

 このとき叫ばれたことばは、ルカ福音書ヨハネ福音書に記録されています。「完了した」(ヨハネ19:30)「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」(ルカ23:46)

 

2.苦難から栄光へ

 

 主イエスは、明らかにご自分の十字架での苦しみが、詩篇22篇の成就であることを意識しておられました。主イエスは、この出来事の後、墓に納められて三日目に蘇られますが、その日、エマオに向かって行く二人の弟子のそばを歩きながら、 言われました。「ああ、愚かな人たち。預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち。 キリストは、必ず、そのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入るはずではなかったのですか。」(ルカ24:25,26)

 「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか。」と叫んだとき、主イエス詩篇22篇全体を憶えておられたわけです。詩篇22篇は、前半はさきほどお読みしたようにメシヤの苦しみにかんする預言ですが、後半21節以降は栄光と勝利の賛美へと展開しています。

 あなたは私に答えてくださいます。

 22:22 私は、御名を私の兄弟たちに語り告げ、会衆の中で、あなたを賛美しましょう。

  22:23 【主】を恐れる人々よ。主を賛美せよ。ヤコブのすべてのすえよ。主をあがめよ。

  イスラエルのすべてのすえよ。主の前におののけ。

 22:24 まことに、主は悩む者の悩みをさげすむことなく、いとうことなく、

  御顔を隠されもしなかった。むしろ、彼が助けを叫び求めたとき、聞いてくださった。

  22:25 大会衆の中での私の賛美はあなたからのものです。

  私は主を恐れる人々の前で私の誓いを果たします。

 22:26 悩む者は、食べて、満ち足り、主を尋ね求める人々は、【主】を賛美しましょう。

  あなたがたの心が、いつまでも生きるように。

 22:27 地の果て果てもみな、思い起こし、【主】に帰って来るでしょう。

  また、国々の民もみな、あなたの御前で伏し拝みましょう。

  22:28 まことに、王権は【主】のもの。主は、国々を統べ治めておられる。

 22:29 地の裕福な者もみな、食べて、伏し拝み、ちりに下る者もみな、主の御前に、ひれ伏す。おのれのいのちを保つことのできない人も。

 22:30 子孫たちも主に仕え、主のことが、次の世代に語り告げられよう。

 22:31 彼らは来て、主のなされた義を、生まれてくる民に告げ知らせよう。

 

 

 まさに、「キリストは、必ずそのような苦しみを受けて、それから、彼の栄光に入る」ということが詩篇22篇では予告されていたのです。主イエス・キリストは私たち人間の身代わりとして、十字架でご自分を神の聖なる怒りをなだめる供えものとして差し出し、私たちの罪の呪いを引き受け、苦しみの極致を味わわれました。しかし、この時、主イエスはその向こうに栄光と勝利が待っていることをはっきりと認識しておられたのです。ご自分の死が、多くの人々イスラエル人だけでなく、世界中の国々の民の救いとなること、その世代だけでなく生まれてくる子子孫孫の救いとなるということをしっかり意識しておられたのです。その目の前に置かれた喜びのゆえに、大胆に、自らゴルゴタの丘へと歩んで行かれたのでした。

 

3.神殿の幕は廃棄された!

 

 主イエスの十字架の死は悲惨のきわみですが、その死が引き起こした、救いの歴史における、決定的にすばらしい出来事が次に記されています。

 15:38 神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた。

 15:39 イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「この方はまことに神の子であった」と言った。

 

 神殿の幕が上から下に真っ二つに裂けたというのが、なぜそんなに素晴らしい出来事なのか、説明しましょう。

 神殿とは何でしょうか?神殿とは、神と人とが会見し人格的交わりをする場です。聖なる神は、神殿で、人と会ってくださるのです。エルサレムにあった神殿は外側から異邦人の庭、イスラエルの女の庭、イスラエルの男子の庭、そして奥には祭司の庭がありました。祭司の庭の中に聖所と呼ばれる場所がありました。この聖所には24時間灯がともされ、祭司たちがこれを管理していました。その聖所の奥が至聖所と呼ばれる場所で、英語でThe HOLY OF HOLYと呼ばれますが、その前には分厚い幕がつるされていて入ることができないようにされていました。この至聖所にこそ、神の聖なる臨在が現れた場所です。

 ところが、普通の祭司たちですら至聖所には入ることができませんでした。入ると、神の聖なるご威光に撃たれて死にました。ただ一人大祭司として選ばれた者だけが、一年に一度、大贖罪の日にかぎって入ることができました。しかも、大祭司であっても、この日、至聖所に入る前には自分のあらゆる罪という罪を告白し、まずきよめの儀式を行い、自分の罪のために大きないけにえをささげてからでなければ、幕を開けて入ることができませんでした。万が一不用意に幕を開けたならば、その大祭司はそこで神の威光に撃たれて死なねばなりませんでした。

 神殿の聖所と至聖所を隔てる垂れ幕は、聖なる神と罪ある人間とをわけるためのものだったのです。この幕について、出エジプト記に次のように記されています。

出エジプト 26:31-33 

26:31 青色、紫色、緋色の撚り糸、撚り糸で織った亜麻布で垂れ幕を作る。これに巧みな細工でケルビムを織り出さなければならない。

 26:32 これを、四つの銀の台座の上に据えられ、その鉤が金でできている、金をかぶせたアカシヤ材の四本の柱につける。

 26:33 その垂れ幕を留め金の下に掛け、その垂れ幕の内側に、あかしの箱を運び入れる。その垂れ幕は、あなたがたのために聖所と至聖所との仕切りとなる。

 

 垂れ幕に織り出されたケルビムというのは、天使の名前です。ケルブが単数形でケルビムは複数形です。このケルビムは、聖なる神に近く仕えている天使であり、聖なる神の臨在に近づこうとするものを退けるいわば門番の役割をする天使なのです。このケルビムという天使の名が聖書の中で最初に出てくるの箇所がわかるでしょうか?創世記3章24節です。最初の人アダムが堕落して、楽園を追放されるときのことです。

創世記

  3:22 神である【主】は仰せられた。「見よ。人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るようになった。今、彼が、手を伸ばし、いのちの木からも取って食べ、永遠に生きないように。」

 3:23 そこで神である【主】は、人をエデンの園から追い出されたので、人は自分がそこから取り出された土を耕すようになった。

 3:24 こうして、神は人を追放して、いのちの木への道を守るために、エデンの園の東に、ケルビムと輪を描いて回る炎の剣を置かれた。

 

 はじめ人類の先祖であるアダムとエバは、エデンの園において生ける神との人格的な交わりのうちに生きていました。園には二本の木があって、ひとつは善悪の知識の木といい、もうひとつはいのちの木でした。けれども、彼らが「善悪の知識の木から取って食べてはならない」という神様の戒めに背いて罪を犯したとき、彼らは聖なる神の臨在から遠ざけられることになり、エデンの園から追放されることになりました。そして、いのちの木の実に近づけないように、ケルビムが見張りをしたのでした。

 つまり、神殿の構造が表現しているのは、このことなのです。神の臨在が現れる至聖所は神とともに生きるエデンの園を意味しており、神殿の幕に織り出されたケルビムはいのちの木への道の番人である天使を意味しているのです。エデンの園は神と共に生きる至福の場なのですが、罪を抱えたままでは入ることができません。罪を抱えたままエデンの園に入ることは死ぬことでした。神と共に生きることこそ至福であるにもかかわらず、エデンの園にもどることができないのが罪あるアダムの子孫たち人間なのです。アダムとその妻は、神の戒めに背いたとき、それまで慕わしかった神の御顔を恐ろしく感じて、御顔を避けて園の木の陰に身を隠しました。あの時以来、人間は神の御顔を恐怖の対象とするようになり、旧約時代、神の御顔を見ると人は死ななければならないといわれるようになりました。

 人は死んだら天国に行きたいと思います。しかし、己の罪の問題がゆるされ、かつ、きよめられていないならば、聖なる神のいます天国に入ることは恐怖でしかありません。

 ところが、主イエスが十字架で罪の呪いを受けて、「完了した」と宣言して、「わが霊を御手にゆだねます」とおっしゃって死なれたとき何が起こりましたか?あの神と人とを隔てている神殿の垂れ幕が上から下に真っ二つに引き裂かれたのでした。神が、「こんな幕はもう要らない」とおっしゃって廃棄してしまわれたのです。イエス様が私たちの罪の呪いを身代わりに引き受けてくださったので、私たちは神の御子イエス様を通して、大胆に神様に近づくことができるようになったのです。

 旧約時代においても、アブラハムモーセたちは神の前にお仕えすることができました。しかし、あの時代はさまざまな動物犠牲をささげることによって、人間の罪の償いとみなすとされた時代です。それらは、キリストの十字架のいけにえの予告編でした。ですから、旧約時代の聖徒たちは、いけにえを何度ささげても罪をゆるされきよめられたという確信と平安をもつことができませんでした。雄牛とやぎの血は罪をきよめることはできません。しかし、本体が出現しました。神の御子が人となってこの世に来られ、人間の代表として身代わりとして、あの十字架で罪の償いを完成してくださったのです。ですから、旧約時代の信仰者に対する、新約時代に生きる聖徒の特徴は、その大胆さです。神の御子が私たちの大祭司として、自らをいけにえとしてささげて、神の赦しを勝ち取ってくださったからです。そればかりか、神はキリストにあって私たちをわが子として愛してくださることを知っているからです。なんという素晴らしい救いでしょう。

 

「4:14 さて、私たちのためには、もろもろの天を通られた偉大な大祭司である神の子イエスがおられるのですから、私たちの信仰の告白を堅く保とうではありませんか。

 4:15 私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。

 4:16 ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」(ヘブル4:14-16)