Miz牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

訴える祈り―正義のさばき主―

詩編

 

ベニヤミンびとクシのことについてダビデが主にむかってうたったシガヨンの歌

7:1わが神、主よ、わたしはあなたに寄り頼みます。
どうかすべての追い迫る者からわたしを救い、
わたしをお助けください。
7:2さもないと彼らは、ししのように、わたしをかき裂き、
助ける者の来ないうちに、引いて行くでしょう。
7:3わが神、主よ、もしわたしがこの事を行ったならば、
もしわたしの手によこしまな事があるならば、
7:4もしわたしの友に悪をもって報いたことがあり、
ゆえなく、敵のものを略奪したことがあるならば、
7:5敵にわたしを追い捕えさせ、
わたしの命を地に踏みにじらせ、
わたしの魂をちりにゆだねさせてください。〔セラ
7:6主よ、怒りをもって立ち、
わたしの敵の憤りにむかって立ちあがり、
わたしのために目をさましてください。
あなたはさばきを命じられました。
7:7もろもろの民をあなたのまわりにつどわせ、
その上なる高みくらにおすわりください。
7:8主はもろもろの民をさばかれます。
主よ、わたしの義と、わたしにある誠実とに従って、
わたしをさばいてください。
7:9どうか悪しき者の悪を断ち、
正しき者を堅く立たせてください。
義なる神よ、あなたは人の心と思いとを調べられます。
7:10わたしを守る盾は神である。
神は心の直き者を救われる。
7:11神は義なるさばきびと、
日ごとに憤りを起される神である。
7:12もし人が悔い改めないならば、神はそのつるぎをとぎ、
その弓を張って構え、
7:13また死に至らせる武器を備え、
その矢を火矢とされる。
7:14見よ、悪しき者は邪悪をはらみ、
害毒をやどし、偽りを生む。
7:15彼は穴を掘って、それを深くし、
みずから作った穴に陥る。
7:16その害毒は自分のかしらに帰り、
その強暴は自分のこうべに下る。
7:17わたしは主にむかって、
その義にふさわしい感謝をささげ、
いと高き者なる主の名をほめ歌うであろう。

 

 

 

 

表題にある「ベニヤミン人、クシュ」という人物について聖書ではこの箇所にあるのみで、ほかにはありません。

 

1 アウトラインは次の通り

 

2節。ダビデはまず敵が追いつめてくる時、主に身を避けて、私を救い出して下さいと率直に祈ります。4、5節。まず、神の正しい裁きの前に自分をさらします。もし自分の非があるならば私を懲らしめてください、と。

6~16節。そのうえでダビデは、神の正しい裁きを求めるのです。その時、ダビデは自分の表面的に現れた行動ではなく、心と思いを調べなさる神を意識しています(9、10)。人はうわべを見るが、主は心を御覧になるからです。    

17節 そして最後は、義なる神をたたえる賛美に突き抜けています。祈り抜いて、ついに神の正しい審判がくだり自分は救われると確信にいたったからです。  

 

 率直に祈り、そして、最後には主を賛美するにいたるというこのダビデの賛美と祈りに、私たちはその率直さ、正直な祈りを態度をまず学びたいと思います。詩篇6篇もそうでしたが、率直さは詩篇の最大の特徴だと思います。こんなこと祈っていいのかなと、私たちには思えてしまうほど正直な祈りです。

 もう一つは、しかし、その率直な祈りは変えられていきます。祈りは中途半端で不満なままで、不安なままで終わってしまうのでなく、主への賛美へと突き抜けるまで祈りたい。主を賛美するために、私たちは造られたのです。

ダビデの祈りの秘訣を見てゆきましょう。

 

2 神の正義に訴える

                                           

 注目すべきは、ダビデはここで正義の審判者である神を見ているということです。6、8、9、11。17。

7:6 【主】よ。御怒りをもって立ち上がってください。

  私の敵の激しい怒りに向かって立ち、 私のために目をさましてください。

  あなたはさばきを定められました。

 7:9 どうか、悪者の悪があとを絶ち、あなたが正しい者を堅く立てられますように。

  正しい神は、心と思いを調べられます。

7:11 神は正しい審判者、日々、怒る神。

 7:17 その義にふさわしく、【主】を、私はほめたたえよう。

  いと高き方、【主】の御名をほめ歌おう。

 神は正しいお方、神は正しい裁きをなさる審判者である。この詩篇におけるダビデの祈りの力強さの根源の第一はここにあります。

 私たちはこのところ、詩篇に祈りを学んでいます。その中で、あの願い、この願い以上に大事なことは、神御自身に目を留めることだと学びました。神御自身の聖なるご性質に訴える祈りは力強い祈りとなります。神は真実で正しいお方ですから、神は御自身を否むことができないからです。「神よ、あなたは正義の神、あなたは正しい審判者です。」と訴える声に、神は「確かに、その通りである」とお答になります。アブラハムも、ソドムの町のために取り成すときに、このようにとりなしました。また、カナンの女も主イエスに「こどもにパンをやるものだ。子犬にやるパンはない。」と言われた時、答えた「その通りです。ですが、子犬も食卓から落ちるパンくずはいただきます。」

 神御自身の義に訴え、神のお約束に訴える。6篇では神の恵み深さに訴えました。

 

(賛美)神が義なる審判者でいらっしゃることを知り、神の義をたたえましょう。

私たちは、あなたが義であられますから、正しい裁きをしてくださいますから、安心します。この世にはいろいろな不正が行われています。不平等がまかりとおっています。けれど、やがて神よ、あなたは人の心の底まで探り極めて、正しい裁きをなさいます。ですから、私はあなたの名をたたえます。悪が一時は栄えているように思えても、神は後の日にかならず正義の裁きをされますから。正義の神を賛美します。

 

(実践)それゆえ、私たちは安んじて正しい道を歩みます。それがたとえ、細い困難な道であり、また、それが「損」をする道であっても、義なる道を選ぶのです。その時、私たちは大胆に正義の神の裁きを求める祈りができます。

 

 量るように量られることをわきまえる

 

 しかし、このような訴えをする祈りの場合、詩人は大事なことをわきまえていました。それは、「人は量るように量られる」という原則です。私たちが他者を量る、その物差しで自分も神様から量られるのです。

7:3 私の神、【主】よ。もし私がこのことをしたのなら、もし私の手に不正があるのなら、

 7:4 もし私が親しい友に悪い仕打ちをしたのなら、

  また、私に敵対する者から、ゆえなく奪ったのなら、

 7:5 敵に私を追わせ、追いつかせ、私のいのちを地に踏みにじらせてください。

  私のたましいをちりの中に  とどまらせてください。 セラ

 でも私の敵には辛くはかってください。でも私には甘く図ってください。という祈りは聞き入れられません。神は正義の審判者、公正なお方ですから。

 詩人は今、「親しい友」と思った人に裏切られ、悪い仕打ちを受けているのです。友が敵となって、彼のいのちを奪われそうになっているのです。このような経験をダビデはその人生の修羅場でなめたことでした。かつて彼の腹心と思った人々が、叛逆した息子アブシャロムについて、ダビデ王を追い落とし、今はダビデのいのちを狙っているのです。親友だと思っていた人に裏切られ、敵に回られることほどつらいことはないでしょう。

 

 そんな中で彼は神に正義のさばきを求めて祈り叫んでいるのです。そのとき、ダビデは自分の胸に手を当てて、自分はあの友に対して、そんな悪い仕打ちをしたのでしょうか?と反省しているのです。そして、公正なさばきを求めるのです。ただ私の味方になってくださいというのでなく、正しくさばいてくださいと言っています。

 

4 世界の審判を求める

 

 自らを振り返ったうえで、詩人は激しく主に訴えます。6節から16節。

 

7:6 【主】よ。御怒りをもって立ち上がってください。

  私の敵の激しい怒りに向かって立ち、 私のために目をさましてください。

  あなたはさばきを定められました。

 7:7 国民のつどいをあなたの回りに集め、その上の高いみくらにお帰りください。

 7:8 【主】は諸国の民をさばかれる。

  【主】よ。私の義と、私にある誠実とにしたがって、私を弁護してください。

 7:9 どうか、悪者の悪があとを絶ち、あなたが正しい者を堅く立てられますように。

  正しい神は、心と思いを調べられます。

 7:10 私の盾は神にあり、神は心の直ぐな人を救われる。

 7:11 神は正しい審判者、日々、怒る神。

 7:12 悔い改めない者には  剣をとぎ、弓を張って、ねらいを定め、

 7:13 その者に向かって、死の武器を構え、矢を燃える矢とされる。

 7:14 見よ。彼は悪意を宿し、害毒をはらみ、偽りを生む。

 7:15 彼は穴を掘って、それを深くし、おのれの作った穴に落ち込む。

 7:16 その害毒は、おのれのかしらに戻り、その暴虐は、おのれの脳天に下る。

 

(1)怒る神

神は愛の神ですということは、私たちはよく言いますが、同時にまた神は聖なる怒りの神です。ヤコブ書1章20節に「人の怒りは神の義を実現するものではありません」とあるように、人間は自己中心ですから、その怒りは神の正義を実現するような立派なものではありません。私たちは、自分が傷つけられたとき、自分が損害を受けた時、自分の気分が害されたときには、怒りやすいものです。けれども、他の人が傷つけられたり、損害を受けたりということについては、結構、寛容であるものです。実に不公正です。ですから、私たちは自分の怒りを、安易に聖なる怒りであるなどと思いあがるべきではありません。

神は「怒る神」と11節で呼ばれています。神の怒りは、人間の利己的で気まぐれであったりする怒りとはちがって罪に対する怒りです。神は世界をすべ治めるにあたって、善と悪とを定め、悪に対しては御怒りを感じられるのです。

 また、神の御目はうわべでなく、私たちの心の動機、思いまでご覧になるのです(10節)。世界中のすべての人々の心の思いと行いをご覧になっている神様ですから、地上で不正が行われていることに7章11節にあるように「日々怒る神」なのです。

 私たちはこの神を畏れなければなりません。

 

(2)世界の審判者

 さらに注目したいのは、7節、8節、「主は諸国の民をさばかれる」ということばです。旧約聖書イスラエル民族、イスラエル国家の宗教を語っているというのは一つの事実ですが、旧約時代すでにその民族の枠を超えたものがあるのです。この詩では、世界中の国々の民に神の目は及んでおり、悪者はやがて罰せられる時が来るのだと

8節【主】は諸国の民をさばかれる。

11 神は正しい審判者、日々、怒る神。

12  悔い改めない者には  剣をとぎ、弓を張って、ねらいを定め、

13 その者に向かって、死の武器を構え、矢を燃える矢とされる。

 

神の裁きは歴史の中で行われてきました。どんなに栄えている軍事大国も、神の歴史の審判の中で崩壊してゆきました。北イスラエル民族が堕落したときには、西方からアッシリヤ帝国の剣をもって北イスラエル王国を崩壊させました。そのアッシリヤ帝国も傲慢で傍若無人でしたから、今度は神さまはこれをバビロンを起こすことによって滅ぼしました。そのバビロンもまた傲慢になり、パレスチナに来てついにエルサレム神殿は崩壊させました。、しかし、最強をほことったバビロンは、一夜にして崩壊して、メドペルシャ帝国に後退させられてしまいました。神は、このように歴史を支配されるのです。

 それでも世界に正義が完全に行われたことはありません。正義の神の世界に対するさばきは、主イエスが再び来られた時の最期の審判によって行われます。私たちの最終的な希望は、主イエスの再臨による最後の審判です。

 

結び

 私たちは、詩篇7篇を味わい、世界のさばき主であられ、世の不正に対しては日々怒る神であられることを学びました。私たち現代人の間では、なんでも許してくれる甘い神観が流行しているかもしれません。旧約時代、神は厳しく、新約時代は神は優しいのだということをまことしやかに言う人々もいます。しかし、もしそうであれば、神の御子が十字架にまでかかることはなかったでしょう。神の義は、御子の犠牲を必要とするほどに厳しいものなのです。新約時代においては、神は極めて公正なお方であり、かつ極めて愛に満ちたお方であることが、旧約時代よりもさらに明らかにされたというのが正しい聖書理解です。

 この正義の審判者である神の前に、時に、ダビデのように正しい裁きを求めて祈りたいときがあるでしょう。正しいものが不当な扱いを受け、悪しき者がさかえているようなことが往々にしてありますから。しかし、そのとき、私たちは他人を量る、その物差で自分も量られることを覚えておきましょう。神は公正なお方です。