Miz牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

 闘いの祈り   

詩篇第6篇                                                    

聖歌隊の指揮者によってシェミニテにあわせ琴をもってうたわせたダビデの歌

6:1主よ、あなたの怒りをもって、わたしを責めず、
あなたの激しい怒りをもって、
わたしを懲しめないでください。
6:2主よ、わたしをあわれんでください。
わたしは弱り衰えています。
主よ、わたしをいやしてください。
わたしの骨は悩み苦しんでいます。
6:3わたしの魂もまたいたく悩み苦しんでいます。
主よ、あなたはいつまでお怒りになるのですか。
6:4主よ、かえりみて、わたしの命をお救いください。
あなたのいつくしみにより、わたしをお助けください。
6:5死においては、あなたを覚えるものはなく、
陰府においては、だれがあなたを
ほめたたえることができましょうか。
6:6わたしは嘆きによって疲れ、
夜ごとに涙をもって、わたしのふしどをただよわせ、
わたしのしとねをぬらした。
6:7わたしの目は憂いによって衰え、
もろもろのあだのゆえに弱くなった。
6:8すべて悪を行う者よ、わたしを離れ去れ。
主はわたしの泣く声を聞かれた。
6:9主はわたしの願いを聞かれた。
主はわたしの祈をうけられる。
6:10わたしの敵は恥じて、いたく悩み苦しみ、
彼らは退いて、たちどころに恥をうけるであろう。

 

 この詩篇は私にとってたいへん印象深く思い出深い一篇です。私が神学校1年生のとき、父がガンで余命半年を宣言され神戸で最期の床に臥せっていたときに、東京の神学校におりました私はこれにシューマンの曲を付けたものをいくどとなく歌ったものでした。歌ったというよりも祈ったものでした。

 また、その1年後、朝岡牧師がガンとの壮絶な戦いを経て天に凱旋された後、神学校で開いた詩篇を歌う会で白石君が詩篇第六編を歌ったことを覚えています。日頃、クールな白石君が、絶句して歌えなくなり私が後半を歌いました。詩篇第六編は、魂から絞りだされる叫びであり、嘆きであり、そして勝利の祈りなのです。

 

1.苦難に主の怒りを見る(1-3節)

 

 「主よ。御怒りで私を責めないでください。激しい憤りで私をこらしめないでください。」と詩人ダビデは叫びます。いったいどういう状況の中に彼は置かれたのでしょうか。

8節にあるように彼は「不法を行なう者ども」に取り囲まれ、10節にいう「敵」から攻撃を受けていたのです。そして、彼は肉体的にも弱り果て、骨は震えるほどであり、魂もおののいていたのです。(2、3節)

6:2 【主】よ。私をあわれんでください。

  私は衰えております。

  【主】よ。私をいやしてください。

  私の骨は恐れおののいています。

 6:3 私のたましいはただ、恐れおののいています。

  【主】よ。いつまでですか。あなたは。

 

 しかも、その状況をダビデは、主の御怒りの現れとして認識しているのです。主が私に怒りを燃やしていらっしゃる。主が私を憤っていらっしゃるのだと彼は認識したのです。

「主よ。御怒りをもって私を責めないで下さい。」

 

 あらゆる状況のなかに主の御手を見いだすこと。これはダビデの信仰でありました。ダビデの生涯をたどるとき、彼がこの詩篇のような状況に置かれたと考えられるのは、アブシャロムの反乱のときエルサレムから逃れて行くときのことでしょう。実の息子に背かれ、エルサレムを出て裸足でオリーブ山を登って悔い改めたダビデです。ダビデ一行がバフリムまで来た時、サウルの家系の者のシムイがダビデを呪ったのでありました。2サム16:5-14

 ダビデは、この事件では神の怒りの御手が自分の上にくだっていることを実感しないではいられませんでした。シムイのいうことは不当なことであり、誤解でもありました。けれども、ダビデはあえて反論しようとしませんでした。言い返そうとしませんでした。彼がシムイその人を見ていたならば、言い返したでしょう。仕返しをしたでしょう。けれども、彼はシムイを見ていたのではなく、主の御手を見ていたのです。2サム16:10-12節。

ですから、ダビデは「主よ。御怒りで私を責めないで下さい。」と祈るのです。

 

 あらゆる状況において主の摂理の御手を見るということ、これがまず今日の詩篇に学ぶことです。私たちの身の回りに起こること、格別苦難ということについて、何一つ無意味に起こることではありません。たとえ、そこに悪しき人々の悪だくみや悪魔の働きがからんでいたとしても、究極的に神様のご支配があるのです。試練については特にこう言われています。

「わが子よ。主の懲らしめを軽んじてはならない。主に責められて弱り果ててはならない。主はその愛する者を懲らしめ、受け入れるすべての子に、むちを加えられるからである。」(ヘブル12:5)

 「主の懲らしめを軽んじる」とは苦難を単なる偶然の出来事、災難としてしか見ることをせず、このことを通して主に向かい合おうとしないことです。ある人が、「病気は生き方を考えさせる神の促し」と言いました。病気だけではありません。私たちは順境にあっては主に感謝し、逆境にあっては反省して主と向かい合うべきです。「順境の日には喜び、逆境の日には反省せよ。これもあれも神のなさること。それは後のことを人にわからせないためである。」(伝道者7:14)

 

2.嘆願の激しさ・執拗さ

 

 次に私たちがこのダビデの祈りに驚くのは、その嘆願の激しさと執拗さではないでしょうか。4節から7節。

 6:4 帰って来てください。【主】よ。

  私のたましいを助け出してください。

  あなたの恵みのゆえに、私をお救いください。

 6:5 死にあっては、

  あなたを覚えることはありません。

  よみにあっては、

  だれが、あなたをほめたたえるでしょう。

 6:6 私は私の嘆きで疲れ果て、

  私の涙で、夜ごとに私の寝床を漂わせ、

  私のふしどを押し流します。

 6:7 私の目は、いらだちで衰え、

  私のすべての敵のために弱まりました。

 

 

 祈りは禅坊主のような悟り澄ましたものではありません。禅坊主は「無」を前にして沈黙し、なにごとかを悟るのだそうです。人格的な神を知らぬ彼らとしては、それ以外ないからでしょう。しかし、聖書的祈りとは今生きて働かれる人格の神をかきくどくことであり、生ける神との激しい格闘なのです。

アブラハムはソドムのとりなしにおいていくどもいくども、主なる神がついにはへきえきするまで粘り強くその助命を嘆願しました。ヤコブは主と相撲を取り、主に勝利者と呼ばれました。モーセイスラエルの民に対して怒りを燃やされる主の前に立ちはだかって、イスラエルを滅ぼすなら私をまず殺してからにしてくださいとまで言いました。

 そして、私たちの主イエスのゲツセマネのあの三時間にわたる祈りについてヘブル書はこう記しています。「キリストは、人としてこの世におあられたとき自分を死から救うことのできる方に向かって、大きな叫び声と涙とをもって祈りと願いをささげ、その敬虔のゆえに聞き入れられました。」(5:7)

  私たちの祈りはどうでしょうか。安易に「みこころのままに」と言うことによって悟り澄ましたような、実はいんちきの、怠慢な、口先だけの祈りに堕してはいないでしょうか。

 

3.恵みのゆえに

 

 とはいえ、ダビデの祈りはただ激しいだけのものではありませんでした。ただ単に頑固で自己主張が強いというものではありませんでした。彼の祈りがここまで粘り強くありえたのは、彼の自我の強さのゆえではありません。彼は主というお方をよく知っていました。ダビデは悔い改めつつ祈っているのです。

 ダビデはこう祈りました。4節。「帰って来てください。主よ。私のたましいを助けだして下さい。あなたの恵みのゆえに、私をお救いください。」「あなたの恵みのゆえに」とダビデはいいました。「恵み」とはなんでしょうか。恵みとは「祝福を受ける資格のない者に注がれる、神からの一方的な祝福」のことです。

 ダビデは、自分が神から祝福を受けて当然であるなどとは思っていませんでした。彼は自分は今、神から懲らしめを受けるべき人間なのだとわかっていました。今、彼の上に主の御手がくだっていると認めていました。そして、彼は自分の義に訴えて、神様に救いを求めているのではないのです。彼は自分は「私はこれこれこれだけ立派なことをしてきましたから、神様あなたは私を救うべきです。」などと愚かなことは言わないのです。神の御前に立つ時、仮に自分が良いことをなしえたことがあったとしても、すべての良きことは神様の恵みによってさせていただいたのですし、すべての悪いことは私たちが自らなしたことなのですから。

 しかし、ダビデは救いを求めえたのです。どうしてですか。「あなたの恵みのゆえに」です。「主よあなたは恵みとまことに満ちたお方です。滅ぼされて当然の、この私をも哀れむとお約束くださったお方です。私によきところはありませんが、あなたはよいお方です。ご自身の結ばれた契約に対して真実なお方です。あなたは恵みに満ちたお方です。ですから、私はあなたの恵みゆえに救っていただけると望みを抱いているのです。」というのです。

  私たちの祈りが弱々しいときは、自分の義によりたのもうとするからです。私たちの祈りが力強いときは、主の恵みとまことによりすがるときです。

 

4.勝利の確信を得る(8-10節)

 

 嘆きと叫びと涙にはじまった祈りは、ついに勝利をもって終わります。

 

 6:8 不法を行う者ども。みな私から離れて行け。

  【主】は私の泣く声を聞かれたのだ。

 6:9 【主】は私の切なる願いを聞かれた。

  【主】は私の祈りを受け入れられる。

 6:10 私の敵は、みな恥を見、

  ただ、恐れおののきますように。

  彼らは退き、恥を見ますように。またたくまに。

 

 

 祈りの戦いを戦い抜いたとき、勝利の確信を得たのです。そのとき、まだ肉眼では状況は変わってはいないのです。ダビデを取り囲む敵は減っていません。けれども、祈り抜いたとき、ダビデは「主は私の泣く声を聞かれたのだ。主は私の切なる願いを聞かれた。主は私の祈りを受け入れられる。」と確信したのです。

 「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、その通りになります。」(マルコ11:24)と主イエスがおっしゃった通りです。この確信と平安とに至るまで祈り抜くことがたいせつなのです。聖歌256番の四節にも、「祈れみわざは必ず成ると信じて感謝をなしうるまでは。」とあります。ヤコブモーセも主イエスも祈りの戦いの後に、確信にいたって新しい歩みをしています。ヤコブは、あなたはイスラエルという祝福ある名をいただきました。モーセは、主御自身がいっしょに行くと約束をいただきました。主イエスは、十字架に苦しみを受けた後に、死者のなかからよみがえらせていただけるという勝利の確信をいただきました。そうして、確信をもって新たな歩みをそれぞれにしたのです。

 私たちの祈りにおいてたいせつなことは、この主への賛美と感謝と平安にまでつき抜けることです。「すでに得たり」と信じうるまでに御心を求め、御心を確信することです。嘆きは賛美に変えられ、願いは感謝に変えられ、不安は平安に変えられるのです。

 

結び

 ダビデは祈りの発端において苦難に主の怒りを見ました。しかし、ダビデは自分の義ではなく神の恵みによりすがって執拗な祈りの戦いを展開しました。そして戦いの到達点において、恩寵が苦難を乗り越えるのを見たのです。そして、確信を得、賛美にいたったのです。