水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

十字架を負う恵み

マルコ15:16-21

 

  15:16 兵士たちはイエスを、邸宅、すなわち総督官邸の中に連れて行き、全部隊を呼び集めた。 15:17 そしてイエスに紫の衣を着せ、いばらの冠を編んでかぶらせ、 15:18 それから、「ユダヤ人の王さま。ばんざい」と叫んであいさつをし始めた。 15:19 また、葦の棒でイエスの頭をたたいたり、つばきをかけたり、ひざまずいて拝んだりしていた。 15:20 彼らはイエスを嘲弄したあげく、その紫の衣を脱がせて、もとの着物をイエスに着せた。それから、イエスを十字架につけるために連れ出した。 15:21 そこへ、アレキサンデルとルポスとの父で、シモンというクレネ人が、いなかから出て来て通りかかったので、彼らはイエスの十字架を、むりやりに彼に背負わせた。

  

 

1.王として

 

(1)王のいでたち 

ローマ総督ピラトがイエスに有罪判決を言い渡すと、総督の兵士たちはイエスを官邸に連れ込みます。すると、その中庭に兵士たち全員ぞろぞろとイエスの周りを取り囲みました。彼らは、この餌食をなぶりものにしてやろうとニヤニヤと残忍な笑みを浮かべています。この後、兵士たちはイエス様に対する振る舞いは何を意味しているのでしょうか。
 彼らはイエスの着物を脱がせて、緋色(深紅、赤い)外套を着せ掛けました。ローマ兵のマントなのでしょうか? 次に、そこいらに生えていた荊を輪にして、イエスの頭に王冠として押し付けました。主の額から幾筋もの血が滴り落ちました。王の杖としては葦の棒を持たせられます。

緋色のマント、荊の冠、右手に王の杖は、王としてのいでたちでした。そうして、おどけてイエスの前にひざまづいて「ユダヤ人の王さま、ばんざい!」と彼らはイエスを侮辱したのです。そうして、さらにイエスにペッとつばきを吐きかけ、王の杖である葦を取り上げて、イエスの頭を何度もたたいたのでした。

 

兵士たちはなぜ主イエスにこんな侮辱をしたのでしょうか?ユダヤのサンヒドリンがイエスを訴えた罪状は、「イエスユダヤ人の王を名乗り、民を煽動して、ローマ皇帝にたて突いた」ということであったからです。十字架でイエス様の頭上に掲げられた罪状書きにも「ユダヤ人の王」と記されました。聖画でときどき見かけるINRIというのは、「IESUS NAZARENUS REX IUDAEORUMナザレのイエスユダヤ人の王」の頭文字です。敵になんの抵抗もせず、むざむざと捕まえられてなぶられっぱなしで、王と名乗っているイエスを侮蔑したのです。軍事力で世界を手中に収めたローマ人の価値観は、「力こそ正義である」というものでしたから、彼らからすれば、無抵抗を貫くイエスが王と名乗るのはちゃんちゃらおかしいことだったのです。

 

(2)王として自由な精神

 「力こそ正義」という世界では、暴力に対しては暴力を報い、怒りに対しては怒りをもって報い、憎しみに対しては憎しみをもって報いるというのが、常識です。しかし、そこには必ず絶えることのない憎しみの連鎖が生じます。国と国の間でも、民族と民族の間でも、仕返しに対して仕返しをする、すると、その仕返しに対してさらに仕返しをし、そのまた仕返しに対して仕返しをして、その連鎖はやむことがながありません。しかも、その連鎖は世代を超えて子々孫々にまでつながっていくのです。彼らを操る黒幕は悪魔です。 これは国と国の間だけでなく、私たちの社会生活、家庭生活でも同じことです。意地悪をされたから、意地悪をして返す。すると、それに対してまた意地悪が返ってきて、エスカレートして行き、ひどくすると殺人が起こってきます。背後で彼らをコントロールするのは悪魔です。

 王である主イエスは、まったく違う道を選びました。罵られても罵り返さず、右のほほを打たれたら左のほほを差し出し、憎まれたら愛するという道でした。悪魔も、主イエスをコントロールすることができないのです。奴隷とは不自由な者で、自分をコントロールできません。これに対して、王とは自由な存在です。誰に支配されることもなく、自分の主体的な意志で自分の行動を選ぶことができる。それが王です。敵をも愛する主イエスは、真に自由な王でした。

 荊の冠を押し付けられて額から血を流し、葦の王杖を持ち、コブシで殴りつけられ、つばを吐きかけられた主イエス。しかし、その主イエスの心は憎しみに囚われることなく、父なる神を見上げ、敵を愛していらっしゃいました。主イエスは罵られても、罵り返さず、苦しめられても脅すことをせず、いっさいを天の父にゆだねていました。これこそ、気高い、自由な王としてのキリストの姿でした。このようにして、王なるキリストは、悪魔と戦い、罪と戦い、私たちの贖いを成し遂げられるのです。

 

(3)いばらの冠の王

 キリストが王であることについては、歴史の中で多くの人々が誤解してきたように思います。中世ヨーロッパのアッシジのフランチェスコの青年時代を描いた「ブラザーサン、シスタームーン」という映画があります。その中で、アッシジの町から青年たちが鎧兜に身を固めて長槍をもって隣国との戦いに出陣していく場面があります。その時、町の司祭が十字架のキリスト像を掲げて、彼らを祝福するのですが、そのキリスト像は銀色の鎧に身を固めて金色の王冠をかぶって、恐ろしい顔をしているのです。つまり、大将軍としての王キリストです。青年フランチェスコもそうして出陣しますが、戦地で憔悴して帰還し、療養生活をします。やや体調がよくなり野を散歩していたとき、崩れ落ちたサン・ダミアーノ礼拝堂を見つけました。その正面には優しいお顔をした十字架のキリスト像が掲げられていました。フランチェスコは、これに慰められたのです。

 福音書に記録された本物のキリストは、いばらの冠をかぶり、今にも折れそうな葦の王杖をもった優しい王なのです。この事実が意味することを、私たちはよくかみしめなければなりません。キリストは神に敵対する私たちを憎むことでなく、私たちを愛し、私たちの罪をかぶるために十字架で命を捨てる、そのようにして悪魔に勝利を収めた王なのです。

 

2 クレネ人シモン・・・十字架を背負う恵み

 (1)無理やり十字架を背負わされて

ピラトはイエスユダヤ人たちに引き渡す前に、兵士たちにひどく鞭打たせましたから、イエスの背中の皮膚は破れてしまい、主イエスは相当に憔悴していました。そのイエスの血まみれの背中に兵士たちは、はりつけにするための十字架を背負わせます。十字架を担う主イエスは、エルサレム城外のゴルゴタの丘への道を進んで行かれます。石畳の、両側に家並みが迫るだらだらとした坂道です。一歩一歩進んでゆく道の両側に、野次馬がずらりと並んでいて罵声を浴びせかけます。過越しの祭りの時期ですから、エルサレムには人があふれていました。

 その野次馬の中にクレネ、北アフリカリビアから、やってきた1人の巡礼がいました。彼の名はシモン。彼はエルサレム神殿に詣でるために、一張羅に着替えて神殿に向かおうとしていたのです。ところが、ゴルゴタに引かれていく囚人たちが通る道のところで足止めになっていたのでしょう。すると、シモンの前に十字架を背負った囚人があえぎながら歩いてきたのですが、その男だけは頭に荊の冠をかぶせられています。そして、彼の目の前まで来るとけつまずいて倒れ、重い十字架がドスンとその囚人の上に落ちたのです。ローマ兵がその囚人に駆け寄って「立て!立ち上がれ!」と罵り、群衆たちがも嘲りますが、どうしても立ち上がることができません。ローマ兵はあたりをぐるりと見回すと、気の毒そうに眺めているシモンを指差すと命じました。

「おい。お前が、イエスの十字架を運んでやれ!」

 シモンはいやでした。しかし、ローマ兵たちに無理やりにイエスの十字架を背負わされてしまいます。

  15:21 そこへ、アレキサンデルとルポスとの父で、シモンというクレネ人が、いなかから出て来て通りかかったので、彼らはイエスの十字架を、むりやりに彼に背負わせた。

 シモンは決して自ら進んでではなく、いやいやイエスの十字架を処刑場にまで運ぶ役を担うことになったのでした。ずっしりと背中に負わせられた血まみれの十字架に、せっかくの晴れ着もイエスの血にまみれてしまいました。周りの人々はシモンのことを、間抜けな野郎だなあと気の毒そうに見ています。シモンは泣き出したい気持ちだったでしょう。けれども、前を一歩一歩進んでいく主イエスの背中を見ながら、彼はゴルゴタへと向かって行ったのでした。

 

(2)クレネ人シモンのその後

 不思議なことは、イエス様の十字架を背負ってゴルゴタまで運んだ、こんな名もないような人の名が、福音書記者によって、きちんと「クレネ人シモン」と記録されているという事実です。この事実は何を意味しているのでしょうか?少し考えれば、わかることですが、後日、クレネ人シモンという名が初代教会の中でよく知られる名前となっていたことを意味しています。つまり、シモンは後日初代教会のメンバーとなって、教会の集いの中で、「実は、おいらがイエス様の十字架をゴルゴタまで背負って、お手伝いをしたんだよ。」と証しをすることがあったのでしょう。初代教会では、「クレネ人シモンさん」といえば、イエス様の十字架を背負った男、ということでした。

  マルコ15:21の紹介を見ると、「そこへ、アレキサンデルとルポスとの父」とあります。

アレキサンデルとルポスという兄弟が初代教会の名の知れたメンバーだったからです。ルポスという名は、使徒パウロがローマ教会に宛てた手紙の中に登場します。そこでは「主にあって選ばれた人ルポスによろしく、また彼と私との母によろしく」(ローマ16:13)とあります。このところを見ると、使徒パウロは巡回伝道においてルポスのお母さんにずいぶん世話になっていて、ルポスとは兄弟のように親しい間柄になっていたことがわかります。

 さらに、アフリカ・リビアのクレネ出身のシモンらしき初代教会の人物をさがすと、その名はまず使徒の働き13章1節に見えます。

13:1 さて、アンテオケには、そこにある教会に、バルナバニゲルと呼ばれるシメオン、クレネ人ルキオ、国主ヘロデの乳兄弟マナエン、サウロなどという預言者や教師がいた。

 「ニゲルと呼ばれるシメオン」と呼ばれている人です。ニゲルというのはギリシャ語で「黒い」という意味ですから、アフリカ・リビア出身のシモンの肌が黒かったという意味でしょう。彼はアンテオケ教会における指導者の1人になっていたということがうかがえます。

 こうしてみると、無理やりに主イエスの十字架を負わされたシモンでしたが、この主イエスとの出会いから、彼はキリストへの信仰を与えられ、さらにその信仰は妻に、息子のアレクサンデルとルポスにも伝えられたことがわかります。彼らはみな初代キリスト教会において、一生懸命に福音の宣教のために献身的に協力する人々となっていったことがわかります。シモンが泣きながらでも十字架を背負ってイエス様について行ったことは、実は、シモンに与えられた神の恵みだったのです。

 

結び  三つのことをまとめます。

 第一。主イエスは荊の冠をかぶる王でした。その姿は表面的には惨めさのきわみでした。しかし、主イエスこそは自由な精神をもった王でした。罵られても罵り返さず、憎まれても愛し、悪に対して善を報いることがおできになったことは、主イエスがまことに気高い自由な精神の王だったことの証です。主イエスは気高い自由な王でしたから、相手が悪をなしても、善を報いることができたのです。

 

 第二。クレネ人シモンは、最初は無理やりに十字架を背負わされました。けれども、ゴルゴタに向かって一歩一歩踏みしめて行かれる血まみれの背中を見ながらついて行き、十字架の上で「父よ、彼らを赦してください」と敵を赦す祈る主イエスの声を聞いたとき、「このお方は神の御子だ」とわかったのです。そして、その信仰は妻へ、息子たちへと受け継がれ、シモンの家族は、主の十字架の福音のために奉仕をする祝福された家族となっていったのです。十字架を背負う恵みです。

 

 第三に私たちの贖罪的生き方、十字架を背負う生き方について。私たちの罪を背負って十字架に死に、私たちを神の前にゆるすことのできるお方は、むろん、神の御子であるイエス様だけです。しかし、イエス様を信じる私たちに、主イエスはおっしゃいます。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負い、そしてわたしについて来なさい。自分のいのちを救おうと思う者は、それを失い、わたしのために自分のいのちを失う者は、それを救うのです。」(ルカ9:23,24)主は、私たちにも十字架を背負ってついてきなさいとおっしゃいます。そこにいのちがある、と。

 先週の北海道の牧師研修会で教わったばかりですが、賀川豊彦はイエス様とイエス様にしたがう人のことを、「人格的白血球運動者」と呼びました。白血球というのは、体の中に入り込んだ病原菌を自分が引き受けることによって、からだ全体を病から救う働きをしています。そのように、賀川さんは世の罪をわがこととして引き受けることによって、世界に光をもたらしました。また、やなせたかしさんもまたアンパンマンに贖罪的な生き方を表現しました。アンパンマンは、おなかがすいて弱っている者のために自分の頭をちぎって食べさせてあげます。また、人が捨てたゴミを自分のゴミとして拾う生き方です。人の迷惑をイエス様の愛によって喜んで引き受けることによって、暗い世の中を明るくし、汚れた世の中をきれいにしていく。それが贖罪的な生き方であり、そういう生き方をするキリスト者のまわりに神の国が広がっていくのです。

 

新聖歌445

「重くともなれが十字架 担い行け笑みもて

 試みにあいし人々 助けうる時あらん

*笑みをたたえて 感謝 抱きて

 十字架を担え 神より報いをば受くべし」