水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

主とくびきをともにする

マタイ11:28-30

            主とくびきをともにする

 

 11:28 すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。

 

1 人生の重荷 

(1)生活上の重荷

 「人の一生は重荷を負うて、遠き道を行くがごとし 急ぐべからず」と苦労人の家康が言ったように、人生に重荷はつきものです。私たちは職場において、家庭において、あるいは学校で、地域社会において、それぞれ重荷があります。そうした荷物をしっかりとかついて歩んでいくのが人生であるというのはそのとおりでしょう。私たちにはそれぞれ自分で負うべき重荷というものがあるものです(ガラテヤ6:5)。

ですが、ここでイエス様がおっしゃる「疲れた人」はもうくたびれてしまった人、疲れ果ててしまった、燃え尽きてしまった人です。あまりにも荷が重すぎて、それに押しつぶされてしまいそうな人、押しつぶされてしまった人です。職場の人間関係が重荷で苦しんでいる人がいます。負いきれない責任を負わされて体や心を病んでしまう人がふえています。家庭内のいざこざに悩んでいて、仕事から帰っても家の窓の光が見えてくると、安心よりも恐れがわいてくるような人もいるでしょう。

世間では、赤提灯や怪しげなネオンサインは「あなたを休ませてあげるわよ」とか言ってくれて、それは一時的には重荷を忘れさせてくれるのでしょう。しかし、それはどこまでも一時的なものですし、深入りすると体を壊したり、家庭不和を助長してしまったりもします。

 イエス様は、「わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」とおっしゃいます。具体的にはどうすればよいのでしょう。部屋の中で、あるいは車の中で、あるいは散歩道で、一人になって声に出してイエス様に、あなたの思いのたけをことごとく、ありのままにお話しすることです。格式ばったお祈りである必要はありません。

「イエス様、きょう私は職場でこんなことがありました。上司の誰それに、こんな嫌味を言われて・・・・もうくたびれてしまいました。あなたに重荷をおゆだねします。」と、あるいは、「イエス様、学校でA君がわたしのことを・・・・」と始めればよいのです。始まりはそうであっても、祈りというのは御霊に導かれて、やがて神様を知り、みこころに迫っていき、そうすると肩の荷が軽くなるのです。 

 そのように、心を開いてありのままを声に出してお話しして、重荷を解き下ろしましょう。そうすると、魂に平安が訪れます。経験的に言って、声に出して祈るのがいいと思います。声に出さないでぶつぶつ言っていると、えてして祈っているのか、それとも単なる思い煩いに満ちた独りごとを言っているのかわからなくなってしまいがちだからです。声に出して主に向かって、格好をつけず、ありのままにお話しすることがたいせつです。

「何も思い煩わないで、あらゆるばあいに、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知っていただきなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます。(ピリピ4:6-7)

 それがむずかしいときには、詩篇を声に出して読むといいです。詩篇には私たちの魂の祈りがあります。心にとまった一篇を声に出して読むうちに、それがあなたの祈りになっていくでしょう。そうして、不思議な平安があなたを支配するでしょう。

 

(2)罪という重荷

 私たちが気づくべきもうひとつの重荷があります。すべての人が背負っていながら、多くの場合その重荷に気づかない深刻な重荷があります。その重荷で、実は自分が苦しんでいて、周囲の人も苦しんでいるのに、そのことがわからないことさえあります。それは自分自身の罪という重荷です。

私たちは他人の罪には気付きます。妻は夫の罪に敏感ですし、夫は妻の罪に敏感です。親は子供の罪に敏感で、子供は親の罪に敏感です。しかし、私たちは自分自身の罪には、鈍感なのです。なぜでしょうか。その<自分の罪には鈍感で、ほかの人の罪については敏感であるという、自己中心の性質>、これこそが罪の根本的な性質であるからです。

 この自己中心の罪の性質は、アダムが堕落したときから人間のなかに入ってきました。サタンが「あなたは神のようになれるのですよ」と最初の人を誘惑してアダムがその誘惑に負けて以来、人はみな本来世界の中心であるべき神様を押しのけてまで、人は自己中心・利己的にものを考えるようになってしまいました。罪には、偶像崇拝に始まり、親不孝、殺人、姦通、盗み、偽証といろいろありますが、いずれの罪の場合でも、その中心には「自己中心で、自分の都合ばかり考えている」という性質があるでしょう。こうして、アダム以来、私たちはお互いを傷つけ合い、苦しめあって生きるようになってしまっています。この世の不幸のすべてではありませんが、その多くの部分は私たちの罪が原因となっています。

 罪はこの世の対人関係において私たちを苦しめるだけではありません。罪が、何よりも恐ろしいのは神との関係を破壊してしまうからです。罪を抱え、罪にしがみついているならば、私たちは神様の前で平安を失ってしまいます。「悪者は負う者もいないのに逃げる」と箴言28:1にあるように。そして最終的には、病気や貧困や仕事の失敗は人を燃えるゲヘナに陥れることはありません。しかし、罪は人をゲヘナに陥れる恐るべき致命的な重荷です。

 けれども、イエス様は、「その最も恐るべき私たちの罪の重荷をもみもとに下すがよい」とおっしゃってくださいます。「そのために、私は来たのだ」と。

あの人、この人の罪を言い立てるのをやめて、神様の前で自分自身を振り返り、ほかならぬ私が罪を背負っている事実を認めて、イエス様の前に自分の罪の重荷を下ろすのです。そうして、「イエス様、申し訳ありませんが、この私の罪を引き受けてください」と申し上げましょう。イエス様は、ほかでもない、あなたの罪を十字架で背負うために来てくださいました。主の前に、罪の重荷を下したら、神からの平安が、あなたの魂を支配するでしょう。神様は主イエスに身を避けるあなたに、「あなたを赦そう。あなたを義とした」と宣言してくださるのです。

 

2.主のくびきを負いなさい

 

 さて、主のみもとに人生の重荷、罪の重荷を下して、ああこれで楽になったで終わりではありません。その平安を持続する生き方があるのです。どういうふうに生きていくのか。

 11:29 わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。

 11:30 わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」

 

 たましいの安らぎの秘訣は、イエス様の「くびきを負う」ことです。くびきというのは、牛や馬がくびに付ける、あの道具です。頸引きが縮まって「くびき」というようになりました。二頭の牛が並んで荷車を引こうとすれば、歩調が合っていなければなりませんから、首のところにくびきを付けるのです。主イエスが、「わたしのくびきを負いなさい」とおっしゃるのには、三つの面があります。

 

(1)人生の同伴者

エス様とくびきを共にするということばのひとつの意味は、イエス様が人生の同伴者となってくださるという約束です。「これまで君はひとりで頑張ってきただろうけれど、これからは、わたしと一緒に生きていこうではないか」とおっしゃるのです。

ひとりぼっちで頑張っているのはたいへんしんどいことです。友達がいるというのはありがたいことです。でも、どんな友だちでも夫婦でも話せないこと、話してはいけないことがあるでしょう。

ですが、もともと私たち人間をご自分の似姿として造ってくださったお方、また、世界の歴史をご支配なさっているお方、また、私たちを愛してご自分のいのちをも惜しまなかったお方、復活して永遠の生命を保証してくださっているお方が、「きみの人生の同伴者はわたしだ」と言ってくださるのです。なんとありがたく、力強い励ましでしょうか。

「イエス様、今日から私もあなたのくびきを負います、どうぞ負わせてください」と祈りましょう。

 

(2)イエス様の御心に生きる

エス様とくびきを共にするということの二つ目の意味は、キリスト者として私たちは、以前のようにもう自分の生きたいように生きるのではなく、イエス様の御心を自分の道として選びとって生きていくのだということです。世間では「自己実現」ということばが流行っていますが、「みこころの実現」のために生きてこそキリスト者です。だから、私たちは「みこころの天に成るごとく、地にもなさせたまえ」と今日も祈りました。

そして、自己実現ではなく、みこころの実現にこそ、安らぎがあるということです。そして自由もあるのです。なぜか?私たちは自分のことを知らずに暴走しますが、主イエスは私たち一人一人のことを最もよくご存じで、私たちにそれぞれに最もふさわしい道を用意していてくださるからです。

「これまで君は、自分の人生を自分のものだと思い込んで、好きな方向に進んで行っては、あっちにぶつかり、こっちにぶつかって苦しんできただろうけれど、これからはわたしとともに人生の行路を行くのだ」とおっしゃるのです。

 

(3)主の平安を分けていただく

主イエスとともに生きているならば、私たちは主の平安を分けていただくことができます。嵐のガリラヤ湖の小舟のなかでも主イエスはぐっすりと眠っていました。それは禅僧のような半分死んだ状態に自分の意識をコントロールすることによる平安ではなく、全能の父なる神の愛のなかに守られているという事実からくる平安です。私たちは主の御手のなかにあるのですから、泣くべき時に泣き、うれしい時には笑い、いかるべき時には怒ってよいのです。天の父の力強くやさしい御手のなかでのことです。

その平安があるとき、主イエスのようにやさしくへりくだっていることになります。強がる必要がないからです。

 

むすび

 人生は重き荷を負ってとおき道をゆくがごとしです。しかし、私たちは、罪の重荷を十字架の主イエスのもとに下して、自分勝手に生きた人生を捨てて、主イエスのくださったくびきを負って神のみこころの実現のために、自分の人生をたどっていくことが許され期待されています。なんと幸いなことでしょうか。それ栄光の御国につながる人生です。