Miz牧師の説教庫

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十字架の意味

ローマ3:19-30                                                       

                                        十字架の意味

         2017年10月22日 苫小牧福音教会 

 

 3:19 さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。

 3:20 なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。

  3:21 しかし、今は、律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。

 3:22 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。

 3:23 すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、

 3:24 ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。

 3:25 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。

 3:26 それは、今の時にご自身の義を現すためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。 ( ローマ3:19-26)

 

 

はじめに

  以前、「十字架はもともと何の道具かわかりますか?」教会にまだ来たこともないカップルに質問すると、女性は「アクセサリー、胸にかざるペンダント」、また、男性は「ドラキュラ除け」とかいう答えをいただいたことがあります。でも、たしかに最近はクリスチャンでなくても、十字架のペンダントを胸につけている人や、イヤリングとして十字架をつけている人が結構いるものです。そういうアクセサリーにするといえば、普通は美しいもの、かわいらしいものでしょう。ところが、十字架というものは、本来は恐ろしいもの、忌まわしい道具でした。何しろ、十字架はローマ帝国の時代、極悪人を死刑にするための道具、処刑具でしたから。十字架は、ギロチンとか電気椅子とか絞首刑の縄というのと同じ類のものなのです。そんなものをアクセサリーにするのは、よほど悪趣味な人でしょう。

 けれども、十字架は二千年前に、イエス・キリストが十字架にかかられたとき以来、美しいもの、神が私たちに注いでいらっしゃる愛のシンボルとなりました。 2000年前、イエス・キリストエルサレムゴルゴタの丘の上で十字架刑になりました。しかし、その日から数えて三日目の未明、イエスは復活されたのです。本日は、このキリストの十字架の意味についてお話します。

 

1.律法とその役割…私たちに罪を自覚させる

 

 まず19節と20節。

 

3:19 さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。 3:20 なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。

 

 

 万物の創造主である神は、法をもって世界を治めていらっしゃいます。今朝もまちがいなく太陽が昇り朝がやってきたのは、神様が宇宙を万有引力の法則や慣性の法則といった物理で支配しているからです。神様は人間の生き方についても法を定めていらっしゃいます。それを律法といいますが、エッセンスは十戒にまとめられています。

 第一「あなたにはわたしのほかにほかの神々があってはならない。」

第二「あなたは、自分のために、偶像を作ってはならない。・・・それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。」創造主以外のもろもろの偶像を拝んだことが一度でもある人は、有罪です。

 第三「あなたは、あなたの神、主の御名をみだりにとなえてはならない。」神様の名は恐れを愛をもって口にしなさいということです。神を馬鹿にしたようなことばを使ったことのある人は有罪です。

 第四「安息日を覚えてこれを聖なる日とせよ。」安息日は、神様をあがめ隣人愛を表す日です。神を無視して仕事や自分の快楽のために用いたならば、有罪です。

 

 以上が、世界と人間の造り主に対する人間の義務を表した律法です。アメリカで車で左を走って警察につかまったら「そんな法律知らなかった」ではすまないでしょう。神様が造ったこの世界に住まわせてもらっていて「そんな律法知らなかった」ではすみません。・・では、後半はどうでしょうか。

 

 第五「あなたの父母を敬え。」あなたはいまだかつてお父さん、お母さんを侮辱することばを吐いたことはありませんか。一度でもあれば、あなたは神の御前に有罪です。

 第六「殺してはならない。」心の中を御覧になる神は、あなたの心の中のひそかな殺意をも殺人とみなされます。「あんな人死んでしまえばいいのに」と一度でもつぶやいたなら、あなたは神様の前では殺人者です。

 第七「姦淫してはならない。」結婚関係外で性的快楽を求めてはいけないということです。しかも心の中をご覧になる神様の前で、です。「情欲をもって女を見る者は、すでに姦淫を犯したのです。」とイエス様はおっしゃいました。

 第八「盗んではならない。」。「10万円盗んではならない」とも「100円盗んではならない」とはありません。ただ「盗んではならない」とあります。10万円でも100円でも神様の前では泥棒です。ニュースである鉄道会社の悩みを聞きました。入場券の回収率が30パーセントくらいしかないという悩みです。あとの70パーセントくらいはキセル乗車に使われているらしいというのです。

 第九「偽証してはならない。」嘘をついてはいけないことは誰でも知っています。では、生まれてこの方一度も嘘をついたことのない人は、ここにいますか?

 第十「あなたの隣人の家を欲しがってはならない。」この律法は、神がただ単に外側に現れた行動だけを戒めるものではなく、心の思いを御覧になっているということを示しています。隣人の家、財産、奥さんを欲しがるとは、不当な欲望です。心の中で友達の幸福をねたむ心を起こすならば、その人は神様の前に有罪です。

 さて、いかがでしょうか。この律法に照らして、あなたは「私は無罪です」と言えるでしょうか?いないでしょう。19、20節に言う通りです。

3:19 さて、私たちは、律法の言うことはみな、律法の下にある人々に対して言われていることを知っています。それは、すべての口がふさがれて、全世界が神のさばきに服するためです。 3:20 なぜなら、律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められないからです。律法によっては、かえって罪の意識が生じるのです。

  あなた自身はどうでしょうか。

 私たちが、本日の聖書箇所から教えられる第一のポイントは、私たちは神様の基準である律法に照らすと、まちがいなく有罪であるということです。

                                                                                  

2.キリストが差し出す義(21、22節)                                        

 

 第二の点に移ります。21節です。

 

(1)贈り物としての義=キリスト

 「しかし、今は律法とは別に、しかも律法と預言者によってあかしされて、神の義が示されました。」

 「今は」というのは「キリストが二千年前に来られて以降の時代は」という意味です。「律法と預言者」というのは旧約聖書の当時の呼び名です。「キリスト後の時代は、十戒とは別に、しかも旧約聖書によって予告されて、神の義が示された」というのです。

 「神の義」とは何か?といえば、それは神とあなたの間の正常な関係ということです。言い換えると、神様から「あなたは正しい。無罪だ。」と言っていただける関係です。今日、死んで、神の法廷に引き出されて「あなたは無罪放免だ」と宣言していただける確信があるでしょうか。十戒に照らすと、到底、そんな宣言は期待できないのが私たちです。

 しかし、です。今の時代、キリストの時代は、それが可能となりました。キリストが、神の義をあなたのために用意してくださいました。

22節「すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。」

 「与えられ」とあるでしょう。イエス様が私たちに差し出していらっしゃるのは義というのは、「キリストを信じるすべての人」に与えられる、ギフトです。あの数々の律法を自分で百パーセントまもって買い取る義ではなくて、贈り物としての義なのです。 「ただ、神の恵みにより」「価なしに」(24)とあるのはその意味です。働きがあるものが受ける祝福は、恵みではなくて報酬です。何の働きもないものが受ける祝福が恵みです。私たちは律法を守れていないのに、神様は、一方的な愛をもって祝福をくださるので、恵みなのです。「価なしに」というのは代金を払わないで、ということです。プレゼントを受け取るのに代金を支払う人はいません。

 今日の大事な点の二つ目。キリストは私たちに贈り物として、神の義をくださった。贈り物として、神様との正常な関係をあなたに「さあどうぞ。受け取りなさい。」差し出してくださっているということです。

 

 

(2)義とする根拠

 しかし、正義の審判者である神様が私たちを義と宣言するには根拠が必要です。神様は正しい裁判官でご自分た立てた法をきちんと守るお方ですから、ことをウヤムヤにして「まあいいや。俺が赦す。君は正しいよ。」なんていいかげんなことはなさいません。神様は法をもってこの宇宙を治めていらっしゃるのです。もし、神ご自身が法を好き勝手に破ったりしたら、この宇宙は壊れてしまいます。

 この世界のありさまを見ていて、「こんなに罪が放置されているのだから、神はいない。いたとしても、その神は正義の神ではない。」という風にいう人がいます。聖書の答えを言えば、それは神が忍耐しておられるのです。もし神が忍耐してくださらなければ、そのように神を非難している人自身も罪に定められ地獄に落とされるところです。

 しかし、神様はついにこの歴史の中で、ご自身の正義を証明し、同時に、キリストを信じる者を義と宣言する準備をなしとげられました。それが、イエス様の十字架と復活の出来事です。

 3:25 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。

 3:26 それは、今の時にご自身の義を現すためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。

  神様は、神の律法を破ることに対して正当な償いを要求されます。その要求を、神の御子イエス様が満たされたのです。それは2つの方法によります。愛の完全なご生涯と十字架の死と復活によってです。神の正しさは、宇宙全体よりも価値ある御子による償いを要求するほどに完全なものであることが、証明されました。

 イエス様はそのご生涯にわたって、神様が求められた完全な愛の生き方を実行されたことによります。イエス様はその愛のご生涯において、一度も偶像崇拝せず、一度も主の名をみだりに唱えることなく、安息日を正しく守り、父母を敬い、人に殺意を持つこともなく、みだらな思いを持つこともなく、嘘をつくこともなく、隣人をねたむこともありませんでした。かえって、神を全身全霊をもって愛し、隣人を自分自身を愛するように愛するという完全なご生涯を送られました。三年間、イエスさまと寝食をともにしたペテロは、「キリストは罪を犯したことがなく、その口になんの偽りも見いだされませんでした」と証言しています。

 イエス様が私たちのために贖い(身受け金)を用意されたもう一つの方法は、あの十字架にかかって死ぬんことによってでした。「罪から来る報酬は死である」と聖書に定められています。神様の前で、罪は死をもって償わねばならないのです。私たちは自分自身が罪がありますから、私が十字架にかかってもそれは私自身の罪の報酬にしかなりません。しかし、尊い神の御子であるお方が、ほんとうの人となって私たちの身代わりとなってあの十字架において私たちが神様の前に受けるべき罰を受けてくださいました。このことによって、イエス様は私たちのために贖いを用意してくださいました。

 イエス様はこのように、完全な愛のご生涯と十字架における罪の償いとによって、私たちを身受けする用意をしてくださったのです。律法は私たちに正しく生きる道を教えています。私たちはそれを正しく守るどころか、破ってしまいました。そこで、イエス様は、完全な愛の生涯を送り、私たちが破ったために受けなければならない罰はすべてご自分があの十字架の死において代わりに引き受けてくださいました。イエス様は、私たちが受けるべき罰を受け、かつ、私たちが実行しなければならなかった神への愛と隣人への愛の律法を完全に果たされました。

 このイエス様のうちにある義を根拠として、神様は私たちを義と認めて下さるのです。

 

 3 信仰によって受け取る(27-30節)

 

 第三点に移ります。それは、どのようにしたら私たちはイエス様の贈り物としての義をいただくことができるのでしょう。神様の前に罪ゆるされて平和なこころで生きていけるのでしょう。また、死後は地獄でなく天国に行けるのでしょう?それは、イエス様を信じる信仰という空っぽの手を差し出すことによってです。このように書いてあるからです。 

 3:22 すなわち、イエス・キリストを信じる信仰による神の義であって、それはすべての信じる人に与えられ、何の差別もありません。

 「ただ信ぜよ。ただ信ぜよ。信じる者はたれも皆救われん。」です。私はかつてクリスチャンになる前にこの歌を聞いて、「なんという無責任な歌だろう」と腹立たしく思ったものでした。実際、この言葉は、救われる者には恵みの言葉ですが、滅びに至る人には抵抗を感じさせることばなのです。なぜでしょう。「信じるだけで救われる」ということばは、人間としてのの誇りやプライドを傷つけるからです。それは「お前は乞食だ。自分じゃなにもできないよ。乞食なら、乞食らしく、『神様お恵み下さい。神様あわれんでください。』と言いなさい。」と聞こえるからです。

 実際、聞こえるだけではなく、事実、そう言っているのです。「そんなみじめったらしいことできるか!私には私の正義がある、私には私の生き方がある。私には私のプライドがある。」と反発するのです。

 しかし、神様の御前にあっては、人は感謝し、へりくだって生きることこそふさわしいのです。神様の御前には、私たちは乞食です。いったい、私たちの持っているもので、神様にもらわなかったものがなにかひとつでもあるというのでしょうか。私たちが何か善い行いをできたとしたら、それはすべて神様からいただいたものです。神にもらわなかったものは罪だけです。・・・ならば、どうして誇るのでしょうか。

 神様はこの誇りを打ち砕くために、律法の行いにはよらず信仰による、恵みの救いを用意なさったのです。律法を行うことによって獲得しようとする義は、この誇りという壁にぶち当たるのです。律法を行うことによって義を得ようとすると、人は「私はこんなに立派な人間になった。」と思います。そのような思い上がりこそ、実は、神様の最も忌み嫌われる罪です。ですから、神様はこの救いを、ただ恵みによって、無代無償で与えようとおっしゃいます。

 私の父は、洗礼準備をしているとき、私に言いました。「お父ちゃんは、もうちょっと正しく生きられるようになってから、洗礼受けようかなと思う。」と。私は聞きました。「じゃあ、いつになったら正しい生き方ができるようになるの?」そうしたら、「そやなあ。そんなこと言っていたら、いつまでも洗礼は受けられへんな。」そして父と母はそろって洗礼を受けました。父が50歳、母は49歳でした。

  行いによらずただ信仰によって義とされるという真理は、自分は弱い罪人であると自覚する人にとっては希望です。それと同時に、信仰義認の真理は、「神なしでも自分なりに立派に生きていける」という誇りを持つ人間には狭き門なのです。

 

結び

  あなたは、神様の律法に照らしたとき、自分には罪があるなあ、自分は罪人だなあということを認めるようになりましたか。

 イエス様は、完全な愛の生涯と、十字架における罪の償いを根拠として、私たちに、神様の前の赦し、義の宣告をプレゼントしてくださいました。私たちがこのプレゼントを受け取るために必要なことは、二つです。第一に「神様、私はあなたの御前に罪人です。」と認めること、第二に「イエス様を信じます。」と告白することです。

 

 「神へのいけにえは砕かれた心、砕かれた悔いた魂。

神よ。あなたはそれをさげすまれません。」詩編51編20節