Miz牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

羊は散らされた

マルコ14:43-52

 

1 ユダの裏切り・・・悪魔の影

 

 ゲツセマネのオリーブの林には、満月の光が煌々と満ちていました。主イエスは三時間にもわたる激しい祈りが終わり、苦き杯を飲めという父のみこころを確信なさり、眠っている弟子たちを起こしました。と、主イエスの目に、オリーブの木々の黒い影の向こうから多くのたいまつが近づいてくるのが映りました。主イエスを逮捕するために、祭司長が遣わした者たちです。主イエスは落ち着いていらっしゃいますが、眠い目をこすっていた三人の弟子たちは、電流に撃たれたようになりました。祭司長の手の者たちは、剣や棍棒をもって近づきます。見ると、その先頭に暗い表情のユダが立っています。ユダは、大祭司の手の者たちを手引きして来たのです。

 14:43 そしてすぐ、イエスがまだ話しておられるうちに、十二弟子のひとりのユダが現れた。剣や棒を手にした群衆もいっしょであった。群衆はみな、祭司長、律法学者、長老たちから差し向けられたものであった。

 満月とはいっても夜は夜、イエスをほかの弟子と取り違えて逃がしてはならないということで、ユダは祭司長の手の者たちと打合せをして合図を決めていました。その合図は接吻でした。これは、当時のユダヤ社会で、弟子が師に対する格別な親愛を示す表現でした。

 14:44 イエスを裏切る者は、彼らと前もって次のような合図を決めておいた。「私が口づけをするのが、その人だ。その人をつかまえて、しっかりと引いて行くのだ。」

 14:45 それで、彼はやって来るとすぐに、イエスに近寄って、「先生」と言って、口づけした。 14:46 すると人々は、イエスに手をかけて捕らえた。

 

 まだしも、「こいつがイエスだ。捕まえろ」と指さし叫ぶならば、わかりやすいのですが、ユダは、「先生お元気で」とにっこりして接吻をして、イエスを敵に渡したのでした。師に対する尊敬、親愛を表現する口づけを、あえて裏切りの合図に選んだユダに、イエスに対する深い悪意と憎しみを感じます。悪魔の影がのぞいています。不気味です。

 

 イスカリオテ・ユダの心の闇の深さに私たちは戦慄を覚えます。ユダがなぜイエスを裏切ったのかという謎については、昔から皆がいろいろな推測をしています。近代になってからは特に人間主義の影響で、ユダに同情的な解釈がされる傾向があり、キリスト伝の小説や映画などでされるのが流行のようになっています。ユダはイエスダビデのような英雄として立つべきなのに、もたもたしているから、決起を促すためにこうしたのだという説。ユダは、イエスを愛の教師と思っていたが、自分に対するマリヤのむだな香油注ぎについては受け入れた自己愛の矛盾に腹を立てたのだという説などいろいろと、あります。

 しかし、聖書自体はユダの裏切りについて同情的なことを述べてはいません。ユダは弟子団のお金を着服していた。マリヤの主へのささげものについて「ああもったいない」と非難したとか、主イエスを銀貨30枚で売ったとか、イエスを裏切るときには口付けをもってしたとか、最後には悔い改めることもせずに首をくくって死んだとか、その死体は落ちてはらわたが飛び出てしまったいう具合です。 私たちとしては、人間に取り入るような流行の解釈に耳を傾けるよりも、聖書が語ることに耳傾けるのが賢明です。ユダの裏切りいんは、なにか高尚な理由があったとは教えていません。ユダには金銭のむさぼりの問題があり、それを見透かされた腹いせなのか、敵に主イエスを銀貨30枚で売ったというだけです。

 並行記事には、そんなユダに、主イエスは「友よ。何をしに来たのか。」と声をおかけになったと記されています。最後の悔い改めの機会を、主イエスはユダに与えたのです。しかし、ユダが固く心閉ざしたままでした。そのあと、後悔はしながらも悔い改めることなく、こころ閉ざしたまま首をくくって自殺してしまいました。悲惨です。

 

 私たちは妙にユダに同情するのでなく、神の前に恐れおののきつつ、「どうぞ私が生涯イエス様を憎んだり、裏切ったりすることがないように、私の心を悪魔から守ってください」と祈るのが賢明です。

 

2 聖書のことばが実現するために

 

 さて、ユダの合図にしたがって、大祭司のしもべがイエスに手をかけるや否や、イエスのそばに立っていた弟子のひとりが、剣(マカイラ)を抜いてしもべの脳天に振り下ろしました。しかし、しもべがさっとよけたので、ズバッと耳が切り落とされてしまいます。

 14:47 そのとき、イエスのそばに立っていたひとりが、剣を抜いて大祭司のしもべに撃ちかかり、その耳を切り落とした。

 なぜ弟子は剣など持っていたのでしょう。ここで剣と訳されているマカイラというものは野宿などで用いるナイフ・小刀のことです。戦争に用いられる長い剣はロムファイアと呼ばれる別ものです。弟子団は折々は野宿もしなければならなかったので、マカイラを持ち合わせていました。「ナイフならここに二丁ありますよ」と報告した記事があります。

 ヨハネによる並行記事によれば、斬りかかったのはペテロ、耳を切り落とされたのは大祭司のしもべマルコスでした。いかにも血気にはやるペテロらしい。大祭司のしもべにすぎないマルコスの名が特筆されているのは、おそらく後日、彼が初代教会のメンバーになったからでしょう。「あの夜中、俺は祭司長のしもべでイエス様をとっつかまえに行ったんだけれど、あんときはペテロさんに耳を切り落とされちまった。そりゃあ痛いのなんのって。でも、すぐにイエス様は俺の耳をさわって、新しく耳をつくってくださっただよ。」と証言したのでしょう。ペテロは「やあ、おれは気が短くってねえ。」と頭をかいたでしょう。

 ペテロは、ここで主イエスといっしょに討ち死にすればよいと脳天に血が上りました。ペテロだけではありません。ほかの弟子たちにだって、こういう勇ましいかたちでならば、主イエスのために命を捨てる覚悟はできていたでしょう。けれども、主イエスは慌てず騒がずにおっしゃったのです。

 14:48 「まるで強盗にでも向かうように、剣や棒を持ってわたしを捕らえに来たのですか。 14:49 わたしは毎日、宮であなたがたといっしょにいて、教えていたのに、あなたがたは、わたしを捕らえなかったのです。しかし、こうなったのは聖書のことばが実現するためです。」

 大事なことばは最後の一節「しかし、こうなったのは聖書のことばが実現するためです。」

です。主イエスは、自分が、暗黒裁判にかけられ、鞭うたれ、裸にされて十字架にくぎ付けにされ、辱めと怒号のうちに処刑されるために、今、こうして祭司長の手の者に捕縛されるのは、旧約聖書に預言されていることなのだ。父なる神のご計画が、今ここに成就しようとしているのだというのです。

 三時間ほど前には「できることなら、この杯をわたしからとりのけてください。しかし、わたしの願いでなく、あなたのおこころの通りをなさってください」と祈られた主イエスでした。そして、ご自分が受難の道、十字架への道を歩むことは、罪ある人間たちの救いのためであり、それが父のみこころであるということがはっきりとわかって、主イエスは祈りの場から立ち上がったのです。だから、慌てることはない。「みこころの天になるごとく、地にもならせたまえ」だ、ということです。父の心が地に成ることこそ、御子イエスの望みです。父の意志と、ご自分の意志とがピタリと一つになっているので、イエスはもはや揺るぐことがありません。御心を悟り、御心に生きる者のみが知るたましいの平安です。

 

 神のみこころをよそにおいて、自分の願いに固執しているかぎり、私たちは決してたましいの平安を得ることができません。自分のたましいを注ぎだして祈り、そして、自分の握りしめている手を神の前に開いておゆだねするときに、私たちは主が経験されたのと同じ平安を得ます。

 

  • 裸の青年

 

 イエスが剣を振り上げて戦うおつもりはないことを知った弟子たちは、イエスを見捨てて逃げてしまいます。

 14:50 すると、みながイエスを見捨てて、逃げてしまった。

 ペテロ、ヤコブヨハネは、勇ましく名誉の討ち死にをする程度の熱情はあったと思います。しかし、おめおめと逮捕されて、犯罪人として辱めの十字架にかけられてしまうような死に方はできなかったのでしょう。こうして、ほんの3,4時間まえ、彼らは自分が主イエスを裏切ることなどありえないと断言しましたが、主イエスが「羊は散り散りになる」とおっしゃったとおりになってしまったのでした。

 そして、マルコ伝には彼らと同じように主イエスを見捨てて裸で逃げてしまった一人の青年にかんする特ダネ記事が収められています。これは聖書記者マルコ自身のことであると考えられます。こんな出来事が実はゲツセマネの夜にあったことを知っているのは、この青年自身しかいませんから。

  14:51 ある青年が、素はだに亜麻布を一枚まとったままで、イエスについて行ったところ、人々は彼を捕らえようとした。14:52 すると、彼は亜麻布を脱ぎ捨てて、はだかで逃げた。

 過ぎ越しの祭りのとき、主イエスが弟子たちとともに食事をするために選んだのが、大きな二階部屋のある屋敷でした。この二階部屋はペンテコステの時に120名の人々が集まって祈っていた場所でもあるようです。この屋敷のボンボンが青年マルコでした。イエス様はこの屋敷の主人、マルコの父親と交流があったので、この二階部屋を借りたのでした。青年マルコは、主イエスと十二弟子たちが過ぎ越しの食事をしているのを知っていました。やがて、主イエスたちは詩篇のエジプトのハレルを歌い終わると、屋敷を出ていきました。マルコは「きっといつものように、オリーブ山のゲツセマネの園に行かれたのだろう」と思っていたでしょう。

 そのあと、マルコは水浴びでもしていたのでしょうか、それとも裸で寝る習慣だったのかもしれません、とにかく裸でおりますと、玄関の方にどやどやと人々が押し掛けてきました。しもべたち、そして父か玄関で応対しています。客は「イエスはどこにいる。ここで過ぎ越しの食事をとったことはわかっているのだ。」と怒鳴っています。やがて、ここにいないことがわかると、「きっとゲツセマネにいるはずです。イエスは毎晩、そこで祈るので」という声がします。ユダの声です。すると、人々は「ゲツセマネに行くぞ」と言って去っていきました。

 青年マルコは、着物を身に着けるいとまもなく、そこにあった亜麻布を身にまとって、ゲツセマネの園へと走ります。できれば、先についてイエス様に逃げるようにと告げるつもりだったのでしょう。しかし、到着してみると、時すでに遅く、人々はイエス様を取り囲んでいます。弟子たちは逃げてしまいました。やがてイエス様の手には縄がかけられて、連れてゆかれます。そこで、マルコは一人恐る恐るイエス様をとらえた人々の後を、暗がりに身を隠しながらついて行きました。しかし、振り返った連中に「お前はイエスの仲間だろう!」と見つけられ、亜麻布をつかまれてしまったので、それを捨ててすっ裸で逃げ出したのでした。

 

 こんな恥ずかしいことを、マルコは、あえて自分が記す福音書の中に書きとどめたのです。なぜでしょうか?

 主イエスに従おうと願っても従えず、主のためにいのちをささげますと申し上げながら、いざとなったら逃げ出してしまったような、情けない自分だけれど、主イエスは、この罪ある者をも赦してくださいました。主イエスは罪人の友です、ということを証言したかったからにほかならないでしょう。

 

結び

 「あなたとご一緒なら命も捨てます」と行った弟子たちもみな主イエスを置いて逃げてしまいました。弟子たちは、このあと、官憲が自分たちをも逮捕するのではないかと家で戸を閉め切って震えていたのです。この青年マルコも逃げ出してしまいました。

 彼らを評論家のように評論し、批難するのは簡単です。情けない人たちだ、と。けれども、自分自身が彼ら弟子たちの立場、あるいは、青年マルコの立場に置き換えてみると、「では、あなたは大丈夫なのか?」と問われていると思わざるを得ません。

 何としてもイエス様にしたがって行きたい、そう思います。そう思いますが、自信はありません。自分はペテロよりも勇敢だろうか?自分はあの青年よりも勇敢だろうか?と人間的な問いを自分に向けると、自信はありません。

 しかし、このように弱かった弟子たちも、後の日には復活の主イエスに出会って、変えられ、強くされ、それぞれ主のために命をささげて行きました。それは人間的な力ではなく、復活の主の力によったからです。自分の弱さ、臆病さ、情けなさの現実を神様の前に知ったなら、ユダのように心かたくなにしてはなりません。むしろ、「こんな弱い私ですが、それでもあなたに従って行きたいのです。どうぞ私が生涯、イエス様から離れてしまうことがないように助けてください」と祈りましょう。