Miz牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

神の目に価値あるささげ物


12:41 それから、イエス献金箱に向かってすわり、人々が献金箱へ金を投げ入れる様子を見ておられた。多くの金持ちが大金を投げ入れていた。
12:42 そこへひとりの貧しいやもめが来て、レプタ銅貨を二つ投げ入れた。それは一コドラントに当たる。
12:43 すると、イエスは弟子たちを呼び寄せて、こう言われた。「まことに、あなたがたに告げます。この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。
12:44 みなは、あり余る中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです。」
  13:1 イエスが、宮から出て行かれるとき、弟子のひとりがイエスに言った。「先生。これはまあ、何とみごとな石でしょう。何とすばらしい建物でしょう。」
13:2 すると、イエスは彼に言われた。「この大きな建物を見ているのですか。石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」

マルコ福音書14章41節から13章2節

<描写>
 場所はエルサレム神殿献金箱の前です。金持ちたちは立派な服装をして、大きな袋か銀貨やら金貨を取り出して献げています。つぎから次へと金持ちたちが献金をしています。主イエスの弟子たちは、目を丸くして、「すごいな。あの人は銀貨をあんなどっさり。」「ほれあの人は、金貨だよ。」という目で見ているのです。今でいえば、「あの紳士は五千円だぜ」「あの金持ちは万札だよ」という具合です。
 そこにひとりの貧しいやもめがきました。彼女はレプタ銅貨を財布から二つ取り出しました。レプタ銅貨は当時のユダヤ社会の最小単位の硬貨でした。「1レプタは1デナリの128分の一に相当する最小単位の銅貨」と脚注にあります。レプタ二つで160円ほどということになります。でも、これが彼女のその日の生活費の全部でした。でも、弟子たちは目を止めなかったのです。
 けれども、主イエスは、このやもめの160円ばかしの捧げ物に目を留められました。そして、金持ちたちの気前よさそうな豪勢な献金ぶりに、敬虔な人だなあと目を奪われている弟子たちを呼び寄せたのです。そしておっしゃいました。
43節


「まことにあなたがたに告げます。(たいせつなことをおっしゃるときの主イエスのいつもの前置きです)この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました。」

 弟子たちはエーッと意外そうな顔をしたでしょう。あのやもめはたった80円ばかり献金箱に入れただけですよ、金持ちたちは何万円と献金していましたよと。
 すかさず主イエスはおっしゃいました。「みなは、ありあまる中から投げ入れたのに、この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです。」

エス様の御目の前で大いなる捧げ物とはどんなものなのでしょう?


1.神は、私たちが捧げる絶対的の金額ではなく、相対的な金額をごらんになる。

 ここから献金において金額は問題ではないという人がいます。しかし、主イエスは金額を問題にしているのです。絶対的な金額ではなくではなく、相対的な金額を問題になさっているのです。言い換えると、捧げられた額ではなく、ささげたあとその人の手もとに残る額を神様はごらんになっているのです。それを知っているのは、本人と神様だけです。
 かりに毎月100万円収入のある人がささげた1万と、毎月十万円収入のある人がささげた1万円では、神様の前にまるで意味がちがいます。ところが、160円はこのやもめにとっては、その日の生活費を全部でした。十分の一でなく十分の十献金です。神は、彼女のささげ物は最大のささげものだとごらんになりました。
 人はうわべを見るのですが、主は私たちの心を御覧になるのです。


2.神は、その捧げる人の心のなかの神への愛と献身をごらんになる

 なぜ彼女は、自分の生活費全部ささげてしまったのでしょうか?それは、彼女としてはささげないではいられなかったからでしょう。何か身辺に嬉しいことが特にあったのでしょうか。それとも、いつものように礼拝に訪れ、賛美と祈りをささげてみことばの朗読を聞いていたら、心が感謝にあふれて、ささげないではいられなかったのです。
 神はなぜ、捧げられた絶対的な金額ではなく捧げる人の財布の中身の相対的な金額をごらんになるのでしょうか。それは、そこにこそ捧げる人の、神様に対する愛と献身が表現されるからです。献金は私たちの神様に対する愛と献身の表現なのです。神様を多く愛する人は多く捧げるし、神様を愛する愛のとぼしい人はとぼしく捧げます。ありあまるなかからの、痛みを伴わない献金献金ではありません。しかし、痛いだけで感謝がなければそれも献金ではありません。ただの苦行です。「感謝と痛みをともなう」ということが、神への捧げ物としてふさわしい額です。
 このやもめは、ほんとうに神様を愛していました。神様に感謝したかった。だから、彼女は生活費の全部までもささげないではいられなかったのです。かりにその晩、食べるものがなくても、彼女は捧げないではいられなかったのでしょう。しかし、神は彼女にきちんと十分な糧をご用意くださったでしょう。


3.神の目に大いなるもの

 弟子たちはイエス様のお言葉に、「そういうもんかねえ。」「なるほどねえ」とうなずきながらイエス様にともなって神殿を出ていきます。この神殿は、ヘロデ神殿と呼ばれるものでした。この神殿について当時のユダヤ人の歴史家ヨセフスは次のように語っています。「ヘロデは治世第十五年に神殿を修復すると共に、周囲に新しい石垣をめぐらして神域を二倍に広げた。計り知れないほどの工費を投じ、その規模の壮大なことは他に類がなかった。」(ユダヤ戦記21:1)
 このヘロデとは幼子イエス様を取り殺そうとしたあのヘロデ大王です。そのヘロデ大王が神殿の造営をしたのは、彼が神を愛していたからではありませんでした。ヘロデはさまざまな偶像的なものをもユダヤ国内に持ち込んでいます。ヘロデが大神殿を造った目的は、自分の力を国民に徹底的に知らしめ、また宗教的指導者たちをてなずけるためにすぎませんでした。いわゆるハコモノ行政の一つです。
 そのことは歴史家ヨセフスにも見抜かれていて、ヨセフスはヘロデの神殿の豪壮さも、彼が造った巨大で美しい宮殿にくらべればたいしたことがなかったといっています。つまり、ヘロディウムと呼ばれた彼の住まいのほうが、彼が神様のために建立したと宣伝している神殿よりもはるかにデラックスだったというのです。ヘロデ大王にとっては、神殿造営は単なる政治的なパフォーマンスにすぎなかったのでした。

 しかし、人はうわべを見るものせす。主イエスの弟子は、神殿の巨大な石の壁、磨き上げられた大理石の壁を指さして、賛嘆して言いました。1節「先生。これはまあ、何とみごとな石でしょう。なんとすばらしい建物でしょう。」
 すると主イエスはおっしゃいました。2節。

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「この大きな建物を見ているのですか。石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません。」
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 主イエスとしては、「いったい君は先程献金箱の前で何を聞いたんだい?」と反問なさりたいところです。「人はうわべを見るが、主は心を見るのだ。ヘロデが、この神殿を神への愛と献身の表現として建てたと思っているのか?!神は、こんな神殿をすばらしい捧げものとして受け取られたと思っているのか?」とおっしゃりたいのです。ヘロデはただ単に自分の政治的野心のために、神殿造営という聖なる事業を利用したにすぎないのだ!とおっしゃるのです。
 あのレプタ二つのやもめの捧げものほうが、ヘロデの百億円の大理石の神殿よりもずっと神の目には偉大なささげものなのだと主はおっしゃるのです。ヘロデの建てたこんな建て物はやがて崩れ落ちてしまいます。しかし、あのやもめが神にささげた愛と献身の2レプタは、永遠に神の前に記念されたのです。