水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

   永遠に価値あることを   

ヨハネ2:12-17

                              

2:12 子どもたちよ。私があなたがたに書き送るのは、主の御名によって、あなたがたの罪が赦されたからです。

 2:13 父たちよ。私があなたがたに書き送るのは、あなたがたが、初めからおられる方を、知ったからです。若い者たちよ。私があなたがたに書き送るのは、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。

 2:14 小さい者たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが御父を知ったからです。父たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが、初めからおられる方を、知ったからです。若い者たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが強い者であり、神のみことばが、あなたがたのうちにとどまり、そして、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。

 

 2:15 世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。

 2:16 すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。

 2:17 世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行う者は、いつまでもながらえます。

 

 

1.敵は悪魔

 

 12-14節からわかることは、使徒ヨハネが想定している手紙の受取人がすでにイエス様を信じ、御父を知り、罪をゆるされて救われた人々であるということです。クリスチャンとなったあなたがたに、私は手紙を書いていますというのです。つまりクリスチャンとしての心得をここに記されているのです。

 

 13節と14節に「あなたがたは悪い者に打ち勝った」と繰り返されます。「悪い者τ?ν πονηρ?ν」(単数)とは悪魔のことです。悪魔というものが実在することは聖書の明白な主張です。悪魔について話をするとき、私はいつも申し上げるC.S.ルイスのことばがあります。「「悪魔は二種類の人々を歓迎する。ひとつは、悪魔に不必要なまでに深い関心を持つ人々である。もうひとつは、悪魔などいないという人々である。悪魔は、魔法使いと無神論者を大歓迎するのだ。」ですから、私たちは聖書が教えるところまで悪魔についての知識を得るべきですが、それ以上に悪魔に変に興味をもつべきではありません。日本で言うと、私くらいの世代までは啓蒙主義・唯物主義の影響の強い世代であると思います。こういう世代は無神論者として悪魔に歓迎されているのです。しかし、かつて新人類と呼ばれた私から少し下の世代から以降は、むしろ占いとかオカルトなどに心開く世代となっています。この世代も悪魔の大好物なのです。唯物主義にも、魔術的なものも、悪魔の罠です。では、私たちは悪魔に対する態度として、どうすればよいのでしょうか。聖書の教えるところまで行き、聖書が止まるところで止まることです。

 悪魔というものは本来神に仕える天使でありましたが、自ら神のようになろうとしたことによって、堕落天使となりました。そこで悪魔は仲間の天使を引き連れて神を信じる者のじゃまをするのです。悪魔の別名はサタン、ベルゼブルなどです。その手下どもとは悪霊どもです。悪魔は、神と対等な存在ではありません。たとい悪事をなすとしても、神の許可がなくてはできないのです。

 

2.悪魔の策略、世の欲

 

 悪魔はあからさまに、人間を誘惑することもあります。たとえば、占いとか霊媒などといったオカルト的な仕業に誘い込むようなことです。もともとアフリカ、中南米にあった悪魔礼拝というものが、今やかつてキリスト教国と呼ばれた欧米諸国で流行しています。私たちの国では、悪魔礼拝というのは考えにくいでしょう。しかし、多くの場合、悪魔はもっと巧妙にいろいろな手段を用いて、我々の神様にそむこうとする肉的性質を刺激して誘惑するのです。一見、悪くないような、一見、楽しそうなことがらをもって。それが、きょう学ぶ「世」の問題です。

 14節の「悪魔に打ち勝った」というそのつながりから、15節以下では悪魔の策略とそれに対抗すべきことついて語られていくのです。

 

 悪魔の策略の第一番目として、きょうは「世」の問題を学びます。15節。

「世をも世にあるものをも愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。」

 ここで愛するということばは、アガパオーということばです。ここで「世」という言葉で意味していることはどういうことでしょうか。聖書のほかの箇所には「神は実にそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。」(ヨハネ3:16)とあります。このばあいには、「世」とは「世界の人々すべて」という意味でしょう。それは神様の愛の対象ですし、私たちもその意味では世を愛さなければなりません。たとえ神様なんか知らないよというような人々であっても、私たちの信仰に反対して迫害する人々であっても、滅びゆく魂を愛して祈らねばなりません。神様が、その人々をも愛し、その人々のためにイエス様は死んでくださったからです。

 しかし、この手紙でヨハネが「世をも世にあるものをも愛してはなりません」という場合の「世」は、違う意味です。16節。「すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢」これがヨハネがここで言わんとする「愛してはならないもの」としての「世」にほかなりません。つまり、ここでいう「世」とは神様に背を向けたこの世の欲望あるいは価値観ということです。

 

「肉の欲」

 詳訳聖書によれば「肉の欲」とは「官能的な満足に対する渇望」です。この世の不品行や姦淫とかいわゆるポルノのような性的な不道徳な欲望ということです。日本では、ポルノが蔓延しすぎてどうも無感覚になっているきらいすらあります。宣教師が四年ぶりとかで日本に帰って来られると、あまりに急速に性道徳が混乱し、ポルノが蔓延しているので驚いたというのを聞きます。よく欧米では日本よりもひどいというような話を聞かされてそう思いこんでいる日本人が多いのですが、実際には、たいへん強い制約があって、子どもたちが自由に出入りするコンビニなどでポルノ雑誌を見かけるということはないそうです。

 一般に、欲それ自体は、性欲にせよ食欲にせよ、ほんらい神様が人間に与えられたよいものです。しかし、これら欲望は神様がお許しになったルールのなかでのみ、人間を幸福にするのです。神様が性についてお与えになった戒めは明白です。

第一は、「結婚関係における性の交わりは祝福ですが、このルールを越えた性交は罪です」。第二は、とくに既婚者が、不倫行為は姦淫として、未婚者の不品行とは区別されていて、旧約時代には男女ともに死刑が適用されました。それは、不倫ということは、家庭を破壊し社会を破壊するだけでなく、結婚という聖なる契りを破壊するからです。

 罪は罪を生みます。神様が性について定められたルールを越えた結果、妊娠し、不都合だというのでおなかの子どもを殺害する殺人という罪を犯す者たちが、日本では後をたちません。数年前の数字ですが戦後、日本で殺された胎児たちの数は五千万人といわれます。日本が世界から堕胎天国という汚名をいただいてから久しいのです。こうした事態に心を痛めたクリスチャンたちが「小さないのちを守る会」という実践をしています。こうした地の塩の働きがなければ、すでに日本には神様の裁きがくだっていたかもしれないと思います。

 

「目の欲」

 「目の欲」とは「むさぼるような心の欲求」です。アウグスティヌスは目の欲とは「不健全な好奇心」であると言いました。荒野の40日の試みのとき、悪魔は主イエスに「高い所から飛び降りてみよ」と誘惑したことがありました。好奇心が良い面で働いて科学の発達をうながすこともあります。しかし、ここでいう「不健全な好奇心」とは、たとえば血みどろの残酷なホラー映画やビデオを見たがるとか、悪霊にかかわるようなオカルトに対する好奇心だとか、いたずらに危険なことをしたがるいうものです。今や日本のテレビやゲームはこうしたものに満ちています。あるいは麻薬や覚醒剤にもこのような好奇心からはいっていくのでしょう。見れば心が汚れる、やればからだはボロボロになる、もしかすると死ぬかもしれないと知っていながら、そのなかに落ちていってしまう。こういう「目の欲」を刺激するようなものもまた悪魔の罠なのです。 映画やビデオ会社は手軽に人寄せができるものですから、ポルノとホラーものに走るのです。

 

「暮らし向きの自慢」

 これは有る聖書では「虚栄心」と訳しています。「暮らし向きの自慢」とは、所有物にかんする虚栄心のことです。たとえば豪邸に住んでいるとか、高級車を持っているとか、何億円かの貯金があるとか、ブラントもののハンドバッグを持っているとかいうことで自分が偉いと思うことです。

 大邸宅に住むこと自体が罪ではないし、ベンツやBMWや高級な4WDに乗ることも、貯金をすることも、ブランドもののハンドバッグやスーツを持っていることも、それ自体では罪ではありません。しかし、そんなものを所有しているから自分を偉いと思うとかいう心があるならば、その人は永遠の滅びに向かう悪魔の罠に陥っているのです。

 

3.世の欲への対処

 

 では、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢について、どう対処すればよいのでしょうか。それは、なにがほんとうに永遠に価値があるのかを思うことです。ほんとうに価値あるものは永遠に価値があるのです。

 肉の欲を満たし、目の欲を満たし、持ち物を自慢するようなことはどれほどの価値があるでしょうか。こんなものはみんな滅びてしまうものです。17節「世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。」

 主イエスが、金持ちとラザロの話をなさいました。ルカ16:19-31。

金持ちは豪邸に住み、ぜいたくな紫の衣を来て、毎日美食と美酒に明け暮れていました。しかし、彼は玄関の前に来た、貧しいラザロには目もくれようともしませんでした。そして貧乏人は餓死しました。旧約聖書箴言には次のようにあります。

箴言19:17 寄るべのない者に施しをするのは、【主】に貸すことだ。

  主がその善行に報いてくださる。

箴言28:27 貧しい者に施す者は不足することがない。

  しかし目をそむける者は多くののろいを受ける。

 

 この金持ちが知らないわけがありません。この金持ちはまったく神に貸さなかったのです。彼は神のみこころなどに無関心でした。ただ自分と仲間だけが富を蓄え、ただ快楽に耽り、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢をしていればよいという価値観のなかで生きていたのです。

 やがて、死がこの金持ちを訪れました。葬式は町の名士たちが集い、日本風にいえば錦の袈裟をまとった坊主たちが五人も六人もいる豪華なものでした。墓も日本風にいえば黒御影に金文字の立派な墓でした。日本風にいえば長々とした院号のはいった何百万円もするような戒名を刻んだ墓でした。それこそ、暮らし向きの自慢に身を費やしたあの金持ちにふさわしい葬式と墓だったでしょう。しかし、金持ちはどこに行きましたか。地獄に落ちました。永遠の滅びのなかに落ちたのです。

 肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢といったことは、この世がこれこそ価値あるものとして一生懸命に宣伝し、またみんなひたすらに求めているものです。けれども、こんなものは一時的なもの滅びるものにすぎません。

 悪魔は釣りをします。魚はこの世の人々です。悪魔は、釣り糸の先にいろいろな餌をつけます。それこそ、肉の欲、目の欲、暮らし向きの虚栄を刺激し満足させるような餌です。異性であるとか、出世、権力とか、よい給料とか、社会的地位とか、名誉とか、高級車とか、豪邸とか、シャネルのバッグとか。この世の人がパクリと食いつきますと、悪魔はこれを釣り上げてしまいます。そして釣り上げられた魚は、ポイと地獄の炎のなかに放り込まれるのです。

 

 「しかし、神のみこころを行なう者はいつまでもながらえる」とあります。「神のみこころを行なう」ということの第一のことは、罪を悔い改めて主イエスを信じることです。神様に背を向けを神様をないがしろにして生きて来た自分の生き方そのものが罪であったことを認めて、救い主であるイエス様を信じ受け入れることです。

 「神のみこころを行なう」ということの第二は、神様が私たちに命じられるように、神を愛する愛と隣人愛を具体的な身近な生活のなかで実践することです。大きなことではありません。神は無い所から刈り取ろうとする方ではありません。私たちにそれぞれ託された分に応じて、求められるのです。私たちの持っている良いもので神様からもらったのではないものは一つもありません。実はもらったのではなく、お金も健康も時も家も一切の持ち物は神様から託されたものです。神様はあなたにもこういうものを託して、みこころにかなって有効に用いることを期待しておられるのです。ですから、これらのものをもって神様の喜ばれることを行なうことです。そうするならば、あなたは天に宝を積むことになります。地上において行なうよき業は、永遠の御国にまでついていくのです。

 私たちは目先の滅びるものではなく、永遠に価値のあることを求めて天に宝を積みたいと願います。

 

「世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なうものは、いつまでもながらえます。」1ヨハネ2:17