Miz牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

私たちの弁護者

ヨハネ2:1-11

                        

 「私の子どもたちよ。」使徒ヨハネは深い親愛の情をこめて語ります。「子どもたち」という意味は、ヨハネが伝えた主イエスの福音によって救われた人々に向かっていっているのです。伝道者にとって、人々に福音を伝え救いに導くということは、母親にとっての出産にあたいする務めです。母親が子を生むために生命の危険をもあえて犯すように、伝道者は人を救いに導くためには生命の危険を冒すこともあります。また、母親が子どもが生まれ産声を聞いたとたんに、あの苦しみが喜びにかわるように、伝道者にとって一人の人が主イエスを信じ主の御名によって洗礼にあずかった喜びは何物にもかえることができません。牧師として召していただいてよかったなと思うときです。

                                                                               

  1.弁護士キリストのもとで罪赦されて罪なきをめざしていきる(2:1-3)

 

 「私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。」「これらのこと」というのは、前の1:8-10の内容です。イエス様を信じたとしても私たちのうちには罪の性質が残り、罪を犯してしまうことがあります。しかし、そうしたばあいには自分の罪の一つ一つを具体的に神様の御前に告白すれば、神様は罪を赦しきよめてくださるということです。・・・このことばをあまりにも安易に受け止める人は、「だったらクリスチャンになっても罪を犯し続けてもよいのだ。どうせ告白すれば赦されるのだから・・・」というふうに捉えるかもしれません。そこで使徒は、「そんなことはない。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪のなかに安住するためではなくて、罪を犯さなくなるためなのだ。」と言うのです。あなたがたが罪を犯さなくなるためにこそ、神は罪の赦しときよめをくださったのだ、と。

 クリスチャンは罪を犯さないことを目指して生きるべきです。そのスタート、土台は神様が私の罪を赦して下さったという事実です。

 しかし、それでももし罪を犯してしまったときには、イエス様が私たちを弁護してくださるのです。ヨハネは神の法廷を目に思い浮かべなさいと奨めます。正面には厳正な審判をなさる御父。私たちはその前に立つ被告です。神様は私たちのたましいと霊の分かれ目まで見通される御目をもって、私たちの罪を見通されます。だれがこの聖なる裁きに立ちおおせるでしょう。恐ろしくて立っていられないほどです。

 しかし、わたしたちには神の法廷にあって強力で親身になってくれる弁護士がいらっしゃる。パラクレートスです。パラクレートスとは、弁護人のほかに慰め主とも訳されます。直訳すると「側にいて呼びかける者」という意味のことばです。

 第一に弁護士は罪を犯した者のそばに立つ者です。罪人の立場に立って、その弱さに十分同情できなければ弁護士はつとまりません。高い所から被告人を見下ろして軽蔑し、こんな罪を犯すやつはどうしようもない。弁護の余地などないと思ったら弁護はできないでしょう。イエス様は罪を犯されませんでしたが、私たち人間と同じように弱さをになってくださいました。イエス様は罪は犯されませんでしたが、私たちの会う誘惑をすべてお受けになるために弱さをになってくださったのです。

「イエス様はまぶねの中に産声上げ、大工の家で成長されました。早く父ヨセフはこの世を去り、母と多くの兄弟たちの世話をしました。貧乏ということの苦しみも、生きることの悩みもなめつくされたのでした。空腹がどんなにつらいか、お金がないということがどんなにたいへんか。

 主イエスは長じて伝道生活にはいると、食事をする暇も忘れて、常にしいたげられた人たちの立場に立ちました。病人、みなしご、やもめ、やむなき家庭事情のなかで身売りをした女郎たち、取税人たちこういう人たちのそばにいつもイエス様はたたれました。

 そして、すべてのものをお与えになった末に、十字架に最後の苦しみを受けられました。私たちと同じ肉体を担われた主イエスです。くぎ打たれたとき骨は砕け苦痛にうめかれました。十字架が立てられると、肺と心臓は圧迫されて息することも苦しくなりました。主は私たちの肉体的な弱さをもよく知ってくださいます。そして、主は祈られました「父よ彼らをゆるしてください。彼らは自分で何をしているのかわからないのです。」」

 神の法廷における私たちの弁護人とは、このようなお方です。

 

 第二に弁護士は、単なる同情的な人というのではなく、正義の律法に基づいて主張をする者です。神様の立てられた律法では、罪なしと認められた者が血を流すことなくして罪が償われることはないのです。そこで、主イエスはきよい神の御子であられながら、まったき人として地においでになり、私たちの罪をその一点の罪のしみもない御自身の身に背負ってくださったのです。父なる神の御怒りをなだめるなだめの供えものとして、ご自分を差し出してくださいました。主イエスは「私は、彼のために十字架において罪の刑罰をすでに受けたのです。彼の刑罰はすでに完了いたしました。よって、これ以上彼を罰することはできません。」と正義の主張をしてくださるのです。

 

 私たちは、神様のこれほどの深い愛と大きな犠牲によって、罪を赦されたのです。そのことを本当に信じているなら、「もはや私は罪のうちにとどまりつづけたくない」と思わなければ嘘です。

 

2.神の命令にしたがっているなら神を知っているといえる(2:3-6)

 

2:3 もし、私たちが神の命令を守るなら、それによって、私たちは神を知っていることがわかります。

 2:4 神を知っていると言いながら、その命令を守らない者は、偽り者であり、真理はその人のうちにありません。

 2:5 しかし、みことばを守っている者なら、その人のうちには、確かに神の愛が全うされているのです。それによって、私たちが神のうちにいることがわかります。

 2:6 神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。

 

 

 救いの確信の問題です。私たちは、どのようにして自分が神様を知っていると言えるでしょうか。ここでいう「知る」というのは単なる知識として知るということではなく、救われている、神との人格的ないのちある交わりがあるという意味です。

 3節から6節で、言わんとするのは、私たちが神をほんとうに知っており、神のうちにあって神様のいのちに生かされているということは、私たちの生活によってわかるということです。神の命令にしたがい、神のみことばを守り、キリストが歩まれたように歩んでいるならば、その人は確かに神を知っていると言える、と。その人は私は救われているという確信をもってよい。知行合一です。

 たしかに使徒ヨハネは、クリスチャンもまた罪を犯してしまうことがあると言います。しかも、先の主日夕拝に学んだように、クリスチャンになったからこそ、罪意識がはっきりしてくることも事実です。暗闇のなかでは見えなかった自分の汚れが、太陽の光の下ではあからさまになってくるのです。しかし、そうした現実をわきまえながら、なお使徒ヨハネは、クリスチャンであるしるしは、神のことばにイエス様のようにしたがって生きているということである、と。

 主イエスのことばで言えば、「良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。」

 つまり木はその実によって判断されるということです。木の幹を見ても、その葉っぱを見てもまるで同じに見える二本の柿の木があります。一方は渋柿をならせ、一方は甘柿をならせる。実をもってその木がよい木か悪い木かが判断されるのです。

 

3.神の命令とは何か(2:7-11)

 

 しかし、注意してください。ここでいう実とは、この効率主義の現代においていわれるいわゆる「成果」とはちがいます。効率主義の世の価値観でいう成果とは、何か大きな事、人目を驚かせるようなこと、大金持ちになることそういうことを実だと思われがちです。しかし、主イエスがおっしゃいました。22節。終わりの日に偽預言者たちは、私は預言をした、私は悪霊を追い出した、私は奇跡をたくさん行ったという人目を驚かせるようなスゴイ成果は、神様の御前ではなんら「良い実」に数えられないのです。

 では、イエス様がいわんとする良い実つまり、ヨハネの言う「神の命令を守ること」とはなんなのでしょうか。7-11節。

2:7 愛する者たち。私はあなたがたに新しい命令を書いているのではありません。むしろ、これはあなたがたが初めから持っていた古い命令です。その古い命令とは、あなたがたがすでに聞いている、みことばのことです。

 2:8 しかし、私は新しい命令としてあなたがたに書き送ります。これはキリストにおいて真理であり、あなたがたにとっても真理です。なぜなら、やみが消え去り、まことの光がすでに輝いているからです。

 2:9 光の中にいると言いながら、兄弟を憎んでいる者は、今もなお、やみの中にいるのです。

 2:10 兄弟を愛する者は、光の中にとどまり、つまずくことがありません。

 2:11 兄弟を憎む者は、やみの中におり、やみの中を歩んでいるのであって、自分がどこへ行くのか知らないのです。やみが彼の目を見えなくしたからです。

 

 読めばわかるように、それは古い命令であり、キリストにあって新しくされた命令、「兄弟を愛しなさい」という命令です。兄弟と言われているのは、クリスチャンの仲間のことです。もちろんクリスチャンはクリスチャンでない人々をも愛さねばなりません。主は「あなたの敵を愛しなさい」とさえ言われました。しかし、まずは身近な主にある兄弟姉妹を愛しなさいとおっしゃるのです。

 兄弟姉妹への愛が古い命令と言われるのは、旧約聖書のなかにすでに紀元前千五百年も前から「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」とあるからです。しかし、キリストにあってこの命令は新たに私たちに与えられました。ヨハネ福音書13:34

「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もあいあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」

 どういう点で新しくなったでしょう。昔は兄弟を愛するための見本が「自分自身を愛する自分」の姿であったのが、今は兄弟を愛する見本はイエス様がこの私を愛して下さったそのお姿になったという点です。完全な愛のお手本が出現したのです。ですから、私たちはあの兄弟姉妹にどんなふうにして上げるのがよいのだろうかと考えるときに、「イエス様は私にどうしてくださったかな?」と思い描けばよいのです。イエス様は、どんな愛を私に対して注いでくださったでしょうか。イエス様は弁護士として、私たちのそばに立ってくださいました。私たちの弱さを見下げるどころか、私たちの弱さに深く同情してくださいました。そして、ご自分を犠牲にして神と私たちの交わりを「義」なる状態つまり正常にしてくださいました。そのように私たちも、十字架の愛をもって主にある兄弟姉妹を愛するべきです。

 神の命令を守るというのは、主にある兄弟姉妹を愛するということです。ですから、もし私たちが主にある兄弟姉妹を愛していないなら、憎んでいるならば、救いの確信が失われ、神様のいのちにつながっていないと感じるのはしぜんなことです。しかし、もし私たちが主にある兄弟姉妹への愛を実践しているならば、私たちは心に確信と平安をもってよいのです。私は神様を知っている。いなむしろ、神様は私を知ってくださって、こんな愛にかけた罪人のうちにも兄弟姉妹を愛する愛をくださったのだ、なんとありがたいことだろう!と。