Miz牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

上からの救い

ヨハネ3:1-16

 

 

1. 上から生まれる

                                                             

 夜、主イエスのところに独りの人物が訪ねてきました。「さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。」とあります。ニコデモはすでに相当の年寄りでした(4節参照)。今日にいたるまで、パリサイ人の教師として、まじめに旧約聖書の律法をユダヤ人たちに説いてきた人でした。パリサイ人というのは、旧約聖書にある律法に基づいて当時のユダヤ人たちを導いていた人々です。パリサイ人たちの教えは、神がくださった律法をことごとく守ることによって、人は神の国にあずかることができるということでした。

 「神の国」とは、この世にあっても次の世にあっても、神様のご支配のもとに生きるすばらしい人生です。神の国とは、死後のいわゆる天国のことだけを意味するのではなく、地上に生きている間も、正義の愛の支配の下にある状態です。神の国とは言い換えると「永遠のいのち」ということでもあります。イエス様のもとには「神の国にはいるにはどうしたらよいのか」、とか、「永遠のいのちを得るにはどうしたらよいのかと訪ねて来る求道者がいました。

 ニコデモはパリサイ派で、しかも民の指導者と呼ばれています。パリサイ派というと、偽善者ばかりのイメージがあるかもしれませんが、実際には、パリサイ人にもピンからキリまでいました。形式的にだけ律法を守ったことにするというようないかにも偽善者的なパリサイ人たちもいて、イエス様から「白く塗られた墓」などと厳しく非難もされています。しかし、パリサイ人の中にはニコデモとかサウロのように、日々、生真面目に律法を守り行って神の前に正しく歩もうと努力していた誠実な人たちもいたのです。

 ニコデモは、子どもの頃から一途に律法を行うように務めてもきたし、長じてからは人にもそのように教えてきたのです。老ニコデモはそういうパリサイ派のなかでも「民の指導者」の一人とされ、ユダヤの最高法院サンヒドリンの議員のひとりでもありました。(7:50)ニコデモは品行方正で親切で、社会的な名誉も持っていた人です。

 

 けれども、そんな誠実な人ニコデモがイエス様のもとに教えを乞いにやってきたのです。なぜでしょうか?長年律法を守ってきたつもりだけれど、自分の教えてきたことに彼は、本当のところ自信がなかったからです。自分は「ああすべきだ。こうすべきだ。」と、律法についていろいろ教えてきたけれども、中身がなくてスカスカの自分を感じていたからです。

 2節に彼は夜やってきたとあります。こっそりやってきたのです。それは、彼がイエスに教えを乞うているところを人に見られることを恐れたからに違いありません。ニコデモのパリサイ派の代表的教師であり、ユダヤ最高法院の議員であるという社会的地位や名誉からいうならば、ガリラヤのナザレに最近現れたひとりの若者のもとに教えを乞うということはスキャンダルでありました。けれども、ニコデモはイエス様のもとに来ないではいられなかったのです。それは、彼が生涯を賭けて説いてきた「律法を行うことによって、人は神の国を見ることができる」という道に疑念を感じていたからです。それで彼は夜だけれど勇気を出してやってきました。彼は正直な人だったと言えるでしょう。

 老ニコデモは、2節に見るように、たいへん礼儀正しく、若いイエス様にことばをかけました。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなかれば、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行うことができません。」

ニコデモのことばを見る時、彼から見た主イエスと自分との一番大きなちがいは「神がともにおられる」という点だったのだということだとわかります。ニコデモは、律法を隅から隅まで覚えていて、自由に引用することも解釈することもできました。ニコデモは努力に努力を重ねて律法とともに歩んできました。しかし、神が彼とともにいるとは確信できませんでした。

 そこで、いきなりイエス様はおっしゃいます。3節。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」イエス様の答は一見すると唐突です。しかし、このお言葉は、ニコデモが問題を感じていることにズバリと解答を突きつけたことなのでした。ここでたいせつなことばは「新しく」と訳されていることばアノーテンです。このことばはおもしろいことに、「新しく」という意味と「上から」という意味の二つを合わせ持っているのです。たとえば、同じヨハネ福音書3:31に「上から来る方は」とありますが、この「上から」はアノーテンということばです。イエス様が上から来る方と呼ばれているのです。つまり、ここにいう「上から」というのは、「天から」「神から」という意味にほかなりません。

 イエス様は「まことに、まことにあなたに告げます。人は、神から新しく上から生まれるのでなければ、神の国を見ることはできません。」とおっしゃったのです。

 

 考えてみれば、老ニコデモが若い日から今日まで学び行ってきた、そして、人にも熱心に教えてきたことは、いわば「下から」の道でした。ユダヤでは、自分の名前を言うまえにトーラーのことばを唱えるようになるというほど、律法の教育が徹底して行われます。日々、律法を暗唱し、律法を行い、敬虔な宗教生活の功徳を「下から」積み上げ、積み上げ、積み上げ、積み上げて、段々と「地から」天に向かって神様の基準にかなう自分の義を建てあげていくというのが、パリサイ派のニコデモが教えてきたことでした。そうして神をあがめ神に従う神の国を見ることができると教えてきたのです。

 ところが、主イエスは「下からではだめだ。人は上から、つまり天から、神によって生まれなければ、だれも神の国を見ることはできない。」と断定なさったのです。

 

 ニコデモは戸惑いました。ニコデモには主イエスのおっしゃる意味がわかりませんでした。彼は「新しく生まれる」という意味にだけ、主イエスのことばを取ったようです。そして、ちょっとあざける調子で、そんな「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」と言ったのです。ニコデモの言葉にはた しかに彼がつき当たっていた根本的な問題が暗示されています。人がどんなにまじめに律法を暗唱し、善行を下から上へと積もうとしても、どうしても乗り越えられない問題があると感じていたのです。限界があると感じていたのでしょう。もういっぺん生まれ直して、根本から洗い直してやり直すしかないか、などという感情です。

 

 すると、イエスは「上から、神から」生まれるということはどういうことを意味しているかをさらに説明なさいました。5節。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることはできません。肉によって生まれた者は、肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」

 水とは洗礼のことです。聖霊をともなう洗礼を受けなければだれも、神の国に入ることはできないとおっしゃったのです。主イエスヨハネが授けた水だけの洗礼ではなく、同時に御霊をも注いでくださるお方であるということです。さて、「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」とはどういうことか。肉とは肉体のことではありません。ヨハネ福音書で「肉」というのは、「自分の力、人間の力」です。御霊とは神様が注いでくださる聖霊です。ですから、主は、「人が自分の力で功徳をどんなに積み上げても、人は決して神の国にはいることはできない。」とおっしゃるのです。人がどんなにまじめに暗唱聖句をし、偶像を礼拝せず、安息日を守り、両親を敬い、殺すまいとし、姦淫をおかすまいと努力し、盗むまいと努力し、嘘はいうまいと努力し、となり人のものを欲しがったり、人の幸せを妬むまいと努力したとしても、人は決して神の国にはいることはできないのです。どんなにまじめに律法に取り組んでも、罪の力から解放されて生きることはできない、神の国に入ることはできないとおっしゃるのです。

 ニコデモは、いろいろな神の律法を守り、いろいろな教えを学び実践することによって、人は神の国を見ることができると教えてきました。しかし、どんなに律法をきまじめに行おうと努力しても、罪の力からの解放は経験できなかったのです。

 

 ニコデモと同じパリサイ派であったサウロは、自分の律法にまつわる経験について述べています。ロマ7章7-13節。サウロはまじめに律法を守り行おうとしました。まじめな彼としては十戒のうち九つまでは自分で満足できるように、行うことができたようです。ところが、第十番目の戒めに彼は縛りつけられてしまったのです。「汝その隣人の家をむさぼるなかれまた汝の隣人の妻およびそのしもべ、しもめ、牛、ろばならびにすべて汝の隣人のもちものをむさぼるなかれ。」サウロは、自分の心が隣人の家、妻、その所有物を欲しがる欲求を抑えることがどうしてもできないことに気づいたのです。そして、朝に昼に夕に、サウロは自分のうちに沸き起こってくるこの「むさぼり」に苦しみました。

 ニコデモも律法による道の限界を感じていたのです。そしておそらくこの度もイエス様のところに来れば、自分にもう一つ欠けていた教えというか奥義を教わることができるかと思ったのです。けれども、イエス様はそれを根本から否定なさったのです。「肉によって生まれた者は肉です。」と。

 

 今日でも世にはいろいろな道徳、自己救済、自力救済の道が説かれています。早起き会とかいって毎日朝早く起きて一日を始めれば良いことがある。一日一善。前向きの意識で成功する。積極志向でいきましょう。自己啓発セミナーなどなど。それらがある程度の効果を人間生活にあらわすのは事実でしょう。だからその手の本が売れ、セミナーがはやったりするのでしょう。これらはいずれも「下から」のものです。「肉」によるものです。「肉」を強化することによって、問題の解決を得ようとするものです。けれど、結局は、「肉から生まれたものは肉」にすぎないのです。 「御霊によって生まれた者は霊です。」と主イエスは、ご自分がもたらす救いについて話されるのです。7節、8節。

3:7 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。 3:8 風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」

霊と訳されることはプネウマは、おもしろいことばで、「風」という意味もあります。風は自由に吹きます。御霊も自由に働かれるのです。人がコントロールできるわけではありません。また、御霊によって生まれると、その人は自由なのです。御霊にある自由、ここがニコデモやサウロがはげんできた堅苦しい律法主義・自力主義との大きな違いです。

ここに一つの証しがあります。長野福音教会のメンバーの召田さんという方です。

 「クリスチャンの歩みって何だろうと考えてみました。クリスチャンになる前は、道徳的に正しい人になる、悪いことをしない、この世的な楽しみは控えた方が・・・。そんなイメージで見ていました。ですから、ちょっと堅苦しいという思いがあって、学生時代の友人のクリスチャンから強くすすめられながら、なかなか受け入れられなかったことを覚えています。

 しかし、いざクリスチャンとして歩み始めると、逆に堅苦しい枠から解放されました。瀧に打たれたりして難行苦行を積む必要もありません。イエス様の十字架のあがないによって、一方的に赦され、罪から解放されていることが分かったからです。何を着ようか、何を食べようかと心配することは、それほど意味を持たないこともわかりました。クリスチャンはいつも自由です。

 ただ神の国とその義をまず第一に求めなければならないことを教えられます。神様の支配に従い、神様との正しい関係を第一とする生活です。そうすればそれに加えて、これらのものは全てが与えられますとこの世の必要は神様が保証してくださると約束してくださっています。・・・・」

 クリスチャン生活の実感がよく現れていますね。クリスチャン生活は、御霊による誕生によって始まり、御霊のご支配のもとにある自由のなかで営まれていくのです。祈ることも聖書を読むことも、主の日を守ることも、愛の業を行うことも、みな御霊がなさせてくださいます。御霊がさせてくださるとき、私たちは自由に愛をもって律法の要求を十二分におこなうのです。「主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。」(1コリント3:17、18)

 

2.十字架のキリストを見上げる

 

 しかし、ニコデモには主イエスがおっしゃる御霊によって生まれたクリスチャンの人生というものは理解できません。彼はまだ上から生まれていないからです。彼は答えます。9節「どのようにして、そのようなことがありうるのでしょう。」そこで、イエス様は御霊について話すことに困難を覚えます。11、12節。

3:11 まことに、まことに、あなたに告げます。わたしたちは、知っていることを話し、見たことをあかししているのに、あなたがたは、わたしたちのあかしを受け入れません。

 3:12 あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。

 そして、ニコデモが幼い頃から親しんできた旧約聖書の故事に基づいて、イエス様のもたらされる救いを、別の観点からお話になるのです。13-15節。

3:13 だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。

 3:14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。

 3:15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。

3:16 神は実にそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは、御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

民数記21:4-9節。イスラエルの民の神に対する忘恩と不信の罪に対して燃える蛇の罰がくだりました。ところが、神様はモーセの祈りに答えて救いの道を与えてくださいました。それは、ただ旗ざおに付けられた青銅の蛇をあおぎ見るということでした。旗ざおはちょうど十字架のかたちをしています。8節。「それをあおぎ見れば、生きる。」蛇は呪われた罪の象徴でした。

 ここには律法の「行い」による救いとは違う、信仰による救いの道が象徴されています。イスラエルの民は、蛇にかまれもはや自分で自分をどうすることもできなかったのです。どんな罪のつぐないとしての善行をすることも、徳を積むこともできませんでした。ただ、神の約束を信じて「あおぎ見たら、生きた。」のです。神の約束を信じないで、自分の努力で蛇の毒のまわりを抑えようとしたりしている者は死にました。

 主イエスは、この故事をもって、御霊によって生まれるという救いがどういうことかということを、ニコデモに説明なさったのです。御霊によって生まれるという救い、それは御約束を信じて十字架のキリストをあおぎ見ることによる救いなのです。

 青銅の蛇を付けられた十字架のかたちをした旗ざお。それは、私たちの罪の呪いを受けられたイエス・キリストの十字架を示しています。神の御子イエス・キリストが罪の呪いを受けるために、十字架に上げられてくださったのです。どうしたら人は救われるのか。私の罪のために十字架に付けられた御子イエス・キリストふりあおぐことです。その時、新しい人生が始まるのです。罪赦され、罪の力と律法の呪いからも解放され、御霊によって神の国を見る人生が始まります。

 ニコデモはこのイエス様の話にどういう反応を示したかは、ここには記録されてはいません。彼は三年ほど、ユダヤ当局につくでもなく、キリストの弟子となるでもなく、どっちつかずの生き方をしていました。しかし、これから3年後イエス様が十字架に上げられるにおよんで、ついに彼は回心しました。新しい人として生まれたのです。ニコデモは、自分がイエス様を信じることを公にします。すなわち、主イエスが十字架から降ろされ、墓に葬られようとするとき、彼はたくさんの高価な没薬をもって墓にやってきたのです。かつてパリサイ人としての誇り、サンヒドリン議員という社会的な地位と名誉、こうしたものに縛られていたニコデモは、ついにこれらから解放されました。そして、キリストの弟子となり、神の国を見る生き方を始めたのです。

 

結び 「人は上から神によって新しく生まれなければ神の国を見ることはできません。」 

 神の前に自分の限界と罪を認め、主イエスが私の罪のために十字架にかかって甦られたことを感謝して受け入れましょう。そのとき、あなたも神の国を見ることができます。主は言われます

「 地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。

  わたしが神である。ほかにはいない。」イザヤ45章22節