水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

 聖書と神の力と

Mk12:18-27

                               

2017年7月1日 苫小牧主日礼拝

 

 12:18 また、復活はないと主張していたサドカイ人たちが、イエスのところに来て、質問した。

 12:19 「先生。モーセは私たちのためにこう書いています。『もし、兄が死んで妻をあとに残し、しかも子がない場合には、その弟はその女を妻にして、兄のための子をもうけなければならない。』

 12:20 さて、七人の兄弟がいました。長男が妻をめとりましたが、子を残さないで死にました。

 12:21 そこで次男がその女を妻にしたところ、やはり子を残さずに死にました。三男も同様でした。

 12:22 こうして、七人とも子を残しませんでした。最後に、女も死にました。

 12:23 復活の際、彼らがよみがえるとき、その女はだれの妻なのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのですが。」

 12:24 イエスは彼らに言われた。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではありませんか。

 12:25 人が死人の中からよみがえるときには、めとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。

 12:26 それに、死人がよみがえることについては、モーセの書にある柴の個所で、神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか。『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあります。

 12:27 神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。あなたがたはたいへんな思い違いをしています。」

  主イエスの御在世当時、ユダヤの宗教的指導者にはパリサイ派サドカイ派そしてエッセネ派というのがありました。聖書にはエッセネ派という名は見えませんが、バプテスマのヨハネがこれに属していただろうと言われています。彼等は隠遁的な宗教生活をしていました。社会に表立って出てくる指導者たちとしてはパリサイ派サドカイ派です。

 12:18 また、復活はないと主張していたサドカイ人たちが、イエスのところに来て、質問した。

 さて、きょう登場するサドカイ派というのは、ギリシャ思想の影響を受けた人々であり、身分的には祭司階級を占めていた人々です。サドカイ派の宗教というのはいわゆるインテリ的な宗教でした。それは頭で納得いく合理主義的な宗教でした。合理主義的な考え方というのは、人間の理性をすべての基準とする考え方ということです。人間の経験にかなうことしか信じようとしない人々です。21世紀にもそういう人々はたくさんいますが、2000年まえにもそういう人々はいたのです。

 サドカイ派は、創造主である神が存在することは信じてはいましたが、天使が実在するということと、死者が終わりの日に復活するという聖書の約束は否定していました。神の住まう天界と人の住むこの世を峻別し、神はこの世に介入することができないとしました。だから、ギリシャ哲学の理性の枠組みのなかでは、死者が復活するとか、天使が実在するというのは比喩か迷信ということになったわけです。つまり、サドカイ人は神を信じているとは信じていましたが、それは私たちが住んでいるこの世界において生きて働かれる神ではなく、哲学的な観念としての神にすぎなかったのです。

 サドカイ派が影響を受けたギリシャの哲学者たちも神を信じていました。たとえばアリストテレスは、第一原因としての神ということを主張しました。ものごとには必ず原因がある。たとえば、ここに本があるとすれば、その本をここに置いた人がいる。その人がそこに存在するのは、その人を生んだ人がいるからである。こういうふうに今ある結果には何か原因があるから、原因と結果の鎖をさかのぼっていけば、ついには最初のこれ以上さかのぼれない原因に至ることになる。つまり、それが第一原因すなわち神であるというのです。哲学における上というのは人間の理屈によって証明できる神ということです。人間の理屈の枠のなかに納まる神なのです。

 

 サドカイ派の人々は、日頃から考えていた復活に関する聖書の矛盾点を指摘して、イエス様をギャフンと言わせてやろうとして来たのです。それは、結婚に関する問答です。19-23節。

 12:19 「先生。モーセは私たちのためにこう書いています。『もし、兄が死んで妻をあとに残し、しかも子がない場合には、その弟はその女を妻にして、兄のための子をもうけなければならない。』

 12:20 さて、七人の兄弟がいました。長男が妻をめとりましたが、子を残さないで死にました。

 12:21 そこで次男がその女を妻にしたところ、やはり子を残さずに死にました。三男も同様でした。

 12:22 こうして、七人とも子を残しませんでした。最後に、女も死にました。

 12:23 復活の際、彼らがよみがえるとき、その女はだれの妻なのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのですが。」

  

 彼らは、ほんとうにこの問題の答を聞きたいわけではありません。ただ死人の復活という約束を否定したかっただけです。いや、それよりも、イエスを黙らせたかっただけのことです。

 サドカイ人たちが持ちかけた議論の背景には、旧約の律法にあるレビラート婚という慣習があります。古代イスラエル人にとっては、子孫を残していくということはきわめて重要なこととされていました。それで、AさんがBさんと結婚をしたけれども、もしAさんが子孫を残すことができないまま死んでしまった場合、Aさんの弟は、Aさんの妻Bさんをめとって子どもを生ませなければならないとされました。

 このレビラート婚の定めにしたがった場合、世界の歴史の終わりの時に死者のよみがえりがあるとすれば、非常に不合理なことが起こることになります。つまり、復活した7人の誰がその女性を妻とするかが問題になってしまうではないか、というわけです。神は秩序の神であり、理にかなったことをなさるお方である。したがって、パリサイ派がいうように、終わりの時に復活があるという教えが間違っているのだというのがサドカイ人たちの主張です。 夫に次々と死なれた女性がいたとして、このような状況において、死者が復活したならば、神のおっしゃる結婚の戒めを破ってしまうことになるではないかという訳です。ということは、矛盾であるから、死者の復活というのは将来、この時間と空間のなかで現実になる約束ではなく、文学的比喩にすぎないと言いたかったのです。

 

 イエス様は、彼らの質問の本質を見抜いてズバリとサドカイ派の人々の信仰のありかたの根本的問題をずばりと指摘なさいます。24節。

 「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではありませんか。」

 言いもいったりです。なにしろ相手は祭司階級の人々、つまり、聖書と神様の専門家たちです。しかし、主イエスは「あなたたちは、たくさんの微に入り細を穿って聖書知識を持っているけれども、あなたがたの聖書知識は死んだ知識だし、あなたがたの「神」は生ける神でなく、単なる哲学者の観念的ないわば括弧付きの「神」にすぎないとおっしゃるのです。あなたがたサドカイ派の神は、聖書にご自身を啓示していらっしゃる、今も生きて働かれるお方、死者をもよみがえらせることもできる神ではないのだ、とおっしゃるのです。

 

 そして、旧約聖書の一節を引用なさって、復活の証言となさるのです。26-27節。

 12:26 それに、死人がよみがえることについては、モーセの書にある柴の個所で、神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか。『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあります。

 12:27 神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。あなたがたはたいへんな思い違いをしています。

 

 これがどうして復活があるのだという証拠聖句となるのでしょうか。旧約時代にアブラハム、イサク、ヤコブという族長と呼ばれる人々がいました。彼らの子孫となるイスラエル民族に神様は約束の地をお与えになると約束なさいました。紀元前二千年ころのことです。それから五百年ほどたってモーセに対して神様が現れたのです。それが、26節にいう燃える柴の箇所に書かれているのです。当然ながら、この時点ではすでにアブラハム、イサク、ヤコブはこの世を去っているのです。

 ところが、主なる神様は燃える柴のところでモーセに出現なさったとき、自己紹介をなさっておっしゃいました。「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と。つまり、モーセからいえば四五百年ほども前にこの世を去ったアブラハム、イサク、ヤコブは過去の人ではなく、今も生きているのだということです。神の御許にあって今も生きているのです。 だから「神は死んだものの神ではありません。生きている者の神です。」ということになります。「あなたがたはたいへんな思い違いをしています。」と主イエスはお嘆きになりました。神様の御前に祈り、聖書を人々に教えるべき祭司階級を占めている、あなたがたともあろう者が、なんという思い違いをしているのですか!というのがイエス様のお気持ちでしょう。

 

 彼らの問題は「聖書も神の力も知らない」ということでした。もちろん彼らは聖書を知っていたでしょう。では、どのようなものとして彼らは聖書を知らなかったのでしょうか。また聖書はどのようなものとして知るべきであると、主イエスはおっしゃるのでしょうか。

 聖書を完全無欠な真理、神のことばそのものとして知ることです。主イエス様は聖書を隅からすみまで完全無欠な神のことばであると主張なさるのです。旧約の小さな一句を根拠に死者の復活を証明なさった一事を見てもよくわかります。また主イエスは、「まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。」(マタイ5:18)とおっしゃいました。サドカイ派の人々は、聖書のことばよりも自分の経験やギリシャ哲学を上に置いていたのです。そして、自分たちの理屈にかなわない奇跡の記事、復活の約束などは、勝手にはぶいて読んでいたのです。ですから、彼らはあなたがたは「聖書を知らない」と言われたのです。

 私たちは「旧新約聖書六十六巻は、すべて神の霊感によって記された誤りのない神のことばであって、救い主イエス・キリストを顕し、救いの道を教え、信仰と生活の唯一絶対の規範である。」と同盟教団の信仰告白の第一条に告白しています。私たちは一点一画までも誤りのない神のことばとして、聖書を信じなければなりません。

 

 「神の力を知らない」とサドカイ派は主イエス様からしかられました。それは彼らは神様も、自然法則の下にあるかのように思っていたのです。神様の力も自然法則には及ばないと思いこんでいたのです。ですから、自然法則に反する復活や奇跡などということはありえないことと考えたのです。

 神様とはいったいどういうお方ですか。まことの神様は、無から天地万物をそのお言葉によって創造なさったお方ではありませんか。万有引力の法則も、生命法則も、すべて神様が創造なさった被造物にすぎないのです。いのちを造られたのも、いのちを取りあげられるのも神御自身です。だから、命を再びお与えになるのもまた神の力にとって当然可能なことなのです。奇跡を行なうことができないならば、それは神ではありません。それは自然法則にしばられた被造物にすぎないのです。

 まことの神は、命を造り、命を与え、命を奪い、また信じる者に再び命をお与えになることのできるお方なのです。

 

(結び)

 今日でもサドカイ派のような神学者や牧師や小説家などがいます。これは18世紀、19世紀の啓蒙主義哲学、デカルト、カント、ヘーゲルの哲学の影響を受けた自由主義キリスト教といいます。自由主義キリスト教でいう自由とは、聖書と教会の伝統から理性が自由であるということです。理性の方が聖書より上という立場です。

  1910年のアメリカ合衆国長老教会大会で、自由主義キリスト教えに対して、聖書主義に立つ5つの基本信条が確認されました。

1 聖書は誤りのない神のことばであること(Inerrancy of the Bible)

2 イエス・キリストの処女降誕と神性(イザヤ7:14) (The virgin birth and deity of Jesus Christ)

3.キリストの代償的贖罪の教理(ヘブル9章) (The doctrine of atonement)

4.イエス・キリストの体の復活(マタイ28) (The bodily resurrection of Jesus Christ)

5.イエス・キリストの再臨 (The bodily second coming of Jesus Christ )

 自由主義キリスト教は、近現代のサドカイ派です。今日、一般の書店で手に入るキリスト教関係の書物の多くは自由主義キリスト教の影響を色濃く受けています。彼らは一流の知識人として自他共に認めるような人々です。その昔、イスラエルサドカイ派の祭司連が主イエスの時代のローマ帝国に対するユダヤ教の顔役であったのと同じです。

 しかし、主イエスは彼らにおっしゃるに違いありません。

 「あなたがたは、聖書も神の力も知らない。」                              

  私たちは、主イエスに倣って、聖書の一言一句を生ける神のことばと信じます。また、主イエスに倣って、死者をよみがえらせる力をもっていらっしゃる生ける神を信じます。それこそ主イエスの弟子にふさわしい信仰です。