Miz牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

神のものは神に

マルコ12:13-17

 

2017年6月25日 苫小牧主日礼拝

 

1 背景

 

 イエス様がエルサレムに入ると、つぎつぎに宗教家たちが論争を挑んできました。イエス様に難問をふっかけて、公衆の面前で立ち往生させてやれば、イエスの人気も衰えてしまうだろうと考えていたのでしょう。今回、パリサイ人たちはヘロデ党の者たちといっしょにエスのところにやって来たとあります。パリサイ派とヘロデ党はもともと犬猿の仲でした。パリサイ派国粋主義民族主義的ですから反ローマ的でした。他方、ヘロデ党の人々は、ローマ帝国の傀儡政権であるヘロデの王家を支持していた親ローマ派でした。けれども、イエスを葬り去るということに関しては、彼らはそうした節操もなく、共謀していたというわけです。

12:13 さて、彼らは、イエスに何か言わせて、わなに陥れようとして、パリサイ人とヘロデ党の者数人をイエスのところへ送った。

 彼らはイエスが言い逃れをしたり、ごまかしたりしないように、あらかじめこんなことを言います。

12:14 彼らはイエスのところに来て、言った。「先生。私たちは、あなたが真実な方で、だれをもはばからない方だと存じています。あなたは人の顔色を見ず、真理に基づいて神の道を教えておられるからです。

 彼らが用意した罠というのは、ローマ帝国皇帝カイザルに対する納税問題でした。当時のイスラエルローマ帝国の属州とされていました。属州というのはある程度自治を認められながらも、肝心なところはローマ帝国から派遣された総督に牛耳られているという体制のありかたでした。今イエス様がこられたユダヤ地方の人々は、ローマ帝国政府とユダヤ最高議会との下に置かれていて、ローマ帝国政府に対しても納税しなければならないという状況にあったわけです。

 ヘロデ党の人々は、親ローマ主義ですから、当然カイザルに税金を納めるべきであるという立場で、パリサイ派イスラエルは神の王国であるから、異邦人のローマ政府、異邦人の皇帝に税金を納めることは間違っているという主張をしていたわけです。そこでイエスがカイザルに納税すべきだというならば、パリサイ人たちがイエスをそれは律法に反することだと非難するための論陣をはるつもりで、逆に、イエスがカイザルに納税すべきではないと言ったならば、ヘロデ党はイエスローマ皇帝に反逆するものだと訴えることができると考えていたわけでしょう。

12:14後半 「ところで、カイザルに税金を納めることは律法にかなっていることでしょうか、かなっていないことでしょうか。納めるべきでしょうか、納めるべきでないのでしょうか。」

 

2 イエスの答え

 

 主イエスは、彼らに貨幣を見せよとおっしゃいます。彼らは1デナリ貨幣を差し出します。5千円札か1万円札にあたる貨幣です。カイザルの肖像が刻まれています。

 12:15 イエスは彼らの擬装を見抜いて言われた。「なぜ、わたしをためすのか。デナリ銀貨を持って来て見せなさい。」

12:16 彼らは持って来た。そこでイエスは彼らに言われた。「これはだれの肖像ですか。だれの銘ですか。」彼らは、「カイザルのです」と言った。

そこで、イエス様は、さらりとおっしゃいます。

 12:17「カイザルのものはカイザルに返しなさい。そして神のものは神に返しなさい。」

 

エス様はなにをおっしゃりたいのでしょうか。「神は、あなたたちに天の国籍とこの世の国籍とを与えてくださっている。ところが、君たちは天の国籍と地上の国籍をゴチャゴチャにしているから、そういう混乱に陥っているのだ。地上の国籍にかんする義務はカイザルに対して果たせばよいし、天の国籍にかんする義務は神に対して果たすのが正しいことなのだ。」ということです。

 使徒ペテロは、きっと主イエスのことばを思い出しながら、国家権力というものは、神が立てた神のしもべですから、それなりに敬意をはらうべきであると教えています。1ペテロ2章12-15節

2:12 異邦人の中にあって、りっぱにふるまいなさい。そうすれば、彼らは、何かのことであなたがたを悪人呼ばわりしていても、あなたがたのそのりっぱな行いを見て、おとずれの日に神をほめたたえるようになります。 2:13 人の立てたすべての制度に、主のゆえに従いなさい。それが主権者である王であっても、 2:14 また、悪を行う者を罰し、善を行う者をほめるように王から遣わされた総督であっても、そうしなさい。 2:15 というのは、善を行って、愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころだからです。

 また、使徒パウロは、神が国家権力に与えた務めと、私たちキリスト者の地上の国籍に関する義務について、ローマ書13章1-7節で、少し敷衍して述べています。

「13:1 人はみな、上に立つ権威に従うべきです。神によらない権威はなく、存在している権威はすべて、神によって立てられたものです。

 13:2 したがって、権威に逆らっている人は、神の定めにそむいているのです。そむいた人は自分の身にさばきを招きます。

 13:3 支配者を恐ろしいと思うのは、良い行いをするときではなく、悪を行うときです。権威を恐れたくないと思うなら、善を行いなさい。そうすれば、支配者からほめられます。

 13:4 それは、彼があなたに益を与えるための、神のしもべだからです。しかし、もしあなたが悪を行うなら、恐れなければなりません。彼は無意味に剣を帯びてはいないからです。彼は神のしもべであって、悪を行う人には怒りをもって報います。

 13:5 ですから、ただ怒りが恐ろしいからだけでなく、良心のためにも、従うべきです。

 13:6 同じ理由で、あなたがたは、みつぎを納めるのです。彼らは、いつもその務めに励んでいる神のしもべなのです。

 13:7 あなたがたは、だれにでも義務を果たしなさい。みつぎを納めなければならない人にはみつぎを納め、税を納めなければならない人には税を納め、恐れなければならない人を恐れ、敬わなければならない人を敬いなさい。」

 

この世の権力者に神様が託した仕事は、①警察権をもって社会の秩序を維持することと、②税金を集めて富の再分配をして貧富の格差を是正することを初めとする国民の福利です。だから、私たちが彼らに協力して税金を納めることは神のみこころにかなっているのです。

 

3 カイザルは悪魔にとりつかれると「神のもの」を欲する

 

 ですが、もう一つ大切なポイントがあります。主イエスは、「カイザルのものはカイザルに、そして、神のものは神に」とおっしゃったことの後半「神のものは神に」です。

新約聖書を見ると、えてしてこの世の権力者というものは「カイザルのもの」に満足せず、「神のもの」までも欲しがる性質があると教えられています。「カイザルのもの」とは、先ほど申しましたように、社会秩序を維持することと、富の再分配によって貧富の格差を是正することというふうに、「世俗的業務」のことです。そして、その業務に携わっている者として、それなりの敬意を国民から払ってもらうことです。しかし、聖書によればこの世の権力者はしばしば「神のもの」に手を出してきました。

 1サムエル13章1-15節をあとでごらんください。紀元前11世紀、預言者サムエルの時代、サウルという王がいました。彼は最初は謙遜そうな人物だったのですが、途中おかしくなります。ギルガルでペリシテ人との戦があったとき、戦いの前に神にいけにえをささげる儀式をしなければなりませんでした。その務めは預言者であり祭司であるサムエルが果たすことと定められていたのです。ところがサムエルの到着が遅れているので、サウル王はあせって自分がこの儀式を執り行ってしまったのです。サウル王は、これによって神の怒りを買い、結局、彼は滅ぼされてしまいます。

 もう一つ2歴代誌26章。南北朝時代、紀元前8世紀のウジヤ王も同じような過ちを犯しました。ウジヤ王は神から力と知恵を与えられて外交においても、また農業政策においても成功を収めて、国内は安定しました。そのとき国民はそのことを感謝するためにエルサレム神殿に出かけて行ったのです。ところが、王は面白くありません。彼の目には、民が感謝すべきは自分であるのに、民は祭司たちに感謝をしに行っているように見えたのでした。そこでウジヤは、自ら神殿にずかずかと入って行き、祭司にのみ許されていた神の前に香をたくということをしようとしたのです。その瞬間、神はウジヤ王を撃ちました。彼は残りの生涯、ツァラートで世間から隔離されて生活しなければなりませんでした。

 古代教会の時代にはローマ帝国は、皇帝礼拝を国民に求めるようになりました。各地に皇帝の偶像を設置して、これを拝むならよし、拝まないならば極刑に処するということでした。やはり、世俗業務のみ任されたカイザルでありながら、己が分を越えて「神のもの」までも欲しがったのです。

 黙示録13章はこうした権力者の行動の霊的背景を教えています。権力者は、サタンの影響を受け、魂を売り渡し、その代わりにサタンから力と権威と位を受けるとき、世俗的業務だけでは我慢ができなくなり、自ら聖なるものに手を出し、時には自分に対する礼拝までも求めるようになるのです。しかし、それは必ず悲惨な結果を、権力者自身だけでなく、国民にももたらすことになります。

 ですから、私たちは聖書が勧めるように、為政者がその分をわきまえて、謙遜に誠実のその務めを果たすように祈らねばなりません。

 

4 近代日本の場合

 

 近代日本ではどうでしょうか?江戸時代は幕藩体制下にあって、この列島の住民たちは「長州人」「薩摩人」という風に思っていて「日本人」という意識は、ほとんどなかったと言われます。けれども、江戸末期・明治の最初に、伊藤博文たちが世界を視察した結果、「日本列島の中でこんなにバラバラでは、インドや中国のように、この日本も植民地にされてしまう」という危機感をいだきました。そこで、なんとかしてこの列島の住民全員に「日本人」という意識をもたせなければならないと考えました。

それで伊藤博文は、キリスト教のマネをして天皇を中心とする国家神道をつくりました。それまでこの列島にはあちこちに神社や祠はあっても特定の教義も、統一した組織もありませんでした。それを伊勢神宮を頂上に置いて全国の神社を格付けし、神仏まぜこぜの神社からは仏像を廃棄して、明治23年以降は教育勅語で学校教育を通して国民の中に国家神道を浸透させました。

それで、日本人は小学校に上がる前から一旦戦争となれば、天皇のために命を捨てることこそが、最も価値ある死に方であるという教義を刷り込まれてゆきます。日清戦争日露戦争第一次世界大戦、そして満州事変(満州侵略)に始まり、原爆投下で終わる昭和15年戦争を経験してゆくわけですが、このころにはすでに日本人はみな国家神道を子どものころから刷り込まれた世代ばかりになって熱狂し、戦争に突入したのです。

戦争になると思想統制・宗教統制が厳しくされ、最初共産主義者を取り締まるためにつくられた治安維持法は、改変されてゆき、自由主義思想を持つ人々、そして、神社参拝を拒否するキリスト者も取り締まられることになりました。治安維持法で逮捕された人々は、日本本土と朝鮮半島で9万3000人以上にのぼります。194人が取調べ中の拷問・私刑によって死亡し、更に1503人が獄中で病死したといいます。そして先の戦争では、実に300万人の日本人が命を落とし、2000万のアジアの人々が犠牲となって、戦争は終わりました。

国家権力が「カイザルのものはカイザルに」ということに満足せず、「神のもの」までも自分のものとして奪い取ろうとするときに、これほど悲惨な結果を生むことになります。

敗戦の翌々年1947年発布された日本国憲法第20条に政教分離原則が明示されました。もはや、国は国家神道をもって国民を洗脳してはならないと厳格に定められています。「第三項 国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない。」

 

「カイザルのものはカイザルに。そして神のものは神に。」政府が、この原則を厳格に守るようにとりなし祈ることはキリスト者の務めとして非常にたいせつなことです。

 

祈り

「2:1 そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。 2:2 それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。」