Miz牧師の説教庫

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「あなたはどこにいるのか」

創世記3章8-15節

2017年6月15日 北海道聖書学院チャペルI

 

1 園を歩き回る主の声

3:8 そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回られる神である【主】の声を聞いた。

それで人とその妻は、神である【主】の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。

 

 

 「園を歩き回られる神である主の声」という不思議な表現に、心ひきつけられます。主なる神は天地万物の創造主であり、無限のお方であり、絶対者であり、超越者でいらっしゃいます。しかし、主なる神は、園を歩き回って人に親しく声をかけてくださるお方なのです。この表現を比喩としてとることも可能でしょうが、創世記にはアブラハムに対して旅人の姿をして現れてくださった主の姿(創世記18章1節)、ヤコブとすもうを取ってくださった主の姿(創世記32章22-30)も出てくるのですから、エデンの園を歩き回られる主の声をそのことばどおりに取るほうが妥当であると思います。

古代教父エイレナイオスは「園を歩き回られる神である主の声」は、三位一体の第二位格つまり受肉以前のロゴスを指していると理解しています。「見えない神のかたち」である御子が、啓示において私たち有限な人間にとっては見えない絶対者である父なる神を、私たちにも見えるようにしてくださる役割を担ってくださるお方であることからすれば、エデンの園において最初の夫婦と親しく交わられたお方は、三位一体の第二位格である御子だと推論することには一理あります。

というわけで、私たちは聖書の第一巻である創世記の第三章、エデンの園の記述において、すでに、後に人となって私たちの間に住まわれ、あの緑したたるガリラヤの地を歩き回られる御子の影をここに見ることができるのです。讃美歌のこんな一節を彷彿とします。

「緑も深き 若葉の里 ナザレの村よ 汝がちまたを こころきよらに行き交いつつ 育ちたまいし 人を知るや」

天地万物の主であるいとも高きお方は、同時に、御子において私たちにとっていとも近きお方なのです。アダムと妻は、神に背いてしまう前には、主なる神と親しい人格的交わりを経験していました。日中の強い日差しが去って「そよ風の吹くころ」になると、「主なる神の声」はいつも園を歩いて回られて、アダムと妻と親しい交わりのときをもたれたのでしょう。「アダムよ、女よ、今日、園の中ではどんなことがあったんだい?」と主に問われると、アダムは喜びに満ちて「主よ。今日は、あのスズカケの木の枝にかけられた小鳥の巣の卵がかえって、雛が三羽生まれました。どの子も元気です。」などと報告します。主は目を細めて、いっしょに喜んでくださる。・・・そんな平和な神と人と被造物の親しい交流が、エデンの園にはあったのでした。エデンの園というのは、神がわれらとともにいます場つまりインマヌエルが現実であった場でした。

 

2 主の御顔を避けて

 

 ところが残念なことに、今日はちがいました。主の御声が聞こえると、「人とその妻は、神である【主】の御顔を避けて園の木の間に身を隠した」のです。

 禁断の木の実を食べたとたん、アダムと妻は己の裸を恥じました。前回まなんだように、特に自分でもコントロールできなくなってしまった性器を見られることを恥じるようになりました。そして、いちじくの葉をもってその裸の恥を隠そうとするようになりました。隣人に対して、自分を隠そうとするようになったのです。

 アダムにとって妻は敵になりました。妻に弱みを見せれば、そこを攻撃されるのではないかとびくびくし、妻も夫に弱みを見せまいとするようになります。イチジクの葉は、そういう恐怖の表れです。やたらと自分の経歴や門閥を誇ったり、必要以上に名刺に肩書きをずらずら書き連ねるというのは、実は、神と隣人との喜ばしい人格的交わりを失い、孤立してしまった人間が身に着けたイチジクの葉なのでしょう。

 

 そして、今度は、主が歩いて来られると、「人とその妻は、神である主の御顔を避けて、園の木陰に身を隠」そうとしたのです。木の実を食べる前には、あれほど喜ばしかった主なる神の御顔は恐ろしいものとなりました。聖書において「主の御顔を見る」ことができるというのは、人間にとって至福felicityを意味します。

 主イエスは「心の清い者は幸いです。その人は神を見るからです。」と山上の祝福においておっしゃいました。

 使徒パウロは「 今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります。」(1コリント13:12)と言いました。

 そして、ヨハネが幻のうちに見せられた完成したエルサレムでは、「 22:3 もはや、のろわれるものは何もない。神と小羊との御座が都の中にあって、そのしもべたちは神に仕え、

 22:4 神の御顔を仰ぎ見る。」(黙示録22:3,4)とあります。

 しかし、アダムとその妻が神に背いて以来、人はこの至福を喪失し神の御顔を避けるようになったのです。旧約聖書には何人かの人々が、神の御顔を見たという経験をしていますが、みな「死んでしまう」と恐怖におののいています。なぜですか。それは、心が罪にけがれてしまったからです。罪に汚れた心の目には、聖なる神の御顔はただ恐ろしいものとしか映らないのです。

 人間は、本来、造り主である神との人格的交わりと、神のかたちにおいて造られた隣人との人格的交わりのうちに生きているものでしたが、神の戒めに背いたとき、孤立してしまったのです。

 

3 あなたはどこにいるのか?[1]

 

 御顔を避けて身を隠した彼、アダムに神は声をかけます。

 3:9「あなたは、どこにいるのか。」

 特にアダム夫婦の場合、神は夫であるアダムを契約のかしらとして認めていらっしゃいますから、まずアダムに責任を問われたのです。しかし、アダムは言います。

 3:10 彼は答えた。「私は園で、あなたの声を聞きました。それで私は裸なので、恐れて、隠れました。」

 3:11 すると、仰せになった。「あなたが裸であるのを、だれがあなたに教えたのか。あなたは、食べてはならない、と命じておいた木から食べたのか。」

 3:12 人は言った。「あなたが私のそばに置かれたこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」

 

 主は「あなたは」と問われたのに、アダムは「女は」と答えます。妻と神に、自分の責任を転嫁しました。「あの女が私に取ってくれたんですよ。あんな女をくれたのは、あなたではありませんか。」というのです。神の裁きの御座の前では、私たちはそれぞれ自分の行ないに応じてさばかれるのです。ほかの人の行ないに応じてではなく、自分の行ないに応じてです。ですから、私たちは裁きの御座の前では「私」にならねばなりません。しかし、神である主の御顔をさける者となって以来、「あの人が」「みんなが」というのです。

 

 夫のセリフをかたわらで聞いていた妻は、目の前が真っ暗になったでしょう。ほんの少し前、何も隠す必要がないほどに信頼していた夫が、今は、自分を聖なる審判者の前に「こいつが悪いんですよ」と突き出して、わが身を隠そうとしているのですから。

 神に背いたとき、人間に何が起こったのでしょうか?

第一に、人は自分自身をコントロールすることできなくなりました。人のうちの欲望は、彼の意志を無視してしばしば暴走するようになりました。人は自分自身との関係において、不調和をきたすようになりました。

第二に、隣人との信頼関係にもひびが入ってしまったのです。人は隣人ではなく、警戒すべき敵となってしまいました。また、愛すべき対象でなく、自分のために利用すべき対象となってしまったのです。

 

4 蛇が

 

次に神は女を追及しますが、今度は、女は蛇(サタン)に責任を転嫁します。

 3:13 そこで、神である【主】は女に仰せられた。「あなたは、いったいなんということをしたのか。」女は答えた。「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べたのです。」

 たしかに蛇が女を惑わしたのは事実です。しかし、神に対するこの答えは適切だったでしょうか。いいえ。これはまさにサタンの思う壺でした。サタンはほくそえんだに違いありません。なにしろ悪の権化であるサタンは「サタンが悪いんです」と言われたら小躍りして喜ぶでしょう。彼にとっては、悪いと言われるほど名誉なことはありませんから。また、悪魔に責任転嫁するとき、人は悪魔の仲間になってしまうからです。

 言っても詮無きことですが、もしアダムとその妻が、神の前にそれぞれに自分の非を認めたならば、サタンの計略の半分は破れたことでしょう。しかし、アダムと妻はまんまとサタンの計略にかかって、それぞれの責任を認めませんでした。

 

 教義学の項目の中に、天使論があり、そこで悪魔論が扱われ、悪魔論において、悪の起源論が扱われるのです。しかし、ベルカウアーという神学者は、悪の起源について論じることについて警告を発しています。悪の起源を論じるとき、人はちょうど最初のアダムがしたように、自分の罪の言い訳をする材料を見つけたり、罪の自覚を薄めてしまうということがありうるからです。だとすれば、それはすでに悪魔の罠に落ちているということです。

 今日、黙示文学研究の影響で、罪を聖なる神の前における個人の責任というとらえ方をせず、悪魔や悪霊どもの力としてとらえる向きが聖書神学の中に流行しつつあります。たしかにヨハネ黙示録などを見ると、悪魔・国家権力・偽預言者・大バビロンといった悪の勢力が現れていますから、これらをきちんと認識し、悪魔の計略にとりこまれないように警戒することも大切なことです。しかし、聖なる審判者の前に一人立つとき、悪魔論を論じても何の役にも立ちません。

 悪魔は誘惑はするでしょう。しかし、悪魔はあなたを罪に強制はしません。誘惑されたにしても、悪を犯すと決めたのはあなた自身の責任なのです。ですから、神は「あなたはどこにいるのか?」と問うてくださるのです。ですから、「あなたはどこにいるのか?」と問われるならば、私たちは「私は、この悲しみに満ちた世界におります。ああ、私は罪人のかしらです。」と答えるほかありません。その時、悪魔の計略は破れ、福音の扉が開かれるのです。

 

5・希望

 

罪と悲しみに満ちた世界に住む人間に、神様は一つの約束を、ヘビに対するのろいの中で告げてくださいました。すなわち、女の子孫がサタンに対して勝利を収める日が来るのだという約束です。これは、メシヤつまりキリストの到来を告げる聖書中最初の預言で、原福音と呼ばれます。

3:15 わたしは、おまえと女との間に、また、おまえの子孫と女の子孫との間に、敵意を置く。彼は、おまえの頭を踏み砕き、おまえは、彼のかかとにかみつく。

 

 サタンは来るべき救い主キリストのかかとに噛み付いた瞬間、ニヤリと笑うのですが、その次の瞬間、キリストのかかとによって頭を踏み砕かれるのです。これは何を意味しているのでしょうか。サタンがイスカリオテ・ユダの心に入り、ユダが人々をけしかけてキリストを十字架につけたとき、サタンは快哉の叫びを上げたのですが、三日目の復活によって、その出来事が人類を罪の呪いから救い出すためのわざであったことが明らかにされた、あの出来事を暗示しているようです。

 人間は罪に陥りました。善悪の知識の木からとって食べるという、神の主権を拒否する決定的な罪を犯したのです。しかし、人間には取り返しがつかなくとも、神はただちに救いのために手を打ってくださいました。今、私たちは長らく待望された救い主を私たちの救い主として与えられています。

 神の前に、「あの人が」「悪魔が」という言い訳をするのはやめましょう。「私はここにおります。私が罪を犯しました。」と告白しましょう。神は、キリスト・イエスの十字架の死と復活に免じて、あなたの罪を赦し、悪魔の束縛から、あなたを解放してくださいます。キリストにあって、神の御顔はもはや恐怖ではありません。園を歩き回られる主の御声は、私たちにとって慕わしく喜ばしいものとなったのです。

 

[1] ヘブル語本文には「あなたは」はなく、単に「どこにいるのか」のみ。