神のぶどう園
マルコ12:1-12
2017年6月11日 苫小牧
序
「何の権威でもって、あなたはこんなことをしているのか?」エルサレムに入城し、イエス様が宮きよめをし、宮の中で民を教えていることに対して、宮の管理責任者である祭司長・長老たちは抗議をしました。主は、彼らが真理を聴く耳もないことをご存知でしたから、彼らにご自分が神の御子としてこれらのことをしているのだということを、明白には話そうとなさいませんでした。しかし、ぶどう園の譬えによって、事柄の意味を暗示なさいます。 今、私たちは、この譬えが何を意味するのかを明白に知ることができます。まず、このたとえ話の登場人物が誰をさしているかを申し上げます。
ぶどう園は神の国。
ぶどう園の主人は、父なる神。
農夫たちは、イスラエルの指導者である祭司、長老たち。
主人が遣わしたしもべたちは、神がイスラエルに遣わした預言者たち、イザヤ、エレミヤ、エリヤといった人々、最近ではバプテスマのヨハネ。
主人の息子は、御子イエス。
主人がぶどう園を委ねる「ほかの人たち」は、ユダヤ人・異邦人を含めた新約の時代の教会を指しています。
というわけで、このたとえはぶどう園の歴史、つまり、旧新約聖書にわたる神の民の歴史、救いの計画を教えています。
1.シナイ契約
12:1 それからイエスは、たとえを用いて彼らに話し始められた。
「ある人がぶどう園を造って、垣を巡らし、酒ぶねを掘り、やぐらを建て、それを農夫たちに貸して、旅に出かけた。
父なる神は、アブラハムの子孫であるイスラエルの民をお選びになりました。それは、彼らが祭司の王国、聖なる国民として世界の万民に、主の恵みとまことをあかしするためです。そのため、彼らに真の神を礼拝し、互いに愛しあう公正な社会をつくるための律法を授けられたのでした。具体的に言えば、十戒。<①あなたにはわたしのほかに他の神々があってはならない。②あなたは自分のために偶像を作ってはならない。③あなたは主の御名をみだりに唱えてはならない。④安息日をおぼえてこれを聖なる日とせよ。⑤あなたの父母を敬え。⑥殺してはならない。⑦姦淫してはならない。⑧盗んではならない。⑨偽証してはならない。⑩あなたはあなたの隣人のものを欲しがってはならない。
それから、もうひとつ紹介しておきたいのは、神の定めた経済・福祉政策です。神様は貧富の格差拡大を防止するために、神様はイスラエルに対してヨベルの年という制度を設けて、50年ごとに地境をもとに戻し、奴隷は解放すると定めておられました。一握りの大土地所有者と、大多数の貧乏人・奴隷という格差社会になることを主は嫌われたのです。神様は公平な国を建てるためのガイドラインをイスラエルにその建国の最初にお与えになっていたのです。その内容は出エジプト20章以降とレビ記に記されています。
以上のことが、「ぶどう園を造って、垣を巡らし、酒ぶねを掘り、やぐらを建て、それを農夫たちに貸した」ということばの意味することです。神様からイスラエル国を託された指導者たちはこの国を、神のみこころが行われる社会として営むべきでした。それでこそ、イスラエルが「祭司の王国、聖なる国民」として世界の万民に、まことの神をあかしすることができます。
2.イスラエルの罪と預言者たちの派遣
けれども、その後のイスラエルの歴史を見ますと、残念なことに、彼らは神の前に二つの罪を犯しました。第一は、偶像礼拝です。ソロモンの後、イスラエルの国は南北に分裂し、エルサレム神殿のない北イスラエル王国では、代わりに金の子牛礼拝が行われるようになります。南ユダ王国はエルサレム神殿がありましたから、主なる神への礼拝は途絶えることはなかったものの、この神殿の中にバアルとかアシュタロテといったカナン人たちの神々や、王がした政略結婚の相手の妃たちが持ってきた偶像を持ち込んで、主なる神と並べて偽りの神々を拝むという罪を犯したのでした。
イスラエルの第二の罪は、「みなしご、やもめ、在留異国人」といった貧しい人々の訴えが取り上げられない不公正な社会、貧富の格差の甚だしい社会を来たらせてしまったということでした。あのヨベルの年の定めは、実行されなかったので、富む者はますます富み、貧しい者はますます貧しくなって、巨億の富を蓄えて贅沢三昧するほんの一握りの階級と、明日の食べ物も心配で飢えに瀕している大多数の庶民とに分かれてしまったのです。不公正、不公平な社会となってしまったのです。
そこで、神様は悔い改めを促すために、エリヤ、エリシャ、イザヤ、エレミヤ、ホセア、アモス・・・といった預言者たちを派遣なさいました。それが、たとえ話の34節に言われていることです。
12:2 季節になると、ぶどう園の収穫の分けまえを受け取りに、しもべを農夫たちのところへ遣わした。
神様から派遣された預言者たちはなにをイスラエルに告げたのでしょうか。彼らは悔い改めをうながしました。悔い改めて「祭司の王国、聖なる国民」として実をみのらせなければ、遠くから恐ろしく強い国を攻め寄せさせて滅ぼしてしまうぞ、という警告です。 預言者イザヤは、彼らの偶像の宮と化したデラックスな神殿礼拝を責めました。また、イスラエルがみなしご、やもめ、在留異国人といった貧しい人々を虐げて、金持ちをのみ偏り優遇している不公正を非難しました。
1:13 もう、むなしいささげ物を携えて来るな。
香の煙──それもわたしの忌みきらうもの。
これにわたしは耐えられない。
1:14 あなたがたの新月の祭りや例祭を、わたしの心は憎む。
それはわたしの重荷となり、わたしは負うのに疲れ果てた。
1:15 あなたがたが手を差し伸べて祈っても、わたしはあなたがたから目をそらす。
どんなに祈りを増し加えても、聞くことはない。
あなたがたの手は血まみれだ。
1:16 洗え。身をきよめよ。わたしの前で、あなたがたの悪を取り除け。
悪事を働くのをやめよ。
1:17 善をなすことを習い、公正を求め、しいたげる者を正し、
みなしごのために正しいさばきをなし、やもめのために弁護せよ。」
ところが、王、祭司、長老たちは悔い改めるどころか、預言者たちを迫害します。イザヤの最期はのこぎり引きの刑であったと伝えられますし、エレミヤもエリヤも弾圧されました。旧約最後の預言者は、あのバプテスマのヨハネでした。彼もまた、王の不正を責めた結果、投獄され斬首されてしまいました。これが主イエスが3-5節でおっしゃっていることです。
12:3 ところが、彼らは、そのしもべをつかまえて袋だたきにし、何も持たせないで送り帰した。 12:4 そこで、もう一度別のしもべを遣わしたが、彼らは、頭をなぐり、はずかしめた。 12:5 また別のしもべを遣わしたところが、彼らは、これも殺してしまった。続いて、多くのしもべをやったけれども、彼らは袋だたきにしたり、殺したりした。
3.御子の派遣と殺害
預言者たちを何人送ってもイスラエルは悔い改めないので、父なる神は最後に尊いひとり子イエス様を人間として派遣なさいました。
12:6 その人には、なおもうひとりの者がいた。それは愛する息子であった。彼は、『私の息子なら、敬ってくれるだろう』と言って、最後にその息子を遣わした。
「はじめにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。この方ははじめに神とともにおられた。・・・・ことばは人となって私たちの間に住まわれた。」とあるとおりです。御子は御父と瓜二つのお方なので、御子を見た者は父を見るのです。御子イエスの言葉を聞き、生き方を見ると、私たちは父なる神のことば、ご人格を見ることができます。
しかし、御子イエスの恵みと真実に満ちた生き方と言葉は、当時のイスラエルの指導者たちの欺瞞に対する痛烈に批判となりました。当時のイスラエルは、国家としてはローマ帝国に主権を奪われていたものの、神殿礼拝は空前絶後の経済的物質的繁栄を見せていました。けれども、神の御子が現に来られて彼らをごらんになると、そこには欺瞞、偽善だらけだったのです。異邦人の庭では特別値段の吊り上げられたいけにえ用の動物が売られ、両替商がおり、その上前を神殿経営者たちがはねていたのです。主イエスが恵みを説き、真理の道を歩まれると、彼らの偽りがあからさまにされてしまい、群衆はイエスのもとに集まったのでした。指導者たちは、妬みにかられて御子イエスに対して怒りを燃やし、殺害することに決めてしまうのです。 12:7 すると、その農夫たちはこう話し合った。『あれはあと取りだ。さあ、あれを殺そうではないか。そうすれば、財産はこちらのものだ。』
12:8 そして、彼をつかまえて殺してしまい、ぶどう園の外に投げ捨てた。
御子イエスは数日後には、イスカリオテ・ユダによって祭司長・長老たちの手の者に渡されてしまいます。たとえ話に「ぶどう園の外に」とあるのは、ご自分がエルサレム城外のゴルゴタの丘の上で、十字架にかけられて殺されてしまうことをイエス様はあらかじめ知っておられたからです。このように、主イエスはこのたとえ話によって、まもなくわが身に起ころうとしていることを正確に予告なさったのです。
そして、主イエスは続けます。
12:9 ところで、ぶどう園の主人は、どうするでしょう。彼は戻って来て、農夫どもを打ち滅ぼし、ぶどう園をほかの人たちに与えてしまいます。
悪い農夫どもは祭司長、長老たちです。ローマ帝国軍はイスラエルを滅ぼしエルサレムの神殿を破壊してしまいます。そして神の国は彼らから取り上げられて、「ほかの人たち」つまり、民族の垣根を取り払った新約の時代の教会に渡されることになるのです。
4.石・・・御子イエス
そして、主イエスは旧約聖書詩篇118篇22節のみことばを引用なさって、ご自分と彼ら祭司長・長老たちに数日後に起ころうとしていることを予告なさいます。
12:10 あなたがたは、次の聖書のことばを読んだことがないのですか。
『家を建てる者たちの見捨てた石、それが礎の石になった。
12:11 これは主のなさったことだ。
私たちの目には、不思議なことである。』」
石を積み上げて神殿を建設していくとき、この石はあちらの場所に、あの石はこちらの場所に、と適材適所を考えながら積み上げていきます。ところが、家を建てる者たちが、「この石はどこにも使えないな」という石が出ると、その石を捨ててしまいます。そのことを頭に描いてください。
さて、「家を建てる者たち」とは、神殿礼拝を司る祭司長・長老たちのことをさしています。家とは、神の家つまり神殿を意味しています。祭司長長老たちのところに神の御子イエスが来られて、真理のみことばを説いたのですが、彼らは、自分たちが作り上げた神殿宗教のありかたに合わない、危険思想であるといって捨ててしまいました。つまり、彼らは策略をめぐらして主イエスを十字架にかけて殺してしまうのです。
しかし、その祭司長、長老たちに捨てられた石であるイエスが世界に広がる新約の時代の神の家すなわち教会の礎の石となられたのです。今も、イエス・キリストをかしらとする神の家は世界に拡大し続けています。不思議なことです。人間の思いはかりを超えた、神のわざ、神の知恵です。
この譬えを最後まで聞いて祭司長たちは、ようやくその譬え話が自分たちをさして言われたことに気づきました。「ぶどう園の悪党ども」とは自分たちのことを指しており、また、あの「石」はイエスのことだから、イエスにつまずいている自分たちは、いずれうち滅ぼされてしまうのだとイエスが話したことに気づいたのです。彼らは腹を立てて、もう黙ってはいられない、イエスを逮捕して殺してしまいたいと思いましたが、群衆が怖くてイエス様に手出しできなかったのでした。
12:12 彼らは、このたとえ話が、自分たちをさして語られたことに気づいたので、イエスを捕らえようとしたが、やはり群衆を恐れた。それで、イエスを残して、立ち去った。
結び・適用
主イエスが詩篇を引用して話されたこの捨てられた石のことは弟子たちにとって印象深いことでしたから、ペテロの手紙第一2章4-8節にも取り上げられています。特にペテロの手紙第一2章4-6節には次のようにあります。
「2:4 主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが、神の目には、選ばれた、尊い、生ける石です。 2:5 あなたがたも生ける石として、霊の家に築き上げられなさい。そして、聖なる祭司として、イエス・キリストを通して、神に喜ばれる霊のいけにえをささげなさい。 2:6 なぜなら、聖書にこうあるからです。「見よ。わたしはシオンに、選ばれた石、尊い礎石を置く。彼に信頼する者は、決して失望させられることがない。」」
霊の家とは教会、聖なる公同の教会のことです。石造りの礼拝堂がイメージされています。スペインのバルセロナにあるサグラ・ダ・ファミリア教会をご存知でしょう。1882年に建築が始まり、今も建築途上で、2026年に完成予定だそうです。その礎の石はイエス様です。そして、初代教会の時代から何百億、何千億という聖徒たちが一人また一人と、生ける石としてこの壮大な神殿を築き上げてきました。今、その神殿は完成に近づいています。私たちもその聖なる公同の教会一部をなしています。あなたも生ける石です。この聖なる公同の教会はついに完成するときに、主イエスが再臨なさるのです。その日の幻を胸に、主の教会、霊の家に築き上げられてゆきましょう。
そのために、私たちはこの譬えから学んだ教訓を確認しておきましょう。イスラエルの民は馬鹿だなあと言っていてはいけません。反面教師とし、自らを戒めることが大事です。まず、まことの神を礼拝し偶像崇拝という罠に陥らないことです。また、弱い立場の人々に配慮する教会であるようにということです。