Miz牧師の説教庫

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聖霊に満たされよ

エペソ5:15-21

2017年6月4日 苫小牧ペンテコステ主日礼拝

はじめに

  ペンテコステとは五旬節つまり五十日目の収穫祭りです。旧約時代にはイスラエルの中にとどめられていた神の国が、この日から世界に拡大します。世界という畑でのたましいの収穫が始まったのです。

 イエス様は十字架にかかり、復活されてから、四十日目に弟子たちの見ている前で天の父のもとに戻って行かれました。そのときに、イエス様は「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます。」と、助け主として聖霊を送ることを約束なさいました。そして、事実、五旬節に、120名ほどの弟子たちがともに祈っているところに聖霊が降られたのです。

 聖霊(御霊)というお方は、三位一体なる神様の第三のご人格です。たんなる力ではなく、力あるご人格です。父なる神が救いを計画・主宰され、御子イエスがその計画を実行するために人として地上に下り、十字架にかかってよみがえられて私たちのために救いを勝ち取られました。そして、御霊は主イエスの勝ちとられた救いを、世々の教会の宣教のわざによって、神の民のうちに適用してくださるのです。私たちが二千年前のイエスの死がこの私の罪ためであったと悟ることができるのは、聖霊のお働きによるのです。また、私たちが生涯、主を信じて実りある人生を送ることは聖霊のお助けによるのです。

 

1.「御霊に満たされる」とは?

(1)あらゆるクリスチャン生活の秘訣

さて15節から21節で筆者が一番言いたいことは、18節にある「御霊に満たされなさい」ということです。そして、文脈を見ると、この御霊に満たされるということを前提にして、19節以降の御霊に満たされた夫婦関係、さらに次の章の御霊に満たされた親子関係、御霊に満たされた職場の人間関係が語られていきます。御霊に満たされることが、狭い意味の信仰生活だけでなく、あらゆる家庭生活・社会生活の秘訣なのです。

 

(2)聖霊に繰り返し満たされよ

すべてのクリスチャンは聖霊を受けています。聖霊を受けなければ、人は神様の前に自分の罪を認め、イエス様を主と告白することはできませんから、クリスチャンはみな聖霊を受けているのです。けれども、クリスチャンがいつも聖霊に満たされているとはかぎりません。聖書には「御霊を悲しませてはいけません」とか「御霊を消してはいけません」と警告されています。聖霊を受けているけれど、聖霊のお働きを拒んだり邪魔したりして、ほとんどこの世の人々と変わらないような思いや感情に支配されてしまっていることも残念ながらあると聖書は教えています。クリスチャンだけれど、心の王座にイエス様を迎えておらず、自分中心に生きている状態です。それをキリストに属する幼稚な人とパウロは呼んでいます。

「御霊に満たされなさい」というのは、丁寧に訳すと、ギリシャ語の現在形なので、「御霊に満たされ続けなさい」「御霊に繰り返し満たされなさい」ということになります。そうです。一回御霊を受けたということだけでなく、御霊に繰り返し満たしていただかねばなりません。

 

(3)御霊に満たされることと知性

 まず、15節と18節を見ると、「御霊に満たされる」ということは「どういうことでなく、どういうことであるか」ということがわかります。15節からは、御霊に満たされることは、「賢くない人のようにではなく、賢い人のように歩む」ことです。また16節に進めば、御霊に満たされるとは「愚かにならないで、主の御心は何であるかをよく悟る」ことです。また17節に進めば、御霊に満たされるとは、「酒に酔って放蕩に走らない」ことです。

 このように見てくると、「御霊に満たされる」とは、霊にとりつかれ陶酔して知性が麻痺した愚かな状態になることのように誤解する人がいるようです。しかし、聖書は、御霊に満たされるとは、賢く歩むことであり、主の御心を悟ることだと教えます。つまり「御霊に満たされる」なら、むしろ知性は覚醒するのです。御霊に満たされると、その人の知性の働きはすばらしくなり、御心を悟るようになるのです。

 ただし、その知性というのは、神様に背を向けた無神論的知性ではなく、神様を畏れ、神様を愛し、神様に栄光をお返しする知性です。箴言に、「主を畏れることは知識のはじめである。」とあります。神を畏れない知性は、一見、賢そうにみえますが、実は、肝心かなめのことが欠けています。世間では、さまざまな出来事を理解し説明するにあたって、神抜きで自己中心・人間中心に考えるのが、賢い科学的なことだと思われています。そういう意味で、現代日本の無神論を前提としたような学校教育は、愚かな状態にあります。聖書は言います。「愚か者は神はいないと言っている、彼らは腐っておりいまわしいことを行なっている。」膨大な知識を詰め込んでも、肝心かなめである「神を畏れること」を教えていないので、その知識は「よく生きる」ことに役立たず、逆に、多くの知識がその人の人生と社会を破壊する結果を生んでいるという面があります。

 

しかし、聖霊に導かれた知性は、あらゆる出来事について神様をあがめ、神様の御心を悟り、神様に栄光をお返しするように、神様中心に考えます。私たちはイエス様を信じるときに聖霊を受けますが、クリスチャンであっても、聖霊に満たされないでいると、自分の欲や世間体やテレビが流す情報を基準にして愚かな判断と行動をして、人生をボロボロにしてしまいます。けれども、聖霊に満たされるならば、私たちは神様のみこころを悟って、賢く豊かな人生を歩むことができるようになります。ですから、聖霊に満たされることはたいへん重要なのです。

 

2.聖霊に満たされるならば

 

 御霊に満たされ、神の御心を悟り賢くなったキリスト者は、その結果、まず信仰生活においてはどのような歩みをするでしょうか。18節から20節は原文を見ますと、中心のことばは「御霊に満たされなさい」という一言です。そして、御霊に満たされると、「詩と賛美と霊の歌とをもって互いに語り」、「主に向かって心から歌い、また賛美し」、「いつでもすべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝する」ようになるというのです。そして、21節「キリストを恐れ尊んで、互いにしたがう」のです。これらは御霊に満たされたキリスト者の教会における交わりの姿です。四つの特徴があります。

 

(1)御霊に満たされたなら主にある交わりを大切にする

 第一の特徴は、御霊に満たされたキリスト者は孤立しておらず、交わりがあるということです。「信仰というのは神と私との関係であって、教会にゆく必要などない」という人がいます。そういう人の信仰のイメージは、座禅の坊さんみたいなものなのかもしれません。けれども、イエス様は、「心を尽くし力を尽くし知性を尽くしてあなたの神である主を愛しなさい」という命令と、「あなたの隣人をあなた自身のように愛しなさい」という命令をワンセットでお教えになりました。そもそも聖書の神様は、父と子と聖霊の愛の交わりの神様ですから、御霊に満たされたキリスト者はひとりぼっちでなく、主にある交わりのうちに置かれるのです。

 

(2)御霊に満たされた交わりはキリスト中心である

 第二の特徴は、御霊に満たされたキリスト者の交わりは、人間中心ではなく、みながそれぞれに主キリストに向かっており、主キリスト中心であることです。主に向かって心から歌い、また賛美し」、「いつでもすべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝する」ようになるというのです。「キリストを恐れ尊んで、互いにしたがう」とあるでしょう。

「交わり」というと、もしかするといっしょにお茶を飲むとか、何か話をぺちゃくちゃするとか、あるいはゲームをするとか、人間同士のことだけを思い浮かべるかもしれません。お茶も、おしゃべりも、ゲームもよいのですが、肝心要は、交わりの中心にキリストがいらっしゃることです。キリストのご臨在がないならば、それはこの世の人々の交わりと変わりません。世のサラリーマンの赤のれんの交わりといえば、上司の悪口による憂さ晴らし、女性たちの井戸端会議も誰かを陥れる噂話だそうです。そこにはキリストはいません。もし、そこに見えない誰かいるとしたら、それは悪魔でしょう。

けれども、御霊に満たされた交わりでは、みなの心がキリストに向かっているのです。御霊に満たされた交わりのうちには主イエス・キリストのご臨在があります。D.ボンヘッファーは名著『ともに生きる生活』のなかで次のように述べています。キリスト者の交わりは、イエス・キリストを通しての、またイエス・キリストにある交わりである。キリスト者の交わりは、それ以上のものでもなく、またそれ以下のものでもない。短い一度だけの出会いから、長年にわたる日ごとの交わりにいたるまで、キリスト者の交わりはただこれのみである。われわれは、ただイエス・キリストを通して、イエス・キリストにあってのみ、お互いに結び付けられているのである。」

 

(3)御霊に満たされた交わりには神への感謝と賛美がある

御霊に満たされた交わりの第三の特徴は、不平不満でなく、神様への感謝と賛美に満ちていることです。「詩と賛美と霊の歌とをもって互いに語り」、「主に向かって心から歌い、また賛美し」、「いつでもすべてのことについて、私たちの主イエス・キリストの名によって父なる神に感謝する」とある通りです。

もちろん人生にはうれしいことばかりではありません。悲しいことも、憤らないではいられないこともあります。奇麗事だけ言っているようなのはうわべの形式だけの交わりにしかならないといわれるかもしれません。しかし、もし御霊に満たされキリストのご臨在があるならば、たとえそういうことが話題になることがあっても、他人や環境へに非難や失望に終わる後味の悪いものに終わることは決してありません。キリストを中心としているならば、私たちは必ず他人の罪よりも自分の罪が見えてきますから、「あの人が、この人が」ではなく、「私は神様の前でどうなのだろう」ということを意識します。

ですから、主にある交わりには神様に対する悔い改めと、赦しと、希望と、主への感謝と賛美が現われてくるものです。世の交わりが暗い怒りや失望や空しさに終わることが多いのに対して、主キリストにある交わりはなんとさわやかで暖かいものでしょうか。

 

(4)御霊に満たされると互いに謙虚になる

そして第四に、御霊に満たされた交わりの特徴として、「キリストを畏れ尊んで互いに従う」ということがあります。聖霊のご人格の特徴は、ご自分を表すのでなくイエスさまと父なる神様を表す謙遜ということですから、御霊に満たされた人は謙遜になるのです。

「互いに従う」というのは不思議な表現ですね。普通、「従う」というと、従う側と従わせる側は固定していて、子どもが親に従うとか、妻が夫にしたがう、主人にしもべが従うということになるでしょう。ところが、ここには「互いに従う」とあります。ここには、キリスト者としてのたいせつな人間関係のありかたがよく表現されています。たしかに神様がお立てになった社会の秩序はあります。権威は重んじるべきです。しかし、同時に、キリストを恐れ尊んでいる者どうしであれば、親であっても子がキリストにあって戒めてくれるときには従うべきときには従い、主人もしもべに従うべきときには従い、夫も妻に従うべきときには従うのです。

 私たちはキリストにあって、戒め合う交わりを真実な交わりを経験しているでしょうか。忍耐強く聞くこと受け入れることはもちろん大切なことであり大前提ですが、「それは間違っているよ。あなたが悔い改めるべきだよ。」と戒める愛の勇気がありますか。また、そのように戒めてくれる主にある友を持っているでしょうか。また、私たちは、誰かに戒めを受けた時に、「裁かれた」という風にしか取れないようなかたくなな心ではなく、謙虚に耳傾ける聞くことのできる心を持ちたいものです。そうでないと、あなたの周りには真実な友はいなくなり、ご機嫌取りをしてくれるイエスマンしかいなくなってしまいます。みっともない裸の王様です。御霊に満たされて、兄弟姉妹の助言に対して謙虚に聞く者となりましょう。「キリストを恐れ尊んで互いにしたがいなさい。」

  

むすび  みこころにかなう祈りによって聖霊に満たされる

  聖霊様に満たされるならば、私たちは愚かでかたくなな自己中心の病から解放され、世間体ばかり恐れてこの世といっしょに滅びてしまうことから救われます。そして、キリストを中心とした主にある兄弟姉妹の交わりのうちに感謝と賛美に満ちて生きることができるようになります。なんとすばらしいことでしょう。

初めに話したようにクリスチャンはすでに聖霊様を受けていても、いつも聖霊様に満たされているとはかぎりません。聖霊に満たされる方法を教えましょう。霊的呼吸といいます。

呼吸するためには、まず古い汚れた空気を吐かなければなりません。そのように聖霊様に満たされるためには、まず、聖霊さまが満ちたくなるように、聖霊様を悲しませるものを吐き出すことです。「神の聖霊を悲しませてはいけません。・・・・無慈悲、憤り、怒り、叫び、そしりなどを、いっさいの悪意とともに、みな捨て去りなさい。」(エペソ4:30,31抜粋)

心の掃除が終わったら、次に、みこころにかなう祈りをささげることによって、私たちは聖霊に満たしていただくことができます。聖書には、「何事でも神のみこころにかなう願いをするなら、神はその願いを聞いてくださる」という約束があります(Ⅰヨハネ5:14)では、「聖霊様わたしのうちに満ちてください」という願いは、神のみこころにかなう願いでしょうか。もちろんです。ですから、「私を御霊に満たしてください」と祈る祈りは、すでに聞かれたとわかります。