水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

聖徒の成熟とは

創世記45:16-46:7

2017年5月21日 夕礼拝

 

1.素晴らしい政治家とは

 16節から23節の記事を見ると、ヨセフがどれほどエジプトで信頼され愛されていたかがよくわかる。ヨセフによって進められた大規模な飢饉対策によって、地中海全域が苦しんでいるときにエジプトは問題なくすごせたし、そればかりかほかの国々の人々をも助けることができたからである。すぐれた知恵ある政治家は、自国民を救うばかりでなく、他国民をも幸せにするのである。

 

2.老いヤコブ

 

 息子たちからエジプトで愛する息子ヨセフが生きていると知らされて、ヤコブは茫然としてしまった。当然のことである。17歳の時に分かれてからすでに20年ほどたっていたから。

45:26 彼らは父に告げて言った。「ヨセフはまだ生きています。しかもエジプト全土を支配しているのは彼です。」しかし父はぼんやりしていた。彼らを信じることができなかったからである。

 いったい何を言っているのかわかりません。あまりにも出来過ぎたお話でしょう。死んだとばかり思って、父として二十年嘆いてきた息子がエジプトで生きているというのです。しかも、その子があのエジプトの総理大臣であるとは。信じられなくてあたりまえです。けれども、兄息子たちがことを詳しく話して聞かせ、ヨセフが用意してくれた車を見ると、あああの優しく気の利いたヨセフらしい配慮だとようやく納得できたのでした。そうしてにわかに元気づきました。

 45:27 彼らはヨセフが話したことを残らず話して聞かせ、彼はヨセフが自分を乗せるために送ってくれた車を見た。すると彼らの父ヤコブは元気づいた。

 続いてヤコブの口から出ることばは、ああ、彼が年を取ったなあと思わせることばです。

 45:28 イスラエルは言った。「それで十分だ。私の子ヨセフがまだ生きているとは。

 兄息子たちを今さら問い詰める必要もない。もう兄息子たちの顔を見れば、どれほど反省しているのかは、はっきりと見て取ることが出来ました。誰に責任を取らせるという必要はない。この二十年間、自分をだまし続けてきたのかなどと、兄息子たちをなじる必要もない。わが子ヨセフが生きているなら、それで十分だというのです。かつての強烈な自我の人ヤコブならば、そうはいかなかったでしょう。しかし、今、彼は、それで十分だというのです。

彼は、死を意識しています。息子たちを叱りつけたり、言い訳をきいたりしているような暇はないのです。生きているうちに、ヨセフに会いに行こうというのです。

私は死なないうちに彼に会いに行こう。」

 死を意識して生きることは大事なことなのでしょうね。死を意識すると、何が今優先すべきことなのか、何が二番目、三番目にしておいてよいことなのか、あるいはもう不問に付してもよいことなのかということが、すっきりとわかるのでしょう。私たちにとって、この世を去ることは主のもとに行き、主の前に出ることです。それはもう一週間ほど一か月ほど後のことだと意識したら、忘れてしまってよいこと、忘れてはならないことがはっきりとするでしょう。

 

3.ベエル・シェバで立ち止まる

 

 ヤコブは元気になって旅立った。どれほど心躍る旅だったでしょう。愛する妻ラケルの息子、最愛のヨセフと再会できるというのです。夢ならば醒めないでほしいものです。ヤコブはですから一族に大急ぎで旅支度をすることを命じました。そして、一行はエジプトとの国境もほど近いベエル・シェバまで来ました。

このとき、彼は立ち止まったのです。そして神にいけにえを捧げました。

46:1 イスラエルは、彼に属するすべてのものといっしょに出発し、ベエル・シェバに来たとき、父イサクの神にいけにえをささげた。

このとき、実は、ヤコブは恐れをかんじていました。3節の主のことばは、大事なことを告げています。

 46:2 神は、夜の幻の中でイスラエルに、「ヤコブよ、ヤコブよ」と言って呼ばれた。彼は答えた。「はい。ここにいます。」

 46:3 すると仰せられた。「わたしは神、あなたの父の神である。エジプトに下ることを恐れるな。わたしはそこで、あなたを大いなる国民にするから。

 46:4 わたし自身があなたといっしょにエジプトに下り、また、わたし自身が必ずあなたを再び導き上る。ヨセフの手はあなたの目を閉じてくれるであろう。」

「エジプトへ下ることを恐れるな」となぜ神はおっしゃったのでしょうか。それは、ヤコブはベエル・シェバに来て恐れていたからにほかなりません。「このままエジプトにくだってよいのだろうか?」と。というのは、約束の地を後にして祖父アブラハムは過ちを犯したことがあったとヤコブは聞いています(創世記12章)。父イサクも同じような過ちを犯したことがありました。

「主よ、私は、若い日から今日まで、いつも主のみこころを尋ねるよりも自分のしたいことをして間違いを犯してきた。今回も、ヨセフに会えるならば、と飛び出してきてしまった。約束の地を去るという、重大な事柄であるのに、またも、自分は感情にまかせて飛び出して行ってしまいそうでした。」自分は考えが足りなかったとヤコブは反省し、恐れたのです。ここを見ると、ヤコブという人物が、霊的に成長成熟したのだなあと感じる。

 しかし、主はこのたびのエジプトくだりは特別に主がゆるし、主が計画したことであるから、安心して行けとおっしゃったのです。

46:3わたしはそこで、あなたを大いなる国民にするから。

 46:4 わたし自身があなたといっしょにエジプトに下り、また、わたし自身が必ずあなたを再び導き上る。ヨセフの手はあなたの目を閉じてくれるであろう。」

 

結び

 世間的な価値観の中では、人が成長し成熟するということは、自分の力、自分の判断がまちがいなく迷いなくずばりずばりとできるような人となることなのかもしれません。ヤコブは若い日、そのような人でした。彼は有能で、押しが強くて、自分のビジョンは自分の腕でもぎとってでも成し遂げようとする人でした。

けれども、聖書に於いて、聖徒の成長とは、自分でなんでもできるという実力と自信を持つことではありません。そうではなく、恐れをもって主のみこころは何かを謙虚に尋ね、主のみこころにしたがうことです。