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Miz牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

力ある祈りとその妨げ

マルコ11:20-25

2017年4月30日 苫小牧

 

11:20 朝早く、通りがかりに見ると、いちじくの木が根まで枯れていた。

 11:21 ペテロは思い出して、イエスに言った。「先生。ご覧なさい。あなたののろわれたいちじくの木が枯れました。」

 11:22 イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。

 11:23 まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。

 11:24 だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。

 11:25 また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。」

 

 

 主イエスがイスラエルの象徴である、実の無いいちじくの木を呪って枯らしてしまったとき、ペテロはまだその意味を理解することはできなかったでしょう。その意味が明らかになったのは、この時から40年後、紀元70年のエルサレム滅亡のときです。そんなわけで、ペテロは、ただイエス様が呪ったいちじくが枯れたということについてびっくり仰天しただけです。イエス様の祈りには、こんな力があるのだと改めて驚いたわけです。まあ、これまでもペテロは嵐のガリラヤ湖をおことば一つで静まらせたことをから始まって、さまざまな主イエスの奇跡を見てきましたから、今さら驚くこともないんじゃないかと思うのですが、呪いの奇跡というのは、主イエスの公生涯の中でただこの一度だけでしたから、その点、ペテロが驚いたのかもしれません。

 それはさておき、主イエスは、ペテロが驚いていることにちなんで、信仰の祈り、力強い祈りについて教えられました。

 

1 聖書における普通の祈り  人格と人格

 

 まず、聖書における祈りについてお話します。というのは、この世のおまじないとの違いを確認しておきたいからです。イエス様は主の祈りを弟子たちに教える前に、こんなふうに話されました。マタイ6章7,8節

「6:7 また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。 6:8 だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。」

 異邦人の祈りというのは、一種の呪文です。回数をなるべく多く、念を入れて唱えたら、願い事がかなうという風に考えるわけです。それは、ナンミョウホウレンゲキョウというのを毎朝100回100日唱えたら、ほしい車が手に入るとかいう新興宗教のたぐいのことです。そのことばの魔力とか念力とかいうことを考えるのでしょう。呪文によって宇宙のエネルギーの流れになにか影響を与えるほどの念力を出せるというふうな教えです。しかし、イエス様は、そういう真似をしてはいけないとおっしゃいます。

 なぜでしょうか。それは、真の神様は生ける人格である父なる神でいらっしゃるからです。あなたが、たとえば自転車が欲しいとき、お父さんに毎朝毎夕百回、百日間「自転車買ってちょうだい。自転車買ってちょうだい。自転車買ってちょうだい。自転車買ってちょうだい。自転車買ってちょうだい。自転車買ってちょうだい。・・・」と訴え続けたら、どうなりますか?お父さんはきっと『うるさい』と言って聞いてくれないでしょう。聖書を通して私たちに語りかけてくださっているお方は、生きた人格、あなたがたの父なのだから、お祈りにおいては、ただ意味もなく呪文を繰り返してはいけない、ちゃんとお話ししなさいというのです。

 要するに、本当の祈りとは、生ける人格である天の父上との会話なのです。一方的にしゃべりまくるのでなく、聖書を読んで、神様のご性格、神様の力、神様の知恵、神様のご計画、神様のみこころを学んでいくことで、適切な会話の仕方も身についてくるものです。そして、祈りでは色々と自分が神様にお話したら、しばらく沈黙して、心に神様の御旨を思いめぐらすときも大切です。一方的にしゃべりまくったのでは、会話が成り立ちませんからね。 詩篇の中の多くの祈りは、そうした神様とのやり取りの記録されたものが多いことです。

 

2 信じた通りに

 

 祈りの中には、単にみこころを尋ねるやりとりではなく、神様にある特定のことをお願いする祈願があります。その場合、基本的に大事なことは、神様に信頼しきって祈るという点です。主イエスは本日の箇所で、第一にそのことを教えていらっしゃいます。

11:22 イエスは答えて言われた。「神を信じなさい。

 11:23 まことに、あなたがたに告げます。だれでも、この山に向かって、『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります。

 11:24 だからあなたがたに言うのです。祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。

 「神を信じる」ということが祈りにおいてまずとても重要なことです。それは、神が生ける人格であるからです。人格とのかかわりに於いて、一番大事なことは、信頼するということでしょう。あなたは子供が「お父さんのことなんか、全く信用していないよ。だけど、一応、頼んでおくけどね・・・」などと言われたら、答える気がしないでしょう。人間の父親は信頼に足りないかもしれませんが、それでも信頼してほしいでしょう。神様ほど信実なお方はいないのに、あなたのこと信じていないよというような態度で祈るならば、そんな祈りには答えてもらえるわけはありません。きわめて失礼で、冒涜的なことですから。

 主イエスは「神を信じなさい」とおっしゃいました。神様に信頼しきって祈ることです。

 言い換えると、神様のご性格を知り、その愛、その力、その真実、その優しさ、その厳しさといったことを知って行った上で、信頼しきって祈るのです。

 

3.「山」とは?

 

 では、イエス様は「この山に向かって、『動いて、海に入れ』」という話をなさったから、「樽前山よ、動いて海に入れ」と祈るべきでしょうか?

もちろん無から万物を造られた神様の全能性からすれば、樽前山だろうと富士山だろうとエベレストだろうと、それを動かして海に入れることはたやすいことです。けれども、それは神様の誠実、真実、愛、優しさといったご性格にはかなわない願いであることがわかるでしょう。もし文字通りに樽前山を今動かすならば、たくさんの死傷者も出てしまいますし、環境破壊もひどいことになってしまいます。そうしたことを気まぐれでなさることは、誠実で愛に満ちた正義の神様のお望みにならないことですから、答えてくださるわけがありません。

では、イエス様が「山」ということばでおっしゃろうとしたものとはなんでしょうか?それは、神様のみこころに従って前進してゆこうとするときに、前に立ちはだかる障害物といえばよいでしょう。

私たちクリスチャン、神様の子どもの人生の目的とは何でしょう?ウェストミンスター小教理問答は第一問答で「私たちの人生の主な目的は、神の栄光をあらわし、神を永遠に喜ぶことである」と答えています。神様の栄光をあらわすというのは、神様をあがめることです。そして神様を喜ぶことです。ですから、神様をあがめるため、神様を喜ぶための障害となっている山があるとすれば、その山を動かして取り除いてくださいと祈るならば、それは御心にかなう祈りです。そういう御心にかなう祈りであれば、神様はもっともよい時にその「山」を動かしてくださいます。

また、主イエスは私たちにとっても最も大事な戒めは、全身全霊を尽くしてあなたの神である主を愛せよということと、あなたの隣人を自分自身のように愛せよということだと教えてくださいましたから、その目的に向かって前進しようとするとき、そこに立ちはだかる山を海に動かしてくださいと祈ることは、神のみこころにかなうことです。神のみこころにかなうことを願うならば、その願いはすでに聞かれたものです。

みこころにかなった祈りをささげるならば、神様の御霊はわたしたちのうちに平安を与えてくださいます。目の前にまだ山が見えたとしても、すでに約束に於いて山は動いたのですから、そのように生きていくことができます。神様の時がくれば必ず山は動くのです。

 

4 祈りの妨げ

 

 しかし、こうした祈りの力を削ぐものがあると、主イエスは教えてくださいました。特に主イエスが取り上げたのはどういう障害でしょうか。

11:25 また立って祈っているとき、だれかに対して恨み事があったら、赦してやりなさい。そうすれば、天におられるあなたがたの父も、あなたがたの罪を赦してくださいます。」

それは、「だれかに対して恨み事がある」ことです。誰かを恨んでいるということは、誰かを赦していないということです。誰かを赦していないときには、神様も私たちを赦してくださいません。主の祈りにおいて、私たちは今日も祈りました。「私たちの負い目をお赦し下さい。私たちも私たちに負い目のある人たちを赦しました。」と。以前もお話したように、この箇所は文語訳の祈りでは「われらに罪をおかす者をわれらがゆるすごとく、われらの罪をもゆるしたまえ」でした。口語訳では「6:12わたしたちに負債のある者をゆるしましたように、わたしたちの負債をもおゆるしください。」とあります。

 文語訳には「ごとく」、口語訳には「ように」ということばが入っていますが、新改訳にはありません。新改訳聖書は、原語のテキストが透けて見えるように忠実に訳されているのが特徴ですが、この箇所については残念ながら、むしろ文語訳・口語訳・新共同訳のほうが原文に忠実です。原文には、「ごとく」「ように」にあたることばホースがあるのです。ホースとは、比例を表現することばです。つまり、「私たちに罪を犯す人を私たちが赦すのに比例して、私たちの罪をも赦してください」ということです。言い換えれば、「私たちに罪をおかす人を私たちがゆるさないのに比例して、私たちをゆるさないでください」ということです。

 隣人との関係において恨みがあり、ゆるせない心があると、神との関係もおかしくなってしまうのです。隣人を恨んでいるならば、神様は私たちをお赦しにならず、したがって、私たちとの交わりには障害が生じて、私たちの祈りに耳を傾けてくださらないのです。

 この原則は、神様にささげものをするというときにも通じることです。

 5:23 だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、 5:24 供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。(マタイ5:23,24)

 私たちの隣人愛、格別、主にある兄弟姉妹を愛することと、神を愛することとは、たいへん密接に関係していて切り離すことができないのです。「彼のことは赦しませんが、私のことは赦してください」という祈りを神様は決して聞いてくださいません。

 ですから、神様に祈り願うことがあるならば、自分の心を顧みて、そこに誰かに対する恨みとか怒りがないものかを吟味して、もしそういうものが見つかったら、仲直りして神様の前にごめんなさいと申し上げることが不可欠です。それから、祈り願うことです。

 

結び

  信仰の祈りを主イエスは教えてくださいました。

 第一に、真実の祈りとは、生ける神様との人格的交わりですから、一方的にお願いごとをするのでなく、聖書を読んで神様がどのようなお方であるかということを知り、神様のご計画に学ぶことが必要です。

第二に、生ける天の父に信頼しきって祈ることです。神様の誠実、真実、愛、やさしさ、厳格さ、神様のご計画などを知って、信頼して祈るのです。

 第三に、「山」とは、私たちが神を愛し隣人を愛するという人生の目的を妨げるものです。そういうものを取り除けてくださいと祈ることはみこころにかなう祈りです。

 第四に、力ある祈りの妨げは、人を恨む心です。悔い改めて赦して、そうして生涯を取り除いてから祈りましょう。