水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

主の御前に出る

創世記42:1-25

2017年4月23日 苫小牧

 

1.神の摂理の確かさ――啓示の実現――(1節から9節)

 

 エジプトの宰相となったヨセフはもう二度と故郷の父や兄弟たちに会うことはあるまいと思っていました。けれども神様の御摂理は不思議です。七年間の豊作の後にやってきた地中海世界全体をおおう大飢饉によって、ヨセフの兄たちはエジプトにやってくるのです。その顛末が42章1節から4節に記されています。

42:1 ヤコブはエジプトに穀物があることを知って、息子たちに言った。「あなたがたは、なぜ互いに顔を見合っているのか。」

 42:2 そして言った。「今、私はエジプトに穀物があるということを聞いた。あなたがたは、そこへ下って行き、そこから私たちのために穀物を買って来なさい。そうすれば、私たちは生きながらえ、死なないだろう。」

 42:3 そこで、ヨセフの十人の兄弟はエジプトで穀物を買うために、下って行った。

 42:4 しかし、ヤコブはヨセフの弟ベニヤミンを兄弟たちといっしょにやらなかった。わざわいが彼にふりかかるといけないと思ったからである。

 

ここにはヤコブがヨセフなきあと、今度はベニヤミンを最愛の妻ラケルの忘れ形見として偏愛していることがわかります。

 さて、こうして兄たちは父ヤコブに命じられて、エジプトに食料を求めてやってきました。一方ヨセフはエジプトにあって飛ぶ鳥を落とす勢いの宰相となっていました。ヨセフは兄たちを見て、すぐにそれとわかりましたが、兄たちはまさか自分たちのエジプトの宰相であることに気づきません。

 そうして、神様はもう二十年以上も前にご自分がヨセフに見せた夢を実現なさいます。すなわち、ヨセフが17歳の時に見たあの麦束の夢です。兄弟たちの束ねている麦の束が、ヨセフが束ねていた麦束を取り囲んでおじぎをしたというあの夢です。神からの啓示でした。神様は、悪魔や人間のいろいろな妨害があっても、その摂理をもって、ご自分が計画されたことを必ず実現させたまうお方です

 あの時、兄たちは生意気な弟ヨセフが自分たちの上に立つことなど、絶対に出来ないようにしてやると思って、ヨセフをなきものにすることを企てました。そして実際、殺すことこそしませんでしたが、弟を奴隷商人に売り飛ばして、闇に葬って、自分たちは金を受け取って、ことはすんだと思っていたのです。けれども、神様はすべての悪者の働きさえもその手綱でもってコントロールして、みこころを実現させたまうのです。たとえ悪魔が神様に反抗して悪事を行なったとしても、神様はすべてのことを働かせて、その計画されたことを実現にいたらせるのです

 神の摂理について、今までハイデルベルク信仰問答、ウェストミンスター小教理問答を紹介しましたが、今度は、これらの信仰問答の源流となったカルヴァンの「ジュネーヴ教会信仰問答」から紹介しましょう。

問い28

 悪魔や悪しき人々も、やはり神の主権に服しますか。

答え

 神は彼らを聖霊をもってはお導きになりませんけれども、神が彼らに許された限度でなければ、彼らは活動することができないように、神はその手綱を握っておられるのです。その上に、たとえ彼らの意図や決意に反してでも、みこころを実行するように彼らを強制されるのであります。

 

問い29

 それを知ることは、あなたに何か益がありますか。

答え 多くの益があります。なぜならば、もし悪魔どもや不義な人々が神の意志に反して何事か行なう力があるとするならば、非常に災いであります。そしてまた、彼らからおびやかされている限りは、われわれは決して心に安らぎを得ることはできないでありましょう。しかし神が彼らの手綱を引き締めて、神の許しに寄らなければ、何事もできないようにしておられることをわれわれが知るとき、そのことによって、われわれは心を休め喜ぶことが出来るのであります。それは神がわれわれの保護者であり、またわれわれを守ってくださることを約束しておられるからであります。

 

 

2.神を恐れる者として(42:18)

 

 さて、今や兄たちの命はヨセフの手中にありました。彼らを煮て食おうと焼いて食おうと自由という状況です。奴隷にして売り飛ばしましょうか。それとも・・・ここでヨセフの兄たちに対する痛快な復讐劇が始まるというのが、世間の小説なのかもしれませんが、現実はそうは展開しなかったのです。しかし、まずはヨセフは兄たちにスパイとしての嫌疑をかけて、激しいことばを投げつけて、弟ベニヤミンを連れてくるように言うのです。13節。彼らは言った。「しもべどもは十二人の兄弟で、カナンの地にいるひとりの人の子でございます。末の弟は今、父といっしょにいますが、もうひとりはいなくなりました。」

 ヨセフは兄の一人が言った「末の弟は今、父といっしょにいますが、もうひとりはいなくなりました。」ということばにカチンときました。「なにが『もうひとりはいなくなった』だ!おまえたちが、実の弟であるこの私を奴隷に売り飛ばしたのではないか!」とヨセフは、兄たちに向かって叫びたい衝動を抑えるのに苦労したでしょう。

 しかし、ヨセフにはすぐに叫んでしまえないわけがありました。ヨセフはベニヤミンのことを心配していたのです。ヨセフは、同じ母ラケルから生まれた弟ベニヤミンもまた、兄たちによってひどい目に合わされたり、奴隷として売られたり、あるいは殺されたりしてしまったのではないかという心配をしていたのです。特に、兄たちが10人でやってきてベニヤミンを連れてきていないのですから、「父といっしょにいます」などということばも本当かどうかわかりません。疑わしいことです。ヨセフとしては、あの弟ベニヤミンをこの危険な兄たちから救い出さねばならないと思いました。

 そこで、15節16節にあるように、彼らを監禁し一人の者だけが帰国してベニヤミンを連れてくるように命じたのです。

42:15 このことで、あなたがたをためそう。パロのいのちにかけて言うが、あなたがたの末の弟がここに来ないかぎり、決してここから出ることはできない。

 42:16 あなたがたのうちのひとりをやって、弟を連れて来なさい。それまであなたがたを監禁しておく。あなたがたに誠実があるかどうか、あなたがたの言ったことをためすためだ。もしそうでなかったら、パロのいのちにかけて言うが、あなたがたはやっぱり間者だ。」

 

(ここで「パロの命にかけていうが」というのはおもしろいですね。勝手にいのちをかけられたパロもたいへん。勿論、当時の慣用句にすぎません。)

 

 さて三日がたちました。この三日のうちにヨセフの心境に変化が生じました。18-20節。

42:18 ヨセフは三日目に彼らに言った。「次のようにして、生きよ。私も神を恐れる者だから。 42:19 もし、あなたがたが正直者なら、あなたがたの兄弟のひとりを監禁所に監禁しておいて、あなたがたは飢えている家族に穀物を持って行くがよい。 42:20 そして、あなたがたの末の弟を私のところに連れて来なさい。そうすれば、あなたがたのことばがほんとうだということになり、あなたがたは死ぬことはない。」そこで彼らはそのようにした。

「次のようにして生きよ。私も神を恐れる者だから。」ということばに、ヨセフが三日間をどうすごしたかが暗示されています。ヨセフは兄たちを久しぶりに見た時、憤りを抑えがたかったのですが、一人神の前に静まって考えてみると、兄たちのうち一人だけ帰国させるというのは理不尽なやり方であることに気づいたのです。父ヤコブの一族が飢えたから、兄たちは食糧を求めてきたのです。もしただ一人しか帰さなければ故郷の父親や一族郎党は飢えて死んでしまうでしょう。弟ベニヤミンの安否を確かめるためだけならば、そうまですることはない。一人だけ人質にして他の者は食料を持たせて帰してやろうと考えたのです。それが「次のようにして生きよ」でした。

 ヨセフがこのように考え直すことができたのは、三日間待ったからでした。三日間、神の御前に静まったからということも出来ましょう。たいせつな決断をしなければならないとき、決して激した感情のなかで決断してはならないということを教えられます。落ち着いて、神様の御前に静かな心になって、そして神のみこころを求めることです。箴言にはこうした知恵にかんすることばがたくさんあります。

 

箴言14:29「怒りをおそくする者は英知を増し、気の短い者は愚かさを増す。」

箴言16:32「怒りをおそくする者は勇士にまさり、自分の心を治める者は町を攻め取る者にまさる。」

箴言19:11「人に思慮があれば、怒りをおそくする。その人の光栄は背きを赦すことである。」

 

3. 隠されているもので露わにされないものはない。

 

 この三日間は兄たちにとっても自らの神様の御前に清算されていない過去を振り返るときとなりました。21節、22節。

42:21 彼らは互いに言った。「ああ、われわれは弟のことで罰を受けているのだなあ。あれがわれわれにあわれみを請うたとき、彼の心の苦しみを見ながら、われわれは聞き入れなかった。それでわれわれはこんな苦しみに会っているのだ。」

 42:22 ルベンが彼らに答えて言った。「私はあの子に罪を犯すなと言ったではないか。それなのにあなたがたは聞き入れなかった。だから今、彼の血の報いを受けるのだ。」

 

ヨセフのことはずっと彼らの心の中にわだかまっていたのでしょう。けれども、お互い共犯者として口に出すことも出来ないで過ごした二十数年間でした。しかし、ここにいたって彼らは自分たちの犯した罪の大きさに恐れおののいているのです。罪は一時はいかに隠しおおせたと思っていても、神からの報いを受けるべきときがあるのでした。

 

 前回、ヨセフはキリストの型、予型であるという見かたが伝統的に教会において行なわれてきたということを申し上げました。この場面でも、もしヨセフをキリストの型と見るならば、兄たちは最後の審判においてキリストのみ前に引き出される人間の姿をあらわしていると読むことができます。

 兄たちはまさか目の前にいるのが、弟ヨセフであるとは思いも寄りませんが、審判者であるヨセフの側は兄たちのことを知っているのです。彼らが犯したおそるべき罪のこともこの審判者はだれよりもよく知っているのです。

 「人には一度死ぬことと死後に裁きを受けることが定まっている」と聖書は宣言しています。私たちは、死後、主のみ前に引き出され、自分が生きてきたこの地上の生涯のいっさいについて主の御前に申し開きをしなければなりません。恐ろしいことです。罪とは、主が嫌われることを、思ったこと、主が嫌われることを言ったこと、主が嫌われることをしたことです。その一つ一つについて、私たちはひとりひとり量られるのです。私は自らを振り返れば赦されがたい罪人です。こんな罪人が聖なる神の御前に引き出されるということを考えると、本当に恐ろしいことです。

 ただ、私たちのさばき主としてこられるお方は、主イエスご自身であることはなんという慰めでしょうか。ヨセフが兄たちが自らを省みて過去に犯した罪を悔いているのを聞いてひそかに涙を流したとあります。42章21節

「 ヨセフは彼らから離れて、泣いた。」

 そのように、主はこの上なく公正な審判者でいらっしゃいますが、同時に、私たちの弱さを知っていて涙をも流して下さるお方です。主は罪は犯されませんでしたが、人となられて私たちと同じ苦しみや試みを経験されたお方であるからです。

 

 主の御前に引き出されるその日を思いつつ、主イエスの十字架の贖いを感謝して日々を過ごしたいと思います。