Miz牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

キリストの影

創世記41章

 

はじめに

 旧約は新約の影であり、新約は旧約の本体である、また、旧約は新約の預言であり新約は旧約の成就であると言われます。私たちが続けて味わっておりますヨセフという人物の生涯が、キリストの生涯の影であり預言であると言われることです。ヨセフは兄弟たちの妬みを受けて、奴隷として売られ、さらに罠にかけられて監獄に囚人としてすごすことになりました。ところが、今日お読みしたところでは神様の御摂理のなかで時いたってヨセフは監獄から出されたばかりか、王の右の座につく宰相の地位にまで上り詰めることになりました。このことが、キリストの生涯の型であるというわけです。

 つまり、主イエス様は救い主として二千年前地上に下られ三十歳の時伝道生涯にはいられたわけですが、ユダヤの指導者たちの妬みを受けてみなに捨てられた十字架に処刑されてよみにおくだりになりました。けれども、父なる神様はイエス様を死者のうちには止めおかないで、復活させ、さらに天に引き上げてご自分の右の座(力の座)に着座させられました。そして、今やイエス様は「天においても地においても一切の権威を」授けられていらっしゃるのです。このキリストの低くされた状態から、高く引き上げられた状態にいたるご生涯が、ヨセフの生涯と二重写しになっているという解釈です。

 私たちを罪と滅びから救い出すために地上に下り、さらに黄泉にまでくだってくださった主に感謝しましょう。また、私たちの罪のための償いを成し遂げられて復活し、今も世界をすべおさめたまう主イエス・キリストを賛美しましょう。

 

1.「それから二年後」

 

 ヨセフが献酌官の夢を解いてやって、その夢のとおりにことが成就して、献酌官がもとの地位に復したという知らせをヨセフも耳にしました、献酌官によって、無実の罪が晴れて、牢獄から出られる日が今日にもくるか明日にもくるかとまちわびていましたが、待てど暮らせど無罪放免の知らせは来ませんでした。そうして待ちわびるうちに二年の歳月がたちました。

 「待つことは忍耐であり、待つことは成長である」。この忙しい時代、私たちは何かをするということが積極的で、ことを進めることになるのであると考えがちです。実際、積極的にことを行なうということは大切なことです。けれども、同時に「待つ」ということもまた実はとてもたいせつなことなのです。「待つことは忍耐であり、待つことは成長である。」

 たとえばジャガイモの収穫を私たちはどのようにして得るのでしょうか。畑を耕し肥料を施して、種芋を半分に切って埋める。そして、ときどき草取りをする。人はたしかにこうした営みはするのですが、一番長い時間を要するのは、待つことです。収穫までのほとんどの時間は待っているのです。ジャガイモを埋めて翌日でかけて、掘り出して「まだだなあ」といって埋めもどし、また翌日でかけて畑を掘り返してじゃがいもを掘り出して「まだまだだなあ」といって埋め戻すようなことをしていたら、ジャガイモはだめになってしまうでしょう。なすべき基本的なことをしたら、あとは待つことが収穫のためにたいせつなことです。

 マルコ4:26-29に主イエスがおっしゃった神の国のたとえに在る通りです。

4:26「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、 4:27 夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。 4:28 地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実が入ります。 4:29 実が熟すると、人はすぐにかまを入れます。収穫の時が来たからです。」

 ヨセフにとって待たされた二年間は、一見無意味に見える二年間です。しかし、その二年間の忍耐が後の大いなる収穫のために必要なのでした。

 

 あなたも今、なにか人生のたいせつなことがらを待たされているかもしれません。「待つことは忍耐であり、待つことが成長である」このことを覚えましょう。

 

2.主は世界の支配者

 

 二年がたったとき、神様はエジプトの王に不思議な夢を見せます。それは七頭の牛を七頭のやせた牛が食べてしまうという夢と、七つのよく実った穂を七つのやせ細った穂が飲み込んでしまうという薄気味悪い夢でした。夢とはいえ、あまりにもリアルで印象深く王の心に残ってしまいました。これは、単なる夢ではなく、なにか意味のある啓示であると王は悟ったのでした。そこで王は国中の知恵者にこの夢の意味を解き明かさせようとしましたが、だれもできません。考えれば考えるほど不吉な夢ですから、王はさらに八方手を尽くしてこの夢の意味を知りたいと願ったのです。

  まず私たちにとって意外なことは、エジプトの王が神からの啓示を受けたということではないでしょうか。ヨセフが夢を見た、ヤコブが夢を見たというならばわかります。彼らは真の神を信じているのですから。しかし、真の神を信じてもいないエジプトの王が夢で神の啓示を受けたというのは不思議なことです。しかし、さらによくよく考えてみればこの世界を創造し支配しておられる神は唯一のお方です。このお方を信じておらず、太陽神の息子を名乗るエジプト王にとっても、創造主が真の神なのです。真の神は、このエジプトの国の歴史をも、支配しておられるのです。

 当時、エジプトにおいて真の神を信じていたのは、ヨセフただ一人でした。他の何十万人というエジプト人はさまざまな偶像の神々に仕えていたのです。しかし、このエジプトの将来を左右するのは、それらの神々ではなく、ヨセフ一人の信じる神でした。

 私たちキリスト者はこの日本という国において少数派です。しかし、この国の将来を支配するのは、八百万の神々ではありません。この国の将来を支配したまうのは聖書にご自身を啓示しておられる万物の創造主、歴史の支配者なる神です。ですから、私たちがこの国のために祭司としてとりなし祈ることはとてもたいせつなことなのです。キリスト者以外に、この国の将来のために祈ることが許されているものはいないのです。私たちにはこの国の為政者のため、世界の上に立つ人々のためにとりなし祈る責任があります。現在、北朝鮮核兵器実験をめぐって米軍韓国軍との一触即発の緊張状態があります。指導者たちが頭を冷やして振り上げたこぶしを下ろし、平和を作るように私たちは祈るべきです。

  さて、エジプトの王は夢のことで悩んでいました。それを見ていたのが、あの献酌官でした。献酌官は王にヨセフのことを申し出ました。二年前、牢獄で出会った男ヨセフが自分の夢を寸分あやまることなく解き明かしたことがありましたというわけです。9節から13節。

 こうしてヨセフは王の召しをうけて監獄から引き出されました。そして、王の夢を詳しく聞き取り、それを説き明かします。たいせつなポイントの一つは15節と16節。 ヨセフは王から君が夢を解き明かすということだが、といわれると即座に「私ではありません。神がパロの繁栄を知らせてくださるのです。」と答えます。かつて17歳の時のヨセフとはずいぶん変わりました。かつてヨセフは自分の見た夢をぺらぺらと兄たちまた親に向かって得意げに話しました。ところが、今色々な苦節を経て30歳になっているヨセフは、自分が夢を解けるのは神様が教えてくださるのである、自分はその取次ぎ手にすぎないといいます。13年の歳月のなかで、主に取り扱われたヨセフは自分のすべての働きは神の業であるということを、身にしみて自覚するようになっていたのです。

 私の力が、私の知恵が、私の意見、私の確信、私の考え、私のプライド・・・というところから解放されたのです。人間はアダムの堕落以来、この「私病」にかかっているのです。主のしもべはこの「私病」から解放されなければなりません。そうしなければ、どんなに才能があってもどんなに頑張っても、主の栄光をあらわす奉仕はできません。

 「艱難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出す」とローマ書にあります。忍耐は練られた品性を生み出すのです。

  ヨセフのことばの中でもう一つの大切なことばは32節です。「夢が二度繰り返されたのは、このことが神によって定められ、神がすみやかにこれをなさるからです。」ここにヨセフの力強く平安な歩みの秘訣となる信仰告白が現れています。「神によって定められ、神がすみやかにこれをなさる。」それは神が世界の、一国の、そして一人の人の歴史の支配者であられて、神が聖なる計画を持ってこれを遂行なさるという信仰、神のご摂理に対する信仰でした。結局、私たちはヨセフの生涯を通じて学ばせられる信仰は、人は摂理の神を信じているならば、どれほど厳しい試練にあったとしても、力強く、平安で、謙遜・着実な歩みをすることが出来るかということにほかなりません。

 逆境においても忍耐強く、順境にあっても思い上がることなく着実・謙遜に歩む秘訣は、摂理の神に対する信仰であります。

 

ハイデルベルク信仰問答 問い28

神の創造と摂理を知ると、どのような利益がわれわれにあるのでしょうか。

答え

 われわれは、あらゆる不遇の中にも忍耐深く、幸福の中には、感謝し、未来のことについては、われらの寄り頼むべき父に、よく信頼するようになり、もはや、いかなる被造物も、われわれを、神の愛から離れさせることはできないようになるのであります。それは、すべての被造物は、全く御手の中にあるのですから、みこころによらないでは、揺るぐことも動くこともできないからであります。

 3.キリストの影

  しかし、摂理の信仰というのは、いわゆる運命論とは違います。運命論というのは、人間がどうすることもできない冷たい定めに対する諦観、あきらめの態度です。仏教における悟りというのは、そういう運命論です。他方、摂理の神に対する信仰とは、私たちの人生を治めてくださる生きている父なる神に対する人格的な信頼と責任ある服従としての信仰です。

  こうして父なる神の御手にゆだねきった生き方ということを思うとき、私たちはやはりヨセフという聖徒の姿に、主イエス様の影を見ないではいられません。嵐のガリラヤ湖で小舟が転覆しそうな時にも、安心しきって熟睡しておられたイエス様。イエス様にとっては、木の葉のように並にもまれる小舟は父なる神のゆりかごのようでした。また十字架を目前にしたゲツセマネの園で、イエス様は父なる神の胸をたたく子どものような祈りをされました。しかし、十字架にかかって死ぬことこそ父のみこころとはっきりわかった後には、勇敢に十字架に向かってひるむことなく進んで行かれました。

 そして、十字架で私たちの罪のために苦しまれた後に、死に勝利を収めて復活し、父なる神の右に着座されました。今、イエス様は父なる神から一切の権能を委ねられて私たちの人生を摂理していてくださいます。私たちも、主イエスの足跡をたどりつつ、御父に信頼してこの人生を忍耐強く、謙遜に歩んでまいりたいと思います。