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Miz牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

喜べ!

マタイ福音書28章1-10節

2017年4月9日 復活日礼拝 苫小牧福音

 

1.「あなたがたは、恐れるな。」――屈強の兵士と、か弱き女たち

 

 主イエスが墓に葬られたのが、紀元30年の4月の7日の金曜。この日から大祭司の一派の者たちは、主イエスの墓の回りを厳重に警戒しました。主が、三日目によみがえると予告しておられたことを思い出したからです。

 けれども、神はこうした暗闇の勢力に屈するわけがありません。その日から三日目の朝つまり週の初めの日の未明に、イエス様はよみがえられました。神の御子の復活に、地は喜び揺れ動きました。アダムが堕落して以来虚無に服していた被造物は、神の御子の復活に揺れ動いたのです。そして、天の御使いがくだって、主イエスの墓の穴をふさいでいた封印の石をわきに転がしたのでした。マタイ 28:2 「すると、大きな地震が起こった。それは、主の使いが天から降りて来て、石をわきへころがして、その上にすわったからである。」

 当時のイスラエルの墓は一般的に、石の壁に横穴を掘ったもので、その中に亡骸を葬ると、その前に大きな円盤状の石の板でふたをしました。ゴルドンのカルヴァリーのそばの「園の墓」と呼ばれる墓が主の墓であったとすれば、この墓の石は厚さ60センチ弱、直径4メートルに及ぶ巨大なもので、その重さは13.8トンに及ぶと推計されています。当時の墓としては異様に巨大なもので、アリマタヤのヨセフが金持ちであったと聖書が記してことと合致します。27章65節を見ると、石には封印がされたとあります。この封印石はちょっとやそっとで動かせるものではありません。

 イエス様が人として地上に現れたクリスマスにも天で御使いが賛美しましたが、イエス様が復活なさったときにも天の御使いがそのすばらしい知らせを告げるために、天から遣わされたのでした。その衣は雪のように輝く純白でした。台地が揺れ動き、御使いを見ると、大祭司たちが墓の番のために置いていた屈強な兵士たちは、恐ろしさの余り震え上がり気絶してしまいました。マタイ 28:4

 「番兵たちは、御使いを見て恐ろしさのあまり震え上がり、死人のようになった。」

 以上の出来事は、神様に敵対し、主イエスに敵対する闇の勢力は、神様の圧倒的なご威光に対してはまったく無力なのだということを証明しています。サタンも主イエスの復活に対してはまるで無力だったのです。無から万物を造られた神は、死に代えて復活のいのちを創造なさいました。

 さて、兵士たちは震え上がって一時気絶してしまったのですが、しばらくすると目を覚ましてほうほうの体で逃げ出したようです。しばらくすると、女たちがイエス様のなきがらに香油をぬろうとしてやってきます。マグダラのマリヤ、ヤコブの母マリヤ、およびサロメです(参照マルコ16:1)。彼女たちは、あの大きな石をどうやって動かすことができるかしらと心配しながら来たようですが、やって来ると、すでに石はごろりと横に転がされ、墓の穴がぽっかりとあいているのです。女たちは顔を見合わせました。そして恐る恐る墓にはいりますと、右手に真っ白な長い衣をまとった青年が座っているではありませんか。御使いでした。

 彼女たちは、鳥肌が立ちました。そうでしょう。そもそも墓に来るだけでもちょっとおっかないのに、墓石がどけてあって、入ってみると、光り輝く人がいたのです。すると、御使いは言いました。「恐れてはいけません。」

この個所は、正確に訳すと、あなたがたは、恐れてはいけません。」です。「あなたがたは(humeis) 」がたいへん強調されています。「あなたがたは恐れることはない」というのは、神さまに敵対しているあの兵士たちは恐れて震え上がり気絶してしまったが、神を愛する「あなたがたは恐れるな」と言っているのです。つまり、兵士たちと女たちとが対照的な者として言われているのです。

 兵士たちと彼らを配置した祭司長たちは神に敵対する闇の勢力、サタンの勢力に属しています。彼らが、主イエスの復活に恐れおののくのは当然でしょう。悪魔は死の力を持つものですが、その悪魔の力を打ち破って主イエスが復活したのですから。しかし、この女性たちは主イエスを愛し神を愛してしたがって来た者たちです。光に属する者です。だから、恐れることはなにもないのです。

 神様の皮肉です。屈強な兵士たちが恐れおののき、気絶して死人のようになってしまい、か弱い女たちが「あなたがたは、恐れることはない。」と言われて、主イエスの復活の最初のメッセンジャーとされるとは、なんということでしょうか。考えてみれば、いつも主イエスの救いはそうであり、神様の祝福はそうでした。主イエスは「心の貧しい者は幸いである。天の御国はその人のものだから。悲しんでいる人は幸いです。その人は慰められるから。」とおっしゃったではありませんか。また、主イエスは「わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」とおっしゃったではありませんか。イエス様が来ると「私は見える」といっている人は見えなくなり、「私は見えません。私の目を開いてください。」という人は見るようになるのです。自分は強いと思っている人は打ち倒され、神様の前で私は弱いものですと認めている人は助け起こされるのです。「私は正しい」と言っている人は罪とされ、「こんな罪人の私をあわれんでください」と祈る人は義と認められるのです。イエス様の救いは、自分の強さを誇る者、自分の正しさを誇る者からは最も遠く、己の弱さ、己の罪深さを認めた遜った者のそばにあるのです。私たちは、弱い者です。私たちは罪深い者です。この私たちとともに、主はいてくださいます。主を賛美しましょう。ハレルヤ!

 

2.ここにはおられない。よみがえられた。

 

 墓にいた御使いは説明します。5-6節「あなたがたが十字架につけられたイエスを捜しているのを私は知っています。ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見て御覧なさい。」

 何が起こったというのでしょうか。「十字架につけられたイエスは、もはや墓の中にはいない」というのです。墓とはなんでしょうか。墓とはイエス様の復活の出来事があるまでは、死の勝利を示すものでした。どんなに権力を持つ人も死には勝てなかった。どんなに健康な人も死には勝てなかった。どんなに知恵を持つ人も死には勝てなかった。墓は、死の勝利を告げていたのです。今でも、日本の墓場に行けば、私たちは死の勝利を見ます。絶望を見ます。墓は薄気味悪い場所です。破れちょうちんに、乱塔婆というおどろおどろしいイメージが墓です。幽霊も火の玉も墓場に現れるのが相場です。そこには、闇、死、絶望の雰囲気がただよっています。

 仏教寺院に仏舎利塔というのがあります。仏舎利というのはシャカの骨のことです。シャカの骨を拝むのです。仏舎利塔に象徴されるように、釈迦においても死こそ最後の勝利者です。 

 しかし、十字架の出来事から三日目の朝、天の御使いは言いました。「ここにはおられません。よみがえられたからです。」主イエスはよみがえられた。主イエスの墓には、からだはありません。骨はありません。からっぽです。主イエスはよみがえられたのです。御使いは「来て、納めてあった場所を見て御覧なさい。」と言います。ある人たちは「イエス様の霊だけが、その肉体から抜け出たのだろう。そして、女や弟子たちに出現したのだろう」と思うようですが、そうではありません。それならば、いわゆる幽霊であり、墓にはイエス様の肉体が残っているはずです。しかし、実際には、墓の中にイエス様のからだはなかった。イエス様は、からだをもってよみがえられたのであります。イエス様の復活は、霊だけの復活という中途半端なものではなく、からだも霊もともに新しくされ、新しいいのちに満ちてよみがえられたのです。

 イエス様の墓はからっぽです。イエス様の墓は死とサタンに対する高らかな勝利の宣言です。イエス様の空っぽの墓は、私たち自身のからだのよみがえりの希望が確かであることのあかしにほかなりません。これは実にすばらしいことです。

  イエス様が私たちの罪のために罪の呪いとしての死を死んでくださいました。そして、死を打ち破って復活してくださり、私たちに罪の赦しと神のこどもとしての特権をくださったのです。天国の切符をくださったのです。キリスト者の死には希望があります。キリスト者にとって死とは、永遠のいのちへの門です。墓は勝利の記念です。

 

3.喜べ

 

 御使いは女たちを、復活の証人として任命します。マタイ 28:6、7

 「ここにはおられません。前から言っておられたように、よみがえられたからです。来て、納めてあった場所を見てごらんなさい。ですから急いで行って、お弟子たちにこのことを知らせなさい。イエスが死人の中からよみがえられたこと、そして、あなたがたより先にガリラヤに行かれ、あなたがたは、そこで、お会いできるということです。では、これだけはお伝えしました。」

 

 御使いに言われて、女たちに復活のイエス様が現れました。「おはよう」とイエス様が言うと、女たちは近寄って御足を抱いて礼拝したというのです。

マタイ 28:8、9

 そこで、彼女たちは、恐ろしくはあったが大喜びで、急いで墓を離れ、弟子たちに知らせに走って行った。すると、イエスが彼女たちに出会って、「おはよう。」と言われた。彼女たちは近寄って御足を抱いてイエスを拝んだ。

 すでに御使いが、「ここには主イエスはおられない。ガリラヤに行け。」と告げたのに、なんでイエス様が、ここで出てこられたのでしょう。小説ならば筋がおかしいと思われるところです。ですが、こういうつじつまの合わない、説明つかないところにこそリアリティがあります。イエス様は、墓まで来てくれた女たちの様子を見ると、出てこないではいられなかったのでしょうね。詳細はヨハネ福音書にあります。マグダラのマリヤが誰かが私の主のからだをもっていってしまいましたとめそめそ泣いているのを見るに見かねたのでしょうか。「おはよう」とおっしゃったのです。

 「おはよう」と訳されたことばはギリシャ語で「カイレテ」といいます。そのまま訳せば「喜べ」ということです。「喜べ!」口語訳では「平安あれ」と訳しています。「喜べ」とそのまま訳してほしかったなと思われるところです。

「女たちよ。あなたたちはわたしが死んだと絶望していましたね。死に対しては、すべてがむなしくなってしまう。けれども、喜べ!わたしはよみがえったのだ。死に打ち勝ってよみがえったのだ。喜べ!」と主イエスはおっしゃるのです。

 死は恐怖の大王です。死はすべてを空しくしてしまいます。そこには恐怖、絶望、むなしさしかありません。しかし、キリストは私たちに「喜べ!」とおっしゃるのです。「さあ、見るがいい。わたしは確かに死んだ。あなたの罪を贖うために確かに地獄の呪いの死を死んだのだ。しかし、今、見よ。わたしはこのとおりよみがえった。喜べ。わたしはよみがえった。わたしを信じ、わたしにしたがうあなたにも復活のいのちを与えよう。喜べ!」

 主イエスを信じる者は、後の日に、主イエスと同じような、あたらしい体を与えられて復活することができるのです。

 地上の人生、生きていれば、あのこと、このこと、悩ましいこと、心配なことがあるかもしれません。けれども、私たちは永遠のいのち、復活のいのちをもらっていることを思いましょう。人類最後の敵である死に対してさえ、私たちは勝利を得ているのです。ですから、喜べ!です。