水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

牢獄にあっても

創世記40

 

2017.4.9 苫小牧夕礼拝

 

1.あわてない。主がともにおられる。

 

 監獄にだまされて入れられてもヨセフはうろたえず、ふてくされず、もがきませんでした。その置かれた場において、ヨセフは主とともに生きました。彼は環境を超越していました。ヨセフはすべての超越者である主とともに生きたからです。

 海でおぼれたことがあるでしょうか。私は小学生3年くらいの夏に、あの『二十四の瞳』で有名な小豆島で家族5人で海辺にキャンプをしたことがあります。実に楽しかった。瀬戸内のおだやかな海辺の砂浜にテントを立てて、飯盒でご飯を炊いて、泳ぎたければいつでも泳ぐことが出来ます。一泊した翌朝四時過ぎ、父母姉はまだおきていませんでしたが、兄と私は泳ごうといって海にはいりました。しばらく泳いでさて立とうとしたら、足が届かないのです。遠浅でなく「近深」の海で、私は溺れそうになって「ブクブク・・・」となりました。兄は「何をふざけとうんや。」と最初笑っていました。水面から胸の出ている兄から私まで、ほんの3メートルしか離れていなかったからです。が、ほんとうに溺れているとわかってびっくりして、テントに走っていきました。「しゅうちゃんが溺れた!」と叫びながら。

 ・・・その時、私はふと冷静になって、すぐそこまで泳げばいいんだと思いました。そして、からだの力を抜いて仰向けになるとからだはぷっかりと浮き上がりました。そして、ばしゃばしゃ泳いで岸まで行ったのです。助かりました。しばらくすると、眠い目をこすりながら父がテントから出てきました。

 あわてふためいてもがくと溺れます。体の力を抜くと浮き上がります。不思議ですね。 

 身の回りにばたばたといろいろなことが起こって、ポティファルの筆頭家令から監獄に落とされたとき、さすがのヨセフもびっくりしたでしょう。けれども、彼は「主が私とともにいてくださる。」と思い出したのです。そうすると、もがくこともなく、そこで平安になれました。そして、この監獄の中でも平安を持って、その監獄という与えられた場での勤めに忠実に励むことが出来たのでした。やがてヨセフは監獄の長に信頼されて仕事をみな任されるようになるのです。

 

2.チャンスを捕える人とは

 

 やがてチャンスが来ました。パロのもとに仕えていた献酌官と調理官という高官が、パロの怒りに触れてヨセフのいる牢獄に入れられたのです。お読みしたように、ヨセフは彼らの夢を解き明かし、次の章ではこのことをきっかけとして、ヨセフは牢獄から引き出されるばかりか、さらにエジプトの宰相として取り立てられることになります。献酌官と調理官が牢屋に入ってきたこの時点では、それほどのチャンスが訪れたとは、誰も気づいた人はいません。が、神様のご計画の中にはちゃんと刷り込み済みだったわけです。

 献酌官と調理官という地位は、私たちにはピンと来ませんが、パロのそば近く仕える人です。江戸時代でいえば将軍のお庭番といったところでしょうか。彼らはパロの怒りに触れたとはいえ、身分ある人ですから、沮喪があってはならないということで、誰か付き人としてつけようということになったわけです。そのとき監獄の長の頭に浮かんだ適任者は、ヨセフその人以外にありませんでした

 どうして監獄の長にヨセフの顔が浮かんだのでしょうか。囚人ならばほかにでもたくさんいたわけですが。それは、ヨセフが監獄にあっても主とともに誠実に生活をしていたからです。ヨセフに任せておけば大丈夫という確信が監獄の長のうちにあったのです。

 監獄生活というのは荒れるものでしょう。一般に素行の悪い人々が集められて暮らすわけですし、生きる目的もわからないで、毎日毎日強制労働の中にあるのですから、ある意味では荒れて当たり前です。特にヨセフの場合、奴隷の身分でありながら主人である高官の妻を強姦しようとしたと訴えられたのですから、当時の基準でいえば、おそらく死刑に準ずる程度の刑を受けていたのです。いつ出られるかわからない監獄です。無期懲役囚というのは、たいへん無気力で荒れるというのが普通だそうです。

 けれども、その自分に科せられた不当な監獄生活と強制労働さえも、ヨセフの目には主がたまわった大切な勤めとして映ったわけです。ですから、いやいやながらではなく、むしろ、喜んで進んで誠実にその任務を果たしたわけで、だからこそ監獄の長にも信頼されることになったのでした。そして、やがて彼は宰相の仕事までも任されることになります。小事に忠実であったヨセフでしたから、神は大事をも彼に任されたのです。

 こうしてヨセフは神様がくださったチャンスを捕えることができたわけです。確かに神様がチャンスをお与えになったのですが、彼がチャンスを捕えることができたのは、冤罪で監獄に入れられたという状況にあっても、自暴自棄にならず、むしろ進んで忠実に小事に仕えていたからでした。摂理の信仰をヨセフはもっていたのです。

 私たちがヨセフの信仰から学ぶことは、摂理者である神に対する信頼ということです。摂理とは、配慮、配剤とも訳される言葉です。神様が、その愛する民のために、もろもろの出来事を通して、最善をなしてくださることを信じる信仰が、摂理の信仰です。

  神の摂理を信じる信仰は、人は謙虚に、そして力強い歩みをさせてくれます。

 ハイデルベルク信仰問答 問答26,27,28

問26 「わたしは、神、父、全能者、天地の造り主を信じます。」というときには、あなたは何を信じているのですか。
答 わたしは次のことを信じているのです。
わたしたちの主イエス・キリストの永遠の父が、その御子のゆえに、わたしの神様であり、わたしの父であるということを。
 神様は、天と地と、その中にあるすべてのものを、何もないところから造られました。そしてこれを、神様の永遠の御心と摂理によって、常に、保ち、支配しておられるのです。
 その神様に、わたしは、よりたのみ、疑うことをしません。
神様が、わたしに、からだと魂に必要な、すべてのものを備えてくださっているということを。
また、このなやみの多い世の中において、神様がわたしにお与えになる、どのような不幸でさえも、最もよいものに変えて下さることを。
 神様は、全能の神様ですから、これをなさることができますし、信頼できるお父さまですから、喜んで、これをしてくださるのです。

 

問27 あなたは、神様の摂理とは、何であると思いますか。
答 神様の、全能で、あらゆるところで今働いている力であると思います。
その力によって、神様は、天と地を、そのすべての被造物といっしょに、
神様ご自身のみ手によってなさるかのように、保たれ、また、支配されるのです。
なぜなら、木の葉も草も、雨も日照りも、
実り豊かな年も、実りのない年も、食べることも飲むことも、
健康も病気も、富も貧しさも、
すべてのものが、偶然にではなく、
神様の父親としてのみ手によって、わたしたちに与えられるのです。

問28 神様の創造と摂理とを知ると、わたしたちにとって何の役に立つのですか。
答 わたしたちが、あらゆる不幸の中でも、忍耐深くなり、
幸福の中では、感謝をして、
未来のことに対しては、わたしたちの信頼できる、お父様である神様に、
全面的に信頼するようになることなのです。
なぜなら、なにものも、私たちを神様の愛から切り離すことはできないからです。それは、すべての被造物が、完全に神様のみ手の内にあり、神様のご意志によらないでは、揺れることも、動くこともできないからなのです。

 

3.待たされる

 

 細かい夢の解き明かしについては今日は詳しく見ません。とにかく、2人の高官はそれぞれに夢を見まして、その夢の解き明かしをヨセフに依頼したのでした。ヨセフは主によって(創世記40:8)、彼らの夢を解き明かしました。そして、その解き明かしのとおり、献酌官長は救われ、調理官長は死刑にされてしまいました。

 ヨセフは、この献酌官長が釈放されてパロのもとに行くことを知っていましたから、彼に自分の無実の罪を訴えて監獄から解放されることを願っていました。14,15節。

 ところが、献酌官長はヨセフのことを忘れてしまいます。23節。

 

 ヨセフは、ここで神様からもう一つの訓練を受けることになったのです。それは待たされるという訓練、忍耐の訓練です。主の時を待たされるという訓練です。チャンスが到来し、それをしっかりとつかんだからこそ、待つことはヨセフにとってたいへんつらかったのではないかと推測します。けれども、主はヨセフを待たせたのです。ヨセフが、自分の才覚や努力で出獄のことが進んだと思わせないためかもしれません。それより、なにより、神様のご計画では、単にヨセフを監獄から出すだけでなく、かれをエジプトの宰相とするという壮大なプランがあったからです。

 神様の思いは、しばしば私たちの思いはかりをはるかに超えて高くかつ素晴らしいのです。素晴らしすぎて私たちの想像を越えているのです。

 

「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、

わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。

――主のみつげ――

天が地よりも高いように、

わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、

わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ55:8,9)

 

 ですから、私たちは主の時を待つことをわきまえなければなりません。神の時をわきまえず、自分で計画し、自分で走り出すならば、神様の摂理の糸を絡ませることになるでしょう。糸がこんがらがってしまった時、あっちを引っ張りこっちを引っ張りすれば、かえって絡まってほんとうに解けなくなってしまいます。ちょっと手を休めましょう。そして、主の前に静まって、心を落ち着けて待つことです。

 時というのはたいせつなものです。何もしていない無駄とさえ思われる時が実はたいせつな場合があるのです。たとえばお漬物がそうですね。たとえば甘酒もそうですね。

 

結び

 私たちの神は摂理の神です。私たちの知恵をはるかに超えたご配慮をしてくださる神です。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画にしたがって召された人々のためには、神はすべてのことを働かせて益としてくださる」そういう神様です。

 ならば、今の苦難も偶然ではなく、神の御手から出ていることです。そして、神を愛し神を待ち望む者に、神はすべてのことを働かせて益としたまうのです。