Miz牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

主がともにおられたので

創世記39章

ヨセフの生涯2

 

1.主がともにおられてヨセフを成功させた

 

 17歳の少年ヨセフは兄たちに奴隷として売り飛ばされて、縄でつながれてエジプトに連れていかれました。ヨセフはどれほど心細かったでしょうか。どんなに悲しかったでしょうか。年季奉公ではないのです。もう一生涯、言葉も知らず知った人もいないところで、奴隷として暮らしていかねばならないのです。こうして、エジプトに到着するとヨセフはエジプトの王パロの廷臣ポティファルに売られて、その家の奴隷として仕えることになったのです。

 多くの人は、こういう悲惨な状況に置かれると、「神様はどこに行ってしまったのだろうか。主は私を見放されたのだろうか。そうでなければ、こんなにひどいことにはならないはずだ。」などとつぶやきます。ところが、2節にはこうあります。「主がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人となり、そのエジプト人の主人の家にいた。」誰も知った人がいない、天涯孤独と思ったヨセフでしたが、「主がともにおられた」のです。ヨセフは幼い頃からまことの主なる神様のことは教わってきたでしょう。その教わってきた主なる神様にヨセフは祈らないではいられなくなり、主との交わりが、ほかに誰にも頼ることが出来ない異郷での奴隷という境遇に置かれることによって深まっていったことは容易に想像できますね。朝に昼に夕にヨセフは主と交わり、主にお話し、主とともに歩んだのです。

 

 主はヨセフとともにおられて、ヨセフに主人の家の仕事において、やることなすことみなうまくいくようにしてくださいました。3節。「彼の主人は、主が彼とともにおられ、主が彼のすることすべてを成功させてくださるのを見た。」

 真の神を知らぬ主人ポティファルが、どうしてヨセフとともに主なる神がいますことを知るようになったのでしょう。普通、部下の仕事がうまく行くのを見れば、上司は「これはよく仕事が出来る、能力のある男だ。」と評価はするでしょうが、「主なる神がこの男といっしょにいる。」などとは思わないでしょう。ポティファルがそのように判断したというのは、あきらかにヨセフがポティファルに対して真の神様のことを証言していたからにちがいありません。「お前はほんとうによくできるなあ。」とポティファルにほめられると、「いいえ、ご主人様。これは私とともにいます主なる神が、私に成功させてくださったのです。私は単なる主なる神の道具にすぎません。」というような答えをしていたに違いありません。(参照41:16)

 そうした結果、ポティファルはヨセフに妻以外の全財産を任せることにしたのです。彼は奴隷という身分ではありましたが、この家の筆頭の管理者となったのです。その結果、さらにポティファルの家は富み栄えたのです。ヨセフにとっても、まずはわが世の春という感じでした。あにたちによって奴隷として売り飛ばされてエジプトにやってきた頃のことを考えると、夢のようです。5節、6節。

 

2.誘惑

 

 こうして数年が経ちました。ヨセフはやることなすことみな成功し、ポティファルも上機嫌でした。ヨセフの評判も上々。

 しかし、サタンの誘惑がここに起こってくるのです。ヨセフが体格もよく美男子であったということが災いの一因となったようです。おそらくポティファルの妻は、年がだいぶ上のポティファルに飽き飽きしていたのでしょう。そこに頭もよく顔もよく体格もいい青年ヨセフが入ってきて、始終家の中にいるので、心引かれたのでしょう。彼女はヨセフを誘惑したのです。7節。

 もし家のマスターキーを委ねられて、ヨセフに少しでも増長したところがあったならば、ポティファルの妻の誘惑にもやすやすと乗ってしまったのではないかと思います。一回目は退けることができたとしても、彼女は何度も何度も執拗にヨセフに迫ってくるのです。10節。けれども、ヨセフは誘惑を撥ね付けることができました。それは、8,9節にあることばからわかります。

「しかし、彼は拒んで主人の妻にいった。ご覧ください。私の主人は、家の中では私より大きな権威をふるおうとはされず、あなた以外には、何も私に差し止めてはおられません。あなたがご主人の奥様だからです。どうしてそのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことが出来ましょうか。」

 ヨセフは、主人ポティファルに対して恩義を感じていました。奴隷として売られてきたのに、ここまで自分を信頼して取り上げてくださった主人をどうして裏切ることができましょうということでした。けれども、それだけでヨセフはこの執拗な誘惑に勝利することはできなかったでしょう。ヨセフは、「私は神に罪を犯すことができましょうか。」と言いました。主がともにおられるという意識、臨在の意識がヨセフの断固たる姿勢の根本にあります。それがこのサタンの誘惑に勝つことが出来た理由でした。

 

 神様の信者に対するお取り扱いのプロセスという観点から考えると、ポティファルの妻の誘惑は、ヨセフの信仰の生涯のなかで、前の段階よりも1ステップアップしたなあという感じがします。前の段階では、神様はヨセフとともにおられてヨセフに次々と成功をさせてくださいました。ところが今や、ヨセフは主に対して罪を犯さないために、大きな犠牲をはらうというステップに至っているわけです。主がともにおられることによって、成功するという段階から、ともにおられる主のために犠牲をはらうという段階への前進です。

 信仰の初歩とは、私たちは自分の幸せのために主を信じるという段階です。自分が幸せになりたいから、主を信じて幸せにしていただく。成功したいから、主を信じる。確かに、聖書にもそういう人々がたくさん出てきて、それぞれに神様からの祝福にあずかっているのを見ます。病をかかえて主イエスのもとに来て癒しをいただいた人々がたくさんいます。悲しみのどん底で主イエスを知って、希望をいただいた人々がいます。孤独の中で主イエスを知って、主がともにおられることをしって平安を得た人々もいます。それはそれで、感謝すべきことであってよいことです。私たちは決して強い者ではありませんから、一生涯、信仰において主に求めるという面をもちつづけるでしょう。それはそれでよいことです。おさなごのように単純に主に必要を訴えて、お答えをいただくということは信仰生活のたいせつな一面です。

  しかし、同時に父なる神様は私たちをやがて信仰の次のステップに進ませようとなさいます。それは、主のために失う経験をすることです。私たちは主イエスを信じていることのゆえに、犠牲を払うことを迫られることがあります。ヨセフは誘惑を退けましたが、その結果、必然的にポティファルの妻の恨みを買い、主人の怒りを受けて牢屋に落とされることになりました。彼女は自分の色香に迷わないヨセフに、女性として侮辱されたと感じたのです。まあ身勝手な女ですが、それが彼女にプライドに触れたわけです。

 それでもヨセフは甘んじて獄に下りました。奴隷からせっかくパロの廷臣の家の家令職にまで上ってきたのに、今や奴隷よりももっと卑しい囚人へと転落することになりました。せっかく苦労をして得た社会的地位や名声なのに、ヨセフはそれをすべて失ったのです。それは主のためです。

 他の言い方もできます。主がヨセフとともにおられたので、ヨセフは成功したのです。けれども、肝心なことは「成功した」ことではなくて、「主がともにおられた」ということだったのです。ヨセフは主がくださった「成功」と、主ご自身と、どちらを望むかというテストを受けたのでした。そして、ヨセフは主とともに歩むことを選んだのです。「成功する」か「失敗するか」ということはヨセフにとって小さなことにすぎませんでした。表面的なことにすぎません。主がともにおられるということが大切なことだったのです。

 あなたは、主のために失ったことがありますか。

 

3.監獄で

 

 ヨセフはポティファルの怒りを買って、濡れ衣ながら監獄におとされることになってしまいました。パロの廷臣の屋敷から監獄へとヨセフの置かれた環境は激変しました。光から暗闇へという感じです。けれども、なにも変わらなかったことがあります。21節から23節。「主が彼とともにおられた」という事実です。

 「彼は監獄にいた。しかし、主はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた。それで監獄の長は、その監獄にいるすべての囚人をヨセフの手に委ねた。ヨセフはそこでなされるすべてのことを管理するようになった。監獄の長は、ヨセフの手に任せたことについては何も干渉しなかった。それは主が彼とともにおられ、彼が何をしても、主がそれを成功させてくださったからである。」

 ポティファルの妻のような悪女が堂々とのさばっており、正義の人であるヨセフが牢獄につながれるという状況を見て、「人は神はおられるのか?神がいらっしゃるとすれば、どうして何もなされないのか?」と多くの人はいうかもしれません。けれども、主はそこにおられた、ヨセフとともにおられたのです。

 

 またヨセフには、もう一つの危機がありました。それは恨みの獄舎につながれてしまう危険がありました。あのモンテクリス伯爵ことエドモン・ダンテスのように。自分を陥れたポティファル妻を恨み、また、もっとさかのぼれば自分を奴隷に売り飛ばした兄たちを恨み、復讐を誓うというのがただの人間の心理でしょう。多くの人は、こうした恨みの獄舎にとらわれて暮らしているものです。恨みの獄舎長はサタンです。サタンは、怒りを恨みに、恨みを殺意に変えます。

 けれども、ヨセフはそうしたサタンの罠に陥りませんでした。主がヨセフとともにおられたからです。ヨセフにとっては、自分が奴隷であろうと、家令職にあろうと、はたまた囚人であろうと、社会的な立場の違いはさほど大きな問題ではなかったように見えます。ヨセフにとって最大のことは、主がともにいてくださるかどうかということだったのです。そして、主がともにいてくださるのだから、どんな立場にあっても、彼のうちには変わることのない平安と喜びがあったのでした。

 

 むすび

 私たちもいろいろな状況に置かれることがあるでしょう。特に、人の悪意によって富や名声や地位を失って苦境に陥れられたというようなことでもあれば、その悔しさや怒りや悲しみを除くことは、容易なことではないのでしょう。しかし、注意しなければなりません。恨みを抱きつづけるならば、サタンの思う壺です。うらみつづける人はサタンの奴隷とされてしまいます。

 私たちの人生にはクリスチャンになったとはいえ、穏やかな春の野を行くような日々もありましょうが、吹雪や闇夜もあるでしょう。しかし、クリスチャンの人生はどんなときにも主がともに歩んでくださる人生です。一足、一足、御国に向かって進んで行きましょう。聖歌588

「主とともに歩むその楽しさよ 主のふみたまいし御跡をたどる 一足一足主にすがりてたえず絶えずわれは進まん

花咲く野原も血にそむ谷も導かるるまま 

主とともに行かん」