Miz牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

求めなさい

マルコ10:46-52                            

2017年3月26日 苫小牧主日

 

  10:46 彼らはエリコに来た。イエスが、弟子たちや多くの群衆といっしょにエリコを出られると、テマイの子のバルテマイという盲人の物ごいが、道ばたにすわっていた。

 10:47 ところが、ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」と叫び始めた

 10:48 そこで、彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます、「ダビデの子よ。私をあわれんでください」と叫び立てた

 10:49 すると、イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい」と言われた。そこで、彼らはその盲人を呼び、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている」と言った。

 10:50 すると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た。

 10:51 そこでイエスは、さらにこう言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」

 10:52 するとイエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。

 

 

 

1 エリコの町

 

 主イエスの一行はエリコに来ました。すでにユダヤ地方にはいりエルサレムのすぐ近くの町です。エリコというのは世界最古の町の一つであると言われています。旧約聖書ではヨシュア記の中で、ヨシュアを指導者としたイスラエルの民が、神の命令にしたがってこの町の周囲を回ったところ、その城壁が崩れてしまったという出来事が有名です。

 エルサレムが近くなりイエス様の伝道の旅はまもなく終わろうとしています。イエス様には十二人の弟子だけではなく多くの群衆がガリラヤからついてきていました。

 ところで、この記事のルカ伝の並行記事を見ていただきたいと思います。ちょっと興味深いことがあります。

18:35 イエスがエリコに近づかれたころ、ある盲人が、道ばたにすわり、物ごいをしていた。

 マルコ伝とルカ伝の違いがわかるでしょうか。一見すると、矛盾しているように見えるところです。マルコ伝では、「イエスがエリコから出られると」、そこに盲人がいたということですが、ルカ伝では「イエスがエリコに近づかれたころ」とあるのです。マタイの並行記事はマルコと同じくエリコから出たところとなっています。いったいなぜ、こんな違いがあるのでしょうか。聖書を否定したい人々の喜びそうなところです。

 ところが、考古学者がエリコの町を発掘した結果おもしろいことがわかりました。イエス様の御在世当時、エリコの町は古いエリコの町と新しいエリコの町のふたつがあったのです。そして、古い町の城壁の門を抜けて、隣にある、新しいエリコの町をつなぐ道がありました。それで、古い方の町を通ってその門を出て新しい町に向かおうとしていたときのことであるとわかりました。一つのエリコの門を出て、また、もう一つのエリコの門に近づいたとき、そこに乞食がいたのです。

 一見矛盾して見える聖書箇所も、こんなふうにして実態が明らかになってくるというのは面白いことです。私たちの限りある経験や知識によって、簡単に聖書を否定するのは慎む方が賢明です。千年くらい待ったほうがいいですね。

 

2 バルテマイの求める姿

 

 日本の町は城壁に囲まれておらず、町には門はありませんが、イスラエルの町は城壁に囲まれていて、町に出入りするためには門を通らねばなりません。町の門というのは、人が一番たくさん行き来するところですから、乞食の稼ぎ場でした。今で言えば駅前ということです。門のところに一人の乞食がいました。名をバルテマイすなわちテマイの息子といいます。彼は盲人でした。当時としては盲人がつくことのできるような職業はなく、社会福祉といった働きも乏しい時代ですから、乞食をして生計を立てるほかなかったのでした。自分がもし盲人だったら、また自分が乞食をしないと食べて行けなかったら、想像するとバルテマイがどんな気持ちで暮らしていたかが少しはわかるような気がします。ごく普通の人並みな幸せも自分には縁がないのだという思いで、絶望的な状況のなかでバルテマイは生活をしていたのです。

 そんなある日、バルテマイはイエス様の噂を聞いていたのです。この記事によると、その噂によって彼は「イエス様こそ、救い主」と信じるようになっていたことがわかります。「ダビデの子」という表現は、待ち望まれたキリストすなわち救い主の別名です。いつか、自分もイエス様にお会いしたいものだ。お会いしたならば、きっとこの目を開いてほしいものだ。彼はそう考えるようになりました。

 そして、またある日、バルテマイが、いつものように古いエリコの門と、新しいエリコの門を結ぶ道端にすわっていると、回りが急ににぎやかになりました。彼が「どうしたんだい、誰か来たのかい?」と周囲の人だかりに聞くと、「ナザレのイエス様がこの門を出ていらしたんだよ。」との返事です。彼は、今こそ自分がイエス様に救いを求める、最初で最後のチャンスであると思いました。

 一刻の猶予もありません。彼は「俺は目が見えないからイエス様のところにいけないよ」とつぶやいて座り込んだままあきらめるようなことはしませんでした。目の見えないバルテマイはどうしましたか?彼には視力はありませんが、聞くことはできました。イエス様が近づいて来られたのを、その耳でキャッチできたのです。そして、しゃべることもできました。しかも、毎日の乞食商売で「右や左の旦那様。あわれな乞食にお恵みを!」と叫んで鍛えた立派な喉です。彼は欠けたものでなく、与えられた賜物を十分に活用しました。彼は大音声で叫び求めたのです。

ダビデの子よ。私をあわれんでください!」

ダビデの子よ。私をあわれんでください!」

ダビデの子よ。私をあわれんでください!」 

ダビデの子よ。私をあわれんでください!」

ダビデの子よ。私をあわれんでください!」

 バルテマイの声があまりにばかでかく、そして何度も何度もしつこいので、みんなは「イエス様はお忙しいんだ。おとめするわけにはいかない」などといってたしなめました。しかし、いかにたしなめても、バルテマイはやめません。

ダビデの子よ。私をあわれんでください!」

ダビデの子よ。私をあわれんでください!」

 

 バルテマイの主を求める姿に、私は胸打たれてしまいました。こんなにも真剣に、必死で主を求めているのです。「私は目が見えないから行けない。」「きょうは仕事だからだめ。」「きょうは風邪ぎみだから。」「世間体があるから」「恥ずかしいから」「人が見ているから」などといろんなことを言い訳にして、多くの人たちは主を本気では求めようとしません。いつでも求めようと思えば求められると高を括っているのです。そして、バルテマイのように真剣に主を求めようとはしないのです。

しかし、主はあなたが自分の都合で保留しておいて、求めたいと思えばいつでも手軽に求められるようなお方ではありません。主が近づいてくださった。今というチャンスをのがしてはなりません。

「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに呼び求めよ。」

 

3 主の応答

 

 主イエスは弟子たちと一緒に、バルテマイの前をすたすたと通り過ぎて行かれました。バルテマイの求めがどれほど真剣なものか主は、試しておられたようです。また周囲の者たちにも、私たちにもバルテマイのその真剣そのものの求道心を学ばせたいのでしょう。

 そしてついに、主は言いました、「あの人を呼んできなさい。」ついに主イエスがバルテマイを呼んでくださったのです。

 

 するとバルテマイは上着を脱いで、すぐ立ち上がり、イエス様がいらっしゃると思われる方向に一生懸命に歩いて行きました。盲目で右に左にふらふらしていますし、けつまずきもしますが、それでも懸命に主に近づくのです。

 主イエスは、バルテマイに尋ねました。「何をして欲しいのか?」主イエスは御存じなのです。しかし、あえて聞かれるのです。私たちは主に祈り求めるとき、あいまいなもの、抽象的なことではいけません。具体的に答えてもらいたければ、具体的に求めることです。具体的に答えられると、ああ、主が答えてくださった!とわかります。すると神様との交わりがますます親密になります。そして、恵みを受け取る器がだんだんと大きくなります。最初は御ちょこみたいな信仰が、コップのようになり、洗面器のようになり、風呂桶のようになり、やがて支笏湖のようになり、太平洋のようになります。

バルテマイは即座に具体的に答えました。「先生。目が見えるようになることです。」

あなたは「主よ」と叫んで、主が振り返ってくださったとき、「あなたは何が欲しいのか?」と問われたら、具体的に答えられますか?具体的に求めることです。具体的に答えられます。キリスト教はご利益宗教ではないと時々言われます。しかし、キリスト教は永遠のいのちをくださる、それに加えてすべてのよきものをくださる世界最大のご利益宗教でしょう。たしかにキリストにあって生きるとき、私たちは欲張りで利己的な生き方でなく、神を愛し、隣人を自分自身のように愛することを目的として生き始めます。しかし、神を愛し隣人を自分自身のように愛して生きるために必要なものがあるでしょう。神様は、生ける神です。空気もお金も水も友だちも、罪の赦し、この世のいのちも、そして次の世のいのちも、すべては神様からの賜物です。私たちが神を愛し隣人を自分自身のように愛して生きるために必要なものはすべて与えてくださいます。具体的に求めればよいのです。

 

結び.私たちがバルテマイに私たちが学ばねばならないこと。

第一。救いということに関して、私たちは無一文の乞食であるということ。

あわれみによって、私たちは救われるのです。主から祝福をいただくのです。主の祝福は報酬ではありません。恵みなのです。

第二。バルテマイは主がそばに来られたその一回かぎりのチャンスを逃がさなかったのです。私たちの人生において、主が近く臨んでくださるときというのは、そんなにたびたびあるものではありません。キリストの福音を聞いている今が、救いの時です。

第三。万難を排して主を求める

バルテマイは、言い訳しようと思えば「目が見えないから自分は主に近づけない」とか言い訳することもできたでしょう。彼には数々のハンディがありました。しかし、彼はそんな言い訳をするよりも、彼に与えられた耳をもちいて、主イエスの到来を察知し、大声を用いて真剣に主を叫び求めたのです。

第四。バルテマイが主を求めるにあたって恥も外聞も世間体もなかった。それほど真剣に主の祝福を求めたのです。求めて求めて求め続けたのです。

「求めなさい。そうすれば与えられます。

探しなさい。そうすれば見つかります。

たたきなさい。そうすれば開かれます。」

です。この率直な求めを主は期待していらっしゃいます。

第五。「何をしてほしいのか?」と主に問われたら、具体的かつ明瞭に「目が見えるようになることです」と答えたことです。