水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

結婚

創世記2:15-25

 

2016年5月1日主日 苫小牧夕礼拝

 

2:15 神である【主】は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。 2:16 神である【主】は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。 2:17 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」

2:18 神である【主】は仰せられた。「人が、ひとりでいるのは良くない。わたしは彼のために、彼にふさわしい助け手を造ろう。」

  2:19 神である【主】は土からあらゆる野の獣と、あらゆる空の鳥を形造り、それにどんな名を彼がつけるかを見るために、人のところに連れて来られた。人が生き物につける名はみな、それがその名となった。

 2:20 人はすべての家畜、空の鳥、野のあらゆる獣に名をつけた。しかし人には、ふさわしい助け手が見つからなかった。

 2:21 神である【主】は深い眠りをその人に下されたので、彼は眠った。そして、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。

 2:22 神である【主】は、人から取ったあばら骨をひとりの女に造り上げ、その女を人のところに連れて来られた。

 2:23 人は言った。

   「これこそ、今や、私の骨からの骨、

   私の肉からの肉。

   これを女と名づけよう。

   これは男から取られたのだから。」

 2:24 それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。

 2:25 人とその妻は、ふたりとも裸であったが、互いに恥ずかしいと思わなかった。

 

序 

 神様は万物と人間を造られたとき、三つの制度を定められました。一つは七日に一度の安息・礼拝ということであり、一つは労働ないし文化命令であり、一つは結婚ないし家庭建設ということです。礼拝、労働、家庭という三つが、神のもとにおける人間のもっとも基本的な営みです。注目すべきことは、国家などというものは存在していないということです。国家とは剣の権能つまり、悪を取りします警察権ですが、人間の堕落後に、人間が礼拝と労働と家庭を正常に営むことをさまたげる罪が入ってきたので、それを抑制するために必要になって造られた道具です。国家は、国家主義者が考えるように人間の生きる至高の目的ではなく、人間の、礼拝・労働・家庭が営まれるための手段にすぎません。

 さて、それはさておき、善悪の知識の木から話を始めます。

 

1.善悪の知識の木

 

  2:15 神である【主】は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。 2:16 神である【主】は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。 2:17 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」

 

 神様は人間を造り、エデンの園に置いて、彼にこれを耕しかつ守るという任務をお与えになったとき、善悪の知識の木をお定めになって、これだけは食べるなとおっしゃいました。これは神の人間に対する主権を意味しているのでした。つまり、人間の生きかたにおける善と悪は、人間が定めるわけではなく、神がお定めになるということを意味したのです。人間は、神がお定めになった善と悪との基準の下に身を置いて生きることが、大事なのです。善悪の知識の木の実からとって食べることは、神の主権を侵害し、自分のしたいことが善であり、したくないことが悪なのだという、態度表明を意味したのです。

 「かならず死ぬ」と言われましたが、聖書において「いのち」とは神との交わりを意味し、「死」とは神との断絶を意味します。神に背くなら必然的に、死となります。

 人間の生きる上での善悪の基準は神がお定めになっています。本日、みことばから学ぼうとする結婚についても同様です。聖書はそれほどこと細かく結婚について教えるわけではありませんが、大原則を教えています。その鍵の一節は2章24節です。

 

2.幸福な家庭スタートの順序

 

「それゆえ男はその父母を離れ、妻と結び合い、ふたりは一体となるのである。」(2:24)

 まず、幸福な結婚、家庭建設の順序についてです。第一に「父母を離れる」つまり両親から自立する、第二に「妻と結び合う」つまり結婚する、第三に、「二人は一体となる」精神的・肉体的・経済的にもひとつとなるという順序です。ところが、現代の日本では、しばしばこの順序がさかさまになってしまっています。つまり、結婚もしていないのに、一体となってしまう。そのうち子どもが出来たから、まあ、仕方ないかということで結婚をする。けれども、夫婦ともに精神的にも、経済的にも父母から自立的できていないということです。これでは、なかなか幸福な家庭の建設はむずかしいのです。

 幸福な家庭建設のスタートのためには、まず、父母を離れ、妻と結び合い、二人は一体となるというこの順序が大事だということをわきまえましょう。この世の風潮に惑わされず、神様が定めたのがこの順序ですから、自信を持って子どもや孫たちに教えましょう。

 

2.父母を離れる

 

 十戒は、前半と後半に分かれていて、前半は神への愛、後半は隣人愛についての戒めが記されていますが、その後半の第一番目に来るのが「あなたの父母を敬いなさい。」です。親を敬うことが人間関係、人間愛の基本であるということです。それにもかかわらず、こと結婚のためには、まず「父母を離れなさい」と命じています。父母から精神的経済的に自立しなければ、つまり、大人にならなければ、もう一つの新しい家庭を作ることは非常に困難であるからです。

 何かがあると「実家に帰らせてもらいます」という奥さんでは困り者ですし、配偶者に相談する前に、自分の親に重要なことをさきに相談するような夫も困りものです。二人はまず父母を離れるべきです。

 また、親も、子どもたちが建設し始めた家庭を、少し離れて二人を見守るということをもって、親としての愛を表現することが大事なことです。

 そうして、二人がしっかりと結び合い、よい家庭を築いて、ご両親に親孝行をしてほしいと思います。

 

3.夫婦の役割分担

 

 夫婦の役割分担についてです。男と女はともにそれぞれ神の御子の似姿として造られましたから、ともに尊い存在であることに変わりはありません。しかし、役割の上ではちがいがあります。神は最初にアダムを造り、エデンの園を耕し守るという務めを与え、食べ物に関するさだめ、善悪の知識の木のさだめを与えてから、そのふさわしい助け手として妻をお造りになりました。このことは、夫婦、その家庭において、神様は契約のかしら(代表)を夫に与えられたことを意味しています。3章にまいりますと、妻のほうが先にサタンの誘惑に破れて、夫も共犯者となってしまいますが、神様が最初に責任を問うたのは妻に対してではなく、夫に対してであったことから見ても、神様がアダムをこの最初の家庭の契約のかしらとして扱っておられることがわかります。アダムは、神の前に家庭の代表として立ち、神から受けた祝福と、善悪の知識の木の定めを妻にしっかりと伝えてリーダーシップをとる責任があったのですし、また、妻が過ちを犯したことについても、彼には相当の責任がありました。

このように神様は夫婦において、夫にリーダーシップをおゆだねになりました。妻は、そのリーダーシップを尊重することを神様から求められています。ですから、聖書は繰り返して妻に命じています。「夫に従いなさい」と。

「5:22 妻たちよ。あなたがたは、主に従うように、自分の夫に従いなさい。 5:23 なぜなら、キリストは教会のかしらであって、ご自身がそのからだの救い主であられるように、夫は妻のかしらであるからです。 5:24 教会がキリストに従うように、妻も、すべてのことにおいて、夫に従うべきです。」(エペソ5:22-24)

「3:1 同じように、妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです。

 3:2 それは、あなたがたの、神を恐れかしこむ清い生き方を彼らが見るからです。

 3:3 あなたがたは、髪を編んだり、金の飾りをつけたり、着物を着飾るような外面的なものでなく、 3:4 むしろ、柔和で穏やかな霊という朽ちることのないものを持つ、心の中の隠れた人がらを飾りにしなさい。これこそ、神の御前に価値あるものです。」(1ペテロ3:1-4)

 そもそもリーダーシップが成り立ち、機能するためには、条件があります。それは、リーダーの下にある者が、リーダーをリーダーとして認めて尊重することです。そうでなければ、リーダーシップは発揮しようが無いのです。妻が夫のリーダーシップを認める気がまったく無いのに、夫がリーダーシップを発揮しようとすれば暴君になってしまいます。そういう意味で、妻が家庭の秩序の鍵を握っているのです。妻が夫のリーダーシップを尊重すれば、夫は妻を愛し導きやすく、妻もまた、自分のもとに子どもたちを導きやすくなります。しかし、妻が夫のリーダーシップを拒否し、子どもの前でも夫のことをこき下ろすようなことをしていると、夫はリーダーシップを放棄するか暴君になってしまいます。争いの絶えない両親を見ていると、こども不安定になってしまいます。

 夫は妻をキリストが教会を愛したようにいのちをかけて愛し、妻は夫を教会がキリストに従うように従うときに、そこに家庭の調和が生まれます。

 

4.夫婦の結び合い

 

 次に夫婦が結ばれることについて。

 神様はありとあらゆるものを造って来られて、造るたびに「よしと見られた」「よしと見られた」と繰り返して来られました。ところが、最初にアダムを造られたあと、「人がひとりでいるのはよくない」と言われました。そうして、彼に「ふさわしい助け手」として妻を与えます。

 「相応しい助け手」とはどういう意味でしょうか。神様は、彼女を単に助け手とは呼ばず、「相応しい助け手」と呼ばれたのです。神様はアダムを造ったとき、彼のところにもろもろの家畜、鳥、獣たちを連れてこられました。こうした動物のなかでも、牛や馬やロバといった家畜であれば、アダムが園を耕し守るための「助け手」にはなることができました。けれども、「相応しい助け手」になることはできませんでした。

「ふさわしい」とやくされることばネゲッドは「差し向かいの」という意味のことばです。つまり、単に労働力という意味の助けではなく、人格的な交流のある助け手、語り合う助け手、ともに祈ることのできる助け手ということです。

 

このような人格的出会いとしての交わりのために、神様は彼女をアダムをあばらから造られました。そのとき、神様はアダムに眠りを下されました。

「2:21 神である【主】は深い眠りをその人に下されたので、彼は眠った。そして、彼のあばら骨の一つを取り、そのところの肉をふさがれた。」

 神様はなぜアダムにいわば全身麻酔で眠りを下されたのでしょうか?それは、もし彼が目を覚ましていて自分のあばらから妻が造られるのを見たならば、なんだかロボットのような感じがするからでしょう。人間として完成してから、彼女はアダムの前に出現しました。それは、人格と人格の出会いがそこにあるためでした。神様は、そういう配慮をなさったのですから、夫は自分の妻を自分の道具や家畜のように考えてはなりませんし、そういう行動をしてはなりません。ずいぶんひどい言い方をあえてしましたが、かしらとして立てられている夫は、実際、そういう過ちに陥る危険があるのです。

 

結び

 神様は妻をアダムのあばらから造りました。

 神は妻をアダムの頭から造らなかったのは、妻が夫を支配するために造られたのでないからです。

 又、神が妻をアダムを足から造らなかったのは、妻が夫に踏みつけられるために造られたのでないからです。

 神は妻をアダムのわき腹から造られました。それは、妻がアダムのたくましい腕によって守られ、愛され、また、アダムのハートにもっとも近くあるためでした。

 

 この夫と妻の関係は、キリストと教会の麗しい関係の型なのです。ですから、クリスチャン夫婦は、その生き方を通して、キリストと教会の麗しい関係を表現するという崇高にして重い使命があるのです。