水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

文化命令

創世記1章26-2章17節

 

2016年4月27日 苫小牧主日夕礼拝

 

1 神の代理人として

 

1:26 神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」

 1:27 神は人をご自身のかたちとして創造された。神のかたちとして彼を創造し、男と女とに彼らを創造された。

 1:28 神は彼らを祝福された。神は彼らに仰せられた。「生めよ。ふえよ。地を満たせ。地を従えよ。海の魚、空の鳥、地をはうすべての生き物を支配せよ。」

 

 人間は、神の造られた有限な被造物という点においては、他の被造物と同じです。けれども、ただ人間だけが神の御子において神に似た存在として造られたという点においてほかの被造物と違っています。神に似た存在であるということは、どういうことを意味しているかというと、人格的なものだということだと前回は大雑把な言い方をしましたが、もう少し創世記の本文自体から見ると、「初めに神が天と地を創造した」と1節にあるように、人間にはものを造る創造力というものがあります。ただし無限の神は無から万物を創造したのであり、有限な人間は材料がなくては何も造れないという違いはあります。これは他の生き物にはない特徴です。他の生き物は、自然のなかの自然の一部ですが、人間は自然界に存在しないもの、例えば、茶碗、やかん、自動車、飛行機、書物、鉛筆、パソコンなどさまざまなものを創造してしまいます。

 また、神は「光あれ」という御言葉を発せられて、光が造られ、さまざまなものが造られました。神はことばを発せられるお方です。また、三位一体のお方として「われわれのかたちに人を造ろう」とおっしゃったように、ことばをもって人格的な交わりをなさるおかたです。「まるで神は人間みたいだな」と考えるのはさかさまで、事実は、私たち人間が神みたいなものとして造られたので、言葉を語り、言葉で人格的な交流をすることができます。神様のように完全なことばは持たないとしても、私たち人間もまたことばを話し、ことばをもって交流をもち理解しあうことができるという特徴をもっています。

 また、神はさまざまなものをお造りになるプロセスの節目節目において、「よしとされた」ということばが出てきます。満足のお気持ちを表わされたということです。万物の創造主である神は、全知全能の超スーパー・コンピューターというふうな心のないモノではなく、「よし」という満足のお気持ちを持つ、そういうお方です。神の御子にあって、神に似た者として造られた私たち人間もまた、感情というものをもっていて、「よし、これはいいなあ」という感想を持つことがあります。お料理を作っていて、下ごしらえが出来て「よし」、サシスセソの順番で味をつけて「よし」というわけです。私たちにも感情というものがあります。

 知性、意志、感情、創造力などを私たちは与えられています。これは私たちが、御子イエスにあって神の似姿であるからこそです。

 

2 文化命令・・・「支配せよ」「耕し守りなさい」

 

 こうした、特別な力を神様が私たちに与えたのには目的がありました。それは、神の被造物の支配あるいは管理をさせることでした。これは「文化命令」とか「労働命令」とか呼ばれます。文化命令は、創世記では1章と2章に記されています。1章における文化命令は次のとおり。

1:26 神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。彼らが、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配するように。」

1章の命令には「支配せよ」とあるのが、たぶん気になる人が多いのではないかと思います。人間が暴君として振舞って環境破壊することを許しているように誤解するからです。このとき、アダムは堕落していませんから、被造物に対して暴君となるわけがなかったのです。

創世記1章は、人間が神の似姿として造られたことを教えることによって、人間は単なる被造物の一部ではないから、他の被造物を拝んではならない、むしろ、正しく知恵のある王としてこれらを治めよと教えるためです。

人間は、愛と知恵と力に満ちた無限の神の似姿として造られたのですから、有限とはいえ愛と知恵と力をもって、被造物世界を治めるべきなのです。そのことは2章の文化命令を読むとよくわかってきます。

2:4 これは天と地が創造されたときの経緯である。

  神である【主】が地と天を造られたとき、 2:5 地には、まだ一本の野の灌木もなく、まだ一本の野の草も芽を出していなかった。それは、神である【主】が地上に雨を降らせず、土地を耕す人もいなかったからである。 2:6 ただ、水が地から湧き出て、土地の全面を潤していた。

 2:7 神である【主】は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった。 2:8 神である【主】は東の方エデンに園を設け、そこに主の形造った人を置かれた。 2:9 神である【主】は、その土地から、見るからに好ましく食べるのに良いすべての木を生えさせた。園の中央には、いのちの木、それから善悪の知識の木を生えさせた。

 2:10 一つの川が、この園を潤すため、エデンから出ており、そこから分かれて、四つの源となっていた。 2:11 第一のものの名はピション。それはハビラの全土を巡って流れる。そこには金があった。 2:12 その地の金は、良質で、また、そこにはベドラハとしまめのうもあった。 2:13 第二の川の名はギホン。それはクシュの全土を巡って流れる。 2:14 第三の川の名はティグリス。それはアシュルの東を流れる。第四の川、それはユーフラテスである。

2:15 神である【主】は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。

 

創世記2章15節は、その被造物支配の内容について教えています。

2:15 神である【主】は人を取り、エデンの園に置き、そこを耕させ、またそこを守らせた。

 「耕す」こと、「守る」ことがその内容です。耕すと訳されていることばは、アバドと言いますが、その派生語がエベド「しもべ」ということばです。そこからわかるように、アバドというのは、日本風にいえば「畑の世話をする」という感じの意味です。主イエスが腰に手ぬぐいをぶら下げて、弟子たちの足を洗ってくださった。あのようなサーバントの心を持った支配なのです。

 神様は、私たち人間が、被造物のうちに秘められた可能性を引き出すことを期待していらっしゃいます。この箇所から2点指摘しておきます。

2:5 地には、まだ一本の野の灌木もなく、まだ一本の野の草も芽を出していなかった。それは、神である【主】が地上に雨を降らせず、土地を耕す人もいなかったからである。

 ここは面白いですね。神が雨を降らせず、土地を耕す人もいなかったから、野の潅木も草もなかったというのです。人間くらいいなくても木も草も生えるだろうといいたいとことです。この箇所がこの表現をもって言おうとしていることは、人間が土地を耕すことによって、林も野の草も生えてくるのだということです。人間には被造物のうちに秘められている可能性、力を引き出す役割があります。それが文化命令です。

 また、10節から14節のうち特に11,12節には、金、ベドラハ、シマメノウといった資源について書かれていることを見ると、神様はそういう地下資源を人間が利用することを期待していらっしゃるのだと思われます。やはり、被造物支配のありかたは、大地の中に神様が秘めておられる可能性を引き出す、そういう役割を果たすお世話をするということです。文化命令ということです。

 

「守らせた」とはどういうことでしょうか。人間は神が託された被造物世界の可能性を引き出して利用してよいのですが、それと同時に、これを保全することをしなければならないという意味です。ただ環境を破壊して欲しいものを搾り取るだけ搾り取るというやりかたの利用をしてはいけないということです。たとえば、農業という産業には、単に作物を得ることだけでなく、環境保全という重要な役割があります。水田はお米を作るだけでなく、そこに水を蓄えることによって、地下水を涵養しますし、また、一気に水が流れ出して洪水になることを防ぎます。また、農業における土壌についても同じものばかり造っていたら必ず連作障害が出てきます。神が造られた世界は多様な世界なので、その摂理と調和した農業を工夫することが必要で、輪作体系をくむとか、律法にもあるように定期的に土地を休ませることも「守る」ことです。さらに農業は景観を美しく保つという役割もあります。単に食糧生産のためにのみ農業があるという、狭い経済一本やりの了見で農業をみてはなりません。耕し、かつ、守る働きが農業にはあるのです。

 金、ベドラハ、シマメノウに限らず、石炭や石油といった地下資源を用いることも許されています。けれども、それが環境破壊にならぬようにという配慮が必要です。空気を汚し、水を汚し、土壌を汚して、もはや人間も動物もまともに生活できなくなってしまうような地下資源の利用の仕方は、神のみこころに背くことです。そういうことを考えると、原子力の利用というのは、燃料であるウラン採掘と精製の過程からして、その工程に携わる人々の健康障害と環境破壊とをもたらしますから、神のみこころにかなっているとは言いがたいと思います。

神様は文化命令において、「耕し、利用する」と同時に、「守る」ことを求められました。

 

3 善悪の知識の木・・・神の主権の下で

 

 造り主である神は、アダムをエデンの園に置き、文化命令をお与えになったときに、食べ物は園のどの木から食べても良いとおっしゃると同時に、園の中央にある善悪の知識の木からだけは食べるな、と制限をお与えになりました。

 2:16 神である【主】は人に命じて仰せられた。「あなたは、園のどの木からでも思いのまま食べてよい。 2:17 しかし、善悪の知識の木からは取って食べてはならない。それを取って食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」

 人間は善悪の知識の木を食べてはならないとは何を意味していたのでしょうか。それは、神が私たちの上に主権をもっていらっしゃるということです。私たち人間は、自分で何が善であり、何が悪であるかを決める権限をもっておらず、ことの善悪は神が主権をもってお定めになることなのだということです。

 私たちはなぜ父母を敬わなければ成らないのか。それは神が「あなたの父母を敬え」とお命じになったからです。なぜ人を殺してはいけないのか。それは神が「殺してはならない」とお命じになったからです。なぜ姦淫をしてはいけないのか。それは神が「姦淫してはならない」とお命じになったからです。・・・・人間における基本的な善悪は、神がお定めになるもので、これを人間が論じて勝手に変えてはいけません。それは自分を神とする思い上がりです。善悪の知識の木から取って食べることは、「私には神などいらない。私が私の神なのだ」という反逆を意味したのです。

 そういうわけで、神様はすべての園の木をアダムに委ねましたが、ただ善悪の知識の木だけは食べるなと禁止されたのでした。私たちは、神様が、私たち人間を御子にあってご自身の似姿として造ってくださり、私たちが神代理としてこの被造物世界を、耕し利用して、かつ、守ることが任務として与えられていることを学んできました。私たちの信仰生活は、主の日の教会だけのことでなく、学校で勉強することも、家を掃除することも、食べることも飲むことも着る事も、趣味も、すべてにわたって、神様の前でのことなのだということを覚えましょう。私たちの生活のすべてが礼拝の生活なのです。

 「ですから、あなたがたは、食べるにも、飲むにも、何をするにも、ただ神の栄光を現すためにしなさい。」1コリント10:31