水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

唯一の神 (十戒序文と第一戒)

出エジプト20章1-3節

 

1**,それから神は次のすべてのことばを告げられた。**

2**,「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である。**

3**,あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。**

 

 

1 区切りなど

 

 エジプトで奴隷、また異民族として弾圧されていたイスラエルの民は、指導者モーセにホレブ山の麓に導かれてきました。そして、主はモーセをホレブ山の頂に呼んで、そこで律法をお与えになりました。その要約にあたるものが十戒で、出エジプト記20章2節から17節です。

 

区切りについて

まず、どこで十に区切られるのかをまずお話しておきます。

 

序文 2**,「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である。

 第一戒 3**,あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。**

 第二戒 4**,あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。5**,それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたみの神。わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、6**,わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。**

 第三戒 7**,あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない。主は、主の名をみだりに口にする者を罰せずにはおかない。**

 第四戒 8**,安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。9**,六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。**10**,七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、またあなたの町囲みの中にいる寄留者も。**11**,それは主が六日間で、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造り、七日目に休んだからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものとした。

 第五戒 12**,あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしているその土地で、あなたの日々が長く続くようにするためである。

 第六戒 13**,殺してはならない。

 第七戒 14**,姦淫してはならない。

 第八戒 15**,盗んではならない。

 第九戒 16**,あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない。

 第十戒 17**,あなたの隣人の家を欲してはならない。あなたの隣人の妻、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを欲してはならない。」

 

 第一から第四の戒めは、神様に対する愛に背くもろもろの罪を戒めています。そして、後半第五から第十の戒めは、隣人に対する愛に背くさまざまな罪を戒めています。十戒はどちらかといえば、消極的な積極的に言いかえればば、全身全霊をもって神を愛しなさいということと、隣人を自分自身のように愛しなさいということが十戒の内容なのです。

 自動車が安全に走るためには、アクセルとブレーキが必要です。神様を愛しなさい、隣人を愛しなさいというのがアクセルだとしたら、十戒に表現されたさまざまな戒めは神様を愛し隣人を愛するということを具体化した場合のブレーキにあたります。ブレーキの壊れた自動車に乗りたい人はいないでしょう。アクセルと共にブレーキはとても大切なのです。

 

 十戒以降啓示されるさまざまな律法は、内容から三つに分類されます。一つは社会的律法で、これは古代イスラエル社会におけるさまざまな法律なので、そのまま現代に適用できるものではありません。第二は祭儀律法で、旧約時代に独特のいけにえの律法です。これは、新約の時代にはイエス様の十字架によってすべて成就しましたから、今日では適用すべきものではありません。そして、第三は道徳的律法です。これは、十戒に関しては安息日が七日目から第一日目に移されるという変化はあるものの、基本的にどの時代にもどの地域にも適用されるものです。

 本日は、序文と第一戒を学びます。

 

2 序文 「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である。

 

(1)神の民

 十戒を理解する上で、まずとても大事なのは、この序文です。2つのことが教えられています。一つ目は、神とこれを聞いている民との関係です。神様は、「わたしは、あなたの神、主である」と自己紹介なさっています。

 神様の人間に対する契約は、創世記1章から黙示録の最後の章まで一貫する主題があります。「わたしはあなたの神となり、あなたはわたしの民となる」というのが、その主題です。人間は、アダムにあって堕落してしまって以来、糸の切れた凧のようになって、創造主であるまことの神さまから離れて飛んで行ってしまいました。あるいは、お父さんのもとから飛び出して、まるでみなしごのようになってしまいました。所属不明のものとなってしまったのです。以来、人間とはいったい何者なのか?ということがわからなくなりました。少しものを考える人は、「自分はいったいどこから来て、どこへ行くものなのだろう?」と悩むようになりました。

 そういう所属不明になってしまった人間に、「わたしはあなたの神、主だよ」、「あなたはわたしの民だよ」と神様がおっしゃるのです。「あなたはもうみなしごではない。あなたはわたしのものだ。私の作品だ。わたしのしもべだ。」と神様はおっしゃるのです。

 (2)救いと律法の順序

 もう一つ大事なことは救いと律法の関係、順番です。これは何度か申し上げましたが、大事なことなので、もう一度説明します。神様は、まずイスラエルをエジプトから救い出して、それから、彼らに律法をお与えになりました。彼らが、エジプトにいる間に律法を与えて、「これらの律法を守ったらエジプトから救ってやろう」とおっしゃったのではありません。彼らの先祖アブラハムに対して結んだ契約に約束したことなので、まずは救い出してやり、「救い出してやったから、これからこの十戒を守って生きていくのだよ。これが正しく、幸せな生き方なのだから」とおっしゃるのです。 

 まず、罪の奴隷の世界から恵みによって救い出してくださり、その後、このように生きるのだとおっしゃるのが、聖書のいう順番なのです。これは新約時代においても同じです。イエス様の例え話でも、放蕩息子は父親に背を向けて家を飛び出し、湯水のように財産を使い果たしてさんざん悪いことをして生活をしてから、我に返ってお父さんのもとに戻ってきました。その時、お父さんは「どの面を下げて帰って来た。立派に更正したという証拠を見せたら、家に入っていいぞ」とは言いませんでした。お父さんは、乞食のようななりをした息子がとぼとぼ帰ってくるのを遠くから見つけると、バーッと駆け寄って、彼を抱きしめて接吻し、その指に息子の印としての指輪をはめたとあります。まず、恵みによって迎えてくださるというのが、神様の救いです。迎えてくれて、愛する息子としての記しを与えて、それから「あなたを光の子にした。光の子なのだから、これからは光の子らしく歩め」とおっしゃるのです。

 

(3)あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。

 

 さて、第一の戒めは、「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。」です。第二の戒め「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。」はまことの神を礼拝するにあたって偶像を用いてはいけないという意味ですが、第一の戒めは、偽りの神々を拝んではいけないという意味です。イスラエルの民は、エジプトにいたとき、さまざまな偽りの神々に囲まれて生活をしていました。エジプトでは、ナイル川は神、山犬も神、コブラも神、カエルも神、牛も神、太陽も神、そしてファラオも神・・・・となんでもかんでも神々として拝まれていました。多神教の世界です。

 けれども、まことの神はただ一人、天地万物を創造したおかたです。他の者はみな被造物にすぎません。ナイル川も、山犬も、コブラもカエルも、牛も、太陽も、ファラオもみな神が作ったもの、被造物にすぎません。だから、これらを礼拝してはいけないということです。日本でいえば、天照大神(太陽)とか、人間を神格化した諸宗教とか、その他もろもろの被造物崇拝は決してしてはいけません。

 真の神は唯一の神の創造主であり、それ以外のありとあらゆるものは被造物です。礼拝すべきお方は、創造主である真の神だけです。神さまを神様とすること、それが礼拝をすることです。あらゆる罪の中で、真の神だけを神としないことが根本的な罪です。このことはどのように説明できるでしょう?
 一つには、聖書では神を私たちの関係をお父さんと息子の関係に譬えます。お父さんと息子がいて、息子が父親に「わたしは、あなただけをお父さんとは認めませんよ。隣の人も、あちらの人もお父さんです」というようなものです。こんなに失礼なことばはありません。唯一の神だけを、神として礼拝しなければ、それは大きな罪です。

 また、聖書においては、神と神の民との関係は、夫と妻との関係にも譬えられます。妻が「私はあなただけでなく、あの人にも、この人にも、身を任せます」と言ったら、とんでもないことでしょう。旧約時代ならば死刑です。そのように、キリスト者である私たちは、決して他の神仏に心を寄せたり、拝んだりしてはならないのです。

 

「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。」神はねたむような、情熱的な愛で、あなたを愛しています。

涙とともに種まく者は

詩篇126

 

**都上りの歌。**

1**,主がシオンを復興してくださったとき

  私たちは夢を見ている者のようであった。

2**,そのとき私たちの口は笑いで満たされ

  私たちの舌は喜びの叫びで満たされた。

そのとき諸国の人々は言った。

  「主は彼らのために大いなることをなさった。」

3**,主が私たちのために大いなることをなさったので私たちは喜んだ。

4**,主よネゲブの流れのように私たちを元どおりにしてください。

5**,涙とともに種を蒔く者は喜び叫びながら刈り取る。

6**,種入れを抱え泣きながら出て行く者は束を抱え喜び叫びながら帰って来る。

 

1.歴史的背景  バビロン捕囚

 

  今朝味わう詩篇126篇も、私たちが礼拝で用いている詩篇歌に含まれているものです。その意味をよく味わいながら、主を賛美する助けになればと願って、この朝、説き明かしを準備しました。詩篇126篇には歴史的背景があり、それを理解することが深く味わうために大切です。

 紀元前2000年神に選ばれたアブラハムの子孫イスラエルの民は、アブラハムに約束された通り、ダビデは紀元前995年にイスラエル統一王国を築きました。神様は、イスラエルの民が、聖なる国民、祭司の王国として、世界の諸民族に神様の正義を教え、世界のためにとりなすことを意図しておられました。世界中の諸民族は偶像崇拝と不道徳に染まっていましたが、イスラエルは真の神は創造主ただ一人であることを示し、律法に従って公正な社会を建設する使命がありました。申命記に記された契約によれば、彼らがその契約を守るなら祝福を守らないなら呪いを約束されました。申命記28章はイスラエル民族に対する祝福と呪いが記された重要な章です。まず、祝福について。

「もし、あなたが、あなたの神、主の御声に確かに聞き従い、私が今日あなたに命じる主のすべての命令を守り行うなら、あなたの神、主は、地のすべての国々の上にあなたを高く上げられる。」申命記28:1

 しかし、もし彼らが主の御子絵に聞き従わず、その契約を破るなら、神は遠くから強大な異民族を押し寄せさせて、イスラエルの国を滅ぼし、彼らを遠くへ捕囚の民として連れ去るようにさせるとあらかじめ定めていらっしゃいました。

「49**,主は遠く地の果てから一つの国を来させ、鷲が獲物に向かって舞い降りるように、あなたを襲わせる。その話すことばをあなたが聞いたこともない国である。」申命記28:49

「62**,あなたがたは空の星のように多かったが、少人数しか残されない。あなたの神、主の御声に聞き従わなかったからである。**

63**,かつて、主があなたがたを幸せにし、あなたがたを増やすことを喜ばれたように、主は、あなたがたを滅ぼし、あなたがたを根絶やしにすることを喜ばれる。あなたがたは、あなたが入って行って所有しようとしている地から引き抜かれる。**

64**,主は地の果てから地の果てまでのあらゆる民の間にあなたを散らす。あなたはそこで、あなたも、あなたの先祖たちも知らなかった、木や石で造られたほかの神々に仕える。**

65**,これら異邦の民の間にあって、あなたは一息つくこともできず、足の裏を休める場もない。主はそこで、あなたの心を不安にし、目を衰えさせ、たましいを弱らせる。」申命記28:62-65

 ところが、神様からこのような警告を与えられていながら、イスラエルの国は神の前に罪を重ねて行きました。ダビデの息子ソロモン王は、外国の神々を国内に取り入れ、王国は彼の死後南北に分裂してしまいます。北王国はヤロブアム1世のとき金の子牛を拝む国家宗教を創設し、神のみこころからすぐに外れて行き、721年アッシリヤ帝国に滅ぼされてしまい、民は奴隷として連れ去られて散らされてしまいます。

 一方ユダ王国は北に比べると少々ましでしたが、結局、紀元前586年、バビロニア帝国の王ネブカデネザルによってエルサレムの都は滅び、神殿は破壊され、廃墟となってしまいました。最後の王ゼデキヤは連れ去られ目玉をくりぬかれてしまい、またユダヤ人たちはバビロンに捕虜として連れ去られ、奴隷としての境涯に陥ったのでした。歴史上、名高いバビロン捕囚の出来事です。これは長年にわたるイスラエルの民の罪に対する神からの裁きでした。

 このバビロン捕囚の時代の民の悲しみを記したのが詩篇137篇です。

「バビロンの川のほとりそこに私たちは座りシオンを思い出して泣いた。**

2**,街中の柳の木々に私たちは竪琴を掛けた。**

3**,それは私たちを捕らえて来た者たちがそこで私たちに歌を求め私たちを苦しめる者たちが余興に「シオンの歌を一つ歌え」と言ったからだ。**

4**,どうして私たちが異国の地で主の歌を歌えるだろうか。」

 

.神殿再建命令の奇蹟に神の民は喜ぶ

    

 罪ゆえに祖国を失い、異郷で奴隷として虐げられていた民でしたが、神は1500年前に彼らの先祖アブラハムに対して約束を覚えていらっしゃいました。そこで、神は歴史を動かします。南ユダ王国を滅ぼしたバビロニア帝国は非常に強大な帝国でした。世界の七不思議の一つといわれる、バビロンの空中庭園は、国王ネブカデネザルが誇りとしたものでした。その権力は永久に続くのではないかと思われていました。ところが、おごれる者久しからずで、バビロニアはネブカデネザルの次の王の時代にはペルシャ人によって滅ぼされ、今度はペルシャ人がかわってオリエント世界を制覇します。

 そして、世界史上の不思議と呼ばれることが起こりました。なんと紀元前538年、ペルシャの王クロスが廃墟となっていたエルサレム神殿再建を思い立ち、そのためにバビロンに寄留していたユダヤ人たちを故郷に帰還させたのです。クロスは真の神を知らない異国ペルシャの王です。そのクロス王があろうことか、エルサレムにある天地の主である神の神殿の再建を思い立ったのです。それはまことにありえない夢のような出来事ですから、ユダヤ人たちも周囲の国々の人々も首をひねって「クロス王様は何を考えておられるのか?」と、「不思議なことがあるものだ」と大いに驚いたのでした。これが、本日の詩篇126篇です。1節、2節。

 1**,主がシオンを復興してくださったとき

  私たちは夢を見ている者のようであった。

2**,そのとき私たちの口は笑いで満たされ

  私たちの舌は喜びの叫びで満たされた。

そのとき諸国の人々は言った。「主は彼らのために大いなることをなさった。」

 私たちの主なる神は生きておられ、その民に対して結んだ契約を決してお忘れになりません。そして、王の心を動かし、御手をもって歴史を動かされたのです。

 

2.なお捕らわれ人たちを

    

 主がすばらしいことをしてくださったので、都エルサレムに帰る人々は喜びの賛美に満ち満ちていました。おなかの底から、賛美があふれ出たのです。そして、故郷に到着すると神殿再建にとりかかったのでした。

 しかし、実際にエルサレム再建のために故郷への帰還を許されたのは、捕囚の憂き目にあるユダヤ人のうち、まだごく一部にすぎませんでした。まだまだ帰って来るべき神の民がたくさん捕囚の地に残されていたのです。

 そこで詩人は歌います。3節、4節。

3**,主が私たちのために大いなることをなさったので私たちは喜んだ。

4**,主よネゲブの流れのように私たちを元どおりにしてください。

 イスラエル北方のヘルモン山の雪が、春になると溶け出してくだり下ってゴーゴーと音を立てる川となってネゲブ地方を潤すように、なお捕囚の地バビロンに残された多くの神の民を帰してくださいと祈るのです。「私の父も、母も、子どももまだ帰ってきていない」という人もいたでしょう。「私の友もまだエルサレム帰還を許されていない」という人もいたでしょう。「自分たちだけが、こうして救われて帰ってきて良いわけはない。この再建のなったエルサレムの都に、神殿に、なおなお神が満ちるべきです。主よ。」と祈っているのです。

 

. 涙とともに種を蒔く者は

 

 さて、父母の故郷に帰ってきた人々が、そこに見たのは、死んだ父母が言っていた豊かな「乳と蜜の流れる沃野」ではありませんでした。かつての畑はほうき草がぼうぼうと生える荒地に変わり果てていました。エルサレムの城壁は黒く焦げて崩れ果てていました。草を抜き、石を拾い、肥料を入れ、土を耕し、畑を作り直して、ようやく種まきとなるのです。荒れ果てて土壌の吹き飛んだ地では、種を蒔いてもそんなに簡単に収穫をえることができるわけでもありません。

 けれども、荒れはてた地をながめて失望して家でごろりとしていては、一本の収穫も期待できませんが、涙を流しつつも種を蒔くならば、必ず喜び叫びながら刈り取る日がくるのです。種入れをかかえて、なきながらでも畑に出かけるものは、やがて収穫の季節には喜び叫びながら帰ってくることになります。

5**,涙とともに種を蒔く者は喜び叫びながら刈り取る。

6**,種入れを抱え泣きながら出て行く者は束を抱え喜び叫びながら帰って来る。

 

4.適用

 

 この詩篇から何を私たちは学ぶのでしょう。私たちの生活に何を教えられますか。

 私たちは、悪魔のとりことなって、生ける神を知らず、偽りのむなしい神々に仕えて生きる生活をしていました。ですから、ほんとうの生きる目的がわからず、お金を手に入れては安心し、人の幸福を妬み、むなしく罪深い最後には永遠の滅びに向かう無意味な生活をしていました。悪魔の奴隷、罪の奴隷でした。

 けれども、神さまは、私たちを人生の途上で召してくださり、聖霊によって目を開いて、イエス様の福音を信じるものとしてくださいました。そして、「私の人生の主な目的は、神の栄光を現わし、神を永遠に喜ぶことです」ということができる、素晴らしい人生に入れてくださったのです。主の日ごとに、真の父子聖霊の神さまに礼拝をささげる、本来の人間の生き方へと連れ戻してくださったのです。そうして、生活のあらゆる領域において、神の栄光をあらわす神の国の建設のために有意義な人生を送っています。そうして、最後には永遠の神の国へと招き入れていただくのです。これは実に大いなる特権です。

 

 けれども、なおこの世界には、私たちの周囲にはまだ主のもとに帰ってきていない、サタンの束縛のもとに置かれて希望のない滅びへのむなしい人生を送っている主の民が大勢いるのです。ですから私たちは「主よ。春の増水のときの、また大雨が降った時の千曲の流れのように、この苫小牧の、胆振の地域の滅び行くあなたの民を帰らせてください!」と祈らないではいられません。「私の夫、私の妻、私の子ども、私の父母、あの友人、この親戚・・・彼らもあなたのもとに帰ってこさせてください。そして、ともに主の御前に賛美と礼拝を捧げることができるようにしてください。」と切に祈らないではいられません。

 そのために、この地の人々の救いのためにこそ、この会堂は捧げられたのではありませんか。いま神の民が戻ってきたのはほんの一部分です。なお真の神を、キリストの十字架を知らずに滅び行くたましいは数多い。続々と救われる魂を与えてください。大丈夫です。

 

 私たちは涙を流しながらも主の福音の種をまきたいと思います。主の福音をあかししましょう。因習、物質主義、偏見など人々の心を固く縛っています。先日、昭和通り商店街の理事会があったとき、理事さんが数名、「キリストの福音はなんだかすばらしいもののようだね。通信は楽しみにしています。」と言ってくださいました。でも、イエス様を信じるというところまで踏み切ることができないでいます。倦まずたゆまず、福音の種を蒔き続けてまいりましょう。

  会堂のなかにぬくぬくと留まっているのではなく、福音の種を携えて出て行きましょう。涙を流し苦労をしながら滅び行く魂のために祈りましょう、証ししましょう。具体的に、あの人、この人を今年こそイエス様に導こうと身近な人々を思い浮かべ、祈り始めてください。

5**,涙とともに種を蒔く者は喜び叫びながら刈り取る。**

6**,種入れを抱え泣きながら出て行く者は束を抱え喜び叫びながら帰って来る。

 

 

わがたましいよ 主をほめたたえよ

詩篇103篇 

序 

1**,わがたましいよ主をほめたたえよ。私のうちにあるすべてのものよ聖なる御名をほめたたえよ。**

 河兄の祈りにありましたように、私たちは日常の祈りの中で、自分の願い事を並べ立ててばかりいることが多いものではないでしょうか。「誰それさんの病気を治してください。」「何々が必要です。」「良い就職口を与えてください。」・・・

 神さまに願い事をすることは良いことです。神様になんの願い事もしないのは、神様が死んだ神だと思っているか、自分の力で生きていると思い上がっているかだからですから。もし子どもが親から「何かほしいものはないの?」と聞かれて「ぼくは、お父さんにはなにも期待していません。」と答えたら、親はどれほど悲しいでしょう。親が子供が何もおねだりをしないでいると物足りないように、神様も私たちが何もお願いしないでいると、物足りないのです。

 けれども、「願い事しかしない」というのは問題です。神様を自動販売機のように思っているみたいです。実家に手紙をよこすときは、「金頼む」の一言しかない学生みたいなものです。詩篇103篇は、感謝と賛美の詩篇です。

 

1 主の良くしてくださったことのゆえに・・・あれこれ感謝から始める

 

 詩人はまず、「主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」と具体的に主がしてくださったことを思い出し、数え上げることから始めよ、と自分の魂に命じます。私は何度もみなさんにお勧めしますが、夜床に着いたら、両手を出して、十個、今日、神様がくださった恵みを数え上げましょう。

 詩人は、こんなふうに思い出しました。

2**,わがたましいよ主をほめたたえよ。主が良くしてくださったことを何一つ忘れるな。**

3**,主はあなたのすべての咎を赦しあなたのすべての病を癒やし**

4**,あなたのいのちを穴から贖われる。主はあなたに恵みとあわれみの冠をかぶらせ**

5**,あなたの一生を良いもので満ち足らせる。あなたの若さは鷲のように新しくなる。

 

 まず、健康が守られた、とか、仕事が順調だったとかいうことではなく、いの一番に「咎をゆるし」が一番目に来るところ、さすが神を恐れる詩人です。神様の前に罪咎をゆるされたということこそ、罪ある人間にとって一番ありがたいことです。罪がゆるされなくては、神様との交わりは回復せず、胸の内はうずき続けて不安であり続けなければなりません。イエス様の十字架の血潮のゆえに、復活のゆえに、私の罪は赦された!という根本的な事実が、私たちにとってなによりもありがたいことです。究極的には、神の前に罪をゆるされているならば、いつ、お迎えがきても安心ですからね。

 すべての咎のゆるしに続くのは、病をいやすこと、いのちを墓穴から贖うこと、若々しくすることです。おしゃかさんが言った老病死という人間がだれしも経験する苦しみのリストでもあります。おしゃかさんは老病死は、生まれてきた以上必然だから諦めなさいと教えましたが、神様はそうではないのです。もちろん私たちも老病死を経験しますが、あきらめるのでなく、主に癒しと、若々しさと、死からの救いを積極的に願えばいいのです。恵みとあわれみで私たちを扱ってくださいます。・・・それでも年取って病気になってやがて死にますが、それはイエス様のみもとというもっと素晴らしい家に引っ越すことであり、かつ、究極的には三位一体の神が住まわれる新しい天と地への復活の約束が与えられているのがクリスチャンの素晴らしい人生です。

 

2 主の正義とあわれみのゆえに・・・主のあわれみ深い摂理を振り返って

 

 詩人ダビデは、続いて、イスラエルの歴史における神様の摂理、導きを振り返ります

 6**,主は義とさばきをすべての虐げられている人々のために行われる。**

7**,主はご自分の道をモーセにそのみわざをイスラエルの子らに知らされた方。

 

 詩人はイスラエルの歴史の原点ともいうべきエジプト脱出の出来事を思い起こすのです。ふえすぎたイスラエルの民の力を削ぐために、生まれてきた男子を皆殺し、ジェノサイドを企てるエジプト王。この王の奴隷として虐げられていたイスラエルの民を、主は先祖アブラハムと結ばれた契約に対する御自身の真実にかけて解放してくださいました。紀元前14世紀のことです。主はその正義とさばきの御手を動かして、世界最強の権力者ファラオの魔手から彼らを解放してくださったのです。

 しかし、エジプト脱出後、荒野でのイスラエルの歩みは神様に対する不平と不信に満ちていました。水がないと言っては、モーセと主を非難して、岩から水を出してもらいました。腹が減ると「エジプトですき焼き食べていたほうがよかった」とわめきちらすと、神は完全栄養食品マナを降らせてくださいました。しかし、しばらくすると、もうマナは飽き飽きだと不平を鳴らしました。そして、モーセがホレブ山に律法を受け取りにいったまましばらく戻らないと、なんと彼らは金の子牛の偶像を拝むことさえしたのです。

 なんという忘恩の民。主はついに怒りを燃やされて、ひとたびはこの頑ななイスラエルの民を荒野で滅ぼしてしまうとさえおっしゃいました。しかし、モーセのとりなしの言葉を受けて、主は彼らを赦してくださいました。主は、正義とさばきの神ですが、憐れみと情けに満ちたお方でもあります。詩人の思いは過去のイスラエルのことから、「私たち」への主のお取り扱いに移って次のように歌います。

8**,主はあわれみ深く情け深い。怒るのに遅く恵み豊かである。**

9**,主はいつまでも争ってはおられない。とこしえに怒ってはおられない。**

10**,私たちの罪にしたがって私たちを扱うことをせず私たちの咎にしたがって私たちに報いをされることもない。**

 

 主は実に憐れみ深く、情け深く、怒るのにおそく、恵み豊かなお方でした。忘恩のイスラエルを忍耐に忍耐を重ねて約束の地まで導いてくださいました。

 

3 主の恵みのもとに生きる

 

 私たち自身もまた日々、こころの思いと、ことばと、行いにおいて罪ある者です。もし私たちの罪にしたがって私たちを扱われるならば、私たちもまた、とおの昔に滅ぼされてしまったでしょう。しかし、正義の神は同時にあわれみ深いお方なのでした。そうして、主を恐れる者を哀れんでくださいます。私たちの罪を、キリストの贖いのゆえに忘れてくださるのです。

 11**,天が地上はるかに高いように御恵みは主を恐れる者の上に大きい。**

12**,東が西から遠く離れているように主は私たちの背きの罪を私たちから遠く離される。**

13**,父がその子をあわれむように主はご自分を恐れる者をあわれまれる。**

 

主なる神様は、私たちがどれほどもろく壊れやすい者かということをよくご存知です。また、正しく生きようと願っていても、どれほどサタンの誘惑に対して弱いものであるあかをご存知です。所詮、人は土から造られたちりです。

 14**,主は私たちの成り立ちを知り私たちが土のちりにすぎないことを心に留めてくださる。**

15**,人その一生は草のよう。人は咲く。野の花のように。**

16**,風がそこを過ぎるとそれはもはやない。その場所さえもそれを知らない。

  人をヘブライ語でアダムといいます。アダムとは土アーダマーからできた名です。私たちはまことに塵にすぎません。水分60%、たんぱく質18%、脂肪18%、鉱物質3.5%、炭水化物0.5%です。死んで焼かれてしまえば、文字どおり火葬場ではほとんどは二酸化炭素と窒素の煙になり、残りは塵取りにかき集められる存在です。

 しかし、三位一体の神は、物質的にいえば塵にすぎない私たちを第二位格、御子イエスに似た者として造ってくださいました。それゆえに、人は尊い存在です。キリストは人としてこの世にお生まれになり、貧しさも、痛みも、悲しみも、空腹も、経験してくださいました。そして、私たちの罪を一身に背負って、十字架にかかってくださいました。三日目にはよみがえって天の御座についている王なるイエス・キリストに信頼し、イエスキリストの契約のうちに生きる者に、恵みをとこしえからとこしえまで、注いでくださるのです。

17**,しかし主の恵みはとこしえからとこしえまで主を恐れる者の上にあり主の義はその子らの子たちに及ぶ。**

18**,主の契約を守る者主の戒めに心を留めて行う者に。

19**,主は天にご自分の王座を堅く立てその王国はすべてを統べ治める。

  

4 主をほめたたえよ・・・・感謝を超えて主をほめたたえる

 

 主は、キリストにある契約のゆえに私たちの咎を赦してくださいました。また、主は私たちの病を癒し、私たちを永遠の滅びから救ってくださいました。 主は正義と公正をおこなわれる神です。そして、わたしたち主を恐れて、その契約のうちに生きる者には、格別のあわれみを注いで、その人生に恵みを注いでくださるお方です。

これらの恵みを数え上げて感謝しました。感謝というのは、自分にとって益があったから主に申し上げることですが、それでは不十分です。ただ主が主であるがゆえに、主をたたえてこそ賛美です。願いから始まり、感謝をとおり抜けて、ついに賛美にまで到達したいものです。詩人は、地上からの讃美だけでは十分ではないとばかり、天使にもさあ、いっしょに主を褒め称えようと呼びかけるのです。

20**,主をほめたたえよ主の御使いたちよ。みことばの声に聞き従いみことばを行う力ある勇士たちよ。**

21**,主をほめたたえよ主のすべての軍勢よ。主のみこころを行い主に仕える者たちよ。

 

そして、あらゆる被造物に詩人は呼びかけます。神の作品として、人間や天使ばかりでなく、牛も馬も羊も犬も、象もライオンも、巨木も海の魚たちも、ミミズもオケラも、みな主をほめたたえよ、と呼びかけるのです。主は全被造物の贖いを約束していてくださいます。

 22**,主をほめたたえよすべて造られたものたちよ。主が治められるすべてのところで。

 

そして、結論として、もう一度詩人は叫びます。

「わがたましいよ主をほめたたえよ。」

 

  今日は詩篇歌103篇をもって主に感謝し、主を賛美しましょう。

泉湧く人生

詩篇84篇
         

指揮者のために。ギテトの調べにのせて。コラ人による。賛歌。**

1**,万軍の主よあなたの住まいはなんと慕わしいことでしょう。**
2**,私のたましいは主の大庭を恋い慕って絶え入るばかりです。私の心も身も生ける神に喜びの歌を歌います。
3**,雀さえも住みかを燕もひなを入れる巣をあなたの祭壇のところに得ます。万軍の主私の王私の神よ。

4**,なんと幸いなことでしょう。あなたの家に住む人たちは。彼らはいつもあなたをほめたたえています。セラ
5**,なんと幸いなことでしょう。その力があなたにあり心の中にシオンへの大路のある人は。
6**,彼らは涙の谷を過ぎるときもそこを泉の湧く所とします。初めの雨もそこを大いなる祝福でおおいます。
7**,彼らは力から力へと進みシオンで神の御前に現れます。

8**,万軍の神主よ私の祈りを聞いてください。ヤコブの神よ耳を傾けてください。セラ
9**,神よわれらの盾をご覧ください。あなたに油注がれた者の顔に目を留めてください。

10**,まことにあなたの大庭にいる一日は千日にまさります。私は悪の天幕に住むよりは私の神の家の門口に立ちたいのです。**
11**,まことに神である主は太陽また盾。主は恵みと栄光を与え誠実に歩む者に良いものを拒まれません。**
12**,万軍の主よなんと幸いなことでしょう。あなたに信頼する人は。

 

 詩篇84篇の詩人は、王という立場の人であったようです。それは8,9節を見るとわかります。「油注がれた者」とは第一義的に王を意味していました。
8**,万軍の神主よ私の祈りを聞いてください。ヤコブの神よ耳を傾けてください。セラ
9**,神よわれらの盾をご覧ください。あなたに油注がれた者の顔に目を留めてください。
 しかも、万軍の主よ、と呼びかけ、「われらの盾をご覧ください」とあるところを見ると、どうやら王はいくさに赴こうとして、その前に主の家、立ち寄って祈っているようです。やはり、竪琴の名手であり詩人であったダビデその人かなあと想像されます。

 

1 詩篇84篇に一貫する主題のことばは、「主の家」です。主の家とは、新約においては、キリストのからだである教会です。

1節「万軍の主よあなたの住まいはなんと慕わしいことでしょう。」でいう「あなたの住まい」は神殿を意味します。
2節「私のたましいは主の大庭を恋い慕って絶え入るばかりです。」の「主の大庭」というのは神殿の中庭を意味しています。そこで民は礼拝をささげるのです。
4節「なんと幸いなことでしょう。あなたの家に住む人たちは。」というのは神殿に仕える祭司たちを意味しています。
5節「なんと幸いなことでしょう。その力があなたにあり心の中にシオンへの大路のある人は。」のシオンは神殿を中心とするエルサレムの山を指しています。
そして、10節にも「あなたの大庭」「神の家」はやはり神殿とその礼拝の中庭を意味しています。

 神さまの神の民に対する契約の中心は、神が神の民とともに住んでくださるということです。そして、旧約時代、神殿はその恵みの事実を象徴する施設でした。旧約時代の神殿は影であり、新約時代はその実現した本体が出現します。新約時代において現れた神殿の本体とは、主イエスのからだである教会、神の家です。
 キリストは御自分のからだが神殿であるとおっしゃいました。そして、キリストのからだとは教会です。建物のことではありません。キリストのからだである教会とは、キリスト者の礼拝共同体です。主イエスがおっしゃったでしょう。「二人でも三人でも、わたしの名によって集うところに、わたしはいる」と。このイエス様の御名によって集ったこの集いがキリストのからだであり、今この礼拝の場に、主は臨在しておられるのです[ エペソ2:22「あなたがたも、このキリストにあって、ともに築き上げられ、御霊によって神の御住まいとなるのです。」
1コリント3:16,17「あなたがたは、自分が神の宮であり、神の御霊が自分のうちに住んでおられることを知らないのですか。もし、だれかが神の宮を壊すなら、神がその人を滅ぼされます。神の宮は聖なるものだからです。あなたがたは、その宮です。」
1ペテロ2:4,5「主のもとに来なさい。主は、人には捨てられたが神には選ばれた、尊い生ける石です。あなたがた自身も生ける石として霊の家に築き上げられ」なさい。
]。ですから、主にお目にかかりたいならば、主の名によって集う集いに来るべきです。
 ですから、これから詩篇84篇を読み進めるにあたって「主の家」とは教会のことであることを意識しましょう。

 

2 1ー3節は詩人がどれほど熱心に主の宮を慕っているかということが情熱的、詩的に表現されています。

1**,万軍の主よあなたの住まいはなんと慕わしいことでしょう。**
2**,私のたましいは主の大庭を恋い慕って絶え入るばかりです。私の心も身も生ける神に喜びの歌を歌います。
3**,雀さえも住みかを燕もひなを入れる巣をあなたの祭壇のところに得ます。万軍の主私の王私の神よ。
 「万軍の主よ」と詩人は呼びかけます。肉眼と肉の耳で得た情報によれば、多勢に無勢であるけれども、万軍の主がともにいてくださるという事実のありがたさです。
 主の宮というのは、ソロモン以降の時代でいえば、石造りのエルサレムの神殿を意味しますが、ダビデの時代であるとすると、移動式神殿である幕屋でした。主の宮は、祭司が住まい、そこに臨在なさる神の御声を聞いたのでした。詩人は、雀がつばめたちが、この主の宮に祭壇のそばに巣作りをするのを見て、「ああ、あのスズメや燕たちように主の臨在の近く、主の宮に住むことができたらどれほど幸いなことだろう」とうらやましくて、絶え入るばかりだと言っているのです。ダビデはいろいろ失敗もするし欠点もありましたが、彼の書いた詩篇や彼の事績を読むと、彼は実に主なる神を愛する人でした。
 私たちはどうでしょうか?身辺に何かがあると、「すぐに教会に出かけて祈ろう」と思いますか?それとも、「今は色々大変だから、落ち着いたら教会にも行きましょう」と思うのでしょうか。どちらが本当の神を愛する人でしょうか。まず主の宮を慕う者となりましょう。
「万軍の主よあなたの住まいはなんと慕わしいことでしょう。
私のたましいは主の大庭を恋い慕って絶え入るばかりです。」
 「二人三人わたしの名によって集うところに、わたしもいる」とイエス様がおっしゃいました。キリスト教会の交わりの内には、主イエス様がご臨在していてくださるのです。今、キリストの名によって礼拝をささげているここは主の住まいなのです。この教会の交わりを慕い愛する人は主を愛する人です。その人は祝福を受けます。

 

3 なんと幸いな人ことでしょう

 次いで4節から7節で、詩人は二度にわたって「なんと幸いなことでしょう」と歌っています。
4**,なんと幸いなことでしょう。あなたの家に住む人たちは。彼らはいつもあなたをほめたたえています。セラ
5**,なんと幸いなことでしょう。その力があなたにあり心の中にシオンへの大路のある人は。
 詩人である王が「なんと幸いなことだろうか!」とうらやましそうに言っているのは、「主の家に住む人たち」つまり、祭司たちのことです。王は、安息日ごとには主の家に礼拝に出かけて行くのですが、祭司たちはいつも幕屋で、主なる神に仕え、主を賛美しているのです。なんと幸いなことだろうと、うらやましくてならないのです。王は、ユダ族でしたから、レビ人のように祭司になることはできませんでしたが、主の宮で主の御顔をあおぎ思いめぐらすことを、一つの願いとしました。詩篇27:4「一つのことを私は主に願った。それを私は求めている。私のいのちの日の限り主の家に住むことを。主の麗しさに目を注ぎその宮で思いを巡らすために。」

 詩人は「なんと幸いなことでしょう!」と繰り返します。「その力があなたにあり心の中にシオンへの大路のある人」です。祭司ではない自分は神殿に住むことはできないけれども、その力が主にあり、心の中にはシオンへの大路があるならば、その人は幸いです。シオンというのはエルサレム神殿のある山ですから、やはり神殿を指しています。常に主に心向けている人という意味です。
 我力でがんばって生きているのでなく、主を自分の力として生きている人。心はいつも主の家に向かっている人は幸いだというのです。何かを成し遂げても、それは主の力によるのだとわきまえて、栄光を主にお返しする人は幸いです。

 

4 泉湧く人生

 主を力とし、主の宮、教会へと心が常に向いている人は、たとい試練をくぐることがあっても、その人生で素晴らしいことがあります。6節、7節
6**,彼らは涙の谷を過ぎるときもそこを泉の湧く所とします。初めの雨もそこを大いなる祝福でおおいます。
7**,彼らは力から力へと進みシオンで神の御前に現れます。
 戦に苦戦があるかもしれませんが、きっと勝利に導かれるということです。人生の中では、ときには「涙の谷」をすぎなければならないことはあります。けれども、クリスチャンはその「涙の谷」を泉が湧く所とするのです。「泉は湧き出づるかぎり泉である」このことばは、私の小学校6年生の担任であった山本敏夫先生が、卒業記念のアルバムの扉に書いてくださったことばです。折々、私はこのことばを思い出します。池というのは、外から入ってくる水をためているくぼ地にすぎません。しかし、泉というのはその底からこんこんと水を湧き出させているものです。つまり、池は受けるばかりの人生ですが、泉はあふれる人生であり、自分を潤すだけでなく他者をうるおす人生ということなのでしょう。私たちの人生には、涙の谷間を通る時があります。しかし、その涙の谷間が、あふれるいのちの泉となるというのです。
 ・・・どういうことだろうかと思いめぐらすうち、2コリント1章のパウロのことばを示されました。
4,神は、どのような苦しみのときにも、私たちを慰めてくださいます。それで私たちも、自分たちが神から受ける慰めによって、あらゆる苦しみの中にある人たちを慰めることができます。
 イエス様を信じるあなたはきっと経験したことがおありでしょう。本当に堪えがたい苦しみの中にあるとき、イエス様の十字架を見上げるならば、「ああ、イエス様も苦しまれたのだ」と、不思議にその苦しみと悲しみが慰められたということがあるはずです。そして、苦しみを知り、苦しみの中で十字架の主イエスに出会った人は、他の苦しみの中にある人を慰めることができます。「涙の谷」は泉わきでるところと変えられます。だから「主の住まわれる家」、礼拝共同体である教会の集いを恋したうしクリスチャンは幸いです。

 

5 そして、今、神殿で、王である詩人は、万軍の主に向かって祈り、耳を傾けてくださいと乞い求めます
8**,万軍の神主よ私の祈りを聞いてください。ヤコブの神よ耳を傾けてください。セラ
9**,神よわれらの盾をご覧ください。あなたに油注がれた者の顔に目を留めてください。
 詩人は王です。今、外敵との戦いのために戦地に赴こうとしているのでしょう。しかし、彼は戦に自分の力、武器、作戦によって勝てるとは思ってはいませんでした。しかし、万軍の主が共にいてくださってこそ、この戦に勝利できることを彼は確信していました。ですから、神殿で、主なる神に向かって祈るのです。
9**,神よわれらの盾をご覧ください。あなたに油注がれた者の顔に目を留めてください。
 主がともにいてください。主が油を注いて王として立てた、この王である小さな私の盾に目に留めてくださいと、せつに祈るのです。
 そして、この賛美の最後に歌い上げます。
10**,まことにあなたの大庭にいる一日は千日にまさります。
私は悪の天幕に住むよりは私の神の家の門口に立ちたいのです。**
 どんな贅沢な調度品に囲まれた王の宮殿でご馳走を食べ、多くの家臣団にかしずかれて過ごす千日よりも、この主の家、神殿で神のお顔を仰ぎ見て、賛美をささげて、祈りをささげるこの一日の方がはるかに勝っている。自分は悪人たちの天幕の奥の豪華な座に座るよりも、たとえ門番でもよいから、神の家にいたいというのです。

●頌栄
主の宮をこよなく大切に思い、慕い求める王である詩人は、いのちを的にする戦地に赴くまえに、主の宮を訪ねて祈り、主がわたしの太陽であり、主がわたしの盾であるという確信にいたって、平安を得て、勇気を与えられて出陣します。そうして、最後にもう一度「なんと幸いなことでしょう」と謳い上げて結びます。


11**,まことに神である主は太陽また盾。
主は恵みと栄光を与え誠実に歩む者に良いものを拒まれません。**
12**,万軍の主よなんと幸いなことでしょう。あなたに信頼する人は。
 
結び 詩篇歌84篇を歌詞をよく味わいつつ歌いましょう。

  

王である祭司、聖なる国民

Ex19章1-6節

1.序

 エジプトを出たのが第一の月のついたち。それから二ヶ月がたち、第三の月のついたちにモーセイスラエル人はシナイの荒野にはいりました。そして、先に神様がモーセに啓示をお与えになってモーセを召し出された山、シナイ山(別名ホレブ)のふもとに到着し宿営をはりました。モーセは、先には羊を飼ってこのシナイ山にやってきて、燃えて燃え尽きない芝の木の前でひれふして、主を礼拝したのでした。モーセとしてはようやくこの地まで民を連れてくることができたので、ほっと一息というところだったでしょう。

出エジプト記 19:1-2
 「エジプトの地を出たイスラエル人は、第三の月の新月のその日に、シナイの荒野にはいった。彼らはレフィディムを旅立って、シナイの荒野にはいり、その荒野で宿営した。イスラエルはそこで、山のすぐ前に宿営した。」
シナイ半島の山々はまったくごつごつした岩のかたまりにすぎません。シナイ山は木も草も生えておらず、ただただ岩だけの山です。モーセは一歩一歩岩地を踏みしめて、主の山に登って行きました。
そこで主はモーセに対しておことばを与えます。
出エジプト記 19:3
 モーセは神のみもとに上って行った。主は山から彼を呼んで仰せられた。「あなたは、このように、ヤコブの家に言い、イスラエルの人々に告げよ。
出エジプト記 19:4
 あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたをわしの翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。
出エジプト記 19:5
 今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。
出エジプト記 19:6
 あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。
これが、イスラエル人にあなたの語るべきことばである。」

2.救いの順序

 この主のことばから学ぶべき大事な点は、救いの順序です。
まず「イスラエル救出」(4節)「あなたがたは、わたしがエジプトにしたこと、また、あなたがたをわしの翼に載せ、わたしのもとに連れて来たことを見た。」
次に、「イスラエルの使命」(5,6節)「 今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」という順序です。

まず、主がイスラエルの民をご自分の翼に載せるようにしてエジプトから救い出されました。この救いが第一です。
 その次に主はイスラエルに対して、「わたしの声に従い、わたしの契約を守りなさいと命令なさいます。そうすれば、イスラエルは神の宝、祭司の王国、聖なる国民となる」とおっしゃいます。
 言い換えると、イスラエルの民がエジプトで神を恐れ神にしたがって「さすがに聖なる国民、祭司の王国だ」と称賛されるような生き方をしていたから、その報いとして神様が彼らを救われたという順序ではありません。そうではなく、イスラエルの民はエジプトの地では、エジプト人と似たり寄ったりの偶像に汚された罪深い生活をしていました。彼らが偶像と汚れに染まった生活をしていたことは、後に与えられるもろもろの律法を読むとよくわかります。そこには、いろいろな偶像を拝んではいけないこと、占いや霊媒を用いてはいけないこと、口にするのも忌まわしいような不道徳な行いをしてはいけないことなどが書かれています。ということは、イスラエルの民のうちにはこういう罪が入り込んでいたということです。そういう生活の報いとしては、罰しかないでしょう。ところが、それにもかかわらず、神様はイスラエルの民を救われたのです。
みことばは教えているのです。まず神様が彼らイスラエルの民を選び、救出されたのだから、その神の民としてふさわしく生きよとおっしゃるのです。この順序は、真の神がわたしたちを救ってくださる順序なのです。これは旧約時代も新約時代も代わらない順序なのです。<まず恵みによる救い、次に、救われた者としてきよい神にふさわしく生きる>という順序です。
 ローマ書、ガラテヤ書、エペソ書などパウロの書簡の構成を見ても、たしかにそういう順序になっています。まず、神様による救いがあり、救われた者として神の民として、神の栄光を表すためにいかに生きるかということが書かれています。
ルカ福音書15章の、あの放蕩息子が父のもとに帰ってきたとき、父親は息子に「まず証拠を見せよ、きよい生活の実績ができたら、息子としての籍を回復してやろう」とは言いませんでした。傲慢に父に背き、飢えかつえ、豚の糞尿にまみれたぼろぼろの姿で帰ってきたら、父親が遠くからそれを認めて息子にかけより、接吻して、彼に相続人の指輪をはめてやりました。それから息子は、だんだんと清い生活をしていくようになるのです。
 <まず、恵みによる救い、次に、神のくださったきよい使命に生きる生活>です。

3.祭司の王国、聖なる国民。

(1)祭司の王国、聖なる国民
ポイントの第二は、神が民にたまわった使命が「祭司の王国、聖なる国民」となるという点です。「今、もしあなたがたが、まことにわたしの声に聞き従い、わたしの契約を守るなら、あなたがたはすべての国々の民の中にあって、わたしの宝となる。全世界はわたしのものであるから。あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる。」

「聖なる」というのは、「取り分けられて神様専用のものとされた」という意味です。聖とするというのは、「分ける、区別する」という意味で、特に、神様のものとして他と区別するのです。世界中はもちろん創造主である神のものなのですが、そのなかでも特に神様専用にすることを聖とするといいます。
クリスチャンにとって一週間すべてが神様のものであり、食べるにも飲むにも働くにもテレビを見るにも神の栄光をあらわすようにするのですが、特に一週間のうち主の日は、神様専用の日とするというので、主の日を聖日と呼びます。あるいは、私たちにある収入があったならば、それは全額神様から託されたものですから、それをどのように用いるにせよ神様の栄光を表すようにもちいるのがクリスチャン生活ですが、その中でも特にいわゆる献金にする分は聖別されたものというのと同じです。「あなたがたは聖なる国民だ」というのは、神様のために特別に取り分けられた民だということ、神の特選の民だということです。

「祭司の王国」とはなんでしょう。祭司の務めというのはなんだったでしょうか?それは、自分が特権階級だとおごって、他の人々を見下すことではなく、むしろ、民の代表として民に同情して、民の立場になって神様にとりなし祈ることです。ですから、本来は、イスラエルの民は世界の民のために執り成し祈るという重要な務めが与えられるはずだったのです。異邦人もまた真の神を知ることができるようにと祈る務めがあったのです。
 残念ながら、後になるとイスラエルは、自らか神の選びの民であることを誇り、異邦人を犬と呼び、祭司の務めを果たすどころではなくなってしまったようです。そして、イエス様が人として来られたころには、『私たちはアブラハムの子孫なのだ』とおごっていたようです。
 本来は、異邦人のために、その救いのためにもとりなし祈り、神様の御心を伝えていくのが祭司の王国としての役目だったのです。


3.新約時代の神の民

では、祭司の王国、聖なる国民とはイスラエル民族だけのことでしょうか。たしかに旧約時代はそうでした。しかし、「祭司の王国、聖なる国民」という言い方は、新約の時代になるとキリスト教会の呼び名として用いられるようになります。
第一ペテロ 2:9-10
「しかし、あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです。
あなたがたは、以前は神の民ではなかったのに、今は神の民であり、以前はあわれみを受けない者であったのに、今はあわれみを受けた者です。」
 「あなたがたは、以前は神の民でなかった」というのは、あなたがたはイエス様が来られる前の旧約時代には異邦人でしたという意味です。ところが、神の子イエスが十字架にかかって復活して、ユダヤ人、異邦人の垣根を取り払ってくださいました。
私たち、新約の時代の神の民、教会は、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民なのです。
 そこで、イスラエル民族と同じ轍を踏まないように、私たちが注意しなければならないのは、まず誤った選民意識でしょう。「神の国が近づいた。悔い改めよ。『私たちはアブラハムの子孫である』と言って誇っていてはいけない、神はこの石ころからでもアブラハムの子孫を起こすことがおできになるのだ」と、かつてヨルダン川のほとりでバプテスマのヨハネが叫びました。
 私たちが選ばれたのは、私たちが何かすばらしいとりえがあるからではないのです。私たちが他の人に比べて特別きよく正しい親切な生活をしていて、顔が良くて、金持ちで、頭が良くて・・・だから選ばれたのではないのです。ただ、神様が私たちをあわれんでくださったから、私たちは選ばれたのです。みことばに次のようにあります。第一コリント 1:26-30「兄弟たち、あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。
 これは、神の御前でだれをも誇らせないためです。しかしあなたがたは、神によってキリスト・イエスのうちにあるのです。キリストは、私たちにとって、神の知恵となり、また、義と聖めと、贖いとになられました。」
 このように神様のあわれみによって選ばれ、聖なるものとされたのですから、私たちは決して傲慢になってはいけないのです。

 それと同時に、私たちは「祭司の王国」としての任務をいただいていることを肝に銘じましょう。祭司の務めとは、同情心をもって民の立場にたって、神様の前にそのとりなしの祈りをささげることです。あなたは、教会の兄弟姉妹のため、家族の祝福と救いため、この国と世界のためにとりなし祈るという祭司としての任務を神様から受けているのです。もちろん、自分のために祈ることは大事ですが、他の人々のために祈ることもまた大切な務めです。そのために、一日のなかのよいときを聖別することが必要です。
第一テモテ 2:1-3
 「そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。 それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。 そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。」

結び
 今、私たちの国は嘘とごまかしと傲慢に満ちた指導者の下にあって、たいへん危険な状況に陥っています。私たちはただ怒っているのでなく、祭司として、彼らのためにとりなし祈る務めがあります。
・祈りの課題
 ・この国の指導者が目先ごまかさず、現実をきちんと直視するように。
 ・この国の指導者が、嘘を言わず真実を語る人となるように。
 ・この国の指導者が、一部の富裕層大企業のご機嫌を取るのでなく、庶民を顧みる心を持つように。
 ・この国の指導者が、平和を愛し、謙遜な心をもつように。

神様は私たちを、祭司の王国として世に派遣していらっしゃるのです。私たちは祭司として、目をさまして、隣人の救いのために、この国と世界のために祈る務めがあります。そして、祈ることが最も効果的です。

神はあなたを愛している

ヨハネ3章16節

2019年6月16日 苫小牧伝道礼拝

  

 聖書は永遠のベストセラーと言われますし、偉人たちは聖書についてさまざまなことを言い残しています。ナポレオンは「聖書はただの書物ではない。それに反対するすべてのものを征服する力を持つ生き物である。」と言い、アブラハム・リンカンは「聖書は、神が人間に賜った最もすばらしい賜物である。人間にとって望ましいものはすべて聖書にある。」と言っています。

 そんな聖書ですが、実際に手に取ると、六法全書みたいに分厚くて、読み通すことは不可能と思ってしまいそうです。「こんな分厚い本だけれど、要するに何が書いてあるのか?」それを知りたいならば、ヨハネ3章16節を理解して憶えていただけばいいのです。これは奥義のかなめ、聖書の中の聖書です。今日は、それを順々にお話ししましょう。

 

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」ヨハネ福音書3章16節

 

1 神は・・・世を愛された

 

(1)神とは天地万物の創造主。

 日本は八百万の神々がいると言われます。そういう神々と、聖書の神とはどこがどうちがうのでしょう。一言でいえば、八百万の神々は、たとえば人間が大きな岩にしめ縄をまいて神にしておこうとか、野球がうまいから彼を野球の神に祀り上げようとか、東郷さんは戦争に強かったから軍神にしておこうといって祭り上げたものです。つまり、この種の神々はみな人間が造ったものです。

 これに対して、聖書の神はこの宇宙全体を造り、私たち人間を造った唯一の神です。「初めに、神が天と地を創造した。」とある通りです。ここが違います。

 

(2)父と子と聖霊の愛の交わりの神

 この創造主である神様は、人間をお造りになったとき、神はおっしゃいました。「さあ、われわれのかたちに人を造ろう。」・・・「われわれ」と神がおっしゃったことに注意してください。先ほど、人間は八百万の神々を造ったけれど、真の神は唯一のお方であると申し上げました。ところがこの唯一の神は、ご自分を指してときどき「われわれ」とおっしゃいます。

 それは、唯一の神のうちに、父と御子の愛の交わりがあるからです。最初に読んだように、父なる神は、ひとり子イエス様と、聖霊による愛の交わりのうちにいきていらっしゃるのです。ヨハネ福音書第一章に「はじめにことばがあった、ことばは神とともにあった。ことばは神とともにあった。・・・ことばは人となって私たちの間に住まわれた。」とあるとおりです。

 創造主である神は、愛の交わりの神です。

 

(3)神が人を造った目的

父と子と聖霊の愛の交わりの神様は、私たちを御子に似た存在として造りました。それは、私たちが、全身全霊をもって神を愛し、また、私たちがお互いに愛し合い、また、この世界を愛をもって治めるためでした。神は愛のお方ですから、その神様の愛が、この世界にも満ちるために私たち人間を作られたのです。

人間の主な目的は、神を愛し礼拝をもってそれを表すことです。また、神がくださった隣人を自分自身のように愛することです。また、世界を神のみこころにしたがって愛をもって治めることです。

 

2 滅び

 

(1)滅び

 けれども、ヨハネ福音書3章16節には、「滅び」ということばが出てきます。聖書がいう「滅び」とはなんでしょうか。滅びとは、天地万物の創造主との断絶状態を意味しています。神を親、私たちを子どもとすれば、人が滅びているとは家出した子どもの状態だということです。親はいるけれど、相談できないのです。滅びた人生にはいくつかのしるしがあります。

 

(2)人生のむなしさ

滅びの人生の第一の印はむなしさです。高校生のとき、私は身近な人の急な死という出来事があって、「人間はなんのために生きているんだろう?人生の目的とはなんだろう?」と考えるようになりました。当時わたしは国文学者になりたいなということで、それをとりあえずの目標として勉強していました。でも、目的はなにかというと、何もわかりませんでした。もし人生を電車に譬えるとすると、わかっている終着点はただ死ぬということだけでした。人が生きているのが、結局は死ぬためでしかないとしたら、なんとむなしいことでしょうか。

創造主である神が人を造られましたから、人の主な目的は、神の栄光をあらわし、神の栄光をあらわすことです。しかし、神に背を向けてしまったとたん、人はその人生の目的がわからなくなって、人生はむなしく無意味なものとなってしまいました。むなしさが滅びの人生の第一の印です。

 

(3)罪の奴隷

 神に背を向け、滅びた人生の第二のしるしは、罪の奴隷状態であるということです。奴隷状態というのはしたくないことをさせられるということです。

 たとい神様に背を向けていても、神様は人を御子に似たものとして造られたので、良心というものが備えられています。ですから、人はウソをつくとか、盗みをするとか、人を傷つけるとか、浮気をするとかするときに、良心の呵責をおぼえます。それで良心の呵責をおぼえて、もう二度とこの罪は犯すまいと決心を自分の内側でしたとしても、また、おなじ罪を犯してしまいます。自分でしたくもない罪を犯してしまうのです。まるで自分の中に、もう一人の悪い奴が住んでいるような状態です。人は罪の奴隷、サタンの奴隷となっているのです。

 これは、神に背を向けてしまって以来、人間がずっと悩んできたことなのです。心理学者も、教育者も医者も解決することはできません。

 

(4)死の向こうへの恐怖

 そして、滅びている状態の人のもう一つのしるしは、死の向こうへの恐怖です。哲学者は虚勢を張って、「死は怖くない。なぜなら、死んだとき私はそこにいないから。」などと屁理屈をこねました。でも、そんな理屈をこねなければならないほど、人間は死が怖いのです。それは、人には一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっていることを、人は心のもっとも深いところで知っているからです。そして、他の人の目の前では善い人としてふるまっているけれども、実際には、人目に隠れて、あるいは、心の中で邪悪なことをしてしまう自分自身を知っているからです。

 実際、もしあなたが今日、キリストを無視して死ぬならば、あなたは神の前に有罪判決を受けて永遠の滅びに陥らねばなりません。

 生きる目的のわからないむなしさ、罪の奴隷状態、死の向こうへの恐怖。あなたは、滅びのしるしをもっていないでしょうか。それは、神様が、あなたを神の栄光をあらわす器として造られたのに、あなたが神に背を向けていることによっているのです。

 

3 しかし、神は世を愛し、御子をくださった

 

 けれども、最初に申し上げたとおり、「神は世を愛された」のです。神はあなたを愛されたのです。神は、ご自分に敵対し、感謝もせず、心と唇と手で日々罪を犯しながら、永遠の滅びへと突進している私たち人間を愛してくださったのです。なぜなら、神は愛であるからです。そこで御子をくださいました。「神は実にそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。」とあるとおりです。

 御父は御子に言われたのでしょう。「人間たちは、私たちに背を向け、神などいるものかと言いながら、そして滅びへ滅びへとむなしい人生をたどっている。互いに傷つけあって苦しんでいる。あのままでは永遠の滅びに陥ってしまう。しかし、わたしは彼らを助けたいのだ。御子よ、お前が人となって彼らのもとへ行き、彼らの罪を背負って、救ってやってほしい。」そこで、二千年前、御子は人となってこの世に生まれてくださいました。

 父なる神と瓜二つの御子が人となってこの世界に来てくださったことによって、私たちは真の神がどのようなお方であるかということを知ることができました。「いまだかつて神を見た者はいない。父のふところのひとり子の神が神を説き明かされたのである。」主イエスがどのようなお方であるかを知りたければ、福音書を読まれるといいのです。イエス様のご生涯を歌った賛美歌「この人を見よ」で紹介しましょう。

「まぶねの中にうぶごえ上げ 匠の家に人となりて

貧しき憂え 生くる悩み つぶさになめしこの人を見よ」

 イエス様は人間の世に生まれるにあたって、王侯貴族や大富豪の家を選ばず、庶民である大工さんの家に生まれました。そうして、貧しさ、生活の苦しさということを経験してくださったのです。それは、私たちを理解する友となるためでした。

「食するひまも打ち忘れて 虐げられし人を訪ね

 友なき者の友となりて 心砕きしこの人を見よ」

 イエス様は食べる時間も惜しんで しいたげられた人、貧しい人、ツァラアトという忌み嫌われ差別される病気の人を訪ねました。またお金はあったけれども、町の嫌われ者であった取税人を訪ねて、その友達となりました。自分のようなものはイエス様に出会った人々は神の愛を体験したのです。

「すべてのものを与えしすえ 死のほか何も報いられで

 十字架の上にあげられつつ 敵をゆるしし この人を見よ」

 こうしてイエス様はすべての愛を注ぎつくし与えましたが、その生き方は当時のユダヤ社会の指導者であった人々の妬みや怒りを買うことになりました。民衆の人気は、イエス様に集まっていったからです。そうして、ついにイエス様は紀元後30年4月、ユダヤの裁判にかけられ、ついでローマ総督による裁判にかけられ、結局、死刑にされることになりました。主イエスは十字架に釘付けにされてしまいます。どれほどの悲しみと痛みと苦しみであったことでしょう。しかし、主イエスは十字架の上で祈られました。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは何をしているのか、自分でわからないのです。」

「この人を見よ。この人にぞ、こよなき愛は現れたる。

この人を見よ。この人こそ、人となりたる生ける神なれ」

 神は愛です。そして、イエス様は、まさしく人となった生ける神でありました。

 

 たしかに主イエスはねたむ人々に捕まえられて十字架で処刑されたのです。けれども、主イエスはあらかじめこうおっしゃっていました。「だれもわたしからいのちを奪う者はいません。わたしが自分からいのちを捨て、また、いのちを取り戻すのです。」神様の御子が人となってこの世界に来られたのは、私たちを罪の呪いから救い出すためでした。罪の呪いを受けたままならば、私たちは神と断然し敵対しついにはゲヘナに落ちなければなりません。そこで、イエス様は私たちの罪の呪い、ゲヘナで受けるべき刑罰を、自発的にその身に引き受けてくださったのちに、三日目にイエス様はまことのからだをもって復活しました。その後弟子たちに40日間ご自分を表し、教えを与え、40日たつと天に上げられ、父なる神の右に着座されました。

 

結び 御子を信じる

 

 罪ゆえに私たちは生まれながら、神と断絶して、滅びていたものです。そして、むなしい人生、知らずに悪魔の奴隷とされている人生、死の恐怖に縛られた人生をとぼとぼと歩んでいます。その行き着く先は、地獄です。

けれども、人となられた神の御子イエス様は、あの十字架の上で、私たちの罪の呪いを引き受けてくださいました。イエス様は人間なので人間の代表また身代わりとなることがお出来になり、また、イエス様は全能の神なので、すべての人の罪を背負い、悪魔から私たちを救い出すことがお出来になります。

 では、イエス様が成し遂げてくださった救いの準備を私たちはどのようにして受け取ればよいのでしょうか。ヨハネ福音書3章16節に戻りましょう。「御子を信じる者が亡びることなく、永遠のいのちを持つためである」と書かれています。あなたが罪と死と永遠の滅びを免れるためにすべきことは、ただ一つ、御子イエス様を信じることです。

 御子イエス様を信じるとは、神様の前で、私はたしかに罪がありますと認めることです。そして、イエス様が私の罪のために十字架にかかってよみがえってくださった、神の御子ですと口で告白することです。

   永遠の信頼

詩編16編                     

 

  ダビデのミクタム

1,神よ私をお守りください。私はあなたに身を避けています。

2,私は主に申し上げます。「あなたこそ私の主。私の幸いはあなたのほかにはありません。」

3,地にある聖徒たちには威厳があり私の喜びはすべて彼らの中にあります。

4,ほかの神に走った者の痛みは増し加わります。私は彼らが献げる血の酒を注がずその名を口にいたしません。

 

5,主は私への割り当て分また杯。あなたは私の受ける分を堅く保たれます。

6,割り当ての地は定まりました。私の好む所に。実にすばらしい私へのゆずりの地です。

7,私はほめたたえます。助言を下さる主を。実に夜ごとに内なる思いが私を教えます。

8,私はいつも主を前にしています。主が私の右におられるので私は揺るがされることがありません。

9,それゆえ私の心は喜び私の胸は喜びにあふれます。私の身も安らかに住まいます。

 

10,あなたは私のたましいをよみに捨て置かずあなたにある敬虔な者に滅びをお見せにならないからです。

11,あなたは私にいのちの道を知らせてくださいます。満ち足りた喜びがあなたの御前にあり楽しみがあなたの右にとこしえにあります。

 

 

 「神を礼拝する者は、聖霊と真理によって礼拝しなければなりません。」 4月から礼拝について学んでまいりまして、その中で、賛美歌は音楽をともなう祈りであることを学びました。ですから、祈りにおいて意味のないことばを繰り返してはいけないように、賛美においても歌詞をよく理解して歌うことが大事であることを確認しました。それで、私たちの教会では詩篇歌をもちいていますから、詩篇歌の歌詞を学ぶために、前回から詩篇歌を味わい始めました。本日は詩篇16です。歌の方では、7節以降に曲がつけられています。「われ常に主をほめまつらん。なれは諭しを授けたもう。・・・・」です。

あとで歌います。

 

1、主への信頼(1-4節)                                                                              

0 表題

 表題に「ダビデのミクタム」とあります。ミクタムということばは意味不明なことばですが、刻まれた歌、黄金の歌、贖いの詩と言った解釈があります。作者はダビデです。

 

(1)戦いの人生で、神、主に信頼する 1、2節。                                  

1**,よ私をお守りください。私はあなたに身を避けています。**

2**,私はに申し上げます。「あなたこそ私の主。私の幸いはあなたのほかにはありません。」**

 

ダビデは、神に守りを求めます。1節。そして、信頼を表明します。2節。その呼びかけが1節では「神エル」であり、2節では太字の主YHWHです。エルは神の力強さ、YHWHは神の親しさを表現します。力強い神に「お守りください、身を避けます」といい、そのお方は親しくやさしい「主」です。このお方のもとに身を避けるものは幸いです。 力強く、かつ、やさしいお方を、わが神とすることの幸いです。

ダビデの生涯は、戦いにつぐ戦いの生涯でした。羊飼いをしていたときには、羊たちを守るために、ライオンや狼と戦っていました。 ペリシテ人ゴリヤテとの戦い以降、サウル王の部下となってからは、外国の軍隊との戦いでした。それで華々しい戦果を挙げたので、国民はあげてサウルは千人を打ち、ダビデは万人を打ったとほめそやしました。

そのために、サウル王の妬みを受けて、今度はサウル王の軍隊につけねらわれることになり、安心して枕するところもなくなってしまいました。王というのは、統治者であり裁判官であり警察なのです。本来、神は、国民が安心して生活をすることができるために、王を立てたのです。王は剣をもって敵方民を守り、社会秩序を維持し、また、徴税をして富の再分配をして、国民生活の安定をもたらすのです。ところが、サウル王がおかしくなると、ダビデは王の軍隊ににいのちをつけ狙われる立場になったのです。裁判官も警察も悪党になってしまいました。ダビデはもはや安心して眠ることもできない立場です。そういう経験をしたことがあるでしょうか。

地上に守ってくれる存在がいなくなって、ダビデは神を避難所とし、主にのみわが幸いはあります、と信仰の告白をしています。

1,よ私をお守りください。私はあなたに身を避けています。

2,私はに申し上げます。「あなたこそ私の主。私の幸いはあなたのほかにはありません。」

 

 

(2)聖徒の交わりの幸い  3~4節   

                                                      

 次に詩人は、主なる神を見上げた向けた視線を地に移します。

3**,地にある聖徒たちには威厳があり私の喜びはすべて彼らの中にあります。

 その目に映るのは、地にある聖徒たちです。ともに真の神をあおぐ兄弟たちです。サウル王に追いかけまわされているときの状況でいうならば、ダビデに従ってきた部下たちを意味するのでしょう。ほとんどの人々は、サウル王に憎まれるダビデを見捨てました。先日まで、飛ぶ鳥を落とす勢いだったダビデ王にくっついていた多くの人たちは、今は、ダビデを見捨てました。しかし、たとえ損であっても、神を畏れるダビデに忠誠を尽くすべきだと考えた部下たちは、わが身の危険を顧みず、ダビデについてきました。彼らは、主が立てたものとしてダビデを信頼して、ついてきたのです。「地にある聖徒たちには威厳があり私の喜びはすべて彼らの中にあります」とダビデが言うのはもっともです。ダビデの周りにいるのは、目先圧倒的に不利な状況の中にあるダビデに、なおもついてきた勇者たちです。威厳ある者たちです。世の富や出世や保身のためでなく、神の義に生きようとする威厳ある聖徒です。ダビデは、よくぞついてきてくれたと喜びがあふれます。

キリスト者となったとき、見回せば、尊敬すべき主にある兄弟姉妹たちとともに生きることができる幸いは、なんと素晴らしいことでしょうか。教会生活に慣れてくると、これが当たり前のように思われるかもしれませんが、神の民、教会の中にあって生きられることは実は素晴らしいことです。

クリスチャンになる前、中学生そして高校生になって生意気盛りになっていたころ、学校の教師たちのうちに尊敬できる人を見いだせず、親を見てもがっかりし・・・といった状態でした。自分をわきまえない高慢だったのです。19歳の夏、増永俊雄牧師に出会いました。神の前に自らの罪を認め、そのうえで「私は神の栄光のために生きています」と先生はおっしゃいました。こんな大人がいるんだと驚きました。

 数か月のち、教会に通うようになり、クリスチャンの人たちを見ました。教会には、誠実に生きようと励み、他者には極力寛容でやさしく、かつ自分には厳しく生きようとしている人たちがいました。社会的には相当の地位にありながら、教会ではしもべのように仕えている兄弟たちもいました。神の前では、どこまでも自らの罪を認めているへりくだった人たちでした。・・・この世は虚飾と虚栄に満ちています。教会のような世界は、それまで見たことがありませんでした。・・・「地にある聖徒たちには威厳があり」というのはそういうことです。自分のようなものが神の民の中に加えられているのは、なんと光栄なことでしょう。

また、30歳過ぎたころ、宣教師のかたたちとの交わりの機会が結構多かったのですが、ぼんやりと「外国人はいい人ばかりだなあ」とぼんやりと思っていたのです。ところが、あるとき気づいたのです。私の知り合いのアメリカ人、カナダ人、韓国人、スウェーデン人たちが、特別の人たちなのだ、ということに。私の知り合いの外国人というのは、みなクリスチャンで宣教師たちでした。大戦後、神様の召しを受けて、故国を後にして、日本人たちの救いのために人生をささげた人たちだったのです。 30歳のころ、私は朴ヨンギ先生の引率で韓国にツアーで出かけました。これが初めての朴先生との出会いでした。朴先生が日本宣教にきた当時は、韓国人でありながら、日本に宣教に来るということは到底、理解されない時代でした。先の戦争で、国を奪い、民族の誇りを奪い、教会を激しく弾圧したのが大日本帝国でしたから、かの国では親日派イコール売国奴とされた時代です。その困難を乗り越えて、日本の救いのために朴先生は召しを受けて来られたのでした。

私の知る外国人というのは、そういう特別な人たちだったのです。この世の栄誉を捨てるどころか、この世の人々から軽蔑されても、なお神の福音宣教の使命、神の愛に生きようと決断した「威厳ある聖徒たち」でした。地にある聖徒たちには威厳があり私の喜びはすべて彼らの中にあります。

 

 力強く、やさしい主なる神を見上げ、その幸いを思い、威厳をもって神の前に共に生きる兄弟姉妹とともに生きる喜びを味わえば味わうほど、これを捨てて去った人々の悲惨を思わないではいられません。

4**,ほかの神に走った者の痛みは増し加わります。

私は彼らが献げる血の酒を注がず その名を口にいたしません。

 

 「血の酒」を注ぐというのは、カナンの地に昔から蔓延していた人身御供をともなうモレクという偶像神への礼拝を意味しています。まことの神を捨て、偶像の神々に走るものは結局滅びてしまいます。カナンの地の習俗にそまって滅びた人々をダビデは思い起こしているのでしょう。日本における最大の偶像はマモンです。警戒しましょう。

 

 主が相続地である

 

(1)地上の祝福・・・主はわがゆずりであ 5~8節

 そして、詩人ダビデは、まことの神に信頼する民があずかる祝福を語ります。まず5-9節ではこの世での祝福です。

5**,主は私への割り当て分また杯。あなたは私の受ける分を堅く保たれます。

6**,割り当ての地は定まりました。私の好む所に。実にすばらしい私へのゆずりの地です。

 

イスラエルの11の部族は、約束の地カナンで、それぞれの相続地を得ました。けれども、12部族の中でレビ族だけには相続地がありませんでした。なぜか?それは彼らにとって主ご自身が、ゆずりの地であったからです。彼らは神殿礼拝の奉仕者となるために、相続地をもたなかったのです。いや、実はすべての聖徒にとって、まことの相続地は主ご自身なのであり、地上の相続はそのシンボルにすぎないことをレビ族は示したのです。その理解が、このダビデのミクタムには表れています。主は私への割り当て分また杯。「柔和な者は幸いです。その人は地を相続するから。」と主イエスがおっしゃいました。

主を相続としていただいているということは、主が昼でも夜でも、どんな所にいたとしても、ともにいてくださるという事実です。そして、聖書のことばをもって私たちに助言を与えてくださいます。主の日ごとの説教によって、あるいは日々の聖書通読の中で御霊が語ってくださいます。

7**,私はほめたたえます。助言を下さる主を。実に夜ごとに内なる思いが私を教えます。

8**,私はいつも主を前にしています。主が私の右におられるので私は揺るがされることがありません。

9**,それゆえ私の心は喜び私の胸は喜びにあふれます。私の身も安らかに住まいます。

 

  私たちがつらい春の野を行くようなときも、嵐の海を渡るようなときも、元気なときも、病気のときも、死ぬ時であっても、主がともにいてくださるのです。天地の主であるお方が、私たちの味方であるなら、何を恐れる必要があるでしょうか。だから、心は喜び、たましいは楽しみ、体も安らかです。

 

(2)永遠の祝福 10~11節

 9節まではこの世における主の祝福が語られましたが、結びである10節、11節で、主の祝福はこの世では終わらない、永遠のものであることが語られます。

10**,あなたは私のたましいをよみに捨て置かずあなたにある敬虔な者に滅びをお見せにならないからです。

11**,あなたは私にいのちの道を知らせてくださいます。満ち足りた喜びがあなたの御前にあり楽しみがあなたの右にとこしえにあります。

  使徒の2章31節には、このみことばがイエス・キリストの復活において成就したと語られています

29**,兄弟たち。父祖ダビデについては、あなたがたに確信をもって言うことができます。彼は死んで葬られ、その墓は今日に至るまで私たちの間にあります。**

30**,彼は預言者でしたから、自分の子孫の一人を自分の王座に就かせると、神が誓われたことを知っていました。

31**,それで、後のことを予見し、キリストの復活について、『彼はよみに捨て置かれず、そのからだは朽ちて滅びることがない』と語ったのです。**

32**,このイエスを、神はよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。

 

 

 復活、それはキリストに連なる聖徒たちにおいても同じようになります。キリストは初穂であり、私たちはそれに続く者たちですから。キリストは長子であり、私たちはその兄弟姉妹ですから。「我は、聖霊を信じる。聖なる公同の教会、聖徒のまじわり、罪の赦し、からだのよみがえりを信じる」です。

 

結び

 この地上の生涯を、威厳ある聖徒たちの中で、主なる神を見上げて生き抜くならば、この地上の生涯を終えて死を迎えることもまた幸いなことです。主に望みを抱く私たちにとって、死は永遠のいのちへの門であるからです。

 その時、神は私たちを御子イエスとともにその右に着座させてくださいます。地上の祝福ばかりか、永遠の祝福までも用意されたるキリスト者の人生の幸いよ!