水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

説教とは

ネヘミヤ8:1-8

2019年5月12日 苫小牧主日礼拝

 1民全体が、一斉に水の門の前の広場に集まって来た。そして彼らは、主がイスラエルに命じたモーセの律法の書を持って来るように、学者エズラに言った。2そこで、第七の月の一日に祭司エズラは、男、女、および、聞いて理解できる人たちすべてからなる会衆の前に律法を持って来て、3水の門の前の広場で夜明けから真昼まで、男、女、および理解できる人たちの前で、これを朗読した。民はみな律法の書に耳を傾けた。4学者エズラは、このために作られた木の壇の上に立った。彼のそばには、右手にマティテヤ、シェマ、アナヤ、ウリヤ、ヒルキヤ、マアセヤが立ち、左手にペダヤ、ミシャエル、マルキヤ、ハシュム、ハシュバダナ、ゼカリヤ、メシュラムが立った。5エズラは民全体の目の前で、その書を開いた。彼は民全体よりも高いところにいたのである。彼がそれを開くと、民はみな立ち上がった。6エズラが大いなる神、主をほめたたえると、民はみな両手を上げながら「アーメン、アーメン」と答え、ひざまずき、顔を地に伏せて主を礼拝した。7ヨシュア、バニ、シェレベヤ、ヤミン、アクブ、シャベタイ、ホディヤ、マアセヤ、ケリタ、アザルヤ、エホザバデ、ハナン、ペラヤなどレビ人たちは、民に律法を解き明かした。その間、民はその場に立っていた。8彼らが神のみおしえの書を読み、その意味を明快に示したので、民は読まれたことを理解した。 

 

1.礼拝プログラム

 

 新しい年度になって、私たちは「御霊と真理による礼拝」をテーマに、礼拝とは何かということについてみことばに耳を傾けてきました。日本同盟基督教団の信仰問答書に「礼拝とは何ですか?」という31番目の問いがあり、それにこたえて「礼拝とは神との会見です。聖書の朗読と説教とを通して、神のみ旨を学び、わたしたちの賛美と祈りと献金とをもって、神にお応えします。」とあります。

 まず礼拝とは神様との会見です。私たちは公の礼拝に集いますが、それは神様とお目にかかるためです。一人でデボーションすることも大事なことですが、イエス様は「二人でも三人でもわたしの名によって集うところには、わたしもそこにいる」とおっしゃいましたから、主イエス様の名によってともに集うところに主のご臨在が特別にあるという約束があります。先日、イースター子ども会で弟子トマスの劇をしましたが、復活の主イエスは一人で待っていたトマスのところではなく、ぶるぶる震えながら集まっていた他の弟子たちの所に現れたのです。

 皆がイエス様の名によって集う礼拝の中で、どのようにして私たちは主と出会うのかといえば、神様の側からは「聖書の朗読と説教」があり、それに対して私たちの側からは「賛美と祈りと献金」をもって応答するという風にして、出会うのです。週報の礼拝次第を見れば、

最初に神様の招きのことばが朗読されます。

それにこたえて、私たちは賛美と祈りをささげます。

次に神の方から紙芝居です。

次にそれにこたえて、私たちから使徒信条告白、賛美二つ。

そして神様から聖書朗読と説教。

応答として賛美と献金

そして、私たちの側から頌栄で神にご栄光をおささげして、

最後に、神様からの祝福が取り次がれる祝祷という順序になっています。

 このように、礼拝は神との会見であり、その内容は、神からのことばと、それに対する応答としての祈りと賛美と献金で礼拝は成り立っています。聖餐式は、見えない神のことばを見える、食べられるかたちに表現したものです。食べられる神のことば。というわけで、礼拝における神様の臨在は聖霊を伴うみことばによってもたらされるわけです。

 教会の歴史では古代教会では聖書の解き明かしが熱心に行われましたが、中世にはいりラテン語訳聖書のみが正しいとされて、人々の日常のことばがラテン語でなくなっても、延々とラテン語聖書しか読まれない時代が千年ほど続きました。そのころは、聖餐のパンに与ることが礼拝の中心になっていました。しかし、16世紀に宗教改革が起こり、聖書が各国のことばに翻訳されるようになって、神の言葉が礼拝の中心に戻ってきました。プロテスタント教会の礼拝プログラム全体の中で、中心に位置するのは、聖書朗読と説教です。では、礼拝の中心を占める聖書と説教とはなんなのか?ということをまずネヘミヤ記から学びます。そのあと、説教を聞く人たちの務めについて。

 

2.説教とは聖書朗読の解き明かしである

 

(1)歴史的背景

 歴史的背景。紀元前14世紀、神様はモーセを通して、律法の書と呼ばれるモーセ五書をお与えになりました。イスラエルの民は、「心を尽くしいのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神を愛しなさい」という命令と、「隣人を自分自身のように愛しなさい」という命令にしたがって約束の地において、祭司の王国を建てていくことを神様は命じました。それは、イスラエルの国を通して真の神の素晴らしさ、救いと祝福が世界の諸民族の前に表されるためです。しかし、もし彼らが偶像崇拝にふけり、みなしごやもめや在留異国人といった社会的弱者が虐げられる格差社会にしてしまうならば、神は外国の軍隊をもってイスラエルを滅ぼし、民を外国へと捕虜として連れて行かせると、神はあらかじめ申命記において警告していました。 

 しかし、その警告にもかかわらず、イスラエルの民はこの律法の書から離れて、土俗の偶像崇拝や、周辺のオリエント諸国の偶像崇拝を取り入れてしまいました。「心を尽くしいのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神を愛しなさい」という命令に背いたのです。また、神の言葉に背いて、みなしご、やもめ、在留異国人の訴えが取り上げられない不公正な社会にしてしまいました。「隣人を自分自身のように愛しなさい」という命令に背いたのです。神が送った預言者たちは、悔い改めて律法に立ち返れというメッセージを発し続けましたが、北イスラエルも南ユダ王国も悔い改めませんでした。

 そこで、神は程度の酷い北イスラエル王国を8世紀にはアッシリヤに滅ぼさせました。彼らは他国へ捕虜とされてしまい、消息不明になってしまいます。そして、紀元前6世紀には南ユダ王国もバビロンに滅ぼされてしまい、民は捕虜とされてしまいます。バビロン捕囚です。

 しかし、神様はバビロンをほどなく滅ぼし、それを引き継いだのはペルシャ帝国でした。ペルシャ帝国の王たちは、不思議なことにキュロス王から始めて、ダレイオス王、アルタクセルクセス王たちは、エルサレム神殿の復興をさせるために民をカナンの地に帰還させました。さまざまの妨害を乗り越えで、ネヘミヤはエルサレム再建を指導し、ついに、城壁が建て直されて扉がつけられ、門衛、レビ人、聖歌隊が任命されたのでした。これが7章までです。そして、8章で礼拝の場面となるわけです。

 

(2)律法の書の朗読

1民全体が、一斉に水の門の前の広場に集まって来た。そして彼らは、主がイスラエルに命じたモーセの律法の書を持って来るように、学者エズラに言った。2そこで、第七の月の一日に祭司エズラは、男、女、および、聞いて理解できる人たちすべてからなる会衆の前に律法を持って来て、3水の門の前の広場で夜明けから真昼まで、男、女、および理解できる人たちの前で、これを朗読した。民はみな律法の書に耳を傾けた。

  民は渇いていました。水ではなく、神の言葉に飢え渇いていたのです。そして、モーセの書を読んでくれるようにエズラに願ったので、学者エズラは神の言葉の朗読をしたのです。彼らは、自分たちの先祖が長年にわたって神のことばをないがしろにして、読まなくなってしまったことによって、北イスラエル、南ユダ王国は滅ぼされたことがわかっていたのですね。神のことばを読まなくなったので、偶像崇拝が罪であることもわからなくなって行き、隣人をしいたげることが罪であることすらわからなくなってしまったのです。そして、祭司の王国としての実質を失って滅ぼされたのです。そこで、律法の書に立ち返ることが、彼らのやり直しにとって必須だったのです。

 律法の書の朗読を聞いて、民は感激しました。朝から真昼まで、律法が朗読されるのを聞いたからです。

5エズラは民全体の目の前で、その書を開いた。彼は民全体よりも高いところにいたのである。彼がそれを開くと、民はみな立ち上がった。6エズラが大いなる神、主をほめたたえると、民はみな両手を上げながら「アーメン、アーメン」と答え、ひざまずき、顔を地に伏せて主を礼拝した。

 ところが、困ったことがありました。それは学者でない一般の男女には、律法の書が読まれても、その言葉がよくわからなくなっていたのです。その理由は、数百年前に記された律法のことばが、その時代から800年も後の紀元前6世紀のユダヤ人たちにはわからなくなっていたということでしょう。もしイスラエルの民が律法を読み続けていたら、彼らが日ごろ用いるヘブライ語もそれほど変化しなかったかもしれませんが、そこから離れてしまっていたので、ヘブライ語が大きく変化したようです。800年前ということでいえば、私たちも平家物語などを読めば、それが日本語であるとはわかるものの、古典文法や語彙を勉強しなければ正確な理解がむずかしいでしょう。ですから、説明が必要でした。そこでレビ人たちが、それを民に解き明かしました。

 7ヨシュア、バニ、シェレベヤ、ヤミン、アクブ、シャベタイ、ホディヤ、マアセヤ、ケリタ、アザルヤ、エホザバデ、ハナン、ペラヤなどレビ人たちは、民に律法を解き明かした。その間、民はその場に立っていた。8彼らが神のみおしえの書を読み、その意味を明快に示したので、民は読まれたことを理解した。

 これが説教です。聖書は紀元前14世紀から1世紀の終わりまでの間に書かれたものです。旧約聖書ヘブライ語で記され、新約聖書ギリシャ語で記されています。現代の日本人にとっては、言語としても時間的にも文化的にもたいへん遠く隔たったものです。

 でも、今日私たちは神の言葉である聖書を読んで理解することができます。3つ理由があります。第一に、聖書が現代日本語に翻訳されているからです。第二に、聖書と神学を専門に勉強した説教者がこれを説き明かすからです。そして、第三に聖霊が聖書を読む私たちの心を照らしてくださるからです。

 礼拝における説教とは聖書の解き明かしであって、人間が考えた講話や漫談ではありません。神さまは、聖書の各巻を記した聖書記者の属していた当時の時代と文化と言語をもちいて、66の巻物から成る聖書を啓示してくださいました。ですから、説教者は聖書全体によって神のご計画の全体を把握して、かつ、各聖書記者たちの属した時代の文化と言語と、現代日本における文化と言語の隔たりを埋めて、みなさんに神様のみこころを告げるのが仕事であるわけです。そのために、聖書語学と聖書全体に関する教理の体系、教会の歴史、教理の歴史などいわゆる神学の学びを神学校でしています。

 

 牧師は説教のための営みのすべてを聖霊様に導かれ、励まされ、力づけられこそなすことができます。聖霊様の助けなくしては不可能なことです。

 ヨハネ14:26,「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。」

ですから、みなさんは必ず牧師の説教の準備と奉仕のためにお祈りください。使徒パウロは、牢につながれていましたが、エペソ書でこのように求めています。

エペソ6:19,20「また、私のためにも、私が口を開くときに語るべきことばが与えられて、福音の奥義を大胆に知らせることができるように、祈ってください。私はこの福音のために、鎖につながれながらも使節の務めを果たしています。宣べ伝える際、語るべきことを大胆に語れるように、祈ってください。」

 

3.説教を聞く人々の務め・・・ウェストミンスター大教理問答

 では、説教を聞く側のみなさんは、どのように聞くべきなのでしょうか。それについて、ウェストミンスター大教理問答書160はつぎのように述べていることを紹介したいと思います。

  問160 み言葉の説教を聞く者に、何が求められているか。

答 み言葉の説教を聞く者に、次のことが求められている。すなわち、

第一に 勤勉・準備・祈りをもってそれに聞くこと、

第二に、聞いた説教を聖書によって調べること、

第三に、信仰・愛・柔和・心の備えをもって真理を神のみ言葉として受け入れること、

第四に、それについてめい想し、語り合うこと、

第五に、心にたくわえて、生活の中でその実を結ぶことである。

  第一のことはすでに申し上げました。第二の「聞いた説教を聖書によって調べること」というのは、ベレヤの信徒たちが熱心にしていたことでした。次のように書かれています。使徒17:10ー12「兄弟たちはすぐ、夜のうちにパウロとシラスをベレアに送り出した。そこに着くと、二人はユダヤ人の会堂に入って行った。この町のユダヤ人は、テサロニケにいる者たちよりも素直で、非常に熱心にみことばを受け入れ、はたしてそのとおりかどうか、毎日聖書を調べた。それで彼らのうちの多くの人たちが信じた。また、ギリシアの貴婦人たち、そして男たちも少なからず信じた。」

 パウロがイエスのことと旧約聖書のメシヤ預言を照らし合わせて、「イエスこそキリストです。悔い改めてイエスを信じなさい。」と宣べ伝えたのを聞いたベレヤ教会の兄弟姉妹たちは、それは本当なのかと旧約聖書の預言と照らし合わせてみたのでした。そして、その通りだと確信して救われたのです。みなさんも、説教を聞いたなら、それが聖書の教えにかなっているかを確認してください。そうすれば、あなたの中で確信となります。 

 第三に、「信仰・愛・柔和・心の備えをもって真理を神のみ言葉として受け入れること」です。説教を聞いても、信仰、愛、柔和という心の備えをもって聞かなければ益になりません。へブル書4章2節には、こうあります。「2 福音を説き聞かされていることは、私たちも彼らと同じなのです。ところが、その聞いたみことばも、彼らには益になりませんでした。みことばが、それを聞いた人たちに、信仰によって、結びつけられなかったからです。」とあるように、かりに正しく説き明かされた説教を聞いても、信仰をもって聞かなければ、何の役にも立ちません。

 聖書の解き明かしを聞いて、信仰、愛、柔和という心の備えをもってこれを聞くならば、あなたはこの世だけでなく、次の世においてまで絶大な益を受けることができます。みことばが悔い改めを求めるならば、悔い改めることです。みことばが信じることを求めるならば、信じることです。みことばが、何かあなたに警告を与えるならば、畏れおののくことです。使徒パウロはテサロニケの兄弟姉妹に向かって言いました。1テサロニケ2:13「こういうわけで、私たちもまた、絶えず神に感謝しています。あなたがたが、私たちから聞いた神のことばを受けたとき、それを人間のことばとしてではなく、事実そのとおり神のことばとして受け入れてくれたからです。この神のことばは、信じているあなたがたのうちに働いています。」

  第四に、みことばをめい想し、語り合うことです。一人で思いめぐらし、兄弟姉妹とのコイノニアや祈り会や家族で説き明かされた御言葉について語り合うことです。エペソ書5章19節に詩篇をもって互いに語り合いなさいとあります。自分で思いめぐらすことも有益ですが、主にある兄弟姉妹とともにみことばを語り合うこともまた有益です。なぜなら、「二人三人、わたしの名によって集うところに、わたしもともにいる」とイエス様が約束してくださったからです。私は、祈り、学び、説教原稿に一言一句書き上げますが、実際に、みなさんを前にして語り始めると、そこで新しい御言葉に関する洞察が与えられるものです。

  そして、第五に、「心にたくわえて、生活の中でその実を結ぶこと」です。聖書は約束するのです。みことばを昼も夜も思いめぐらしていれば、必ずあなたの生活は変わり、実を結ぶようになります。詩篇第一篇に、「主の教えを喜びとし、昼も夜も、その教えを口ずさむ人、その人は流れのほとりに植えられた木。時が来ると実を結びその葉は枯れずそのなすことはすべて栄える」とあります。みことばの解き明かしである説教を聞いても、会堂を出たらもう忘れているというようなことで、生活において実を結ぶことはありえません。みことばを生活の中で何度も口ずさみ、にれはむのです。みことばを紙にメモして台所とか、仕事机の前にメモしておいて、牛が反芻するように、何度も何度もです。

 そうすれば、必ず、あなたの人生に、主のみことばが実を結ぶことになります。

祈りと賛美

マタイ6:5‐13

2019年5月5日 苫小牧朝礼拝

 

5**,また、祈るとき偽善者たちのようであってはいけません。彼らは人々に見えるように、会堂や大通りの角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。**

6**,あなたが祈るときは、家の奥の自分の部屋に入りなさい。そして戸を閉めて、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れたところで見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。**

7**,また、祈るとき、異邦人のように、同じことばをただ繰り返してはいけません。彼らは、ことば数が多いことで聞かれると思っているのです。**

8**,ですから、彼らと同じようにしてはいけません。あなたがたの父は、あなたがたが求める前から、あなたがたに必要なものを知っておられるのです。**

9**,ですから、あなたがたはこう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。**

10**,御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。**

11**,私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。**

12**,私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。**

13**,私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。』

 

 

序 私たちは礼拝について学んできました。一回目は、カインとアベルの礼拝から、「俺流の礼拝はだめ。神様がお定めになったことに足したり引いたりせず、礼拝を捧げる」こと、格別、イエス様の十字架のあがない抜きに私たちの礼拝はありえないということです。

 第二回目は、もう少し具体的に十戒に礼拝の原理を学びました。真の神のみを崇める。偶像を用いない。主の御名を心から歌う。安息日を大事にする。隣人と仲直りしてから礼拝するということです。

 第三回目は、聖霊と真理による礼拝でした。イエス様が贖いを成し遂げて天に昇り、聖霊を下された新約の時代は、聖霊に満たされて礼拝します。

 今日は、礼拝の中の祈りと賛美についてです。この二つはセットで学ぶことができます。なぜなら、「賛美とは音楽をともなった祈りである」からです。これは宗教改革カルヴァンが言った、賛美歌の定義です。そして、実に、的を射た定義です。ですから、神様に喜ばれる賛美とは何であろうと考えるには、祈りについての教えを聖書から学ぶことが有益です。祈りの原則はことごとく、賛美の原則に適用されます。

 そこで主が教えてくださった祈りの原則を賛美に適用してみよう。

 

1  人にではなく、神に向かって賛美する

 「また、祈るとき偽善者たちのようであってはいけません。彼らは人々に見えるように、会堂や大通りの角に立って祈るのが好きだからです。まことに、あなたがたに言います。彼らはすでに自分の報いを受けているのです。」マタイ6:5

 当時ユダヤ社会では祈りをささげる時、宗教家たちの中には人に見せるために祈っている人がいることを主イエスは指摘なさいました。「敬虔な人だなあ」と尊敬されたいからです。それでは祈りになりません。祈りは神に向かってささげるものであるからです。

 とはいえ、教会においてみんなで心あわせて祈る祈りがあります。その時には、皆がアーメンと言えることが大事です。だから、聞こえる声で、わかりやすい言葉で、個人的なことでなく教会の皆に共通することがらを祈ればよいのです。そのためには、公の祈りのためには準備も必要でしょう。公の説教で原稿を苦労して用意するように。

 

 同じように、賛美を歌うときに、美声を人に聞かせるためではなく、神様に聞いていただく祈りとして歌うことが肝心です。聖歌隊などで特別賛美としてみんなの前で歌うときにも、まず神様にささげるものとして歌うという意識が第一番にたいせつなことで、第二番目に意識すべきは、会衆がともにアーメンと言えるように歌うことです。

 

2  公の場だけでなく、日常的に賛美する

 その公の場での祈りが、神に向かっての祈りであるかということは、人が見ていない一人の時にも祈っているかと言うことで測られるでしょう。ですから、主イエスは次に個人生活における祈りについて話されました。

 「あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋に入りなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます。」マタイ6:5

 ですから、公の祈りの奉仕をする人は、日々の個人的な祈りを大事にしてください。

  同じように、日ごろ神様を全然賛美していない人が、特別賛美のときだけみんなの前では上手に歌うとしたら、その賛美はほんものではありません。賛美歌は、神様に栄光を帰する歌であって、歌っている人の栄光をあらわすための歌ではありません。

 新しい讃美歌集を使い始めましたから、もっと賛美の練習をするときを持つようにしたいと思います。新しい賛美も少しずつ練習して行きましょう。

 

3  歌詞の意味を理解して、神様を信じて賛美する

 次に、主イエスは祈りの心得として、こうおっしゃいました。

 「 また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。だから、彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです。」マタイ6:7、8

 「異邦人が同じことばをただ繰り返す」というのは、意味のわからないおまじないのようないのりを意味しているのでしょう。ホニャラララと千回繰り返して言うと、お金持ちになれます式のことです。ですから、祈りにおいて、ハレルヤだけを繰り返すとかいうのもよくありません。ヤーは尊い神様のお名前ですから、心をこめないで10回言うより、心をこめて1回いうほうがいいのです。あなたの名前だって、そうでしょう。「修治さん、修治さん、修治さん、修治さん、修治」と繰り返し繰り返し無意味に呼ばれたら腹立つでしょう。一回、心を込めて「修治さん」呼ばれたいです。神さまも同じです。ことば数が少なくても、よく理解して心を込めて祈ることが大事です。

 神様は私たちに必要なものをご存知なのに、なぜ私たちはそのことを願って祈るのでしょうか。それは、祈りというのは、単に神様に必要なものを報告することではなく、神様との人格的交わりであるからです。神さまに必要なものがあるときだけ祈るというのは、まるで「風呂、飯、寝る」しか言わないひどい息子のようです。

 

 これは、そのまま賛美においても適用されるべき原則です。賛美をささげるとき、その讃美歌のことばをよく理解して、神様との交わりを楽しんで歌うことが大事です。音楽に乗ってなんとなく口ずさむのではいけません。意味を味わいながら歌わねばなりません。それは、あなたの祈りなのですから。詩篇歌は、聖書を開けば、ちゃんと意味が書かれています。それでも、文語の歌詞でわかりにくいことは、牧師に質問してください。今回、歌集を改めた目的の一つは、わかりにくい歌詞を避けるためです。

 

 歌詞の意味を理解することとの関連で、音楽の効用と危険性について話しておきましょう。音楽の賛美における効能は、知性だけでなく感情や意志にまで働きかけて我々を神賛美にかきたてることにあります。

でも注意すべきことは、美しい音楽によっぱらって神様を賛美する歌詞を忘れてしまうことです。アウグスティヌスは言いました。「このようにして私は、音楽がひきこむ快楽への危険と、にもかかわらず音楽が有している救済的効果の経験とのあいだを動揺しています。しかし、もちろんいまここで確定的な判決を宣言する気はありませんが、どちらかというと、教会における歌唱の習慣を是認する方向にかたむいています。それは耳をたのしませることによって、弱い精神の持ち主にも敬虔の感情をひきおこすことができるためです。それにしても歌われている内容よりも歌そのものによって心動かされるようなことがあるとしたら、私は罰をうけるに値する罪を犯しているのだと告白します。そのような場合は、うたわれているのを聞かないほうがよかったのです。」『告白』10:33:50

 

ですから、音楽は賛美の歌詞に仕えるのだということ、つまり、歌詞が音楽に優先することを忘れないことが大事です。ですから歌詞にふさわしい音楽を用意することが大事です。音楽は神を賛美することばに仕えるのです。したがって、歌詞さえ聖書的なら音楽や演奏法は何でも良いというわけではない。その歌詞の内容――神崇拝・悔い改め・感謝・献身など――に、会衆を導いていくのにふさわしい曲を工夫すべきです。悔い改めの歌詞なのに、やたらと明るい曲調ではいけません。高らかな神賛美の歌詞なのに、湿っぽい曲ではいけないということです。歌詞の内容にふさわしい曲あってほしいものです。

 

4 自己中心でなく神中心。

 まず神をほめたたえ、御心が成るように賛美する

 「だから、こう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名があがめられますように。

  御国が来ますように。みこころが天で行われるように地でも行われますように。」(マタイ6:9,10) 今日は私にとって都合のいいことがあったからお祈りしよう。いいことがなかったからお祈りしないという自己中心ではいけません。神があがめられ、神のみこころがなりますようにと祈るのです。

 賛美もそうです。人の主な目的は、神の栄光をあらわし、神を永遠に喜ぶことです。自己実現のために生きているのは、この世の人々です。神のみこころが実現するためにこそ生きているのがクリスチャンの印です。ですから、私たちはうれしいときも悲しいときも、どんなときにも賛美をささげるのです。

 

5 信頼をもって。率直な願いをもって賛美する

 そうはいっても、いいかっこしいで、かしこまっている必要はありません。神様に、率直に、すなおに、自分に必要なものを求めることは良いことです。親は、子どもがかしこまっているよりも、素直であることを望むでしょう。父なる神様も同じです。 ですから、イエス様はごはんくださいと祈ればいいよとおっしゃいます。

「私たちの日ごとの糧をきょうもお与えください。」マタイ6:11

 主は霊的なもののみならず、物質的な必要も主は満たしてくださる。キリスト教は別に禁欲主義ではありません。素直な子供のように、神に信頼して祈ればよいのです。素直に思いのたけを神様に申し上げるならば、神は耳を傾けてくださいます。

 賛美においても同様です。幼子が母の胸に安心して寝るように。私たちは神に全幅の信頼を置いて、賛美を捧げるのです。

 

6 隣人と和解して賛美する

 「私たちの負いめをお赦しください。私たちも、私たちに負いめのある人たちを赦しました。」マタイ6:12

 誰かと仲たがいしていることを思い出したら、行ってお詫びして仲直りしてから、祈りなさいと主イエスはおっしゃいました。

 賛美についても同じです。賛美は神様へのささげものですから、誰かと仲たがいしているならば、ささげものはそこにおいて、仲直りしてから、賛美するのです。けんかしていて、怒りの心でどんなに上手に歌っても、それは神へのささげものになりません。

 

7 悪魔の試みを退けるためにも賛美する

「 私たちを試みに会わせないで、悪からお救いください。」〔国と力と栄えは、とこしえにあなたのものだからです。アーメン。〕マタイ6:13 

 主は賛美のうちに臨在されます。力強い賛美は悪魔をも退けるのです。

 タイに派遣された渡辺賢治宣教師の体験をおわかちしましょう。カンボジアで政変があったとき、多くの人々がタイ国境線のウドン谷に逃げてきてキャンプを張りました。そこで、渡辺先生家族はウドン谷に宣教に行きました。すると悪霊ピイが出てきて先生家族を怖がらせました。そのとき、「罪重荷を除くは、主の力、主の血は、悪魔のわざをこぼつくしき力なり。」という聖歌を歌うと、悪霊ピイは去って行ったそうです。

 

結び

 「賛美とは音楽をともなった祈りである」このことをしっかりと理解してください。

  • 私たちは、人に聞かせるためでなく、神に聞いていただくために祈り歌うのです。
  • だから公の場だけでなく、個人の祈りの場でも賛美をささげましょう。
  • 賛美は祈りですから、わからないまま歌ってはいけません。ことばをよく理解して味わって歌うことが大切です。
  • うれしいときだけでなく、どんなときにも、神を賛美して祈るのです。素直な心で願いをもって祈り賛美するのはよいことです。でも自己中心でなく、神中心です。

 神は賛美の内にご臨在くださり、悪魔の誘惑も退けてくださいます。

 

御霊と真理による礼拝

ヨハネ4:21ー24

2019年4月13日

 

21**,イエスは彼女に言われた。「女の人よ、わたしを信じなさい。この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。

22**,救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。**

23**,しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。

24**,神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」

 

序  本日は、今年のテーマ聖句「神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」から学びます。

2.神は霊ですから

3.御霊と真理によって

 

 

(1) まず22節を説明します。

22 救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。

 このことばは、サマリヤの女との対話の中で語られたことばでした。サマリヤ人というのは、ユダヤ人と同じく、アブラハム、イサク、ヤコブの子孫で親戚関係にありましたが、仲の悪い民族でした。それには二つの歴史的・宗教的理由がありました。

 一つの理由は、ユダヤ人は系図を重んじることからわかるように、自分がアブラハムの血筋であることをとても大切にしていたのに対して、サマリヤ人が異邦人との混血民族だったからです。なんで混血になったか、少し歴史的説明が必要です。イスラエル王国の第三代目がソロモン王で、その時代に王国は平和で経済的に栄えました。ところが、ソロモンは平和維持のため、政略結婚をたくさんしたために、お嫁さんたちが外国から嫁入り道具として偶像をもってきたので、イスラエルの国は偶像崇拝に汚されました。そこで神様は、罰としてソロモンの死後、国を南北に分裂させました。北イスラエル王国と南ユダ王国です。南ユダ王国の都はエルサレム、北イスラエル王国の都はサマリヤでした。南ユダ王国の子孫がユダヤ人であり、北イスラエル王国の子孫がサマリヤ人です。

 紀元前8世紀になると、北イスラエル王国がアッシリヤに滅ぼされた後、アッシリヤ帝国の国策によって、異邦人との混血が強制的にさせられました。ですから、ユダヤ人の側から言えば、サマリヤ人は純粋ユダヤ人ではないということでした。ユダヤ人はアブラハムの子孫であることをことさらに誇りとしていましたから、混血のサマリヤ人をきらったというわけです。

 

 もう一つの理由は、サマリヤ人は同じアブラハム以来の主を礼拝するのだと言いながら、旧約聖書で神様が定めたエルサレム神殿に礼拝には来ないで、ゲリジム山というところに神殿を造って、そここそ本物の神殿であると言い張っていたからです。

 これには歴史的理由がありました。ソロモン死後、王国が南北に分かれたときの北イスラエル王国の王はヤロブアムといいました。ところで、神殿は都エルサレムには神殿はありましたので、祭りのたびごとに、一年に何度も北イスラエル王国の国民たちはエルサレム神殿に礼拝にいそいそと出かけてしまうのです。ヤロブアム王は不安でたまりません。「こんなことでは、結局、北イスラエル王国の国民は、南ユダ王国とまたいっしょになりたい、南北統一だと言い出すにちがいない。そうしたら、王様は邪魔だということで自分は殺されてしまうだろう。」二つの国が一つになれば、確かに片方の王様は要らなくなりますから、そういうことになるでしょう。

 そこでヤロブアム王は、北イスラエル王国の民が礼拝するために金の子牛像を造って、これが主なる神だと言って、礼拝所を造ってしまったのです。このことは1列王記12章25ー33節に記されています。北イスラエル王国はその後も異教的なものを持ち込んで、南ユダ王国よりも偶像崇拝がひどくなりました。イエス様の時代には、金の子牛があったとは書かれていませんが、彼らはゲリジム山こそ主の礼拝の場だと言い張っていたわけです。 またサマリヤ教団は今日にいたるまで、モーセ五書だけを神のことばとして持っていて、それ以外を持っていません。サムエル記や列王記、歴代誌、エズラ、預言書には都がエルサレムで、神殿はエルサレムにとありますから。

 異邦人なら異邦人らしく、ローマ人のようにいっそユピテルとかウエヌスの神々でも拝んでいればすっきりするのですが、まことの主なる神を礼拝すると言いながら、完全な旧約聖書も持っておらず、偽りの場所に礼拝所を設けて、偶像まで使って礼拝してきたので、ユダヤ人たちはサマリヤ人を非常に嫌ったのです。 

 この点についてイエス様は「救いはユダヤ人から出るのですから、わたしたちは知って礼拝していますが、あなたがたは知らないで礼拝しています。」とおっしゃっているわけです。「ユダヤ人は旧約聖書の真理に基づいて、エルサレム神殿において、創造主である神を礼拝しているけれども、あなたがたサマリヤ人はモーセ五書だけ持っていて、よくわからないで山の礼拝所で礼拝しています。」という意味です。

 

(2)世界中どこででも父を礼拝する時代が来た

 次に21節です。

21**,イエスは彼女に言われた。「女の人よ、わたしを信じなさい。この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。

 ところが、主イエスはあえてサマリヤの地域を通っていき、そこで日の照り付ける正午に、井戸端でサマリヤの女と出会って、神の救い、永遠のいのちについて伝えたのです。イエス様は、今、半分異邦人であるサマリヤ人の住む地域に来て、サマリヤ人にも永遠のいのち、神の国の福音が提供される新しい約束の時代、新約時代が到来したことを示しました。世界中のあらゆる民族に福音が広げられるのです。

 そして、これから真の神への礼拝はサマリヤの山でもなく、旧約聖書が定めたエルサレム神殿で礼拝しなければならないという時代は終わって、どこでも真の父なる神を礼拝する時代が来たのです、とおっしゃるのです。「この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。」

  「水草先生、まだ聖地旅行に行ったことないのですか?行きましょうよ。」とときどき誘われます。昨年、来てくださった菊池実先生は聖書考古学の専門家ですから、エルサレムには毎年出かけて発掘作業をしています。たしかに聖書が書かれた場所を知れば、聖書に対する理解を深めるのに役に立ちます。ですから、聖地旅行に出かけることは意味あることです。ちょっと羨ましいです。ですが、そのたびにイエス様のこのことばを思い出します。「この山でもなく、エルサレムでもないところで、あなたがたが父を礼拝する時が来ます。」

 イエス様が来られて十字架と復活をもって贖いのわざを成し遂げられ、天の御座から聖霊を送ってくださった新約の時代にあっては、真の神を礼拝する礼拝堂は場所は世界中に拡大されたのです。世界中のどこであっても、世界中の神の民が、真の神を礼拝できる時代となりました。 ですから、私たちは今朝、極東の海に浮かぶ日本列島の一番北の北海道の苫小牧福音教会で礼拝をささげるとき、ここで真の神さまの臨在に確かに触れて、祈りと賛美をささげるときに、この礼拝を真の神様に受け取っていただくことができるのです。その主のご臨在の確かさは、エルサレムでもローマでも、苫小牧でもまったく同じことです。

 

  • 神は霊ですから

 

 ですから、肝心なことは、「どこで礼拝するか」ではなく、どのように礼拝するかということだとイエス様は話を進めて行かれます。それが、23,24節です。

23**,しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。**

24**,神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」

 「神は霊である」ということばの第一の意味は、神は目に見えず、私たちの手で触ることもできない肉体をもたない霊的実在者だということです。神は、石や木や金属を刻んで作った偶像ではありませんし、また、まことの神は現人神を自称する人間ではありません。神は生きておられますが、私たち人間の目に見えず、手でさわることもできないお方なのですから、人間が神の家として作った神殿がなくなったとしても、神がいなくなったわけでも、神が壊されたわけでもありません。

 そもそもソロモン王が神殿を奉献したときに、ソロモンもそんなことはよくわかっていたのです。第二歴代6:18「それにしても、神は、はたして人間とともに地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして私が建てたこの宮など、なおさらのことです。」ただ、聖霊が注がれていない旧約時代においては、神が自分たちとともに生きてくださるということイスラエルの民が実感するためのシンボルとして神殿建築をしただけのことです。また、人間は肉体を持つ者ですから、人間が集って礼拝するためには神殿が建物が必要でしたが、神ご自身にとっては雨に濡れるわけでもないので、神殿という建物は必要なかったのです。

 こういうわけで、神は肉体を持たない霊的実在ですから、エルサレムという場所だけでなければ礼拝できないお方ではないのです。神は、世界中にも、月面にも、アンドロメダの果てにもご臨在なさるお方です。ある宇宙飛行士が月面に立ったとき、身近に神の臨在を感じたと話していました。

 「神は霊である」ということの第二の意味は、神はご人格でいらっしゃるということです。人格であるというのは、知性と感情と意志をそなえた心をお持ちのお方であるということです。もちろん、神は、私たちのように有限で罪に汚れた知性と感情と意志をもつ人格的存在ではなくて、聖なる全知全能の人格でいらっしゃいます。人格であるというのは、心ある存在といえばよいでしょうか。神は私たちの心の奥に潜んでいるすべてのことさえもご存じである知性をもち、罪の染み一つない清く豊かな感情をお持ちになっておられ、この全宇宙の歴史を力強く支え運営して行く無限の強い意志を持つおかたです。

 私たちは、このようなお方の前で今日も礼拝をささげています。このような神の前にあることを意識するとき、どのように礼拝をすべきでしょう。

 

  • 御霊と真理において

 

それが、23,24節に繰り返されていることです。

23**,しかし、まことの礼拝者たちが、御霊と真理によって父を礼拝する時が来ます。今がその時です。父はそのような人たちを、ご自分を礼拝する者として求めておられるのです。

24**,神は霊ですから、神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません。」

(1)第三版までの「霊とまことによって」のメッセージ「真心こめて礼拝する」

新改訳第三版までは、「霊とまことによって礼拝する」と訳されていたところです。「霊」プネウマということば、「まこと」アレーテイアということばです。その翻訳の背景にある解釈は、「真心を込めて礼拝する」という解釈でした。今日でも、そのように翻訳されている聖書が英語でも数多くあります。これには、それなりの説得力があります。神は、知性と感情と意志を備えられた、心のある人格的なお方であるから、このお方に対しては形ばかり立派な形式主義的な礼拝ではなく、真心をもって礼拝を捧げなければならないという意味になるからです。イエス様の時代のエルサレムにおける神殿礼拝が、やたらと儀式ばかり立派ではあるけれど、偽善的なものに陥ってしまっていたことに対して、心が大事なのだとイエス様がおっしゃっているということになります。

それはそれで、とても大事なメッセージですから、「霊とまことによって礼拝する」という第三版までの翻訳も大事にしたいと思います。私たちも、心をこめた礼拝をささげるものでありましょう。

(2)御霊と真理において

 けれども、よくよくヨハネ福音書ギリシャ語で読んでみると、ヨハネ福音書のなかでは、「霊」と訳されてきたプネウマということばは、人間の霊のことを指しているのではなく、神の御霊を指していることがわかってきました。それで、プネウマにあてた「霊」という訳語は「御霊」と変更されました。つまり聖霊の中で礼拝するということです。

 また、「まこと」と訳されてきたアレーテイアということばが、人間の真実・誠実という意味のことばとしては用いられておらず、神の真理を意味することばであることがわかってきました。そこで、アレーテイアにあてた「まこと」という訳語は「真理」と変更されました。それで「御霊と真理において礼拝する」ということになったわけです。「よって」では手段になるので、むしろ、enは「において」と訳すべきでしょう。

 では、「御霊と真理において礼拝する」とは、どういう意味でしょう。まず「真理」についてです。イエス様がおっしゃったように、ユダヤ人たちは知って礼拝していました。つまり、彼らは旧約聖書という神の真理のことば基づいて礼拝をささげていたのです。私たちは、すでに二度にわたって旧約聖書から、礼拝にかんする真理を学びました。

 一回目はカインとアベルの記事からでした。カインは神様に指定されたのでない自己流礼拝をささげて退けられました、アベルは神様のさだめにしたがって、動物の犠牲をともなう礼拝をささげました。それは、イエス様の十字架の犠牲をあらかじめ指さすひな形でした。私たちはイエス様の十字架における贖いゆえに、神様の前に出て礼拝できるのだという真理を学びました。

 二回目は、十戒から礼拝に関する真理を学びました。①真の神のみを礼拝すること、 ②偶像は用いてはならないこと、③祈りと賛美で神の名を呼ぶときは愛と畏れをもって呼ぶこと、④安息日を重んじること、 ⑤~⑩そして、隣人と仲たがいしていたら仲直りしてから礼拝することです。

 私たちは、こうした真理に基づいて、父なる神に礼拝をささげるのです。これが真理による礼拝です。

 

(2)御霊の中で礼拝する

 次に、「御霊と真理による礼拝」の「御霊」についてです。「御霊」ということばは、前にさかのぼるとヨハネ福音書3章のニコデモとの対話に出てきます。主イエスは「人は水と御霊によって生まれなければ、神の国に入ることはできません。肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」(5,6節)とおっしゃいました。つまり、御霊によって新生した者こそが神の国に入り、神の国を見るとおっしゃるのです。

 そして、4章のサマリヤの女との対話の中でも、「わたしがあたえる水を飲む人は、いつまでも決して渇くことがありません。わたしが与える水はその人の内で泉となり、永遠のいのちへの水が湧き出ます。」(4:14)とおっしゃいまいた。この「永遠のいのちへの水」は御霊を意味しています。

 主イエスはこれらを受けて、「神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝する」時代が来る。その時代は今なのだ、つまり、キリストが来られた時代、新約時代なのだとおっしゃっているのです。ですから、御霊による礼拝とは、聖霊によって新しく生まれた者として、聖霊に満たされてささげる礼拝を意味しています。

 旧約最後の預言者洗礼者ヨハネはイエス様を紹介して、「聖霊と火をもってバプテスマを授けるお方だ」と言いました。そのことば通りに、イエス様が十字架の死と復活をもって私たちの罪を償った後、天に帰って着座して、ペンテコステのとき聖霊を教会に注いでくださいました。そうして、人は福音を受け入れて新しく生まれるようになりました。聖霊によって新しく生まれ、罪ゆるされた確信を持ちます。そして、神の子どもとして神様から愛されていることを知ることができます。こうして世界宣教が始まりました。

 たしかに旧約時代も、旧約聖書に基づいて、ユダヤ人は異邦人と違って天地万物の創造主を礼拝していました。けれども、イエス様が来て十字架で罪を償い、蘇られて天から御霊をくださるまでは、罪がゆるされたという確信と平安をもつことができませんでした。それで毎年毎年恐る恐るいけにえをささげました。けれども、新約の時代、神の御子が人として十字架にかかり、復活して天から聖霊をくださったので、私たちは、本当に神様の前に自分の罪が赦されたことを知り、神様の愛を知り、喜びと平安をもって礼拝をささげることができるのです。これが御霊と真理による礼拝です。

十戒:礼拝の原則

出エジプト記20章2‐17節

 

2019年4月7日 苫小牧主日礼拝

 

序  十戒の序文

 2節「わたしは、あなたをエジプトの地、奴隷の家から導き出したあなたの神、主である。」は十戒の序文です。アブラハムの子孫であるイスラエルの民は、エジプトに430年間も過ごしていました。そして、エジプトの習俗にも罪にも相当染まっていたようです。

 十戒が与えられたのは、エジプトにおいてではありませんでした。エジプトにおいて十戒を与え、「もし十戒を守ることができたら、エジプトから助けてやろう」と神様がおっしゃったわけではありません。そうではなく、神様は「わたしは、先祖アブラハムに対して結んだ約束があったから、その約束を守るために、あなたがたイスラエルの民をまずエジプトから救い出したのだよ」とおっしゃっているのです。恵みによって救い出したのだから、これからは、この十戒を守って、わたしを礼拝して共に生きるのだと神様は招いていてくださるのです。

 出エジプト記の3部構成からも、そのことは明らかです。

 第一部は1章から18章でエジプト脱出の経緯です。つまり神さまがモーセをもちいてどのようにイスラエルがエジプトからの脱出したかについて書かれています。

 第二部19章から24章までは律法です。つまり、どのように神様に従っていくかが書かれています。

 第三部25章から40章までは幕屋建設です。幕屋とは神様の家を意味していて、今でいう礼拝堂です。そこで神と神の民は出会うのです。

 アウトラインが教えていることは、神の民を礼拝の生活つまり神と共に生きる生活に招いていらっしゃるということであり、律法とは神とともに生きるためのガイドラインであるということです。その神の礼拝の民として生きるガイドラインである律法が要約されたのが、十戒でした。

 新約の時代の神の民である私たちについても、救いの順序は同じことです。神様は私たちが十戒を守って立派に生きているから「合格だ」といって、悪魔の支配から救い出してくださったわけではありません。そうでなく、まずイエス様の十字架と復活を根拠として恵みによって私たちを悪魔の支配から救ってくださいました。神さまは、恵みによって救われた私たちを、神と共に生きる礼拝の生活へと招いていてくださいます。その神と共に生きる礼拝の生活のガイドラインとして、十戒は今も役に立つものです。

 

 

1.第一戒  真の神のみを礼拝する

 

 礼拝において、一番目に大事なことは、天地万物の創造主である真の神のみを礼拝しなさいということです。3節「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。」

 日本人は長年の間、本当の神さまを知らないで来ました。でも、何かを恐れて生きることは大事なことなのだという宗教的感覚は持っていました。それで、とにかく何でもいいから信じることは大事なことなのだと考える人が多くなってしまったように思います。昔のうたに「なにごとにおはしますかはしらねども、かたじけなさに涙こぼるる」というのがあります。なんかよくわからないけれど、ただただありがたやというのです。けれども、第一の戒めは言います。「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。」天地万物を造られた父子聖霊の三位一体の神以外を、神として礼拝してはいけないのです。

 イスラエルの民のこのあとに続く歴史を見てみると、彼らは主なる神をすっかり忘れてしまったということはありませんでした。ずっと主なる神を礼拝してはいたのです。けれども、彼らは「主なる神のみ」を礼拝するのでなく、カナンの地にあった土俗のバアル、アシュタロテという男神、女神をも、真の神と並べて礼拝するようになりました。そして、神の怒りを買って、国は滅びてしまうのです。

 日本は多神教の世界で、八百万の神々が拝まれています。また世界は多元主義の時代とかいって、キリスト教もいいけど仏教もイスラム教も樽前神社もいい、オウム真理教以外なに信じていても天国に行けるという風潮があります。そうして、キリスト教は多くの宗教の一つであるというふうに、世間の人は思っています。だから、「キリストだけが救いです」というのは、とても偏狭な考え方であるとか排他的だと言って非難します。

 けれども、神の言葉である聖書はなんと言っていますか。イエス様はなんとおっしゃっていますか。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません。」(ヨハネ14:6)

また、使徒はこう言っています。

「この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人間に与えられていないからです。」(使徒4:12)

 私たちは、天地万物の造り主であり、唯一の救い主である、父子聖霊の三位一体の神のみを礼拝します。3節「あなたには、わたし以外に、ほかの神があってはならない。」

 

 

2 第二戒  礼拝に偶像を用いてはならない

 

 礼拝の第二の戒めは、4節から6節です。「4**,あなたは自分のために偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、いかなる形をも造ってはならない。5**,それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、主であるわたしは、ねたみの神。わたしを憎む者には父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、6**,わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。」

 命じられていることは、真の神に礼拝を捧げるにあたって、神の偶像を造ってもちいてはならないということです。神は見えない方だから、ぴんと来ない、ぐっと来ないから、立派な見える偶像を造って拝みたいというのです。

 この罪は、イスラエルの民が出エジプト記32章の中で犯しています。モーセが山に登ったまま帰ってこないものですから、イスラエルの民はモーセはもう死んでしまったに違いないということで、アロンに神の像を作ってくれと願います。アロンは、イスラエルの民に「あなたがたの妻や、息子、娘たちの耳にある金の耳輪を外して、私のところに持って来なさい。」と言い、,民はみな、その耳にある金の耳輪を外して、アロンのところに持って来たので、彼はそれを溶かして鋳型にはめて金の子牛の像を作って、これを礼拝させたのでした。そのとき、アロンは言いました。「イスラエルよ、これがあなたをエジプトの地から導き上った、あなたの神々だ。」新改訳2017がエロヒムをここで「神々」と訳したのは間違いでしょう。子牛像は一頭でした。アロンは、これが主なる神の像だといったのです。つまり、アロンは真の神を礼拝するにしても、イスラエルの民にはどうもぴんと来ないから、像を作ってみたわけです。この出来事は、主なる神の怒りを買うことになりました。

 旧約聖書にも契約の箱の上にケルビムという天使の像をつくることは神が求めたことですから、なんでも像を造ってはいけないというのではありません。そうでなく、神を現わすために像を作るなとおっしゃったのです。それは、どんなにたくみで美しく立派な偶像であっても、真の神を現わすことは決してできず、かえってけがすことになるからです。ですから、主なる神はことばでご自分のみ旨をあらわして、決して像を造るなとおっしゃるのです。

 新約聖書の時代、神様の御子が受肉され見える人として来られたので、むかしから画家たちは面長でひげを生やしたハンサムな青年としてイエス様を描きます。けれども、福音書を見ると、イエス様の背が高かったとか低かったとか、やせていたとか太っていたとか、ハンサムだったとかそうでなかったとか、髪の色、目の色がどうだったとか、ひげがあったとかなかったとかいうことは、一切書かれていません。不思議なほどです。聖書記者たちの中に、イエス様の見える姿については書いてはいけないという自覚があったのだと思います。だからイエス様の聖画像や彫像をもちいて礼拝することはしてはなりません。

 私たちは、神様がことばをもって啓示されたのですから、ことばをもって神様のことを知ることが大切なのだということをわきまえましょう。

 

3 第三戒  御名をみだりに用いてはならない

 

 礼拝に関する第三の注意点は7節、「あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない。主は、主の名をみだりに口にする者を罰せずにはおかない。」です。日本でも「名は体を表す」と言いますが、ヘブル思想でも名前は単なる記号ではなく、その名が示す本体を表すものとされています。実際、私たちの生活でも、名前と言うのはその本人を直に指し示すものですから、名前を侮辱するということは、本人を侮辱することになります。たとえば、あなたの家の壁に泥がくっつけられたのと、あなたの家の玄関のあなたの名前が書かれた表札に泥がべったりつけられたのとでは、まったく重みがちがうでしょう。あなたの名が書かれた表札にべったり泥がつけられると、自分の顔に泥をつけられたというふうに感じるものです。

 人の名前を取り上げて、それで遊ぶのもよくないことです。私は子どものときから、学年が変わるたびに担任の先生に「水臭いなあ」と言われてきましたが、言ってる側は面白いつもりかもしれませんが、言われている側は、愉快なものではありません。教師を軽蔑するようになっただけのことです。思い出すと、私も神学校時代の同級生の名前を読み替えて失礼なことを言って傷つけました。申し訳ないことをしました。

 土から造られた被造物にすぎない私たちですら、そうなのですから、まして、天地万物の聖なる創造主のお名前は大切にしなければなりません。私たちは軽々しく主のお名前を用いたりしないように注意しましょう。心を込めて、愛と畏れとをもって主の名を呼ぶことが大事です。

 礼拝の中で、神様のお名前を呼ぶ時と言うのは、特に、祈りと賛美歌を歌うときでしょう。「天のお父様」と呼び、「イエス様」と呼ぶとき、また「ハレルヤ」というときに、私たちは愛と畏れをもって呼ぶべきです。「ヤ」というのは、モーセに対して神様がお告げになったご自分の名ヤーウェのことです。賛美において、祈りにおいて、主の御名を心こめて呼ぶ者でありましょう。「あなたは、あなたの神、主の名をみだりに口にしてはならない。主は、主の名をみだりに口にする者を罰せずにはおかない。」積極的にいえば、「神様の名を呼ぶときには、愛と畏れと喜びをもって呼びなさい」です。

 

4 第四戒  安息日を覚える

 

 恵みによって救われた私たちは、礼拝に関して、第一にまことの神のみを礼拝すべきこと、第二に実感をこめて神を礼拝するためといって偶像を用いてはならないこと、主の御名を呼ぶときには敬虔な心で呼ぶべきことと学んできましたが、それが具体的な礼拝の生活となるのは、礼拝の日を神さまのものとして、他の六日間と取り分けることによってです。これを聖書のことばで聖別するといいます。

 安息日8**,安息日を覚えて、これを聖なるものとせよ。

9**,六日間働いて、あなたのすべての仕事をせよ。

10**,七日目は、あなたの神、主の安息である。あなたはいかなる仕事もしてはならない。あなたも、あなたの息子や娘も、それにあなたの男奴隷や女奴隷、家畜、またあなたの町囲みの中にいる寄留者も。

11**,それは主が六日間で、天と地と海、またそれらの中のすべてのものを造り、七日目に休んだからである。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖なるものとした。

 旧約時代は安息日は週の終わりの日とされていましたが、新約時代には、安息日はイエス様が復活なさった日を記念して、週の初めの日に移されました。使徒の働きを見ても、すでに、週の初めの日に礼拝をしていた様子はうかがえます。使徒パウロがトロアスを訪ねたときの記事です。

使徒20:7 「週の初めの日に、私たちはパンを裂くために集まった。」

 

5 第五~第十戒  隣人愛と神への愛

 

 そして、十戒の第五から第十の戒めは隣人愛に関する戒めです。

12**,あなたの父と母を敬え。あなたの神、主が与えようとしているその土地で、あなたの日々が長く続くようにするためである。**

13**,殺してはならない。**

14**,姦淫してはならない。**

15**,盗んではならない。**

16**,あなたの隣人について、偽りの証言をしてはならない。**

17**,あなたの隣人の家を欲してはならない。あなたの隣人の妻、男奴隷、女奴隷、牛、ろば、すべてあなたの隣人のものを欲してはならない。

 これらは私たちが神様にささげる礼拝と関係があるでしょうか。大いにあります。主イエスはおっしゃいました。

「 5:23 だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、 5:24 供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい。」(マタイ5:23,24)

 十戒の後半の罪を犯して、兄弟姉妹との関係に問題があるならば、そのままにして神様の前に礼拝をささげないで、仲直りしてから礼拝をささげるべきです。主イエスがおっしゃったように、隣人愛と神への愛とは密接不可分な関係があるのです。ペテロも、妻につらくあたっていると、神様は夫たちよ、あなたがたの祈りに神がきいて下さらないですよと警告しています(1ペテロ3:7参照)。

 

結び

 以上のように、私たちは礼拝の原則について学んできました。

序 私たちは、イエス様の血潮によりすがっている者として、礼拝の民に招かれました。

第一 まことの神のみを礼拝しなさい。ほかの神々をあわせ礼拝するな。

第二 神を実感して礼拝するためだといって偶像を用いてはいけない。

第三 祈りと賛美において、神様の名を呼ぶときには、愛と畏れと喜びをもって呼びなさい」。

第四 安息日の公の礼拝を大事にしなさい。

第五~第十 そして、隣人に恨まれていることを思い出したら、仲直りしてから礼拝すること。

 

 このあと私たちは月に一度の聖餐に与ろうとしていますが、その備えのときに、私たちは「自分を吟味しなさい」と聖書は勧めています。こうした自己吟味をして、神に喜ばれる礼拝をささげましょう。

 

 

神に受け入れられる礼拝

創世記4:1-7

2019年3月31日 苫小牧福音教会

 4:1 人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、【主】によってひとりの男子を得た」と言った。

 4:2 彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。

 4:3 ある時期になって、カインは、地の作物から【主】へのささげ物を持って来たが、

 4:4 アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た。【主】はアベルとそのささげ物とに目を留められた。

 4:5 だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。

 4:6 そこで、【主】は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。

 4:7 あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」

 

 

はじめに

 2019年度の教会のテーマは「礼拝」で、テーマ聖句はここに掲げましたように、「神を礼拝する人は、御霊と真理によって礼拝しなければなりません」です。それで、これから数回にわたって礼拝と言うテーマで聖書の解き明かしをして、神さまにさらに喜んでいただける礼拝をともに捧げてまいりたいと願います。

  聖書を正しく読む上で一番大事なことは、「主よ、お話しください。しもべは聞いています。」という祈り心です。祈り心なくして聖書はわかりません。聖書を読む上で第二に大事なことは、文脈をわきまえて読むことです。文脈とは、その本文の前後、創世記の中での位置、広くはモーセ五書また聖書全体の教えを考慮して読むことです。このカインとアベルの礼拝の記事は、聖書、特にモーセ五書における最初の礼拝の記事だという点は注目しておくべきことです。聖書的礼拝の大事な原則が教えられている可能性があると考えられるところです。

 このカインとアベルの礼拝の記事の近所の注目すべき文脈の一つ目は、3章からのつながりです。カインとアベルの父母が、神に背いて罪を犯したとき、彼らは罪深い裸を恥じていちじくの葉で腰覆いを自作しましたが、神は葉っぱの腰覆いに代えて、動物の血を流し犠牲にして作った皮衣を着せて彼らの裸の恥を覆ってくださいました。ここには「血を注ぎだすことがなければ、罪の赦しはない」(ヘブル9:22)という真理が現れています。このことを頭に置いて、きょうの御言葉に入っていきましょう。

 

1 原罪

 

4:1 人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、【主】によってひとりの男子を得た」と言った。 4:2 彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。

「産みの苦しみを増す」という神さまのことばのとおり、骨盤が割れるかと思うほどの苦しみをへてカインを産んだ時、エバは「私は主によってひとりの男子を得た!」と言いました。このことばは、先に神が彼女に与えた「女の子孫が蛇の頭を踏み砕く」(3:15)という主の約束が自分の出産によって成就するのだと彼女は期待して、生まれたわが子カインを胸に抱いたのです。

しかし、それは早合点でした。子どもたちが成長していくにつれ、互いに争ったり、意地悪をしたり、親にウソをついたり、反抗したりし始めたのです。自らを振り返ってみれば、子は親の鏡です。子どもたちの有様は、親であるアダムとエバ夫婦の姿でもありました。罪は、親から子へ、子から孫へ、孫からひ孫へと遺伝していきます。「原罪」です。人は、生まれながらに罪の性質を帯びて生まれてきます。ダビデはあのバテシェバ事件の後に、このように嘆いています。詩篇51篇5節

 51:5 ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。

 

2 アベルの捧げものは神に受け入れられ、カインの捧げものは拒否された

 

 さて、3節に「ある時期になって」成長したカインとアベルとは、主のへのささげ物を持ってきたとあります。彼らは父アダム、母エバから、幼いころから造り主である神様に対して礼拝をささげることを教わって育ってきたのでしょう。アダムとエバとは、自分たちが神のことばに背いて楽園を追放されてしまったこと、それにもかかわらず、神は救い主を到来させる約束を与え、動物の血を流して罪の恥を覆う衣を着せてくださったのだと、子どもたちに語って聞かせてきたわけです。神に礼拝をささげる父と母を、子供たちは見て育ってきたのです。 そして、今日、カインは大地を耕す農夫として、アベルは羊飼いとして、自立して働くようになって、いよいよ一人前の大人の礼拝者として神へのささげものをする、その時期が来たというのが、「ある時期になって」ということばの意味だと解されます。

 4:3 ある時期になって、カインは、地の作物から【主】へのささげ物を持って来たが、

 4:4 アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た。【主】はアベルとそのささげ物とに目を留められた。

 4:5 だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。

 

 なぜ神様はアベルのささげものは祝福して受け入れ、カインのささげものには目を留められなかったのでしょうか?三つの解釈があります。

 第一の解釈は、神がどの人間のささげものを受け入れるかどうかは、神の主権に属することであって、人間は云々すべきでないという説です。ヨブ記で義人がなぜ苦しまねばならないか?とか、ある者は神に選ばれある者は選ばれないのはなぜか?といったたぐいの人間にはわからないことと同じように考えるべきだというわけです。

 しかし、神の捧げ物として何がふさわしいのかということについて神が彼らに何も啓示していなかったとは文脈上、考えにくいのです。なぜなら、4章7節で、神はカインに対して「あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。」とおっしゃっているからです。神は、「カインよ。君は礼拝について正しいことは何かを知っていながら、あえて正しく行わなかったから受け入れないのだ」とおっしゃっているのです。 

 

 第二の解釈は、アベルは心を込めてささげたが、カインは心をこめないで、おざなりにささげたから、その態度が受け入れられなかったのだという説です。「チェーン式新改訳聖書」の脚注には、「主がアベルのささげ 物に⽬を留められたのは、ささげ物に対する彼の態度である」とあります。つまり、捧げ物としては、動物でも大地の作物でもよかったのだが、アベルの態度はよく、カインの態度がよくなかったのだという解釈です。新改訳聖書第一版から第三版までは翻訳が、ことさらにアベルの態度が良かったという印象を与えるものになっています。 第三版では次のように訳されています。

 「4:3 ある時期になって、カインは、地の作物から【主】へのささげ物を持って来たが、 4:4 アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た。【主】はアベルとそのささげ物とに目を留められた。」

 4節は口語訳聖書、文語訳聖書では単に「肥えたもの」とあるだけです。新改訳2017も「自分の羊の中から肥えたものを持ってきた」と普通の訳に改めています。聖書本文自体から、カインのささげた態度が悪かったと読み取ることは無理なでしょう。

  第三の解釈は、アベルは動物犠牲をささげたから受け入れられたが、カインは大地の産物をささげたから受け容れられなかったという理解です。これが正解でしょう。三つ根拠があります。

 一つ目の根拠は、そもそも創世記第4章に書かれていることで、両者の礼拝の単純明白な違いは、アベルのささげ物は羊であったのに対して、カインのささげ物は大地の産物であったという一点だけだということです。「カインは農夫だから農産物をささげるほかなかったじゃないか?」という人がいるかもしれません。そんなことはありません。カインは羊をささげるべきだと知っているなら、アベルに一言「肥えた羊を、農作物と交換して譲ってくれ。」と言えばよかっただけのことです。カインはあえて、そうしなかったのです。ここに彼の問題があります。

 第二の根拠は、カインとアベルは、罪のない動物の血が流されて自分たちの罪が覆われたという経験をした父と母に育てられて、礼拝の生活をしてきたはずだということです。彼らは「罪が赦されるためには血が流されなければならない」という原理に基づいた礼拝を幼いころから教えられてきたはずです。しかし、カインはあえて、神の求めに背いて、俺流のささげ物を神の前に持ってきたということになります。

 第三の根拠は、はじめに話したように、カインとアベルの捧げものの記事は、モーセ五書における最初の礼拝の記事であることです。ここには、私たちが礼拝において神に近づくための条件が表されています。それは、「血を注ぎだすことがなければ、罪の赦しはない」(ヘブル9:22)ということです。この後に出てくる、創世記における捧げ物の記事は、大洪水後のノアによる全焼のいけにえ、アブラハムが神の前にささげる全焼のいけにえで、いずれも血を注ぎだすささげものです。レビ記でも血を注ぎだす捧げものが求められています。

 

3.礼拝の根本原理

 

 本日の箇所から礼拝の根本原理を学びます。

(1)熱心でも自己流の礼拝はだめ

 礼拝に関して、私たちが心をこめることが大切なのはいうまでもありません。けれども、心さえこもっていれば俺流の礼拝でよいわけではないということです。私たちが心込めるべき点は、礼拝における神の定めに対して忠実であることについてです。これが聖書的な礼拝における規制原理です。カインの過ちは、神の定めた礼拝の原則を無視して、自己流の礼拝をささげたということにあります。カインは主の定めに背いて、「俺が畑で汗して作った作物だ。心をこめてささげるんだから、神が受け入れてくださるのは当然だ。」という思いで、大地の作物を捧げものとして差し出して、神に拒絶されたのでした。

 聖書の中には、他にも自己流の礼拝をささげて、神に打たれた人がいます。大祭司アロンの息子ナダブとアビフです。彼らはおそらく異教的な工夫をこらした異なる火を神の前にささげて、神の火に焼かれてしまいました(レビ10章)。やはり自己流礼拝のまちがいでした。

 神は、私たちの日常の行動については、私たちの自由裁量に相当まかせおられて、なすべきすべてが聖書に書かれているわけではありません。けれども、こと礼拝については、神は人間がさまざまな自己流のあるいは異教的な工夫を付け加えることを禁じています。「あなたがたは、私があなたがたに命じるすべてのことを、守り行わなければならない。これに付け加えてはならない。減らしてはならない。」(申命記12:32)というのが原則です。

 ウェストミンスター信仰告白は次のように述べています。

 「第21章 宗教的礼拝および安息日について

1 (前略)このまことの神を礼拝する正しい方法は、神ご自身によって制定され、またご自身が啓示したみ心によって制限されているので、人間の想像や工夫、またはサタンの示唆にしたがって、何か可視的な表現によって、または聖書に規定されていない何か他の方法で、神を礼拝すべきでない。

 

(2)血を注ぎだすことがなければ

 今日の箇所から聖書的礼拝の本質を学び取ることができます。神様は、アダム以来罪に落ちてしまった私たちの礼拝に関して、「血を注ぎだすことがなければ、罪の赦しはないのです。」(ヘブル9:22)という根本原理をお定めになっています。 旧約時代には牛や羊の動物犠牲が繰り返しささげられましたが、それらはイエス・キリストの十字架の犠牲という本体を指差す影でした(ヘブル10章)。新約時代には本体であるキリストの十字架の犠牲がささげられたので、もはや動物犠牲をささげる必要はなくなりました。

新約時代の私たちは、イエス様の十字架の死による贖罪を抜きにして、礼拝は成り立たないものであることを、覚えなければなりません。イエス様を抜きにして、私たちは父なる神に近づくことはできないのです。キリスト教信仰とは、近世のソッツィーニや近代の自由主義神学や、現代の彼らの亜流が言うように、「キリストの愛に満ちた生き方をまねして生きて行けば、世界は平和になりますよ」という道徳ではありません。キリスト教信仰とは、私たちが神と和解するためには、キリストの十字架の死と復活が必要不可欠であったと主張する代償的贖罪の信仰なのです。新約の時代の教会では、聖餐式がそれを明瞭に表しています。

 

結び

 聖書的な礼拝の根本原理。礼拝については、神がお定めになったことに、人間の勝手で足したり引いたりしてはならないということを本日まなびました。

 確かに、新約時代には、旧約聖書レビ記にしるされたような事細かな規定は廃止されましたが、旧約新約を通じて貫かれている礼拝の根本原理は、「血を流すことなしに罪は赦されない」ということです。旧約時代には、動物犠牲の血が流され、新約時代にはもろもろのいけにえの本体である主イエス・キリストが十字架で成し遂げられた贖罪のわざを根拠として、私たちは神に近づくことができるのです。

 「(キリストは)やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」(ヘブル9:12)

契約の神

Ex6

2019年3月10日 夕礼拝

 

 主の召しを受けても、さんざん躊躇していたモーセですが、主に兄アロンをスポークスマンとして付けるから大丈夫だと説得されて、ファラオのもとへと行きました。しかし、前回みたように、派遣された当初、モーセは神のことばをファラオを怒らせないように少々水増しして伝えるというありさまでした。

 ファラオは、お前たち怠け者の奴隷の神、主など知らない。そんな神のいうことを聞く気などまったくないという反応でした。あらかじめ主から、この結果については告げられていたことではありましたが、改めてその通りになって見ると、モーセとアロンはがっかりします。ファラオは、へブル人奴隷のレンガ造りの労働条件を理不尽に悪化させるというパワハラをします。意図したのは、モーセとへブル人たちの仲を裂こうということです。お前たち、モーセのいうことなど聞いていたら、よけいに生活は苦しくなるのだぞと身をもって知らしめようとしたのです。

 案の定、重労働でくたびれ果てていたへブル人たちはモーセとアロンに反発し、彼らを呪うようなことさえ口にします。それで、モーセはがっかりしてしまいます。こういう背景で、6章は始まります。

 

1 必要なのは忍耐 1節 

 

 がっかりしているモーセに対して、主は今一度、「今にわかるよ」となだめます。

1,主はモーセに言われた。「あなたには、わたしがファラオにしようとしていることが今に分かる。彼は強いられてこの民を去らせ、強いられてこの民を自分の国から追い出すからだ。」

 種を蒔いたら、翌日には花が咲き、その翌日には実がなるというものではないのですが、この段階のモーセはまだそのことを学んでいませんでした。作物を育てるといえば、地を耕して畑を作り、肥料をまいて、種を蒔いて水をやり、一週間ほどして芽が出て、カラスが食べに来るのを警戒しながら、草取り等を死ながら、忍耐していると、段々と茎が出て葉っぱが出て成長し、何か月かして花がようやく咲いて、それからしばらくすると実がなるものです。

「あなたがたが神のみこころを行って、約束のものを手に入れるために必要なのは」なんっですか?そう「忍耐です。」へブル10:36

 神のみこころを行なうことは種まき、種まきからいきなり収穫とはなりません。神のみこころを行なわなければ、約束のものが手に入ることがないのは事実ですが、神のみこころを行なったからといって、翌日約束のものが手に入るだけではありません。忍耐が必要です。目先の状況、人の反応にいちいちふらふらしないで、忍耐をもってコツコツと神の御心を行ない続けることが必要です。

 

2 契約の確認  2-9節

 

 そして、神は契約の内容をモーセに確認してくださいます。

(1)わたしは主である

2,神はモーセに語り、彼に仰せられた。「わたしはである。

3わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブ全能の神として現れたが、主という名では、彼らにわたしを知らせなかった。

 

 これを読んで、あれ?と思う人が多いでしょう。というのは、「主」という太字の名は、創世記の最初の方から出てくるからです。主の名を呼び始めたという表現は、セツ族の人々でも出てきました。では、ここで言う「主という名では知らせなかった」とはどういう意味なのでしょうか。「知らせる」というヘブル語のことばの意味は、単にヤーウェという名前だよということを意味するわけでなく、その名に含まれている深い意味を教えることはなかったという意味なのです。ヤーダーという動詞は、深い意味があるのです。

 ですから、ここで語られていることは、ユアハウェという神の名がこれまで全然用いられていなかったという意味ではありません。ただ、この神の名には特別の意味が含まれていることについては知らせていなかったという意味です。

 では「主」という名にはどういう意味があるのでしょう。それは主は全能の神であるだけでなく、民にお与えになった契約にどこまでも忠実なお方であり、神の民を救い出すお方であるという意味です。主という名と契約と言うことは、密接に結びついています。特に、「わたしは主である」という表現は特別のもので、モーセ五書で25回用いられていて、どの場合も、同じ「主は全能の神であるだけでなく、民にお与えになった契約にどこまでも忠実なお方であり、神の民を救い出すお方である」という思想と結びついているのです。みなさんも注意して読んでみてください。4節以降、契約の中身が出てきます。「契約を立てた」(4節)、「契約を思いい越した」(5節)と出てくるでしょう。

 

  • 契約の中身は3点あります

 先祖アブラハムへの契約の内容の一つは、カナンの地を与えるということです。

4**,わたしはまた、カナンの地、彼らがとどまった寄留の地を彼らに与えるという契約を彼らと立てた。

 先祖アブラハムへの契約の内容の第二は苦役から救い出すこと。

6**,それゆえ、イスラエルの子らに言え。『わたしは主である。わたしはあなたがたをエジプトの苦役から導き出す。あなたがたを重い労働から救い出し、伸ばされた腕と大いなるさばきによって贖う。**

 そして第三に、契約の主題はは7節前半です。

7わたしはあなたがたを取ってわたしの民とし、わたしはあなたがたの神となる。あなたがたは、わたしがあなたがたの神、主であり、あなたがたをエジプトでの苦役から導き出す者であることを知る。**

8わたしは、アブラハム、イサク、ヤコブに与えると誓ったその地にあなたがたを連れて行き、そこをあなたがたの所有地として与える。わたしは主である。』」

 

 なぜ、主題が7節前半とわかるかというと、次のキアスムスとなっているからです。

 A約束の地を与える、

 B苦役から救う、

 C神が彼らを民とし、神が民の神となる

 B苦役から救う、

 A約束の地を与える

 というキアスムスになっているので、波紋の中央にある神が彼らをご自分の民とするが中心テーマだとわかるわけです。天地万物の主、全能の神が、主という名を明らかにして、アブラハムに結んだ契約を今実行しようとしているのだとおっしゃるのです。

 けれども民は疲れ果て、心かたくなにしたのです。

 9モーセはこのようにイスラエルの子らに語ったが、彼らは失意と激しい労働のために、モーセの言うことを聞くことができなかった。

 

3 モーセの口下手、逃げ口上・・・聖書―神の契約の書

 

10-13 主はあらためて失意のモーセにパロに対する命令を下しますが、モーセは自分は口下手であると訴えるので、モーセだけでなくアロンに命令を下される。

10,主はモーセに告げられた。11「エジプトの王ファラオのところへ行って、イスラエルの子らをその国から去らせるように告げよ。」

12しかし、モーセは主の前で訴えた。「ご覧ください。イスラエルの子らは私の言うことを聞きませんでした。どうしてファラオが私の言うことを聞くでしょうか。しかも、私は口べたなのです。」

13,主はモーセとアロンに語り、イスラエルの子らをエジプトの地から導き出すよう、イスラエルの子らとエジプトの王ファラオについて彼らに命じられた。

 14-26は話の本筋から離れて、モーセとアロンが属するレビ諸氏族の系図がは注釈としてさみこまれています。筆者の意図は、26-27節を見るとわかるように、ファラオに対して主の御告げを伝えたモーセをアロンの来歴を紹介することです。26,このアロンとモーセに主は、「イスラエルの子らを軍団ごとにエジプトの地から導き出せ」と言われたのであった。

27,エジプトの王ファラオに向かって、イスラエルの子らをエジプトから導き出すようにと言ったのも、このモーセとアロンである。

 話の本筋からやや離れますが、ここで聖書という歴史の書の特徴を確認しておきましょう。聖書の特徴は出エジプトの立役者であるモーセさえも美化し英雄的に描くことをしないで、ありのままに描いているところです。

28,主がエジプトの地でモーセに語られたときに、

29主はモーセに告げられた。「わたしは主である。わたしがあなたに語ることをみな、エジプトの王ファラオに告げよ。」

30,しかし、モーセは主の前で言った。「ご覧ください。私は口べたです。どうしてファラオが私の言うことを聞くでしょうか。」

 モーセは主に召されて預言者とされたものの、臆病で引っ込み思案で、自分は到底そんな重責を担うことはできませんと何度も逃げ回っています。そうして逃げ回ったことが、何度も繰り返し記されています。こうしたところが聖書の特徴というか、聖書が神の言葉であるゆえんです。

 旧約聖書は、イスラエル国家の根幹をなすもので、表面的に見ると、世界の国々で政府が歴史書と同じようなものに見えます。国家というものは、歴史を編むにあたっては、その国家の正統性を擁護することを目的とし、その国の過去の指導者たちは美化されるものです。古代エジプトのある碑文には戦争に勝ったことは記録されていますが、負けたことは書かれていないといいます。私たちの国でいえば、古事記日本書紀がそうした歴史書で、8世紀前半に大和朝廷の正統性を示すものとして書かれました。現代でも国の歴史に何を記し、国民に何を教えるかについて議論があります。古代史では日本の歴史教科書と韓国の歴史教科書でおいてちがいがあります。現代史では天皇と日本政府と軍隊が何をしたかについて論争があります。安倍さんは「美しい国、日本」と言って、あったことをなかったことのようにして美化する歴史修正主義者たちです。国家による歴史の記述は、すこぶる政治的なものです。

 ところが、聖書は不思議なほどに人間を決して美化しません。モーセという最大の預言者であり、国家の土台にあたる人物も、聖書においては口下手を理由に主の召しから逃げ回る臆病者というわけで形無しです。旧約聖書は、国家の正統性を表し、美化するために編纂したものではないことが明白です。旧約聖書は、諸国の歴史書とはまるで異なっているのです。では、聖書とはなにか。聖書という書物の性格を一言で言えば、真実な主なる神がご自分の民に与えた契約の書なのです。私たちの神は、契約の神、主です。私たちに救いの契約を与え、与えた契約に対しては、どこまでも忠実に実行してくだわるおかたなのです。

 主イエスは最後の晩餐で新しい契約を結んで言われました。マタイ26章28節「これは多くの人のために、罪の赦しのために流される、わたしの契約の血です。」主は恵みによってご自分が流した契約の血の真実にかけて、私たちを赦し、私たちを救ってくださるのです。

 

 

 

 

 

神の価値観、この世の価値観

出エジプト5章

2019年2月28日 苫小牧夕拝

 

 1  モーセはまだ怖がっていた

 

 イスラエルの民に、神のみ旨を告げたところ、彼らは先祖アブラハムへの契約をおぼえていてくださり、彼らを顧みてくださった神に礼拝をささげました。そして、いよいよモーセはパロのところへ出かけてゆきます。

1**,その後、モーセとアロンはファラオのところに行き、そして言った。「イスラエルの神、主はこう仰せられます。『わたしの民を去らせ、荒野でわたしのために祭りを行えるようにせよ。』」

モーセが告げた主からの命令の趣旨は、主の前にれいはいをさせよということです。

するとパロは、なんで自分がヤーウェとやらの命令を聞かねばならないのだと反発します。彼は人に命令することはあっても、命令を受けることなどないのです。特に、エジプトの神々でなく、奴隷にすぎないイスラエル人の神の命令など聞く気はさらさらありません。

2**,ファラオは答えた。「主とは何者だ。私がその声を聞いて、イスラエルを去らせなければならないとは。私は主を知らない。イスラエルは去らせない。」

 パロの剣幕におそれをなしてしまったモーセは、次のようにパロに答えます。

3**,彼らは言った。「ヘブル人の神が私たちと会ってくださいました。どうか私たちに荒野へ三日の道のりを行かせて、私たちの神、主にいけにえを献げさせてください。そうでないと、主は疫病か剣で私たちを打たれます。」**

 

 少しおかしいですね。モーセは主のことばをそのまま伝えていません。4章23節を振り返ってみましょう。「わたしはあなたに言う。わたしの子を去らせて、彼らがわたしに仕えるようにせよ。もし去らせるのを拒むなら、見よ、わたしはあなたの子、あなたの長子を殺す。』」

 モーセは、パロには刺激が強すぎると思って、少しみことばを和らげて話してしまっているのです。モーセはまだ主のしもべに徹することができないでいると思われます。しかし、ここで彼を責めるのはよしましょう。神様も責めていらっしゃらないからです。この後、モーセはパロとの交渉を通じて、徐々に神のしもべ、神の預言者らしく、鍛えられていくことを期待しましょう。

 

 2  パロ、この世の王

 

(1)パロの俗的価値観

 ついでパロは、モーセたちの言うことを曲解して言います。

4**,エジプトの王は彼らに言った。「モーセとアロンよ、なぜおまえたちは、民を仕事から引き離そうとするのか。おまえたちの労役に戻れ。」**

5**,ファラオはまた言った。「見よ、今やこの地の民は多い。だからおまえたちは、彼らに労役をやめさせようとしているのだ。」**

 

 パロの解釈では、モーセとアロンは、単にイスラエルにサボる口実を与えようとしているにすぎないということです。神を礼拝することなど、労働者が仕事をサボるための口実に過ぎないのだというのが、権力者であるパロの価値観なのです。

 この箇所を読むと、私が神学生時代に、私の知り合いの牧師澤正彦牧師が起こした、「日曜日授業欠席処分取り消し訴訟」のことを思い出します。小学生の娘さんが日曜日に授業参観があったのですが、娘さんは日曜学校と礼拝に出ることを希望して、あらかじめ学校にその旨を知らせて授業参観には出ませんでした。すると学校は、この子を欠席処分にしたのです。

 これに対して原告両親は、時善意教会学校の宗教行事の参加させるため出席できない旨を各担任に通知すると共に、①公立学校は日曜日に授業すべきではない、②日曜日に授業を行う場合はあらかじめ父母、子どもに任意であることを伝え、出欠をとるべきではない、③日曜日授業は、教育法が保障している宗教教育の自由をおかすものである、との要請を出していた。しかし授業は行われ、欠席とされたので、欠席の取り消しと損害賠償を校長、東京都に請求した。」のでした。

 けれども、学校も裁判所も、これを認めませんでした。神を礼拝することなど、学校をサボる口実にすぎない。神を礼拝することなど、たいした価値のない私的なことにすぎないという価値観が、日本社会の法廷と学校の価値観だということなのでしょう。それで、私はこの出エジプト記5章を読むと、あの裁判を思い出すのです。しかし、天地万物を造り、日々私たちのいのちを支えてくださった神様に感謝をささげ礼拝することほど公的で重要な務めは、ほかにはありません。

 「人間の主な目的はなんであるか?」といえば、「それは神を礼拝し、神を永遠によろこぶ」ことなのですから。その神礼拝のためにこそ、日々の仕事もあるのです。神をあがめることが目的であり、仕事その他の営みはその手段なのです。神礼拝に仕事が勝るという考えは、偶像礼拝にほかなりません。そして偶像化された仕事は、人を苦しめ不幸にしてしまいます。

 

(2)パロのパワハラ

 そして、パロは嫌がらせをします。6節から9節まで。

 6**,その日、ファラオはこの民の監督たちとかしらたちに命じた。**

7**,「おまえたちは、れんがを作るために、もはやこれまでのように民に藁を与えてはならない。彼らが行って、自分で藁を集めるようにさせよ。**

8**,しかも、これまでどおりの量のれんがを作らせるのだ。減らしてはならない。彼らは怠け者だ。だから、『私たちの神に、いけにえを献げに行かせてください』などと言って叫んでいるのだ。**

9**,あの者たちの労役を重くしたうえで、その仕事をやらせよ。偽りのことばに目を向けさせるな。」**

10**,そこで、この民の監督たちとかしらたちは出て行って、民に告げた。「ファラオはこう言われる。『もうおまえたちに藁は与えない。**

11**,おまえたちはどこへでも行って、見つけられるところから自分で藁を取って来い。労役は少しも減らすことはしない。』」**

12**,そこで民はエジプト全土に散って、藁の代わりに刈り株を集めた。**

13**,監督たちは彼らをせき立てた。「藁があったときのように、その日その日の仕事を仕上げよ。」**

14**,ファラオの監督たちがこの民の上に立てた、イスラエルの子らのかしらたちは、打ちたたかれてこう言われた。「なぜ、おまえたちは決められた量のれんがを、昨日も今日も、今までどおりに仕上げないのか。」**

15**,そこで、イスラエルの子らのかしらたちは、ファラオのところに行って、叫んだ。「なぜ、あなた様はしもべどもに、このようなことをなさるのですか。**

16**,しもべどもには藁が与えられていません。それでも、『れんがを作れ』と言われています。ご覧ください。しもべどもは打たれています。でも、いけないのはあなた様の民のほうです。」**

17**,ファラオは言った。「おまえたちは怠け者だ。怠け者なのだ。だから『私たちの主にいけにえを献げに行かせてください』などと言っているのだ。**

18**,今すぐに行って働け。おまえたちに藁は与えない。しかし、おまえたちは決められた分のれんがを納めなければならない。」**

 

 これは典型的なパワーハラスメントですね。職場のパワーハラスメントとは、「職務上の地位や人間関係などの職場内での優位性を背景に、業務の適正な範囲を超えて、精神的・身体的苦痛を与える又は職場環境を悪化させる行為を」のことです。まさしく、これですね。パロは、真の神様を礼拝をしたいという人間としての当然の権利の主張に対して、パワハラで応じたのでした。

 経済第一主義といいますか、マモニズムといいますか、そういうものにパロの頭と心は一杯で、神様を礼拝することなどくそくらえというような状態でした。そして、自分こそ最高権力者であると自負していたのに、自分に対して命令をする「神」という存在に我慢がならなかったのです。パロはこの世の権力者の陥りがちな典型的な醜い姿です。パロの愚かなプライドは、自らとエジプトの民に災いを招くことになります。

 

3   イスラエルの民の反応

 

 イスラエルの民は、こうした事態の中でどのように反応したでしょうか。モーセとともに堅く信仰に立ったでしょうか。そうではありませんでした。こんな結果になったことについて、モーセとアロンをなじったのでした。

19**,イスラエルの子らのかしらたちは、「おまえたちにその日その日に課せられた、れんがの量を減らしてはならない」と聞かされて、これは悪いことになったと思った。**

20**,彼らは、ファラオのところから出て来たとき、迎えに来ていたモーセとアロンに会った。**

21**,彼らは二人に言った。「主があなたがたを見て、さばかれますように。あなたがたは、ファラオとその家臣たちの目に私たちを嫌わせ、私たちを殺すため、彼らの手に剣を渡してしまったのです。」

 

 ほんの少し前には、モーセとアロンから主の啓示を聞いて、奇跡まで見せてもらって、主をあがめたのに、試みに遭わせられると途端にこんなことを言うのが忘恩の民イスラエルでした。こうした様子はこのあとも何度も何度も繰り返されます。無理もないといえばそうなのかもしれませんが、同情ばかりしているわけにはいきません。みなさんは同じ過ちを犯さないように、彼らイスラエルの民を反面教師としていただきたいと思います。「あなたがたの指導者たちの言うことを聞き、また服従しなさい。この人たちは神に申し開きをする者として、あなたがたのたましいのために見張りをしているのです。ですから、この人たちが喜んでそのことをし、嘆きながらすることにならないようにしなさい。そうでないと、あなたがたの益にはならないからです。」(ヘブル13:17)

 神様と民の間にはさまれたモーセとアロンを見ると、なんだか中間管理職の悲哀のようなものを感じます。モーセは、民のために、主の前に嘆くのです。

22**,それでモーセは主のもとに戻り、そして言った。「主よ、なぜ、あなたはこの民をひどい目にあわせられるのですか。いったい、なぜあなたは私を遣わされたのですか。**

23**,私がファラオのところに行って、あなたの御名によって語って以来、彼はこの民を虐げています。それなのに、あなたは、あなたの民を一向に救い出そうとはなさいません。」

 

結び

 

 主から召しを受け、使命をいただいて遣わされたモーセですが、まだ腹がすわっておらず、パロのことを恐れていました。これからモーセは鍛えられていくのです。神様は忍耐をもって、私たちの人生を導き、神の役に立つ器へと造り変えていってくださるお方です。

 この世の価値観、経済第一主義、マモニズムの背景には、サタンがうごめいているものです。私たちは揺るぐことなく、

「問 人間の主な目的はなんであるか? 

答え 人間の主な目的は、神を礼拝し、神を永遠によろこぶことである。」

という告白をもって生きてまいりましょう。