水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

ただ神にのみ栄光を(Soli Deo Gloria)

2列王22章 
2017年9月 JECA北海道 第2回目メッセージ   ツヴィングリ
 
 宗教改革のスローガンといえば、まずは、ドイツの宗教改革では、「Sola Scriptura、聖書のみ」「Sola Gratia恵みのみ」「Sola Fide信仰のみ」です。スイスの宗教改革は、それに加えて、「Soli Deo Gloria」つまり、「ただ神にのみ栄光を」となります。第二回目のお話は、このことについて、列王記のヨシヤ王による改革。

 

1.神殿修理を志す

  2列王22:2 「彼は【主】の目にかなうことを行って、先祖ダビデのすべての道に歩み、右にも左にもそれなかった。」

 ヨシヤ王は、この2節に要約されるような、たいへん神に忠実な人でした。その生涯の事跡を見るならば、「先祖ダビデ」以上に右にも左にもそれることのなかった、まじめで立派な人物であったことがわかります。彼が王に即位したのは、わずか8歳のときのことでした。

 ヨシヤ王が8歳で王となったとはいえ、8歳の子どもに王としての務めが果たせるはずもありませんから、彼が長じるまでは、側近の人々、摂政にあたる者が強力な助言者となって政治を進めたものと思われます。18歳になったヨシヤ自身が実力をもって、王として行った最初のことが次に記されています。

  同22:3 「ヨシヤ王の第十八年に、王はメシュラムの子アツァルヤの子である書記シャファンを【主】の宮に遣わして言った。『大祭司ヒルキヤのもとに上って行き、【主】の宮に納められた金、すなわち、入口を守る者たちが民から集めたものを彼に計算させ、・・・宮の破損の修理をさせなさい。』」
 ヨシヤ王が明確に自らの意思で行なおうとしたことの第一は、経済でも軍事でもなく、宮の修理でした。ヨシヤの意識のなかに、真の神への礼拝こそ、この国の心臓部であるという認識があったからでしょう。エルサレム神殿は、長年、補修もされることなく放置され荒れ放題になっていたのです。ヨシヤ王の前は父アモン、アモン王の前は祖父マナセ王であり、いずれも神にそむいた悪い王でした。格別、マナセ王はヤロブアム以来の偶像にまみれた悪しき王でした。


同21:3-6「 彼は、父ヒゼキヤが打ちこわした高き所を築き直し、バアルのために祭壇を立て、イスラエルの王アハブがしたようにアシェラ像を造り、天の万象を拝み、これに仕えた。彼は、【主】がかつて、「エルサレムにわたしの名を置く」と言われた【主】の宮に、祭壇を築いたのである。こうして、彼は、【主】の宮の二つの庭に、天の万象のために祭壇を築いた。また、自分の子どもに火の中をくぐらせ、卜占をし、まじないをし、霊媒や口寄せをして、【主】の目の前に悪を行い、主の怒りを引き起こした。云々・・・」


マナセ王の悪業は21章16節に要約されています。

「マナセは、ユダに罪を犯させ、【主】の目の前に悪を行わせて、罪を犯したばかりでなく、罪のない者の血まで多量に流し、それがエルサレムの隅々に満ちるほどであった。」

 こんなありさまでしたから、アシェラとかバアルの神殿ばかりが、毒々しい色ににぎにぎしく飾り立てられて栄え、他方、まことの天地万物の創造主の神殿はまるで顧みられないという状態であったのです。このことに若きヨシヤ王は胸をいためました。ヨシヤはまことの神をないがしろにしてはいけないではないかと思いました。この時点において、ヨシヤが偶像をすべて捨てることまで考えていたかどうかは、わかりません。ただ、主の宮が顧みられないでいることに心痛めたので、神殿の修理を思い立ったのです。

しかし、この神殿修理が大きな出来事を引き出すことになります。

 

2.律法の書の発見
 
さて、エルサレム神殿を修理するために内部の調査をしていた大祭司ヒルキヤは、神殿で古ぼけた巻物を発見しました。開いてみると、それは律法の書です。今、私たちがいう申命記です。律法の書は大祭司から書記シャファンへ、そして書記シャファンは、王の命令にしたがったことを報告してから、王の前でこの律法の書を読み上げたのです。すると、ヨシヤ王は、衝撃を受けて衣を引き裂いたのです(22:11)。
 なぜ、王は衣を引き裂いたのでしょうか。それは律法の書が教えている神の戒めを、今自分が王として治めているユダの国がことごとく破っており、このままでは、早晩、神の裁きがこの国にくだることは火を見るよりも明らかだったからです。申命記5章には十戒が記されています。

 

「わたしは、あなたをエジプトの国、奴隷の家から連れ出した、あなたの神、【主】である。あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。あなたは、自分のために、偶像を造ってはならない。上の天にあるものでも、下の地にあるものでも、地の下の水の中にあるものでも、どんな形をも造ってはならない。それらを拝んではならない。それらに仕えてはならない。あなたの神、【主】であるわたしは、ねたむ神、わたしを憎む者には、父の咎を子に報い、三代、四代にまで及ぼし、わたしを愛し、わたしの命令を守る者には、恵みを千代にまで施すからである。・・・」

 

 


 律法の書はこのように命じていましたが、エルサレムと南ユダ王国全土は、アシェラ像、バアル像で満ち、高きところで行われる偶像崇拝も民を汚染していました。まことの神はあなどられ、その安息日は軽んじられ、偶像の宮ばかりが栄えていたのです。
 そして、律法の書はイスラエルが神に背くならば、神はかならずやこの国に恐ろしい裁きをくだされるという警告をしていたのです。これは28章に詳しく記されています。抜粋してみましょう。


「もし、あなたが、あなたの神、【主】の御声に聞き従わず、私が、きょう、命じる主のすべての命令とおきてとを守り行わないなら、次のすべてののろいがあなたに臨み、あなたはのろわれる。あなたは町にあってものろわれ、野にあってものろわれる。あなたのかごも、こね鉢ものろわれる。あなたの身から生まれる者も、地の産物も、群れのうちの子牛も、群れのうちの雌羊ものろわれる。あなたは、入るときものろわれ、出て行くときにものろわれる。【主】は、あなたのなすすべての手のわざに、のろいと恐慌と懲らしめとを送り、ついにあなたは根絶やしにされて、すみやかに滅びてしまう。これはわたしを捨てて、あなたが悪を行ったからである。(中略)
かつて【主】があなたがたをしあわせにし、あなたがたをふやすことを喜ばれたように、【主】は、あなたがたを滅ぼし、あなたがたを根絶やしにすることを喜ばれよう。あなたがたは、あなたが入って行って、所有しようとしている地から引き抜かれる。【主】は、地の果てから果てまでのすべての国々の民の中に、あなたを散らす。あなたはその所で、あなたも、あなたの先祖たちも知らなかった木や石のほかの神々に仕える。これら異邦の民の中にあって、あなたは休息することもできず、足の裏を休めることもできない。【主】は、その所で、あなたの心をおののかせ、目を衰えさせ、精神を弱らせる。あなたのいのちは、危険にさらされ、あなたは夜も昼もおびえて、自分が生きることさえおぼつかなくなる。」

 これが朗読されたのを聞いたヨシヤ王が衣を引き裂いたのは当然でした。「私たちは、主なる神の前にとんでもない犯してしまった、このままでは神の怒りがこの国に下る日は近い。ただちに悔い改めなければならない。」とヨシヤ王は決心したのです。
ヨシヤとしては、とりあえず神殿の修理をしなければ、と思ってはじめたことですが、そこで見出された神のことばに押し出されて、彼は行動を始めるのです。

 

3.みこころを求めて、長老たちにも律法を周知する

 そこで、ヨシヤ王はこの律法に背いた民に対する主のみこころを求めました。女預言者フルダという人物に、主のみこころを尋ねさせたのです。律法の書が発見され、自分なりの理解では神の怒りはこの国に燃え上がり、このままでは早晩その裁きが下ると思われましたが、やはり適切な専門家に確認してみるべきであると判断したヨシヤでした。


22:12 「王は祭司ヒルキヤ、シャファンの子アヒカム、ミカヤの子アクボル、書記シャファン、王の家来アサヤに命じて言った。『行って、この見つかった書物のことばについて、私のため、民のため、ユダ全体のために、【主】のみこころを求めなさい。私たちの先祖が、この書物のことばに聞き従わず、すべて私たちについてしるされているとおりに行わなかったため、私たちに向かって燃え上がった【主】の憤りは激しいから。』
彼女は彼らに答えた。「イスラエルの神、【主】は、こう仰せられます。『あなたがたをわたしのもとに遣わした人に告げよ。
【主】はこう仰せられる。見よ。わたしは、この場所とその住民の上にわざわいをもたらす。ユダの王が読み上げた書物のすべてのことばを成就する。
彼らはわたしを捨て、ほかの神々に香をたき、彼らのすべての手のわざで、わたしの怒りを引き起こすようにした。わたしの憤りはこの場所に燃え上がり、消えることがない。』
【主】のみこころを求めるために、あなたがたを遣わしたユダの王には、こう言わなければなりません。『あなたが聞いたことばについて、イスラエルの神、【主】は、こう仰せられます。
あなたが、この場所とその住民について、これは恐怖となり、のろいとなると、わたしが言ったのを聞いたとき、あなたは心を痛め、【主】の前にへりくだり、自分の衣を裂き、わたしの前で泣いたので、わたしもまた、あなたの願いを聞き入れる。──【主】の御告げです──
それゆえ、見よ、わたしは、あなたを先祖たちのもとに集めよう。あなたは安らかに自分の墓に集められる。それで、あなたは自分の目で、わたしがこの場所にもたらすすべてのわざわいを見ることがない。』」彼らはそれを王に報告した。」

 女預言者フルダから返された主のことばの内容は微妙なものでした。というのは、この罪を悔いたヨシヤ王にかんしては、よいことが告げられましたが、ユダ王国全体については、さばきがないとは云われませんでした。

 そこで、ヨシヤ王はユダ王国の民全体に悔い改めをさせるために、民の長老たちを一人残らず集めて、彼らに律法の書を朗読して聴かせることにしたのです。この宗教改革への思いを自分ひとりの中で持っているのではなく、民全体が共有しなければならないと考えたからです。

 「すると、王は使者を遣わして、ユダとエルサレムの長老をひとり残らず彼のところに集めた。王は【主】の宮へ上って行った。ユダのすべての人、エルサレムの住民のすべて、祭司と預言者、および、下の者も上の者も、すべての民が彼とともに行った。そこで彼は、【主】の宮で発見された契約の書のことばをみな、彼らに読み聞かせた。それから、王は柱のわきに立ち、【主】の前に契約を結び、【主】に従って歩み、心を尽くし、精神を尽くして、主の命令と、あかしと、おきてを守り、この書物にしるされているこの契約のことばを実行することを誓った。民もみな、この契約に加わった。」

 

 

 

5.改革実行

(1)偶像破壊


  23:4 それから、王は大祭司ヒルキヤと次席祭司たち、および、入口を守る者たちに命じて、バアルやアシェラや天の万象のために作られた器物をことごとく【主】の本堂から運び出させ、エルサレムの郊外、キデロンの野でそれを焼き、その灰をベテルへ持って行った。
23:5 彼はまた、ユダの王たちが任命して、ユダの町々やエルサレム周辺の高き所で香をたかせた、偶像に仕える祭司たちを、また、バアルや太陽や月や星座や天の万象に香をたく者どもを取り除いた。
23:6 彼は、アシェラ像を【主】の宮から、エルサレムの郊外、キデロン川に運び出し、それをキデロン川で焼いた。彼はそれを粉々に砕いて灰にし、その灰を共同墓地にまき散らした。
23:7 さらに、彼は【主】の宮の中にあった神殿男娼の家をこわした。そこでは、女たちがアシェラ像のための蔽いを織っていたからである。
23:8 彼はユダの町々から祭司たちを全部連れて来て、ゲバからベエル・シェバに至るまでの、祭司たちが香をたいていた高き所を汚し、門にあった高き所をこわした。それは町のつかさヨシュアの門の入口にあり、町の門に入る人の左側にあった。
23:9 高き所の祭司たちは、エルサレムの【主】の祭壇に上ることはできなかったが、その同輩たちの間で種を入れないパンを食べた。
23:10 彼は、ベン・ヒノムの谷にあるトフェテを汚し、だれも自分の息子や娘に火の中をくぐらせて、モレクにささげることのないようにした。
23:11 ついで、ユダの王たちが太陽に献納した馬を、前庭にある宦官ネタン・メレクの部屋のそばの【主】の宮の入口から取り除き、太陽の車を火で焼いた。
23:12 王は、ユダの王たちがアハズの屋上の部屋の上に造った祭壇と、マナセが【主】の宮の二つの庭に造った祭壇を取りこわし、そこから走っていって、そして、その灰をキデロン川に投げ捨てた。
23:13 王は、イスラエルの王ソロモンがシドン人の、忌むべき、アシュタロテ、モアブの、忌むべきケモシュ、アモン人の、忌みきらうべきミルコムのためにエルサレムの東、破壊の山の南に築いた高き所を汚した。
23:14 また、石の柱を打ち砕き、アシェラ像を切り倒し、その場所を人の骨で満たした。
  23:15 なお彼は、ベテルにある祭壇と、イスラエルに罪を犯させたネバテの子ヤロブアムの造った高き所、すなわち、その祭壇も高き所もこわした。高き所を焼き、粉々に砕いて灰にし、アシェラ像を焼いた。


(2)過ぎ越し祭り復興
 ヨシヤ王が行った改革の積極面は、過ぎ越しの祭りを律法に書かれているとおりに復興したということです。私たちは驚いてしまうのですが、過越しのいけにえというもっとも中心的ないけにえ、・・・今でいうと聖餐式が、それまでまともに守られたことは、一度もなかったというのです。

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  23:21 王は民全体に命じて言った。「この契約の書にしるされているとおりに、あなたがたの神、【主】に、過越のいけにえをささげなさい。」
23:22 事実、さばきつかさたちがイスラエルをさばいた時代からこのかた、イスラエルの王たちとユダの王たちのどの時代にも、このような過越のいけにえがささげられたことはなかった。
23:23 ただ、ヨシヤ王の第十八年に、エルサレムでこの過越のいけにえが【主】にささげられただけであった。
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 ヨシヤ王による宗教改革は、このように、発端は18歳になった王が神殿修理を思い立ったことでした。ところが、そこで律法の書が発見されて、朗読され、王が衣を引き裂いて悔改めたということによって急速に自体は展開し、偶像礼拝の破棄と、まことの過越しの祭りの実施へと進んだのでした。
 しかし、残念ながら、ヨシヤ王は志半ばにして戦死してしまうのです。このヨシヤ王の宗教改革と最期を読むとき、私はスイス・チューリッヒ宗教改革者フルドライヒ・ツヴィングリを思い出すのです。


6.適用 チューリヒのツヴィングリ・・・宗教改革の徹底

 宗教改革といえば、ドイツのルターが1517年に始めたことが特に有名ですが、ルターと同世代に神様はフルドライヒ・ツヴィングリという人物を、スイス・チューリッヒに起こされました。彼のことを紹介します。その宗教改革は、「聖書のみ」「信仰のみ」であるという根本原理はルターと同じです。当時の教会は聖書から離れて、迷信化したもろもろの儀式を行ない、その儀式に参与することによって救われると教えていました。特に免償状を買ったら、その献金がチャリーンと献金箱に落ちたとき、煉獄のたましいが天国に行くなどと教えていました。こんなことは聖書のどこにも書かれていません。
 こうしたことに、ツヴィングリは反対し、教会は聖書のみに立つべきであり、聖書は人は信仰のみによってこそ救われると教えていることを告げました。ただ、彼の場合、教会改革とともに熱心に偶像を排除し社会改革にも積極的に取り組もうとした点に特徴がありました。ルターは聖書が禁じていないならば、教会のもろもろの習慣はまあよいとしていたのですが、ツヴィングリはこと礼拝にかんしては聖書が定めていることのみをすべきだという原理に立ちました。そして、同時にチューリッヒ市当局にも積極的に働きかけて社会改革を進めたのです。同じ路線では彼を先駆者として、後にカルヴァンが起こされます。この宗教改革の流れを改革派といいます。
 ツヴィングリは、1506年グラールスの司祭となり、従軍司祭としてイタリア戦争の悲惨を経験します。1513年から人文主義運動に参加し、ギリシャ語・ヘブル語で聖書を研究し説教をすることを通して聖書中心的な思想を固めていくのです。人文主義は、ルネサンスにおける古典原典に立ち返れという学問的運動です。当時のヨーロッパ世界では学問はラテン語が用いられておりました。聖書もラテン語訳聖書が公認聖書とされて、その翻訳を根拠として教会は神のことばから離れたことを教える向きもありました。そこで、ツヴィングリは聖書をギリシャ語・ヘブル語本文に立ち返って、正確に読み取って、説教することを始めたのです。マタイ福音書1章1節からの連続講解説教です。そうして、聖書の示す道からはなはだしく外れてしまったローマ教会を批判するようになってゆきますが、なお彼はその改革に立つほどの覚悟はありませんでした。

 ところが、1519年、転機が訪れます。チューリヒの司祭となっていた一五一九年にペストにかかって死線をさまよう経験をしたのです。このとき、次のような詩を書いています。

 
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   ペストの詩[ 原典宗教改革史pp235-236](病の始まりのとき)  
助けたまえ、主なる神よ、助けたまえ、この苦しみから。
死は間近に迫っております。
私のそばにお留まりください、基督さま、あなたは死を克服されたのですから。
(中略)
けれども、あなたの命令で人生の最盛期に、死がやってくるのであれば、
ただただそれに従います。あなたの望まれるようになさってください、委細構わずに。
私はあなたの器であり、作るも壊すも自由になさってください。
私の魂をこの世界から奪うのであれば、世界がこれ以上悪くならないように、
他の人々の敬虔で明るい生活が汚されることがないようになさってください。
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 ペストは不治の病でした。そのペストが癒されたとき、ツヴィングリは神が自分を教会改革に召しておられることを確信し、立ち上がりました。ツヴィングリは勇気を出して、聖書に書かれていないローマ教会の迷信的なプログラムや偶像礼拝を徹底的に排除することを始めました。ツヴィングリによる改革は修道院解散、ミサの廃止とプロテスタント化、教会堂内の聖像・聖画の追放、さらに貧民救済・教育機関の設置など実際的なことに及び、チューリヒ市の政治的問題にも積極的に発言しました。ツヴィングリにとって、信仰生活と政治や日常生活は不可分のものであり、生活の全領域を神の主権の下に置こうとしたのです。Soli DEo Gloriaです。
ツヴィングリのなかで、政治と教会の区別は截然とはしていませんでした。カトリック勢力に立つ町々と、プロテスタント主義に立つ町々が戦争となりました。牧師がその戦いに自ら立つことは珍しいことでしたが、ツヴィングリは自ら剣を取って立ち、乱戦のうちに戦死したのです。

 

結び
 ツヴィングリの宗教改革は、古代ユダ王国のヨシヤ王による改革を彷彿とさせるものがあります。偶像の徹底排除と社会改革への取り組みがその特徴でした。ですが、反面、教会と政治の区別というものが明瞭ではなかったというのが、彼の改革の問題点であると一般に指摘されます。ツヴィングリは、志半ばにして、自ら剣を取って戦争に加わり、戦死してしまいました。そんなところまで、志半ばに戦地にたおれたヨシヤと重なるところがあるのです。
 彼の働きはこのあとブリンガーという改革者に引き継がれ、さらにジュネーブで改革をしていたカルヴァンたちの働きと合流していくことになります。このスイスの宗教改革運動は、改革派と呼ばれることになります。その理念は、「改革された教会は常に改革されなければならない (Ecclesia reformata semper reformanda.)」です。
 宗教改革とて人間のしたことですからもちろん欠けもあるのです。しかし、過去の先達を批判するのはたやすいことです。私たちとしては自分たちの教会の、また日常生活のなかから偶像を排除し、生活の全領域で聖書にしたがって、神の栄光をあらわすという点、このスイスの宗教改革者に学びたいと思うのです。スイス宗教改革のスローガンは、「聖書のみ」「信仰のみ」に加えて「ただ神にのみ栄光を」「改革された教会は常に改革されなければならない」です。

高い地位にある人々のために祈る

2:1 そこで、まず初めに、このことを勧めます。すべての人のために、また王とすべての高い地位にある人たちのために願い、祈り、とりなし、感謝がささげられるようにしなさい。 2:2 それは、私たちが敬虔に、また、威厳をもって、平安で静かな一生を過ごすためです。 2:3 そうすることは、私たちの救い主である神の御前において良いことであり、喜ばれることなのです。

2:4 神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。
2:5 神は唯一です。また、神と人との間の仲介者も唯一であって、それは人としてのキリスト・イエスです。 2:6 キリストは、すべての人の贖いの代価として、ご自身をお与えになりました。これが時至ってなされたあかしなのです。(1テモテ2:1-5)

 

 エペソ教会の牧会者テモテは、まず王とすべての高い地位にある人たちのために祈るべきだった。それは、キリスト教会が神を畏れて平安な一生をすごすためだった。権力者が悪魔の誘惑によって暴走するならば、キリスト者を弾圧し敬虔で平安な一生をすごすことが出来なくなってしまう。だから彼らが悪魔の影響から脱するように祈らねばならない。
 権力者たちのために祈ることは、「良いことであり、神に喜ばれること」とは思えない状況が初代教会にはあったのだろう。権力者はキリスト者たちを弾圧し、伝道者を逮捕していたから、権力者は悪魔の手先であるという意識を多くのキリスト者たちも抱かざるをえなかったのかもしれない。事実、権力者が悪魔の手先としてふるまうことは往々にしてあることだとは、黙示録13章など聖書が教えていることである。
 しかし、権力ある立場にある人々もまた滅び行くみじめな罪人たちであり、神は彼らも「救われて真理を知る」ようにと望んでおられる。4節、5節で「すべての人」というのは、こうした文脈からいうならば、「庶民だけでなく悪魔の手先にされている王や高い地位にある人々も含めて」という意味である。つまり、ここにいう「すべての人」とは「身分の低い者も高い者も」という意味。
 従って、高い地位にある人々のための祈りの課題は、
天皇や立法・行政・司法の指導者たちが、サタンの誘惑に陥って傲慢にならず、謙虚に知恵をもって、平和を維持し、格差を是正する政治を行うように。
②彼らもまた悔い改めて主イエスを信じて救われるように。

愛とタラント

マタイ25:14-30、1コリント13:1-3

2018年5月 特別会議MBC

 

 私たちは、主の再臨を生きている間にお迎えするにせよ、あるいは、再臨の前に肉体の死という形で、主の前に立つにせよ、主の前にこの世における奉仕の生涯に関して収支報告をすべきときがやってきます。

 

1.それぞれにタラントを託された

 

25:14 天の御国は、しもべたちを呼んで、自分の財産を預け、旅に出て行く人のようです。

 25:15 彼は、おのおのその能力に応じて、ひとりには五タラント、ひとりには二タラント、もうひとりには一タラントを渡し、それから旅に出かけた。

 

 主人は旅に出かけるにあたって、三人のしもべたちに自分の財産を預けて管理をゆだねます。ある人には5タラント、ある人に2タラント、ある人に1タラントというふうに。古代イスラエルにおける通貨の単位で1タラントは6000デナリで、1デナリは労働者の一日の賃金ということですから、仮に時給1000円として計算すると、4800万円という大金です。したがって、2タラントは9600万円。5タラントは2億4000万円にあたります。この主人はずいぶんなお金もちなのです。ですから、「1タラントの人はちょっぴりしか託してもらえなくて、ひがんでまじめにやらなかったのではないか?」などという推測はあたりません。

タラントは、イエス様が私たちに託された、「賜物」であるということが出来ましょう。イエス様が1タラントということを言われたのは、私たちひとりひとりに期待して、主が託されるものは異なるけれども、誰であれ主が託してくださった賜物は豊かなものです。

  では、主があなたに託されたタラント・賜物とはなんでしょうか。1コリント13章の前のほうに出てくる、異言、預言、強い信仰、慈善、殉教と言ったのは賜物です。ローマ書12章には、奉仕、教え、勧め、指導といった賜物が書かれています。いわゆる超自然的なものであれ、自然的なものであれ、神様から託された能力は賜物です。自分は何もかも普通で・特別な賜物はなにもない、と嘆く人がいたら、それほど平凡であることは非凡なことですから、それもまた主が託されたタラントでしょう。

 三浦綾子さんは、あるとき、与えられた大病が主に託されたタラントであることに気づきました。気づかなければ、毒のある不平ばかり言って周囲の人々をつまづかせて終わりだったでしょう。でも、この病気はタラントなんだと気づいて、そのことを文章に書かれました。そのことによって、どれほど多くの人々が励ましを受けたことでしょう。

 神様が私たちを創造し、この世界に置かれた以上、あなたの存在そのものがタラントなのです。

 

2.愛が肝心・・・それぞれのしもべのことばから

 

25:16 五タラント預かった者は、すぐに行って、それで商売をして、さらに五タラントもうけた。 25:17 同様に、二タラント預かった者も、さらに二タラントもうけた。

 25:18 ところが、一タラント預かった者は、出て行くと、地を掘って、その主人の金を隠した。 25:19 さて、よほどたってから、しもべたちの主人が帰って来て、彼らと清算をした。 25:20 すると、五タラント預かった者が来て、もう五タラント差し出して言った。『ご主人さま。私に五タラント預けてくださいましたが、ご覧ください。私はさらに五タラントもうけました。』

 25:21 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』 25:22 二タラントの者も来て言った。『ご主人さま。私は二タラント預かりましたが、ご覧ください。さらに二タラントもうけました。』

 25:23 その主人は彼に言った。『よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。』

 

 5タラントの僕と2タラントの僕は、二人とも、忠実に、大胆にのびのびとそして熱心に活用しました。その結果、5タラントの人はさらに5タラント、2タラントの人はさらに2タラントもうけることができました。彼らは、主人に信頼されてこれほどの大金を託してくださったことを光栄に感じて、主人の期待に応えて、一生懸命にやったのでしょう。彼らは主人のことを愛していました。これが肝心です。

やがて主人が帰ってきました。このときの主人のことばから、主イエスのお心についていくつかのことがわかるでしょう。第一は、2タラントのしもべについても、5タラントのしもべについても、主人のほめることばは全く同じだという点です。人間の主人であれば、きっと5タラントもうけてくれた僕のほうを、2タラント儲けてくれた僕よりもほめるのではないでしょうか。でもこの主人は、それぞれ託されたものに関して誠実に一生懸命またのびのびと努力をしたことをほめたのですね。彼らが、主を愛してその託されたタラントに応じて努めたからほめたのです。この主人はたいそうなお金持ちなので、稼いだ財産の多寡にはさして関心がありません。

 同じように、主イエスもお戻りになったら、あなたがどれほど主を愛して、タラントに応じてあなたを評価なさいます。託してもいないものについて理不尽なことをおっしゃる方ではありません。主は万物の所有者ですから、あなたの仕事の成果の多寡についてはさほど関心がありません。主が関心をもっていらっしゃるのは、その奉仕が主への愛の現われであるかどうかです。愛が肝心です。どんな賜物も愛がなければ何の役にも立ちません。「異言や、御使いの異言で話しても、愛がないなら、やかましいドラや、うるさいシンバルと同じです。また、たとい私が預言の賜物を持っており、またあらゆる奥義とあらゆる知識とに通じ、また、山を動かすほどの完全な信仰を持っていても、愛がないなら、何の値うちもありません。また、たとい私が持っている物の全部を貧しい人たちに分け与え、また私のからだを焼かれるために渡しても、愛がなければ、何の役にも立ちません。」(1コリント13章前半)愛がなければ何の役にも立ちません。自己顕示欲や冷たい使命感とかをもってどんなに熱心に賜物を用いても、神の前では無価値です。なぜなら、神は愛だからです。

 

3.奉仕 二つの秘訣

 

主への奉仕について二つの大事なことを学びたいと思います。

 

一つ目は、この主人は、「あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。」とおっしゃったことからです。わたしたちのこの世における営みは、次の世におけることにつながっているのです。この世における奉仕、働きは次の世のための予行演習なのです。この世での奉仕において、主イエスの信頼を得ることができたら、次の世ではもっと豊かに主から大切な仕事を託していただけます。天の御国は怠け者の国ではありません。働き者の国です。私たちの造り主である父なる神が、働き者でいらっしゃいますから。

 大谷翔平選手はオープン戦で、マスメディアから「所詮、高校生なみ」などと酷評されていました。でも、彼は大リーグに適応するための計画をちゃんと内側にもっていて、オープン戦では着々と試して調整していたわけです。そして、本番が始まると、ご存知のように投打にわたって大活躍して、米国でも日本でも大谷君のとりこになっています。

 この世の私たちの人生はオープン戦で、より多くのものを任される次の世が本番です。オープン戦ですから、失敗しても大丈夫です。のびのびやりましょう。オープン戦で失敗があるとしたら、失敗を恐れてなにもしないで縮こまっていることです。「ある者は岸に立ちて、沖をば見るのみ。主の恵みの深さなど、あえて知らんとせず」です。
 人の評価を気にする必要はありません。肝心なのは本番であって、今の世はオープン戦ですから、試行錯誤しながらのびのびとやってみることです。

 

二つ目は、今の世の奉仕の人生にあたって肝心なのは主人に対する愛と信頼であるということです。1タラント主人に託されたしもべは、主人に報告しました。

 25:24 ところが、一タラント預かっていた者も来て、言った。『ご主人さま。あなたは、蒔かない所から刈り取り、散らさない所から集めるひどい方だとわかっていました。

 25:25 私はこわくなり、出て行って、あなたの一タラントを地の中に隠しておきました。さあどうぞ、これがあなたの物です。

 

 何がこのしもべの問題点だったのでしょうか?答えは彼の主人に対するセリフのなかによく現れています。彼は、主人にむかって、「あなたは蒔かないところから刈り取る・・・ひどい方だ」と思っていました。彼は主人の愛を知りませんでした。

 米国から仏教国タイに出かけた一人の宣教師がいました。彼は博士号をもっているたいへん優秀な方でした。けれども、彼はタイに赴いてとても熱心に伝道しているようでしたが、しばらくすると、帰国せざるを得なくなってしまいました。彼が後に書いているのですが、「わたしは夜寝ると夢を見ました。夢の中で白い衣を着た人が来ると、その人は『私はあなたのために、こんなに犠牲を払ったのに、あなたはまた失敗したのか』と傷ついた手のひらを見せながら私に向かって怖い表情をするのです。」と。彼はまさに奴隷の霊を受けたような状態で、神は彼にとって恐怖の的でした。ですから、失敗してはならないと思うと怖くなり、病気になってしまったのです。

1タラントのしもべの問題はなんだったのでしょうか。タラントが少なかったことですか?いいえ。では、何が問題でしたか。それは、彼が主人をよく知らなかったことです。そして主人を愛しておらず、不信感の塊だったことです。彼に必要だったのは、主人の愛をよく知ることでした。 私たちが、実りある奉仕の生涯をまっとうするために大事なことは、主がどれほどに私を赦してくださったのか、そして、どれほど私を愛してくださったのかということをはっきりと知ることです。

 まず、そのためには「神様、あなたがどれほど私を愛していてくださるかを教えてください」と祈ることです。これは御心にかなった祈りです。そして、神様のみことばを読みましょう。

「4:9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちに、いのちを得させてくださいました。ここに、神の愛が私たちに示されたのです。

 4:10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。」(1ヨハネ4:9-10)

 

 天地万物の主であられるお方が、あなたを愛されました。その愛の余りに、天の栄光を棄てて、地にくだり、自ら進んで十字架にかかり十分に苦しんで、あなたの罪をも償ってくださいました。それほどまでに、主はあなたを愛し、あなたを赦してくださいました。

 

適用

 主が注いでくださった愛こそが私達の奉仕としての生涯の原点であり、かつ、原動力です。主の愛を知ってこそ、私たちは、自分を主にささげて何か主のためにしたいと願うようになりました。そのことを決して忘れてはなりません。

 今の世の人生は、次の世の本番の奉仕のためのオープン戦です。だから失敗を恐れてびくびくせず、のびのびとやりましょう。でも、オープン戦なのだから、あすにつながることを覚えて、だらだら怠けずにしっかりとやりましょう。
「よくやった。よい忠実なしもべだ。あなたはわずかなものに忠実だったから、わたしはあなたにより多くのものを任せよう。主人の喜びをともに喜んでくれ。」と主に肩を抱いていただける日を待ち望みながら。

 

過去・現在・未来

ロマ5:1-11

 

5:1 ですから、信仰によって義と認められた(過去)私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています(現在)。

 5:2 またキリストによって、いま私たちの立っているこの恵みに信仰によって導き入れられた私たちは、神の栄光を望んで大いに喜んでいます(現在)。

 5:3 そればかりではなく、患難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、

 5:4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。

 5:5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。

 5:6 私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました(過去)。

 5:7 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。

 5:8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださった(過去)ことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

 5:9 ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた(過去)私たちが、彼によって神の怒りから救われる(未来)のは、なおさらのことです。

 5:10 もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられた(過去)のなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかる(未来)のは、なおさらのことです。

 5:11 そればかりでなく、私たちのために今や和解を成り立たせてくださった(過去)私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を大いに喜んでいる(現在)のです。

  

序 クリスチャンになったなら、どんな人生観をもって生きて行けるのか?そういうことの一部分を、過去・現在・未来ということで整理して記されているのがこの箇所です。まず1節から5節では、「信仰によって義と認められた」ということは過去です。「キリストによって神との平和を持っています」は現在です。そして、「神の栄光を見ること」は未来です。そして、現在はそれを希望して喜んでいるのです。

 

1.過去:義とされた

 (1)生まれながらの人間

 万物の創造者である神は人間に二つの大事な戒めをお与えになりました。第一は、「心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』第二は「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。」この二つより大事な命令は、ほかにありません。聖書ではよく罪ということを言いますが、罪とはなんでしょうか。罪とは、まことの神を愛さないことと、隣人を自分自身のようには愛さないことです。

 まことの神を愛さないとは、太陽も雨も空気もいのちも無料でくださってお世話になりっぱなしの神様に対して感謝も礼拝もしないで、自分の力で生きていると思いあがっていることです。 また、神様は全人類を愛しなさいではなく、「あなたは隣人を自分自身のように愛しなさい」とおっしゃいます。あなたのごく身近な人です。妻や夫や子供や親や友達を自分自身のように愛しているでしょうか。ところが私たちは、隣人を愛することがなかなかできません。神への罪の欠けと、隣人愛の欠けという罪の根っこから、憎しみや親不孝や殺人や盗みや浮気や偽証などといった罪が花を咲かせ、やがてその罪の実がみのるです。

 私たちは毎日のように政治の世界では偽証がまかり通っているのを見たり、巷には殺人事件や窃盗のニュースを聞かされたり、芸能界ではくっついたり離れたり姦淫罪がはびこっているのを知らされてうんざりしますが、心の中の思いまでもご存知の神さまの前では、私たちも五十歩百歩なのです。罪の中に生きている私たち人間を聖書は「生まれながら御怒りを受けるべき子ら」(エペソ2:3)と表現しています。つまり、私たちは生まれながらには、神との平和を持っていないのです。

 

(2)神との平和

 そこに平和をもたらしてくださったのは、キリストです。世界を造られた神の御子であるキリストは、人となってこの世に来られ、人間の代表として十字架の上で聖なる神の怒りを受けてくださいました。誰でも自分は神様の前では罪があることを素直を認めて、イエス様を信じるならば、神様はその人の罪の罰はもう終わったと宣言してくださるのです。それが、義と認めるということです。 

 安定した祝福あるクリスチャン生活の1塁ベースは、イエス様を信じたその時に神の御前に義と宣告していただいたという事実です。神が義と宣告してくださったので、今、キリストを信じる者は神と平和な関係の中にあります。キリストにあって平和を得る前は、私たちは神の聖なる怒りの対象であり、永遠の滅びに陥るべきものでしたが、今や、その怒りは去ったのです。

5:1 ですから、信仰によって義と認められた(過去)私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています(現在)。

クリスチャンになっても、人生のなかにさまざまな苦難が襲ってくることもあります。この手紙を書いているパウロ自身、主イエスの福音を伝えたせいで、多くの苦難を経験しました。ユダヤ教徒からは裏切者として迫害を受けましたし、ローマの役人に投獄されたこともあります。伝道旅行では嵐の海で危うく船が沈没しそうにもなりました。また、彼は持病もちでもあったようです。けれども、そうした苦しみの中で使徒パウロは決して神の愛を疑うことはしませんでした。神は私をまだ私を怒っておられるから、こんな罰が当たったのではないかとか、神は私を地獄に落とそうとしているのではないかなどと恐怖を覚えることはありませんでした。

 なぜでしょうか。それは、彼がキリスト者の過去について正確な認識を持っていたからです。すなわち、私が悔い改めてキリストを信じた、あの瞬間、神は私を義と宣言してくださった。したがって、神は私との間に樹立された平和は1ミリも揺るがないのだということです。

 

 クリスチャンになったけれど、罪をふたたび犯してしまうと、もう自分みたいな人間はだめだ、神も私をお見捨てになるのではないかとおびえる人がいます。こういう考えは、一見謙遜なように思えますが、実は神の真実を疑う失礼な考えです。主イエスを信じる者を義とするのは神であって、人ではありません。主イエスを信じる者を義とするという契約は、神御自身がご自分の真実にかけて打ち立てられたものです。たとえこの天地が崩れ落ちても神の愛と真実は微動だにしません。

 

2.現在:神との平和の中で艱難をも喜ぶ

 

(1)喜び

 神との平和があるので、クリスチャンの人生には、根本的な安心と喜びがあります。その喜びとは「楽しみ」とは違います。楽しみとは外から来るものです。たとえばゲームをしたときの楽しみ、テレビがおもしろい、病気が直った、お金がもうかった、高級車を買った、念願の学校に入学できた、ご馳走を食べた・・・こういうものはみんな外側から来る楽しみです。こうした人生の楽しみを否定する必要はありませんけれども、こうした楽しみはいずれ過ぎ去るものです。ゲームも車も家もやがて飽きます。この病気はなおってもいずれ別の病気は再びやって来るし、お金には羽が生えています。みんな一時的なものです。

 神との平和が樹立したキリスト者には内側からあふれる喜びがあります。そして、その喜びは尽きることがありません。

  主イエスは言われました。「この水を飲む者はだれでも、また渇きます。しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわきでます。」(ヨハネ4:14)

 どういう喜びでしょうか。それは、私は神様に赦されている、愛されている、私は神様に生かされているという喜びです。人生の途上の別離や苦痛や争いによって悲しみに一時心が沈むようなことがあっても、心の奥底にこの神様に愛され赦されているという喜びが、絶えることのない地下水脈としてあるのです。

 

(2)艱難をも

 ですから、クリスチャンの人生においては、かりにもろもろの艱難が訪れたとしても、失望することはないのです。いえ艱難さえも喜ぶことができるのです。

 堀越牧師の証。堀越青年は、戦中の人ですが身長180センチもあって大きく立派だけれど、なにか困難が起こってくると、いつも「ああだめだ」とつぶやいては逃げ出していたそうです。ところが、クリスチャンになりこのみことばと出会いました。「艱難が忍耐を生み出し、忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと知っているからです。この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられている聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。」(ローマ5:3‐5) 従来、堀越青年は、艱難がくると次に逃避、そして、品性はいつまでも練られず、そして一層自分に失望していたのです。逃避と失望の悪循環の人生でした。けれども、神様は堀越青年に、<艱難→忍耐→練達→希望>という道を教えて下さいました。それ以来、艱難にぶつかると堀越青年は、「よし忍耐をすればよいのだ。そうすれば、練達、そして希望へのつながるのだ。」という、ちょっとやそっとでグラグラしない希望ある人生を歩むようになったのです。

 なぜクリスチャンは艱難をもこのように受け止められるのでしょうか。それは、「聖霊によって神の愛が心に注がれているからです。」とあります。父なる神は、ご自分の子とした者たちを、御子キリストに似た者として育てるために、愛ゆえに人生に試練をお与えなさるのです。神は、私たちを打ち砕き、練りにねって、神とキリストに似た者につくりかえるのです。これを聖化といいます。神様は、義と宣言して平和の関係を樹立した者たち、つまりクリスチャンたちをイエスに似た者につくりかえるのです。また、聖化とは聖霊との関係で表現すれは、「御霊の実を結ぶ」ということです。御霊の実とは、「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」です。聖化とは、父なる神に似せられていくことであり、キリストに似た者とされていくことであり、御霊の実をむすぶことです。

 その聖化の手段として、神様は基本的に、霊の糧であるみことば、霊の呼吸である祈り、霊的な運動である教会生活、そして試練という4つのことを用意してくださいました。

 

3.未来:最後の審判の怒りをまぬがれるという希望

 

 クリスチャン人生の未来についていうならば、それは確かな希望です。「5:5 この希望は失望に終わることがありません。」とパウロがいう希望とはどういう内容なのでしょうか?文脈から言って、パウロがここでいう希望とは終末的な希望です。

 「人には一度死ぬことと、死後にさばきを受けることが定まっています」その審判において、私たちは神の恐るべき聖なる怒りを被ることはが、決してないという希望です。積極的に言えば、天の国、神の御国に確実にいれていただけるという希望です。このことをパウロは続く6節から10節で論証しています。その論証は次の通りです。

  キリストが父なる神のみ旨にしたがって、不敬虔な私たちのために、十字架で進んで死んでくださったという事実に、神の私たちに対する驚くべき愛が現れています。

5:6 私たちがまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました(過去)。 5:7 正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。 5:8 しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んでくださった(過去)ことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます。

 6節に「弱かったとき」「不敬虔な者」8節に「まだ罪人であったとき」とあります。これは、神に背を向けて神に敵対していたとき、という意味です。パウロもとの名をサウロについていえば、イエスは神をけがした輩であり、イエスに追随する連中はとんでもない冒涜者の群れだと思って、片っ端から弾圧して牢屋に閉じ込めていたとき、イエス・キリストはサウロを愛し、サウロのために十字架でいのちを自ら進んで死んでくださったのです。私に関していえば、「神などいるものか」と思い込み「神に頼るなど弱い人間がするはずべきことだ」と言って、神に敵対していたあの時、キリストは私を愛して進んで十字架で、そのいのちを捨ててくださいました。

 だとすれば、悔い改めてキリストを信じて神との平和を得て、神を「お父様」と呼んで礼拝の生活をしている私たちを、神が最後の審判において、有罪として怒りをくだす道理がないではないか。敵対者であった者をさえ愛していのちをくださったお方が、家族のうちに迎えて交わっている私たちをゲヘナに落とすわけがないではないか、とパウロはいうのです。9,10節

 5:9 ですから、今すでにキリストの血によって義と認められた(過去)私たちが、彼によって神の怒りから救われる(未来)のは、なおさらのことです。 5:10 もし敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させられた(過去)のなら、和解させられた私たちが、彼のいのちによって救いにあずかる(未来)のは、なおさらのことです。

 積極的な言い方をするならば、かの日には、私の罪のためにそのいのちをも惜しまずに十字架で捨ててくださった愛の主が、私たちを出迎えて「よくやって来たね」と肩を抱いてくださるのです。それは、どれほどの感激でしょう。今、私たちはすでにその前味を味わっていますが、その時には十分に味わうことになります。今、私たちは主を古代の銅の鏡に映すようにぼんやりと見ていますが、かの日にははっきりと見ることになります。それはどれほどの感動でしょうか。

 

結び

 このようなわけで、クリスチャンは、キリストを信じたとき義であると宣言され、罪赦されたという揺るがない事実を土台として、現在、神との平和をもっています。そして、未来に関しては、神はすでに神と和解した私たちを最後の審判において、救ってくださることはあまりにも確かなことなのです。かの日には、天地の主、また私を愛し、私の罪のためにいのちまでも惜しまれなかった、すばらしい主にお会いできるのです。

 こうした過去の揺るがない土台としての義認と、未来のたしかな希望の中で、私たちは今日を生きるのです。

カインとアベル――聖書的礼拝の根本原則

創世記4:1-7

 

2018年4月19日 HBIチャペル

 4:1 人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、【主】によってひとりの男子を得た」と言った。

 4:2 彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。

 4:3 ある時期になって、カインは、地の作物から【主】へのささげ物を持って来たが、

 4:4 アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た。【主】はアベルとそのささげ物とに目を留められた。

 4:5 だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。

 4:6 そこで、【主】は、カインに仰せられた。「なぜ、あなたは憤っているのか。なぜ、顔を伏せているのか。

 4:7 あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。だが、あなたは、それを治めるべきである。」

 

 

序・・・文脈をわきまえる   

 聖書のある部分を正しく読む上で重要なことの一つは文脈をわきまえることです。文脈とは、そのテキストの前後、創世記の中での位置、モーセ五書の中での記事の位置、旧約聖書の中での位置、そして、旧新約聖書全体の中での位置を考慮することです。聖書66巻は多くの記者たちが筆をとったのですが、唯一の著者聖霊の指導のもとに書かれたものであるからです。

 創世記4章のカインとアベルの礼拝の記事の場合、注目すべき文脈は3章からのつながりが一つです。カインとアベルの父母が、神に背いて罪を犯したとき、神はある動物を犠牲にして作った皮衣を着せて二人をエデンの園を追い出しました。二人は、こうして人類最初の家族が形成していきました。その家族の中で起こったのが4章の悲劇でした。

 もうひとつ注目すべき文脈は、カインとアベルの記事は、モーセ五書の中で最初に出てくる神礼拝の記事であるという点です。そういう意味で、真実の礼拝とは何かが示唆されているのではないかという視点をもって読むべきだということです。

 以上を前置きとして、本文に入っていきましょう。

 

1.原罪

 

4:1 人は、その妻エバを知った。彼女はみごもってカインを産み、「私は、【主】によってひとりの男子を得た」と言った。 4:2 彼女は、それからまた、弟アベルを産んだ。アベルは羊を飼う者となり、カインは土を耕す者となった。

「産みの苦しみを増す」ということばのとおり、骨盤が割れるかと思うほどの苦しみをへてカインを産んだ時、エバは「私は主によってひとりの男子を得た!」と言いました。このことばは、先に神が彼女に与えたあの約束を意識してのことばです。つまり、「女の子孫が蛇の頭を踏み砕く」(3:15)という主の約束が自分の出産によって成就するのだと彼女は期待して、生まれたわが子カインを胸に抱いたのです。

ところが、それは思い違いでした。子どもたちが成長していくにつれ、互いに争ったり、意地悪をしたり、親にウソをついたり、反抗したりし始めたのです。子は親の鏡。その有様は、振り返れば親であるアダムとエバ夫婦の姿でもありました。そうして、ある日、息子のカインは、救い主どころか、人類の歴史における最初の殺人者となってしまうのです。自分が腹を痛めて産んだ子どもたちの一人が、もう一人を殺してしまうという、母親にとって、これ以上に悲惨な経験はありません。あの日、善悪の知識の木の実を盗って食べて神に反逆したことが、これほどに恐ろしい結果を生んでしまったことに慄然とさせられるのです。

罪は、親から子へ、子から孫へ、孫からひ孫へと遺伝していきます。「原罪」です。人は、生まれながらに罪の性質を帯びて生まれてくるのです。ダビデはあのバテシェバ事件の後に、このように嘆いています。詩篇51篇5節

 51:5 ああ、私は咎ある者として生まれ、罪ある者として母は私をみごもりました。

 

2.アベルの捧げものは神に受け入れられ、カインの捧げものは拒否された

 

 さて、「ある時期になって」(3節)、成長したカインとアベルとは、主のへのささげ物を持ってきたとあります。彼らは父アダム、母エバから、幼いころから造り主である神様に対して礼拝をささげることを教わって育ってきたのでしょう。アダムとエバとは、自分たちが神のことばに背いて楽園を追放されてしまったこと、それにもかかわらず、神は救い主を到来させる約束を与え、ある動物の血を流して罪の恥を覆う衣を着せてくださったのだと、子どもたちに語って聞かせてきたわけです。神に礼拝をささげる父と母を、子供たちは見てきたのです。 そして、今日、カインは大地を耕す農夫として、アベルは羊飼いとして、自立して働くようになって、いよいよ大人として神へのささげものをする、そのときが来たというのが、「ある時期になって」ということばの意味でしょう。

 4:3 ある時期になって、カインは、地の作物から【主】へのささげ物を持って来たが、

 4:4 アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た。【主】はアベルとそのささげ物とに目を留められた。

 4:5 だが、カインとそのささげ物には目を留められなかった。それで、カインはひどく怒り、顔を伏せた。

 

 なぜ神様はアベルのささげものは祝福して受け入れ、カインのささげものには目を留められなかったのでしょうか?三つの解釈があります。

 第一の解釈は、神がどの人間のささげものを受け入れるかどうかは、神の主権に属することであって、人間は云々すべきでないという説です。ヨブ記で義人がなぜ苦しまねばならないか?とか、ある者は神に選ばれある者は選ばれないのはなぜか?といったたぐいの人間にはわからないことと同じように考えるべきだというわけです。

 しかし、神の捧げ物として何がふさわしいのかということについて、神が彼らに何も啓示していなかったとは文脈上、考えにくいのです。なぜなら、4章7節で、神はカインに対して「あなたが正しく行ったのであれば、受け入れられる。ただし、あなたが正しく行っていないのなら、罪は戸口で待ち伏せして、あなたを恋い慕っている。」とおっしゃっているからです。ごく普通に推論すれば、カインは神にささげる正しい捧げ物とは何かを知っていながら、あえて正しく行わなかったから受け入れないのだと言われていることは明らかでしょう。私たちは、神の定めた捧げものの原則については、わからないというのでなく、わかるべきです。 

 

 第二の解釈は、アベルは心を込めてささげたが、カインは心をこめないで、おざなりにささげたから、その態度が受け入れられなかったのだという説です。「チェーン式新改訳聖書」の脚注には、「主がアベルのささげ 物に⽬を留められたのは、ささげ物に対する彼の態度である」とあります。つまり、捧げ物としては、動物でも大地の作物でもよかったのだが、アベルの態度はよく、カインの態度がよくなかったのだという解釈です。新改訳聖書第一版から第三版までは翻訳が、ことさらにアベルの態度が良かったという印象を与えるものになっています。 第三版では次のようです。

 4:3 ある時期になって、カインは、地の作物から【主】へのささげ物を持って来たが、

 4:4 アベルもまた彼の羊の初子の中から、それも最上のものを持って来た。【主】はアベルとそのささげ物とに目を留められた。

 

  4節は口語訳聖書、文語訳聖書では単に「肥えたもの」とあるだけです。新改訳2017では「自分の羊の中から肥えたものを持ってきた」とプレーンな訳に改められています。

 

 第三の解釈は、アベルは動物犠牲をささげたから受け入れられたが、カインは大地の産物をささげたから受け容れられなかったという理解です。三つ根拠があります。

 第一の根拠は、そもそも創世記第4章に書かれていることで、両者の礼拝の単純明白な違いは、アベルのささげ物は羊であったのに対して、カインのささげ物は大地の産物であったという一点だけだということです。「カインは農夫だから農産物をささげるほかなかったじゃないか?」という人がいるかもしれません。そんなことはありません。カインは羊をささげるべきだと知っているなら、アベルに頼んで「肥えた羊を、農作物と交換して譲ってくれ。」と言えばよかっただけのことです。カインはあえて、そうしなかったのです。ここに彼の問題があります。

 第二の根拠は、カインとアベルは、動物の犠牲の血が流されて自分たちの罪が覆われたという経験をした両親に育てられて礼拝の生活をしてきたということです。推測に属することですが、おそらく彼らは「罪が赦されるためには血が流されなければならない」という原理に基づいた礼拝を幼いころから教えられてきたはずです。しかし、カインはあえて、神の求めに背いて、俺流のささげ物を神の前に持ってきたということになります。

 第三の根拠は、はじめに話したように、カインとアベルの捧げものの記事は、モーセ五書における最初の礼拝の記事であるゆえに、ここには礼拝の根本的原理が表されている可能性が相当高いということです。その根本原理とは、「血を注ぎだすことがなければ、罪の赦しはない」(ヘブル9:22)ということです。

 

3.礼拝の根本原理

 

本日の箇所から礼拝の根本原理を学びます。

)熱心でも自己流の礼拝はだめ

 礼拝に関して、私たちが心をこめることが大切なのはいうまでもありませんが、心さえこもっていれば、俺流の礼拝でよいわけではないということです。私たちが心込めるべき点は、礼拝における神の定めに対して忠実であることについてです。これが聖書的な礼拝におけるregulative principleすなわち規制原理です。カインの過ちは、神の定めた礼拝の原則を無視して、自己流の礼拝をささげたということにあります。カインは主の定めに背いて、「俺が畑で汗して作った作物だ。神が受け入れてくださるのは当然だ。」という思いで、大地の作物を捧げものとして差し出して、神に拒絶されたのでした。

 聖書の中には、自己流の礼拝をささげて、神に打たれた人が他にもいます。ひとつの例は、大祭司アロンの息子ナダブとアビフです。彼らは(おそらく異教的な工夫をこらした)異なる火を神の前にささげて、神の火に焼かれてしまいました(レビ10章)。また、サウル王は妙に信心深い人でした。ですからペリシテとの戦の前にいけにえをささげないと、負けるんじゃないかと恐れました。それで預言者サムエルがささげるべき神へのささげものを、王である彼がささげて神の怒りをこうむりました(1サムエル13章)。

 神は、私たちの日常の行動については、私たちの自由裁量に相当まかせおられて、なすべきすべてが聖書に書かれているわけではありません。けれども、こと礼拝については、神は人間がさまざまな自己流のあるいは異教的な工夫を付け加えることを禁じています。「あなたがたは、私があなたがたに命じるすべてのことを、守り行わなければならない。これに付け加えてはならない。減らしてはならない。」(申命記12:32)というのが原則です。

 ウェストミンスター信仰告白は次のように述べています。

 「第21章 宗教的礼拝および安息日について

1 (前略)このまことの神を礼拝する正しい方法は、神ご自身によって制定され、またご自身が啓示したみ心によって制限されているので、人間の想像や工夫、またはサタンの示唆にしたがって、何か可視的な表現によって、または聖書に規定されていない何か他の方法で、神を礼拝すべきでない。

 

(2)血を注ぎだすことがなければ

 今日の箇所から聖書的宗教の本質を学び取ることができます。神様は、アダム以来罪に落ちてしまった私たちの礼拝に関して、「血を注ぎだすことがなければ、罪の赦しはないのです。」(ヘブル9:22)という根本原理をお定めになっています。旧約聖書レビ記における祭儀のなかには、全焼のいけにえ、罪のためのささげ物、和解のいけにえなどとともに、穀物のささげものというものも含まれていますが、穀物のささげものは単体でささげものではなく、血を流す生贄といっしょにささげられるものでした。

 旧約時代には牛や羊の動物犠牲が繰り返しささげられましたが、それらはイエス・キリストの十字架の犠牲という本体を指差す影でした(ヘブル10章)。新約時代には本体であるキリストの十字架の犠牲がささげられたので、もはや動物犠牲をささげる必要はなくなりました。もし今日動物犠牲をささげるとしたら、それはキリストの十字架の贖いの完全性を否定することになります。

エス様の十字架の死による贖罪を抜きにして、私たちの礼拝は成り立たないものであることを、覚えなければなりません。イエス様を抜きにして、私たちは父なる神に近づくことはできないのです。キリスト教信仰とは、近世のソッツィーニや近代自由主義神学や、近年キリストの代償的贖罪を軽んじる人たちが言うように、「キリストの愛に満ちた生き方をまねして生きて行けば、世界は平和になりますよ」という道徳ではありません。キリスト教信仰とは、私たちが神と和解するためには、キリストの十字架の死と復活が必要不可欠であったと主張する代償的贖罪の信仰なのです。新約の時代の教会では、聖餐式がそれを明瞭に表しています。

 

結び

 聖書的な礼拝の根本原理。礼拝については、神がお定めになったことに、人間の勝手で足したり引いたりしてはなりません。 確かに、新約時代には、旧約聖書レビ記にしるされたような事細かな規定は廃止されましたが、旧約新約を通じて貫かれている礼拝の根本原理は、「血を流すことなしに罪は赦されない」ということです。旧約時代には、動物犠牲の血が流され、新約時代にはもろもろのいけにえの本体である主イエス・キリストが十字架で成し遂げられた贖罪のわざを根拠として、私たちは神に近づくことができるのです。

 「(キリストは)やぎと子牛との血によってではなく、ご自分の血によって、ただ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げられたのです。」(ヘブル9:12)

 

恵みと信仰によって

ロマ4:1-12                    

 

 

4:1 それでは、肉による私たちの父祖アブラハムの場合は、どうでしょうか。

 4:2 もしアブラハムが行いによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。

 4:3 聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた」とあります。

 4:4 働く者の場合に、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。

 4:5 何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めてくださる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。

 4:6 ダビデもまた、行いとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。

 4:7 「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、

   幸いである。

 4:8 主が罪を認めない人は幸いである。」

 4:9 それでは、この幸いは、割礼のある者にだけ与えられるのでしょうか。それとも、割礼のない者にも与えられるのでしょうか。私たちは、「アブラハムには、その信仰が義とみなされた」と言っていますが、

 4:10 どのようにして、その信仰が義とみなされたのでしょうか。割礼を受けてからでしょうか。まだ割礼を受けていないときにでしょうか。割礼を受けてからではなく、割礼を受けていないときにです。

 4:11 彼は、割礼を受けていないとき信仰によって義と認められたことの証印として、割礼というしるしを受けたのです。それは、彼が、割礼を受けないままで信じて義と認められるすべての人の父となり、

 4:12 また割礼のある者の父となるためです。すなわち、割礼を受けているだけではなく、私たちの父アブラハムが無割礼のときに持った信仰の足跡に従って歩む者の父となるためです。

 

 

序 一塁ベース

 私が小学生のころ長嶋茂雄選手が巨人軍で活躍していたころ、ある試合でホームランをかっ飛ばしたことがありました。大喜びで一塁ベース、二塁、三塁と回ってホームベースを踏むと、主審がアウトをコールしました。長嶋選手は一塁ベースを踏んでいなかったのでした。 神様が、クリスチャンにくださる地上における主な祝福は、義と認められること、神の子とされること、聖化すなわちキリストに似た者とされることの三つです。これらの祝福には様々な祝福がともないます。

注意すべきは、救いの一塁ベースは、あくまでも義と認められたということです。義と認められること抜きに、聖化つまりキリストに似た生き方をしようとするのは、一塁ベースを踏まないまま二塁、三塁と回った長嶋選手のようなもので、ホームでアウトになってしまいます。ですからパウロはこのローマ書において相当分量を使って、丁寧に義とすることについて教えています。

 

1.ユダヤ教の考え方

 

 さて、4章1節から始まるパウロの議論は、「パウロよ、君の理屈は一応分かる。しかし、旧約聖書によれば人が義とされるのは、選ばれた神の民として律法を行なうことによるのではないだろうか?」とユダヤ主義者たちの反論を想定しています。1世紀のころ、ユダヤ教における教えは本来の悔い改めの宗教から外れていた様子が、福音書を読むとわかります。

 旧約の宗教は本来的には、人を罪と死に定め、悔い改めに至らせるものです(2コリント3章)。神の正しい律法を誠実に行おうとすれば自分の欠けと罪が明らかにされ、神の前に胸を打って悔い改めるという宗教性です。律法は罪を自覚させるために与えられました。旧約時代最後の預言者バプテスマのヨハネが、荒野の叫びをもって「斧は木の根元にすでに置かれている。悔い改めよ」と命じた、あれが旧約聖書の宗教です。

 ところが、福音書を読むと、イエス様の時代、同じ旧約聖書に立ちながら異なることを教える人々がメジャーになっていたことがわかります。それは律法を持つことに安んじ、実質的には破りながら形の上では守ったことにして満足する律法解釈を展開する人々です。

 もともと人間は、神の御子キリストの似姿として造られたのですから、善は当然なすべきことをしたにすぎないのです。盗まないのは当たり前、殺さないのは当たり前、ウソをつかないのは当たり前、姦通しないのは当たり前のことで、別にほめられるようなことではありません。そして、罪はなすべからざる異常なことであり、罪から来る報酬は死です。ところが、その当たり前のことが守れなくなっているのが人間です。行ないによって、神様の御前であなたは正義であると宣言してもらえる人は一人もいません。罪を悔いるほかなく、恵みにすがるほかないのです。ロマ3:23、24「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いの故に、値なしに義と認められるのです。」

 そして27節前半「3:27 それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。」

 そうです。私たちは悔い改めてキリスト・イエスによる贖いだけを根拠として、価なしに、つまり無代無償で、義と宣言していただいたのです。ですから、神様の前に、私たちの誇るものなどなにもありません。私たちに何が出来るかと言えば、ただただ神様の恵みに感謝を生き方をもって表現するだけです。神の恵みに感謝する生活、それがクリスチャンの人生です。

 

2.アブラハムダビデも信仰によって義とされた

---神の約束を信じる信仰・義とされるのは神の恵み--

 

そこで、パウロが取り上げるのは、アブラハムダビデです。アブラハムイスラエル民族の尊敬される始祖であり、ダビデダビデソロモン王朝の創始者であり英雄です。彼らは、神の前にどのように義と認められたと旧約聖書は教えていますか?とパウロは問うのです。

(1)アブラハム--神の約束を信じる--(1-3節)

旧約聖書を見ると、アブラハムは行ないではなく、その信仰を神から義とみなされたと書かれているではないかとパウロは言うのです。ローマ書4章3節は創世記15章6節からの引用です。

4:1 それでは、肉による私たちの父祖アブラハムの場合は、どうでしょうか。

 4:2 もしアブラハムが行いによって義と認められたのなら、彼は誇ることができます。しかし、神の御前では、そうではありません。

 4:3 聖書は何と言っていますか。「それでアブラハムは神を信じた。それが彼の義とみなされた」とあります。

 

神様はアブラハムに彼の子孫を星の数のようにし、さらに彼を通して世界の民が神の祝福にあずかるという約束を与えました。アブラハムと妻サラは常識的にはもはや子を得ることができる年齢やからだではありませんでした。しかし、彼は神の約束を信じました。それは、この約束をくださったのが、ほかでもない神であったからです。その神の約束への信仰が義とみなされたのです。

 私たちの新約時代におけるキリストにあって義と認めていただくための信仰の中身は、アブラハムが信じたことそのものとは少しちがいます。私たちは、自分の罪のために御子イエスが十字架にかかられたゆえに、主イエスを信じるならば神様はわたしたちを義となさると信じます。アブラハムに学ぶことは、神の約束を信じるというその点です。そもそも誰かの人格を信じるというのは、その人がしてくれた約束のことばを信じるということでしょう。「私は、あなたを信じています。でもあなたの約束だけは信じられない」などということはありえません。ことばは人格の代表だからです。その人格を信じるならば、その約束のことばを信じるのです。 アブラハムは百歳近くにもなって子もないのに神が「あなたの子孫を星数のようにし、君は世界の民の祝福のもとになるんだ」とおっしゃったとき、その約束を信じました。神を信頼していたからです。そして義とされました。

 私たちはたしかに神様の御前では罪があります。神様は正義の審判者であり、人には一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっています。罪ある者が罰を受けるということはあまりにも確かなことです。また、罪ある自分が罪ゆるされるとはありえないことに思えるかもしれません。けれども、その神が「主イエスを信じなさい。そうすれば義と宣言する」という約束をくださいました。これは神の約束です。この約束を信じるならば、その信仰が義とみなされるのです。 このように、神の御前での裁判において義と宣言をいただくのは、神の恵みふかい約束を信じるその信仰によるのです。私たちはアブラハムに、神の約束を信じる信仰が義とされることを知ります。

 

(2)ダビデ--恵みによって義と認められる(4節-8節)

 つぎに、ダビデが例に上げられます。6-8節。

4:6 ダビデもまた、行いとは別の道で神によって義と認められる人の幸いを、こう言っています。 4:7 「不法を赦され、罪をおおわれた人たちは、幸いである。 4:8 主が罪を認めない人は幸いである。」

 7,8節のことばは詩篇32編の引用です。32編を開いてみましょう。1-5節。

32:1 幸いなことよ。そのそむきを赦され、罪をおおわれた人は。

 32:2 幸いなことよ。【主】が、咎をお認めにならない人、その霊に欺きのない人は。

 32:3 私は黙っていたときには、一日中、うめいて、私の骨々は疲れ果てました。

 32:4 それは、御手が昼も夜も私の上に重くのしかかり、

  私の骨髄は、夏のひでりでかわききったからです。 セラ

 32:5 私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。

  私は申しました。

  「私のそむきの罪を【主】に告白しよう。」

  すると、あなたは私の罪のとがめを赦されました。

 

 これは彼がバテシェバ事件を起こしてしまったときによんだ詩篇です。ダビデは、部下の妻を横取りして姦淫の罪を犯し、その部下まで謀にかけて殺してしまったという最大級の罪を赦免されるために、なにか償いとして修業をしたのでしょうか。ばくだいな布施をしたのでしょうか。いいえ。5節「私は、自分の罪を、あなたに知らせ、私の咎を隠しませんでした。私は申しました。『私のそむきの罪を主に告白しよう。』すると、あなたは私の罪のとがめをゆるされました。」とあるように、罪を告白したのです。

 私たちは、アブラハムからは神の約束を信じる信仰を学びましたが、ダビデからは、人が神の御前に義とされるのは、本人の何かのよい働きではなく神の恵みによる、ということを学びます。4、5節。「働く者のばあいに、その報酬は恵みでなくて、当然支払うべきものとみなされます。何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めて下さる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。」

 このときダビデには、神の御前に誇る功徳はありませんでした。むしろ、恥ずべき罪があっただけです。まさに、彼はイスラエルの王でありながら神を恐れることを忘れ、肉欲にしたがって姦淫罪を犯し、殺人罪を犯しました。まさに不敬虔な者でした。けれども、彼は赦されました。なぜですか。神の恵みのゆえにです。ダビデ自身には神の御前に罪がありましたが、罪示されて神を見上げたダビデを神があわれんでくださいました。神が恵みをかけてくださいました。神はこれからおよそ千年後にゴルゴタの丘に立てられる御子の十字架に、ダビデの罪をもくぎづけにして彼を赦し、義と宣言されたのです。後払いの罪の償いです。新約時代の私たちはすでに二千年前に支払われたキリストの償いのゆえに罪ゆるされました。後払いか前払いかという違いはあるものの、罪の赦しの根拠はイエス様の十字架です。

 「何の働きもない者が、不敬虔な者を義と認めて下さる方を信じるなら、その信仰が義とみなされるのです。」(4:5)

 以上のように私たちは、行ないによらず、ただ恵みによって信仰によって神の御前に義とされた、その実例を旧約聖書アブラハムにもダビデにも見ることができます。特にアブラハムからは、神の約束に信頼する信仰を、ダビデからは、人が義とされるのは人の行いによらず神の恵みによるということを学びました。恵みによるということと、信仰によるということは、同じ事柄を表す二つの表現です。

 

3.割礼の意味、そして洗礼の意味---義とされた保証(9-12節)

 

 ここで想定されたのは、ユダヤ人からさらに出される疑問です。「じゃあ、パウロ。割礼はどうなるんだ。神は割礼を受けなさいと先祖アブラハムに命じられたのでないか。割礼という行いによって、義と認められるのではないのか。」と。割礼とは、アブラハムの時代にユダヤ人の男子が生後間もなく受けるべしとされた神様からの儀式でした。そして、異邦人でもユダヤ教徒になりたければ、割礼を受けなければなりません。割礼を受けることにより、ユダヤ人の仲間入りをし、そして救われるとされたのです。 そこでユダヤ教では、割礼という律法の行ないをすることによって、神の御前に義とされると誤解してしまったのです。

 このユダヤ教の誤解を解くために、使徒パウロは答えます。「たしかに、神様はアブラハムに割礼をお命じになった。しかし、アブラハムが神に義と認められたのと、割礼を受けたのとはどちらが先だったかい?」というのです。創世記を見ますと、神様がアブラハムの信仰を義と認めたのは、創世記15章のことです。他方、割礼を命じられたのは創世記17章のことです。ここからわかることは、アブラハムは割礼を受けたから、神の御前に義とみなされたのではなく、むしろ逆の順序だということです。義と認めていただいたから、割礼を受けたのです。割礼は、どういう意味があるのですか。それは、神様の御前に義と認められましたよ、という印・保証なのです。

 これは新約の教会では洗礼に適用されます。新約の時代、旧約の割礼と対応する儀式は洗礼です。洗礼はイエス様がお定めになった儀式ですから、確かにたいせつなものです。けれども、洗礼を受けるという行ないによって人は義と認められるのではありません。順序は逆で、主イエスを信じて神様の御前に義と認められたことの保証として、洗礼を受けなさいというのです。

 そして、洗礼を受けたことは神様に信仰によって義と認められた、罪赦されたよという保証書をもらったようなものですから、洗礼を受けると安心してクリスチャン生活を送ることができるのです。また、聖餐式はその赦しと救いを確認するときです。神さまがキリストにおいて与えてくださった救いの約束にあずかったという保証、それが洗礼でありまた聖餐式です。

 

結論

 私たちは、ダビデのように姦通や人殺しはしたことがないかもしれません。けれども、十戒に照らせばまちがいなく罪を犯したことがあり、自分の立派な行いを根拠として神様から「あなたは義だ」と宣言をいただくことのできない者です。

そこで、神様が恵によってキリストの十字架において私たちの罪を処理して、キリストの義を用意し差し出してくださいました。私たちは、ただキリストを信じる信仰という空っぽの手によって、キリストの義を受け取って、それを根拠として神様の御前に義と宣言されたのです。

そのキリストにあって義と認められたこと証しとして、洗礼と聖餐が与えられました。

この神の恵みによる救いによって、私たちは、誇りとさばき、つまり、人に対する優越感や劣等感といった不自由な心から解放されて、罪ゆるされた自由の中で、神にひたすら感謝して生きる道を与えられています。なんと幸いなことでしょうか。

神の正義の証明

ロマ3:25-31                    

2018年3月25日 受難週主日

  3:25 神は、キリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。それは、ご自身の義を現すためです。というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。

 3:26 それは、今の時にご自身の義を現すためであり、こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。

 3:27 それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。どういう原理によってでしょうか。行いの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。

 3:28 人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。

 3:29 それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人にとっても神ではないのでしょうか。確かに神は、異邦人にとっても、神です。

 3:30 神が唯一ならばそうです。この神は、割礼のある者を信仰によって義と認めてくださるとともに、割礼のない者をも、信仰によって義と認めてくださるのです。

  3:31 それでは、私たちは信仰によって律法を無効にすることになるのでしょうか。絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。

                                

 序

 今週は受難週で、次の主の日は復活節です。本日は、特に主イエスの十字架の意味を深く味わい、感謝を新たにするときとしたいと思います。主イエスの十字架の受難と死という出来事の意味といえば、私たちの罪の償いを身代わりにするためであったということを私たちは知っています。本日の聖書箇所でいえば、3章26節の末尾に「イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです」とある通りです。

 しかし、主イエスの十字架の受難と死には、もうひとつ非常に重要な意味と目的があったことを本日のローマ人への手紙は教えています。それは「神の正義の証明」ということです。 

 

1 主の十字架は神の正義の証明である 

 

 テレビや新聞で凶悪犯罪のニュースを見聞きすると、「神さまがいるならば、なんでこんなに悪人たちが放置されているのだろう?神さまはいないんじゃないか?」というふうにふと感じる人がいます。実は、昔から、このような疑問にとりつかれて、神様に疑念を持つひとがいました。この疑問は、神は正義のお方であって、全能者なのだから、悪者が野放しにされているように見えるのは納得できないという意味です。こういう難問を考えて論じるのを神義論とか弁神論と言います。

 中世の神学では哲学的な考え方で、この難問に挑んで「悪は善の欠如したすがたである」というふうに答えたそうです。けれども、神様はこの疑問に対して抽象的な哲学的な理屈で答えるのではなく、あのゴルゴタの丘に立てられた御子イエスの十字架の事実によってお答えになったのです。

 ローマ人への手紙25、26節には神がキリストによる罪の贖いをこの世にお示しになった目的が二つ書いてあります。

「神は、このキリスト・イエスを、その血による、また信仰による、なだめの供え物として、公にお示しになりました。

  • それは、御自身の義を表すためです。というのは、今まで犯されてきた罪を神の忍耐をもって見逃して来られたからです。それは、今の時に御自身の義を表すためであり、こうして神御自身が義であり、また、
  • エスを信じる者を義とお認めになるためなのです。」

 先週私たちは「イエスを信じる者を義と認めるため」に、イエス様が私たちの身代わりとして十字架で神の怒りを受けられたということを学びました。イエス様が私たちの罪を背負ってくださり、私たちを罪の呪いとしての永遠の滅びから救ってくださいました。

 イエス様の十字架の出来事にはもう一つの目的があるのだと聖書は述べています。それは、「神御自身の義を表すためである」と書かれています。「表す」(ενδεικνυμι)ということばは、「証明する」とも訳されることばです。神様は、御子イエスさまを十字架におかけになって、罪に対する神の怒りのなだめの供え物として歴史の中に公に示されました。それが、どうして神が正義のお方であることの証明であるというのです。どういうことでしょうか?

 この歴史を振り返れば実に数えきれないほどに多くの罪が犯されてきました。アダムとエバの神への反逆に始まり、その息子カインは弟アベルを殺害してしまいました。以来、人間は、その唇をもって神をののしり、あるいは人を憎み傷付け、あるいは人を欺き、その手をもって盗みを働き、姦淫を犯し、殺人を犯し続けてきました。けれど、表に現れた罪は氷山の一角にすぎないでしょう。 人の心の中では、さらに数かぎりない悪徳がうず巻いています。

 ある人たちはそういう世界を見て、「この世界にはこんなに罪が満ちているのだから神などいるはずがない」と断じ、また「神がいたとしてもそれは正義の神ではありえない」と論じたりするのです。全能の神が実在するならば、どうしてこのような罪が放置されているのかと言うのです。

 けれども、しばしばそういうことを論じる人は自分自身を振り返ることを忘れています。自分の心が、自分の唇が、自分の手足が犯した罪を数えあげるならば、自分自身もまた罪人の仲間であると認めざるをえないでしょう。それなら、ほんとうは、「神が正義のお方であるならば、どうして神は、この私を生かしておくのだろうか?罪に定め罰して即座に地獄行きにしてしまわないのだろうか。放置なさるのだろうか?」と疑問をいだき、「私をすぐ今地獄に落としてください」と言わねばならないのが、私たちの実態です。

 ロマ書は答えます。このように多くの罪が放置されてきたわけは、神の忍耐のゆえです(25b)。

「というのは、今までに犯されて来た罪を神の忍耐をもって見のがして来られたからです。」

 とあります。生殺与奪の権をもつ神様は、私たち一人一人が、神が造られた世界を罪で汚し、神の御心を悲しませるのですから、これを滅ぼしてしまう権限をお持ちです。ちょうど陶器師が、練り上げ焼き上げた陶器が自分の気にいらないものであったら、これを壊してしまう権利を持っているように。けれども、神様はあわれみ深いお方ですから、私たちと世界を即座に滅ぼすことはなさいませんでした。忍耐をもって、多くの罪を見逃して来られたのです。

 しかし、罪がどんなにたくさん犯されていても、それを最後の最後まで見逃し続けるならば、神が正義の審判者であるということが疑われることになりましょう。実際、先に言ったように、この世の中には自分の罪は棚に上げて「この世は罪に満ちている。それゆえ神はいないのだ。いたとしても、それは正義の神ではないのだ。」などと論じる人々がいます。そこで神は、御自分が正義のお方であるということをこの歴史の中に証明し、宣言なさることにしたのです。

 ある裁判官が正義の裁判官であるということは、どういうことから明らかになるでしょうか。一つには犯された罪に対して、罰を与えること、つまり、公正な償いを要求することによってです。もう一つは、悪を滅ぼし罪を正し、その統治する世界に正義をもたらすことによってです。

 神はこの世に満ち満ちる罪に対して、どれほどの「宥めの供え物」を要求なさったでしょうか。この「宥めの供え物」と訳されていることばヒラステーリオンは、もともと旧約時代幕屋・神殿の一番奥の神の聖なる臨在が現れる契約の箱の宥めの蓋(カポーレット)を意味しています。この宥めの蓋には一対の天使ケルビムが覆うように翼をひろげ、その目は宥めの蓋に注がれる血を見ています。償いのために祭司がふさわしい宥めの供え物の血を注ぐかどうかを見ているのです(出エジプト25:20)。

 それは、尊い神の御子が人となって地上にくだられ、十字架において私たち罪人が犯した数々の罪に対する恐るべき呪いを受けて血を流す宥めの供え物となることを予型するものでした。神が要求なさったのはこの宇宙全体よりも価値のある償いでありました。きよい罪のない神の御子を犠牲として要求されたのです。この十字架の出来事は、神が、清濁合わせのむようなお方ではなく、まことに燃えるような正義の裁き主であることを明らかに証明し、宣言しているのです。

 

 もう一つ、神の正義がキリストの十字架によって証明されたというのは、御子の流された血潮によって、悪魔の力決定的に打ち破ったからです。今もこの世には悪が満ちています。けれども、それは悪魔の断末魔の叫びです。キリストの十字架と復活によって、悪魔は決定的な打撃を受けたのです。

「そこで、子たちはみな血と肉とを持っているので、主もまた同じように、これらのものをお持ちになりました。これは、その死によって、悪魔という死の力を持つ者を滅ぼし、一生涯死の恐怖につながれて奴隷となっていた人々を解放してくださるためでした。」(ヘブ2:14、15)

やがて御子イエスが再び来られるならば、世界にはあまねく正義が公然と満ちる日が来ます。その約束が、御子の復活によって証明されたのです。こうして、神が正義のお方であり、この神様が造られた世界に罪が犯されるのを放置はなさらず、正義をもたらされるのだということが宣言されたのです。

                                                                                              私たちは、御子イエスの十字架の出来事というと、人の救いのためであったということにのみ焦点を当てて捕らえがちです。しかし、御子イエスの十字架の出来事は、私たち人間の救いのためだけではなく、神が正義であることの証明なのです神様のこの万物の歴史に対する計画のなかでは、神の正義証明るという計画のなかに私たち義と宣言るということが含まれているのです。 

 

  主の十字架によってこそ、神の恵みの栄光が現れ(27-30節)

 

 第二点です。            

 「それでは、私たちの誇りはどこにあるのでしょうか。それはすでに取り除かれました。」この誇りとは何の誇りでしょう。それは律法を行う者が持つ誇りです。神さまのさばきにおいて、「私は立派に律法を守ってきました、あなたに責められるところは何一つありません」胸を張るような、ばかげた誇りです。なぜ馬鹿げているかといえば、人間は神のきよい御目から見れば、ことごとく罪があるからです。結局、神の前では律法は偽善者をつくるのみです。

 パウロによれば、人間は、罪については二通りしかありません。第一は罪をあからさまに犯して、人間というのはこういうものだよと罪にあぐらをかいてしまうことです。第二は罪を犯さずに道徳的に生きようと賢明に努力するのですが、そのまじめな努力のすえに、「私は正しい。あいつらよりもよほどまともな人間である」と誇りをもって、人をさばく罪です。実際には、神の御目の前で罪のない人はいないのに。 要するに、人間は、罪を犯してこれに慣れてしまうか、偽善に陥るかのいずれかであるというディレンマのなかにあるのです。

 ところが、福音書を読めばよくわかりますが、神は、傲慢と偽善という罪を特に嫌われます。主イエスのご生涯を見る時に、主イエスが憎まれた罪のうち最大のものは殺人でも盗みでも姦淫でもありませんでした。それは偽善の罪でした。「忌まわしい者だ。偽善の律法学者、パリサイ人たち。あなたがたは白く塗った墓のような者です。墓はその外側は美しく見えても、内側は、死人の骨やあらゆる汚れたものがいっぱいなように、あなたがたも、外側は正しそうに見えても、内側は偽善と不法でいっぱいです。」(マタイ23:27、28)

 罪にまみれているか、それとも、偽善の仮面をつけるかのというこの、どうしようもない谷底からどのようにして私たちは救われうるのでしょうか?

 「行いの原理によってでしょうか。そうではなく、信仰の原理によってです。人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。」(27b)

 神は、罪と偽善というジレンマにある人間に、救いは行いによらず、信仰による道を神は用意されました。そこに誇りはありえません。信仰によるということは、どういうことかというと、「私はほんとうに惨めな人間です。だれがこの死のからだから、私を救い出してくれるでしょうか。私たちの主イエス・キリストのゆえに、ただ神に感謝します。」ということです(7:24)「私は乞食です。しかし、お恵みを感謝します」ということです。信仰とは乞食が差し出す手です。乞食はただ「おありがとうございます」というでしょう。 恵みにより、信仰によってキリストの義を受け取ったなら、そこに誇りはありえません。ただ神への感謝と賛美があるのみです。こうして、神さまは私たちはあからさまな罪さと偽善とのジレンマから救い出されたのです。ただ感謝するほかありません。

 神さまの御子が私たちの罪を背負って十字架で死んでくださったということ、これだけが律法を持つユダヤ人も、律法をもたない異邦人もともに救うために、神がお選びになった方法です。まことの神は天地万物の創造主である神なのですから、それはユダヤ人だけの神ではなく、あらゆる民族国語の人々にとってまことの唯一の神です。この神が、律法によらず信仰によって義と認めるという救いを用意なさったのは、まことに当然です。(29、39節)

 3:29 それとも、神はユダヤ人だけの神でしょうか。異邦人にとっても神ではないのでしょうか。確かに神は、異邦人にとっても、神です。

 3:30 神が唯一ならばそうです。この神は、割礼のある者を信仰によって義と認めてくださるとともに、割礼のない者をも、信仰によって義と認めてくださるのです。

 そもそも、神様の救いの計画のなかにおいて、恵みによる救い、信仰によって義と認められるという一本の道によって、罪人は罪人らしくただ神に栄光をお返しすることになるのです。罪ある私たちは、恵みによって救われました、すべての栄光は神にお返しします、と主を賛美するのみです。

 

3.恵みによる救いは律法を確立する

 

 最後に使徒パウロは「それでは、私たちは信仰によて律法を無効にすることになるのでしょうか。」と問いかけ、自ら「絶対にそんなことはありません。かえって、律法を確立することになるのです。」と答えます。

 パウロが、救いが人間の行いを根拠とせず、ただイエス様の十字架の贖いを根拠とする恵みによるのだとキリストの福音を伝えると、ユダヤ主義者たちは「恵みによって救われたのだから、十戒を守ってまじめに生きる必要はない。罪を好きなだけ犯そうではないかということになるではないか。パウロはとんでもないことを教えている」言って非難しました。

 しかし、というようなことは現実には起こりませんよ、とパウロは続けます。恵みによる救いはなぜかえって律法を確立することになるのでしょうか? 無代無償で救われたら、人はどうして十戒を前よりも熱心に満たそうとするのでしょうか? それは、エス様を信じて、神との関係が正常化された人は、神と聖霊による交わりをいただけるようになるからです。聖霊によって新しく生まれた人は、内側から造り変えられて、喜んで主に従う生活をする人になるのです。十戒を守る程度では飽き足らず、喜んで神のみこころを行なう人になるのです。盗んでいた人は、むしろ、自分の手で働いて貧しい人々にほどこしをする人になります。人を憎んでいた人は、敵をも愛する人に変えられます。こうして律法の行ないによらず、神の一方的な恵みによる救いは、かえって律法を確立することになるのです。 そして、一切は自分の行いではなく、神の恵みによるのだという喜びとともに、神に栄光をお返しするのです。

 

まとめ

 この歴史の中に、御子イエスの十字架が公にされたことによって、神の義は勝利しました。すなわち、十字架によって神がいかに正義に満ちたかたであるかということが証明され、かつ、キリストの十字架によって悪魔の力が打ち破られたからです。

 そして、私たち人間が自分を縛っていた行いに関する誇りも消えて、ただ神に感謝をおささげし栄光をお返しすることができるようになったのです。主イエスの十字架こそ、神の義の勝利なのです。