水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

さあ、主の家に!

詩篇122

                                                                               

 

都上りの歌。ダビデによる

 

 122:1 人々が私に、

  「さあ、【主】の家に行こう」と言ったとき、私は喜んだ。

 122:2 エルサレムよ。私たちの足は、おまえの門のうちに立っている。

 122:3 エルサレム、それは、よくまとめられた町として建てられている。

 122:4 そこに、多くの部族、主の部族が、上って来る。

  イスラエルのあかしとして、【主】の御名に感謝するために。

 122:5 そこには、さばきの座、ダビデの家の王座があったからだ。

 122:6 エルサレムの平和のために祈れ。

  「おまえを愛する人々が栄えるように。

 122:7 おまえの城壁のうちには、平和があるように。

  おまえの宮殿のうちには、繁栄があるように。」

 122:8 私の兄弟、私の友人のために、さあ、私は言おう。

  「おまえのうちに平和があるように。」

 122:9 私たちの神、【主】の家のために、

  私は、おまえの繁栄を求めよう。

 

 

 お読みした詩篇122篇は今年の元旦礼拝でともに味わった箇所です。元旦礼拝に参加された兄弟姉妹にとっては、今年二回目のメッセージということになります。それでも、どうしてももう一度話すべきだと導かれたのは、教会総会に先立って、2018年度の目標のみことばとして与えられたその意味を確かめるためです。説教原稿はもちろん新たに準備しなおしました。またこの二か月、詩篇122篇をともに歌って過ごしてきました。

 旧約時代におけるエルサレムと神の家である神殿は、新約時代における教会を指さしています。

Ⅰテモテ 3:15. 「それは、たとい私がおそくなったばあいでも、神の家でどのように行動すべきかを、あなたが知っておくためです。神の家とは生ける神の教会のことであり、その教会は、真理の柱また土台です。」 

この一編をそのように味わってまいりたいと思うのです。

 

1.さあ、主の家に!

 

 さて、詩篇は120篇から134篇まで「都上りの歌」と表題が付けられています。神の家、エルサレム神殿に詣でた巡礼たちをイメージして、これらは編まれています。120篇は遠く異郷ケダル・メシェクにあっての神の都エルサレムへの望郷の叫びでした(120:5,6)。メシェクというのは、黒海カスピ海の間の地域で、初場所で優勝した栃ノ心のふるさとジョージアあたりです。ケダルは小アジア半島の北部。これらの地にから巡礼が都エルサレムへと上っていくという設定です。

 次に詩篇121編は「私は高い山に向かって目を上げる。私の助けはどこから来るのだろうか。私の助けは天地を造られた主からくる」と始まる有名な一篇です。これはエルサレムに上っていく巡礼の荒野の旅路で、前途に立ちはだかる岩山を見上げての歌でした。そして、本日の122編。これは巡礼者が、いよいよ都に入った感激の場面です。

 

 都エルサレムは山の上にあります。その山は、父祖アブラハムがひとり子イサクを捧げたというあの山です。祭りのシーズンになると世界から集まってくる巡礼者が多すぎて、到底エルサレムの城壁内の宿屋では収容しきれません。そこで、当時巡礼たちは、そのふもとにテントを張って一夜の宿を取りました。

 そして、まだ夜が明けそめる前に、床から起き出てきます。遠足の朝みたいです。とても夜明までは待って居られません。はるか異郷の地で夢にまで見た神の都エルサレムです。巡礼たちは粛々と旅装を整えますが、胸のうちからは喜びが湧きあがってきます。そして、サンダルのひもを結んで、「さあ。主の家に参りましょう!」となります。

1節。人々が私に、「さあ。主の家に行こう」と言ったとき、私は喜んだ。

 

<適用>

 二千年、いや三千年、今日までこの巡礼者たちの喜びは、繰り返されてきました。キリストの時代が来たって、主の家は教会となりました。 主の日の朝ごとに、私たちはたがいに声をかけ合いましょう。「おはようございます。さあ。主の家に参りましょう!」「『いざ、主の家にぞわれら行かん』と人々いうとき、われ喜びぬ。」です。

 メシェクとトバルではありませんが、この異郷国日本にあって、まことの神を知らぬ人々に囲まれた生活の中で、キリストを信じる者として緊張を強いられた日々の中、ああ、神の家に行きたいと思ったことが何度あったことでしょう。主の日の礼拝の朝。「さあ、主の家に参りましょう!」と玄関から聞こえる声のなんと喜ばしいこと!

 

2.教会、信仰告白「よくまとめられた町」

 

(1)エルサレムの門で

 巡礼たちは、一気に、エルサレムの丘を押し登り、すでに門のうちです。

2節「エルサレムよ。私たちの足は、お前の門のうちに立っている。」

 ここにいう「立っている」は、「立ち続けている」「立ち尽くしている」という意味のことばのかたちです(Qal,オーメドート、アマドの分詞) 。巡礼たちは、門に入ると感激のあまり、目を瞠り、そこに立ち尽くしているのです。異郷での戦いが厳しく旅路の苦労がたいへんだったからこそ、なおのこと神の都の門に立ちえた喜びが大きいのです。

 一週のこの世での戦いを終えて、教会の門に立つとき、こんな感動をもつ。この世での戦いが熾烈であったればこそ、今ここに立つことの感動も深いのです。

 「エルサレムよ。私たちの足は、おまえの門のうちに立っている。」主の日が来るごとに、こんな感動をもって教会の玄関を潜るものでありたいと思います。

 

(2)よくまとめられた町

 さて巡礼の目は、目の前に広がるエルサレムをながめてほうっと息をつきます。旅してきた岩がごろごろした荒野とは、なんという違いでしょう。行き交う人々の生き生きとしたありさま、軒を連ねる家々。荒れ地を長旅をしてきた巡礼にとっては、エルサレムの光景は新鮮です。

3節。「エルサレム。それはよくまとまられた町として建てられている。」

 「よくまとめられた」というのは英語の訳ではコンパクトです。バビロンのような巨大な威容はないけれど、小ぶりだけれどよく秩序だった美しい街の姿です。キリストの教会には、この世とは違った「よくまとめられた町」として一つのコンパクトな聖なる秩序があるはずです。使徒は言いました。「ただすべてのことを適切に、秩序をもって行いなさい。」(1コリント14:40)それは、この世のように権力と剣による秩序ではなく、神を恐れ神を愛する者のうちにある、御霊の一致による秩序、信仰告白の一致による調和です。神の教会には、そういう「よくまとめられた」姿です。自由と言って放縦に走らず、秩序といって形式主義に陥らない神の家の姿です。それが、神を恐れ、神を愛する者たちの教会のありかたです。

 

3.礼拝=神の民の証

 

 しばし門に立ち尽くし、町を眺めていた巡礼は、今度は門を出入りする往来見回します。すると、自分と同じような巡礼者の波が、続々と門をくぐって行くいくことにあらためて気付きます。それぞれの言葉や身なりで、ああはるばるやって来た老若男女なのだと分かります。自分たちと同じように北方からやって来たであろう色白の人々もいれば、アフリカかアラビアから来たのであろう日焼けした人々もいます。若い人もいれば、年とった人々もいます。子供、男、女、貧しい身なりの人、立派な身なりの人、遠くから近くから各地から、各様にこの都エルサレムに、集ってきたのです。

  身なりも、言葉も、男女も、年令も、色々様々だけれど、目指してきた所は一つです。それは、「神の民イスラエルのあかしとして、主の御名に感謝するため」です。「ことばに色に違いあれど、御民のおがむ主ひとりなり」です。礼拝を捧げるためです。そうです。礼拝こそ、イスラエルが神の民であるということのなによりのあかしなのでした

4節。「そこに、多くの部族、主の部族が、登ってくる。イスラエルのあかしとして、主の御名に感謝するために。」

 

<適用>                                                                    

 新しいエルサレムである教会。集う者たちも様々です。年寄りも居れば、中年もいる、若者も、幼子もいる。男も女も、富むものも貧しいものも、日本人も、アメリカ人も、韓国人も、モンゴル人も、中国人も、マレーシア人も、キリストにあっては一つの神の家族です。まさしく「ことばに色に違いあれど、み民のおがむ主ひとりなり」です。聖なる公同の教会です。

 私たちは、なぜ主の日ごとに教会につどうのか。それは、神の民としてのあかしのため、主の御名に感謝するためです。礼拝するためです。そうです、礼拝こそ、私は神の民ですという何よりのあかしなのでした。この世では目にも留められないような小さな存在であったとしても、天地の主を礼拝するということ、これこそクリスチャンのクリスチャンたるしるしです。クリスチャンとはまことの神を礼拝する民のことです。

 そして、私たちが、一つ所に集い、神を心から喜び、神を感謝している姿。そこに、この世の人々は「神は生きておられる」というあかしを見るのです。肉による家族や世の人々を相手に、どんな「キリスト教弁証論」をこねるより、あなたが神の民の中で、まことの神を礼拝することにいのちをかけ、そのことで感謝に満ちている。その姿を見る人は、あの教会の集いのうちには、この世にはないなにか素晴らしいもの、なにか不思議なものがある、神は生きておられると、認めるのです。

 

4.ダビデの王座

 

 また、都エルサレムは神礼拝の中心であると同時に、地方では裁き切れない問題が持ちこまれて、ここで賢明な決裁のなされる場でした。エルサレムには、王の座があり、その裁定がなされたのです。旧約聖書にソロモン王のもとにひとりの赤ちゃんをめぐって裁きを求めて来た二人のやもめの姿が描かれている記事があるでしょう。父ダビデの王座についたソロモンは見事な裁きをなしました。

5節。「そこには、さばきの座、ダビデの家の王座があったからだ。」 

<適用> 

 この世の生活で、職場のこと、家庭のこと、地域のことで多くの問題をかかえ、解決のできないことに苦悶しているなかで、一週を過ごして後に迎えた主の日の朝。ところが、その悩みが、礼拝で主を見上げ、御言葉に耳を傾けているうちに、嘘のように解決していた、そういう経験があるでしょう。教会にはまことの王であるキリストのみ座があるからです。説教者が聖書といういのちのことばを忠実に説き明かすとき、不思議に生けるキリストが、私たちの心を照らし、私たちの悩みを氷解させるのです。

 

5.神の家のために祈ろう

 

 こうして後半は巡礼たちの都のための祈り、都の人々のための祈りと祝福へと展開してゆきます。

 エルサレムとは、「神の平和」という意味です。神の都はすべからく平和の都であるのです。また、そうあるようにと巡礼たちは祈ります。国民全体の平和と繁栄とは、この都エルサレムにおいて、正しい神礼拝がなされ、かつ正しい王によるさばきがなされるかどうかにかかっています。都での神礼拝が乱れ、都の王座が正しい裁きをしなくなるならば、国民全体が乱れ、罪に陥り、神の怒りを被ることにもなりましょう。ですから、都を訪れた巡礼たちは、神の民の礼拝の中心、統治の中心たるエルサレムの平和と祝福のために祈るのです。そして、都のために祈り、都を愛する者たちは神の祝福を受けて栄えるのです。

6節。「エルサレムの平和のために祈れ、

        おまえを愛する人々が栄えるように。

        おまえの城壁のうちには、平和があるように。

        おまえの宮殿のうちには、繁栄があるように。」

<適用>

 新約の時代、私たちはエルサレムを新しいエルサレムである教会に適用して読むべきところです。もしあなたが、教会の平和と繁栄のための祈りは、その人自身の祝福となって帰ってきます。教会を愛する人は栄えるのです。私たちは洗礼のとき、あるいは転入会のとき、「教会の純潔と一致と平和のために努力することを誓います」という誓いをもって神の家族に結ばれました。

 今年、教会の平和と繁栄のためにさらに祈りましょう。奉仕者のためにさらに祈ってください。自分の生活や困難のためばかりでなく、今年もっと教会の平和と繁栄のために祈ってください。説教者がみことばに生き、みことばを語ることができるように、ぜひ祈ってください。

 

 そして、神の家である教会のうちに平和があることは、兄弟姉妹、友人の祝福にもなるのです。私人が8節で「おまえのうちに平和があるように」という「お前」はエルサレム、神の家のことです。

8節。「私の兄弟、私の友人のために、さあ、私は言おう『おまえのうちに平和があるように。』」

9節。私たちの神、【主】の家のために、

  私は、おまえの繁栄を求めよう。」

                                                                  

 私たちはさらに互いの、平和と祝福のために祈り続けるものでありたいのです。この御言葉が与えられて、今年は、もっともっと祈りを充実する年としたいと願っています。水曜日の朝夕の祈祷会が祝福されますように。また、会堂のお掃除の前後、会計、各部各委員会の前後、あらゆる機会に祈るものとなりましょう。個人の生活の中でも、聖書を開き、日々祈りましょう。自分と家族のために祈ることも大事ですが、教会のために祈りましょう。牧師が健康を守られその働きをまっとうできるためにも祈ってください。

 巡礼はその都の礼拝の中心の「主の家」のためにいのったように、私たちは礼拝の中心、教会の平和と繁栄のためにさらに祈ってください。

 

(結び)

 かくて、詩篇122編は閉じます。

私たちは、詩篇122篇を苫小牧福音教会の教会賛歌として用いたい。

七日ごとに訪れる主の日の朝ごとに、あの巡礼の感動を新たにするものでありたい。

「さあ。主の家に行こう!」とたがいに声を掛け合う者たちでありたい。

さあ、主の家に行きましょう」と家族や近所の人にも声をかける者となりたい。

私たちの感謝にあふれた礼拝が、キリストのあかしとなることを願いたい。

 

そして、教会の平和と繁栄のため、互いのため、そして、御言葉に仕える者のためさらにさらに豊かに祈る者でありたいのです。

 

 

 

詩篇歌122篇

 

いざ主の家にぞ われら行かんと 人々いうとき

われ喜びぬ ああエルサレムよ われらの足はなが門のうちに立ち続けたり

 

主のやからはみな上り来たりて イスラエルのよき証のために

主の御名に向かい感謝をささぐ かしこにダビデの御座あるゆえに

 

エルサレムのため平安祈れ なんじを愛する者らは栄え

なが垣のうちに平安ありて なが宮のうちに栄えあれかし

 

今わがはらから わが友のため 汝の安きをわれは祈らん

われらの神なる主の家のため 汝の幸いわれは求めん

 

(日本基督改革長老教会詩篇抄集』より。)

 

<注>今回の説教は、教会総会に先立っての説教でした。内容的には、小畑進牧師の都上りの歌の説教の色濃い影響を受けているなあと、われながら思います。

道・真理・いのち

ヨハネ14:1-7

  14:1 「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。

14:2 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。
14:3 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。
14:4 わたしの行く道はあなたがたも知っています。」
14:5 トマスはイエスに言った。「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」
14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。
14:7 あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」

1.心を騒がしてはなりません・・・・死に対する恐怖

(1)歴史の事実
 お読みしたのは、まもなくイエス様が弟子たちのもとを去り、十字架に向かおうとしているとき、最後の晩餐の席上での、弟子のひとりトマスとの対話の場面です。まず、この出来事の日付を確認しておきます。歴史学者・聖書学者・天文学者の研究を調べてみると、この最後の晩餐の日付は西暦でいえば33年4月2日のようです。十字架にかかられるのは、その翌日です。
このように日付とを確認するのは、イエス・キリストは仏教の阿弥陀さんとか大日如来などのように空想上の宗教的存在ではなく、歴史上の現実のお方であることをまず憶えていただきたいからです。イエスは私たちが住んでいる時間と空間の中に実在していたお方であり、聖書に記されている出来事はいわゆるフィクションではなく、歴史の事実です。聖書は詩篇や雅歌といった部分を除いて、大半は文学書や哲学書ではなく、過去実際に起こったことが書かれている歴史書です。

(2)状況
「あなたがたは心を騒がしてはなりません。」と主がおっしゃるように、この時、弟子たちは心を騒がし恐れていました。なぜなら、彼らは主イエスの口ぶりや態度から、主が弟子たちのもとを去り、死ぬ覚悟でいらっしゃることを感じ取っていたからです。14章の冒頭には「さて、過ぎ越しの祭りの前に、この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので・・」と書かれています。また、晩餐の席上ではイエス様が弟子たちの足を洗ってくださり、そのあと、「わたしがあなた方にしたとおりに、あなたがたもするように、わたしはあなたがたに模範を示したのです。」(14:15)と遺言のようなことをおっしゃるのです。
 さらに、主イエスは「あなたがたのうちのひとりが、わたしを裏切ります」(21節)と、ご自分が裏切られて、死に至るのだと驚くべき予告しておられます。
 そして36節では「わたしが行く所に、あなたは今はついてくることができません。」とおっしゃり、「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。」と言われました。主イエスが、弟子たちのところを去って父のもとにゆくべき時が、今や刻々と迫っていると、弟子たちはひしひしと感じ、心騒がしていたのです。
それで、主イエスは「あなたがたは心を騒がしてはいけません。神を信じ、またわたしを信じなさい」とおっしゃいました。3年間、どんなときにも主に付き従って来た弟子たちとしては、不安でなりません。イエスさまがいなくなってしまうならば、自分たちが抱いて来た望みはどうなってしまうのか?と恐れを抱いているのです。また、イエスさまが裏切られて、敵に渡されてしまうということになれば、自分たちだってただでは済まないだろうとおもわれました。

 

(2)死が怖い理由
 実は、この「心を騒がしてはなりません」以下の聖書のことばは、しばしば葬儀の場面でも朗読されるところで、葬式の式文にも採用されています。愛する者を失った遺族を慰め、力づける主イエスのことばとして読まれるわけです。 弟子たちが恐れていたのも、死によって愛するイエス様から引き離されるということでした。また、それだけでなく、自分たちが主イエスの弟子であるということで、自分たち自身も当局に逮捕されて処刑されるかもしれないという恐怖もありました。死はすべての希望を奪い去ってしまうのです。

 人はなぜ死を恐れるのでしょうか?この世の愛する人々との別離があるので、寂しいから、というのは理由の一つでしょう。しかし、それがすべてでしょうか?そうではありません。愛する人々などこの世にはいない天涯孤独な人であっても、よほど特殊な人でない限り死を恐れます。なぜ人は死を怖がるのでしょう。
 私の父は、私が洗礼を受けた後、49歳のときに教会に通い始め、朝拝、夕拝に出ては、熱心に説教を聞いていました。しかし、なかなか信じることができないでいました。そんな父にとって、尾山令仁先生が書かれた二冊の本が役に立ったそうです。一つは『キリスト教一問一答』という本で、宗教とは、聖書とは、神とはといった項目を筋道を立てて、論理的に答えている本でした。父はこの本を会社の行き帰りに3回も4回も5回もボロボロになるほどまで読んでいました。もう一冊が『死への備え』という本でした。父が50歳で洗礼を受けたときの証で、「私はこの本を読んではじめて実感として自分には救いが必要であること、イエス・キリストという救い主が必要であることがわかりました」と話していました。
 人は死に不気味なものを感じます。それは、死の向こうに何か恐るべきものが待っているという予感があるからです。「死んでしまえば、火葬場で燃やされて大半は煙になり、残りの骨は墓に入れられておしまいだ」と口先では威勢よく言って、自分にいくら言い聞かせても、実は、死後にただならぬことが待っていることを人は感じています。
 実際、死後の体験というものをした人々は、自分の肉体から自分の霊魂は離れたという共通した証言をしています。ただ、そういう体験を証言する人々は生還した人々ですから、その先どういうことが待っていたのかということについては、沈黙するほかないのです。
 死後に何があるかということについて、正確に知っているのは誰でしょう?それは、この世界とともに死後の世界をも造り、これを支配している神だけです。その神が、はっきりと聖書を通して「人間には一度死ぬことと、死後にさばきを受けることが定まっている」(へブル9:27)と教えているのです。 その時、私たちは一人一人、神の法廷に立たされて、生前にその手で行ったこと、その口でしゃべったこと、その心に思ったことのすべてを、神によって吟味されることになるのです。そこで永遠の死に当たる罪について、ローマ書1章はこのようにリストアップしています。
「ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、 1:30 そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、 1:31 わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。 1:32 彼らは、そのようなことを行えば、死罪に当たるという神の定め」がある。
 このリストを読んで、あなたは神の前に一つの罪もありませんか。残念ながら、思い当たる節のない人はいないでしょう。つまり、このリストだけ見るならば、死後、天国にあなたの住まいはないということです。親鸞聖人が自分の心が汚れ果てている現実を見つめて、「地獄は一定、住処ぞかし」と嘆いたのはもっともなことでした。

 

2.天の家を備えるお方

 そこで、主イエスは、主との別離を恐れ、自らの死を恐れて心騒がせている弟子たちに対しておっしゃいました。  14:1 「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。」 なぜ、死を恐れなくてよいと主イエスはおっしゃることができるのでしょうか。それは、主イエスが主イエスを信じる者のために天の住まいを用意するために、天の父のもとに行くからです。 
「14:2 わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。 14:3 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです。」
 主イエスを信じる者たちのためには、主イエス様が、ちゃんと天の住まいを用意していてくださるのです。そして、用意がきちんとできたら迎えに来てくださるのです。だから、イエス様を信じる者は死を恐れる必要がありません。地上における務めが終わったら、イエス様が至福の御国に連れに来てくださいますから、どんなおうちかなあと楽しみに待っていればよいのです。

 では、イエス様は、どうしてこのようなだいそれたことを言う資格があるのでしょう。イエス様は、人類の歴史の中で、ほかの誰も決して言うことのできないことを宣言しました。


14:6「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。 14:7 あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」


 人類史上最も偉大な思想家を三人挙げなさいといえば、多くの人は、インドのシャカ(ゴータマ・シッダールタ)と、ギリシャの哲人ソクラテスと、中国の孔子をあげるでしょう。   
 ソクラテスが真理を探し求めてみて知ったのは、「私は何も知らない」という事実でした。そこで当時のギリシャで知者と呼ばれる人々を次々に尋ねて回りました。すると、実は誰一人、真理を知る人はいませんでした。ただソクラテスが彼らと違っていたのは、彼らは自分は知っていると思い込んでいましたが、ソクラテスは自分は知らないことを知っていたという一点でした。これを「無知の知」といいます。
 孔子も「知らないことを知らないとする、これが知るということだ」と言いました。また弟子たちから「死とはなんですか?」と問われた時には、孔子は「いまだ生を知らず。いわんや死をや。」と答えました。
 シャカは、真理を探し求め、ついに見つけ出したのは、人生は所詮、苦しみのかたまりであり、人が老いて、病気になって、死ぬものなのだあきらめなさいだとしました。あきらめたら若くあろう、病気になるまい、死にたくないなどという執着がなくなった分、少し気が楽になる、ということです。シャカは死後についてはまったく教えませんでした。
 真理はわからないことだけはわかる。人生は苦しみに満ちている。死はわからない。これが人類史上最大の思想家たちの到達点です。偉大な思想家が、いわば下から上に向かって懸命に父なる神に到達する道を探したり切り開こうとしたけれども、誰一人到達することはできません。神は無限にきよく、無限に偉大なお方ですから、有限であり、かつ、罪ある人間がどんなに頑張っても到達できないのは当然のことです。
 ところが、イエス様はなんとおっしゃいましたか。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」とおっしゃるのです。イエス様のお言葉は、人間が修行を重ね、探求して、ついに到達したことばでないことが一目瞭然でしょう。これは上からのことば、神のことばです。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。」 イエス様が「わたしが道である」とおっしゃった意味は、続いて「わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」と言われたことからわかるように、イエス様だけが父なる神様への道、言い換えれば、死の淵をこえて天国への道なのだという意味です。なぜなら、イエス様は父の御許から来られた神の御子であるからです。
 イエス様は世界が存在する前から、父なる神とともに生きておられる神の御一人子です。イエス様はこのあと、こうおっしゃっています。ヨハネ17:5 「今は、父よ、みそばで、わたしを栄光で輝かせてください。世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光で輝かせてください。」 人間が真理を求め神を求めたのではありません。神の御一人子でいらっしゃるお方が、私たち人間を求めてくださったのです。哲学者たちのように下から上に探求したのではなく、上から下に下ってこられたのです。有限の者が無限の神を求めても決して到達できないので、無限のお方が有限な人間の性質をおびてへりくだって来てくださったのです。そして、有限な私たちにわかる言葉をもって真理を語り、私たちに神は愛であることをおしえてくださいました。有限な私たちも、イエス様の愛と正義の生き方、イエス様のおことばの真実を聖書に見るときに、父なる神がどのようなお方であるかを見ることができます。主イエスは弟子のトマスに向かっておっしゃいました。 「14:7 あなたがたは、もしわたしを知っていたなら、父をも知っていたはずです。しかし、今や、あなたがたは父を知っており、また、すでに父を見たのです。」


3 主はどのように天の住まいを備えてくださったのか 
 
 最後の晩餐の席上、主イエスは、「あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。 14:3 わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。」とおっしゃいました。どのように備えてくださったでしょう。この時から三時間ほど後、イエス様はゲツセマネの園で当局によって逮捕され、ユダヤ議会の法廷にかけられました。イエスを有罪とするためにさまざまな偽証がありましたが、どれもちぐはぐで証拠にはなりませんでした。そして、最後にイエス様がユダヤの法廷で死刑判決を受けた理由は、ただ一点でした。それは、イエス様がご自分を神と等しくしたという事実でした。そのあと、ローマ総督の法廷を経て、イエスは十字架刑に処せられました。
 十字架にはりつけにされると十字架の下の人々はイエスを嘲りました。しかし、苦しい息の下で、主イエスは「父よ。彼らをゆるしてください。彼らは自分で何をしているのかわからないのですから。」と祈られました。そのとき、さきほどまでイエスを罵っていたイエスの隣の罪人がイエスに言いました。「イエス様。あなたが天の御国の王座に着くときには、あっしのことを思い出してください。」すると主イエスは、「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいる。」
 イエス様の十字架の死は、私たちが父なる神の前に背負っているすべての罪の呪いを、身代わりとなって背負うためでした。そして、信じる者を罪の呪い、地獄の滅びから解放してくださるためでした。
こうして、神の御子であるイエス様が、私たち有限な人間と無限の父なる神とをつなぐ唯一の道をなり、イエスを信じる人々に天の国の住まいを準備してくださったのです。

 14:6 イエスは彼に言われた。「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」

まとめ 

 神様と私たちを隔てているのは、二つのことです。
 第一は、神は無限であり私たちは有限者にすぎないという事実です。第二は、神は聖なる汚れなきおかたであるのに対して、私たちは心の想いと、ことばと、行いにおいて汚れた罪人であるという事実です。
 イエス様は、道であり、真理であり、いのちであるお方として、この二つの隔ての問題を解決してくださいました。
  第一に有限な人間が無限の神を求めても求め得ないので、神に等しい神の御子であるイエス様が、有限な人としての性質をおびて私たちのところにきてくださいました。それで、私たちは御子イエス様を見ることをとおして、父なる神を見ることができます。第二に、御子は私たちの罪を十字架の死と復活をもって処理してくださいました。ですから、私たちは神の前における自分の罪を認めイエス様を私の救い主として受け入れるならば、罪ゆるされて父なる神のもとに行くことができるのです。 
道であり真理でありいのちであるイエス・キリストをあなたも信じてください。そして主が、十字架の苦しみを受けることによって用意してくださったすばらしい永遠の住まいに迎えられるその日を楽しみにして生きる人生をともに歩みましょう。

 

造り主に帰れ

ローマ1:18-32
  1:18 というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。 1:19 それゆえ、神について知られることは、彼らに明らかです。それは神が明らかにされたのです。 1:20 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。
1:21 それゆえ、彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。 1:22 彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、 1:23 不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。
  1:24 それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。 1:25 それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。
  1:26 こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、 1:27 同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行うようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。
  1:28 また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。
1:29 彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、 1:30 そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、 1:31 わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。
1:32 彼らは、そのようなことを行えば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行っているだけでなく、それを行う者に心から同意しているのです。

 

1.自然啓示によって創造主なる神を知る(18-20節)

(1)明らかである
 まことの神は天地万物の創造主であり、ご自分のことを被造物を通して私たちに明らかにしていらっしゃいます。19,20節


1:19 それゆえ、神について知られることは、彼らに明らかです。それは神が明らかにされたのです。 1:20 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。


 神さまがご自分とその御心を現わす働きを啓示といいます。神さまは、この啓示のために二つの方法をお用いになります。一つは、神の被造物つまりいわゆる自然をとおしてお与えになることで、自然啓示とか一般啓示と呼ばれます。もう一つは超自然啓示とか特別啓示で、預言者にことばが与えられたこと、イエス様が人として来られたこと、そしてそれらを聖霊による聖書に霊感されたこと奇蹟的な方法による啓示です。ここでパウロが言っているのは自然啓示の方です。創造主が実在すること、そして神様がどれほどの力と知恵とに満ちたお方であるかということは、宇宙や森の木々や動物や人体などをよく観察すれば、あまりにも明白なことであるとパウロは教えているのです。
 今日は、人間の体、特に耳をとりあげてみましょう。

①耳の構造全体図を見てください。耳たぶから鼓膜までを外耳、鼓膜から耳小骨のあるところが中耳、そしてその奥の蝸牛と三半規管があるところが内耳です。
②音は空気の振動です。その振動が外耳を通って鼓膜に到達して、鼓膜を揺らします。この鼓膜の揺れを、耳小骨が蝸牛に伝えるのですが、耳小骨が非常によくできています。耳小骨はツチ骨、ヌタ骨、鐙骨からできていますが、振動を伝えるためには固定されていてはいけないので、宙ぶらりんにつるされています。しかし、同時に、頭をグラグラしたらそれで取れてしまってはいけないのでしっかり固定されています。しっかり固定されていながら、固定されていてはいけないという絶妙のバランスで耳小骨はぶら下がっていて、三つの骨の組み合わせで鼓膜の振動を増幅して蝸牛に伝えます。
③蝸牛の大きさはワイシャツのボタンほどしかありません。しかし、その中は精巧を極めています。管の中は、三つの部屋に分かれていまして、空気の振動はグルグルと一番奥まで入って、またグルグル回って出てきます。
④その振動を電気信号に変えて脳に送るのがコルチ器です。コルチ器の蓋膜(がいまく)と呼ばれる部分は振動を受け止めてブルブルとかすかにふるえますと、蓋膜にむかって伸びて0.1ミクロン~0.4ミクロン離れている有毛細胞に触れたり離れたりすると、150ミリボルトの電気が流れたり切れたりします。この電気信号が脳に送られて、脳はその音を受け止めて理解するという仕組みです。

 いかがでしょうか?耳がどれほど精巧に設計され、造られているかがわかるでしょう。外耳道、鼓膜、三つの耳小骨とそれを宙づりにしている靭帯、コルチ器、有毛細胞、これらの仕組みの一か所でもなければ音はまったく聞こえません。見事な設計であり、非常にすぐれた設計者がいることは明々白々なことです。
 まさに、「 1:20 神の、目に見えない本性、すなわち神の永遠の力と神性は、世界の創造された時からこのかた、被造物によって知られ、はっきりと認められるのであって、彼らに弁解の余地はないのです。」
 耳だけでもこんなに精巧に仕組まれています。しかも、私たちのからだは耳だけではなく、目も口も脳も手足も、消化器官も、そして心臓や肺も骨も筋肉も血管も神経も、見事にまちがいなく、組み合わせられて一人の人体ができあがっています。これを設計し、組み立ててくださっている神は、なんと知恵に満ちたお方でしょうか。

 

(2)弁解の余地はない
 人には一度死ぬことと、死後にさばきを受けることがさだまっているので、あなたにも必ず神の聖なる法廷に立つ日がやってきます。そのとき、「私は創造主はいるということを知らなかったのです。体も世界も、偶然にこんなぐあいにできているのだと思っていました。だから礼拝も感謝もしませんでした。」と弁解する人にはかもしれません。すると、その時、神様は、おっしゃるでしょう。「わたしは、あなたの体の精巧な仕組みの一つ一つ、耳、目、心臓、手足、物事を考える脳の力などありとあらゆる作品を通して、私が生きていること明らかに示してきた。だれも教えてくれなかったなどという弁解の余地は、君にはない。」 

 

2.神の怒りの啓示・・・偶像崇拝

 けれども、パウロがここで言わんとしていることは、これほど弁解の余地のないほど明らかな啓示にもかかわらず、不思議なことに、多くの人が神に礼拝し、感謝して生活をしないで、正反対のことを行なっているということです。そして、その神に背を向けた人間の滑稽なばかりに悲惨なありさまこそが、実は、神の怒りの啓示なのだということです。

1:18 というのは、不義をもって真理をはばんでいる人々のあらゆる不敬虔と不正に対して、神の怒りが天から啓示されているからです。

 神の怒りの啓示は、人間の三つのかたちで現われています。第一は偶像崇拝です。
21-25節

1:21 それゆえ、彼らは神を知っていながら、その神を神としてあがめず、感謝もせず、かえってその思いはむなしくなり、その無知な心は暗くなりました。
1:22 彼らは、自分では知者であると言いながら、愚かな者となり、
1:23 不滅の神の御栄えを、滅ぶべき人間や、鳥、獣、はうもののかたちに似た物と代えてしまいました。
  1:24 それゆえ、神は、彼らをその心の欲望のままに汚れに引き渡され、そのために彼らは、互いにそのからだをはずかしめるようになりました。
1:25 それは、彼らが神の真理を偽りと取り代え、造り主の代わりに造られた物を拝み、これに仕えたからです。造り主こそ、とこしえにほめたたえられる方です。アーメン。


 「彼らは自分は知者であるといいながら、愚かな者となり」というとき、パウロの念頭にはアテネのアレオパゴスのことが浮かんでいたでしょう。ギリシャの都アテネは、今日まで哲学の都と呼ばれます。そこにソクラテスプラトンアリストテレスといった哲学者たちが出現し、その哲学の伝統はパウロの時代にも脈々と続いていました。彼らの哲学は近代・現代の哲学にまで受け継がれています。彼らこそ知者という人々です。けれども、パウロがアレオパゴスに行くとその広場にはたくさんの偶像の神々がまつられていて、それにいけにえを捧げて、恭しく祈りをささげているようすを見たのです。パウロは、憤りをおぼえました。「彼らは知者であるといいながら、まさに愚かな者となってしまっている」というのは、そのことです。現代日本でも同じではありませんか。たとえば、東京大学に合格するために一生懸命勉強してとても難しい数学の問題を解くことができるようになった学生が、何がまつられているかすら知らない神社に行って合格祈願をする。不思議なことです。 
 「いや偶像崇拝なんてかたちだけですよ」と弁解する人がいるでしょう。本当にそうでしょうか?偶像でもお守りでも、いったん手に入れてしまうと、怖くておいそれとごみ箱に捨てて処分できなくなってしまうのです。ただの木とか紙にすぎないのに、その木片や紙切れをポイっと捨てると、もしかして罰が当たるのではないか?と心の底で思っているからです。
 石や木の偶像やお札を怖がり、心とらわれている、その愚かな有様が、天地万物の造り主であるまことの神の怒りの現れなのです。まことの神をないがしろにするならば、人は自らの哲学や自然科学の成果を誇りながら、愚かなことをするようになるという、その見本なのです。

 

3.自己喪失  26-27節―――人と動物の区別、男女の区別がわからなくなる

 造り主である真の神に背を向けた人間に対して神の怒りが啓示されています。26,27節には、造り主を見失った人は、自分自身をも見失ってしまう、その姿が描かれています。神を喪失した者は、自己を喪失するのです。

1:26 こういうわけで、神は彼らを恥ずべき情欲に引き渡されました。すなわち、女は自然の用を不自然なものに代え、 1:27 同じように、男も、女の自然な用を捨てて男どうしで情欲に燃え、男が男と恥ずべきことを行うようになり、こうしてその誤りに対する当然の報いを自分の身に受けているのです。

 造り主である真の神を見失うと、人は自分自身が何者であるかがわからなくなります。本来、「(神は)神のかたちにアダムを創造し、男と女とに彼らを創造された」(創世記1章27節)とあります。人間の尊厳の根拠とは何でしょうか?人は、人格的な神の似姿であることです。それゆえに、人には尊厳があり、ほかの動物たちと区別されます。そして神が人を男と女とに区別されたので、男は男であり、女は女です。
 しかし、造り主である神を見失うと、人は人間であることの尊厳の根拠を見失い、ほかの動物との区別がわからなくなります。ギリシャ神話の中にも、下半身が馬で上半身が人間であるケンタウロスという生き物が登場するでしょう。また、動物と人間の区別がわからない世界では獣姦なども行われるのです。現代の日本人のほとんどは、人間とほかの動物たちとの区別がよくわからなくなって、人間はせいぜい頭の良いチンパンジーだと思い込んでいます。そういう風に学校でもNHKでも国民を教育しているのです。公教育でもって、そんなふうに人間の尊厳を根本から否定することを教え、人間の生きる目的について考えることもしないようにしむけておいて、日本では若者の性道徳がどうにもならなくなっているとか、自殺が世界一多いのはなぜだろう?と言っているのです。しかし、それは必然の結果なのではないでしょうか。人は考えているように生きるものです。子供のころから、「君はチンパンジーだよ」と思想を注入し続けるなら、人はチンパンジーのような生き方をするようになります。でも実際には人はチンパンジーではなく、神の似姿ですから生きる目的を考えたりして悩んで死んでしまったりするのです。

 さらに、造り主である神を見失うとき、人間は男と女の区別がわからなくなります。神が男と男と定め、神が女を女と定めたことを知らないからです。旧約聖書におけるソドムとゴモラがそうでしたし、古代ギリシャでも、古代インドでも、日本でも、とにかくまことの神を見失った世界には、動物と人間、男と女の区別がわからなくなってしまうという状況が生じるのです。これは神の怒りの啓示であると聖書は語るのです。

 

4 もろもろの罪  28-31節

 そして、神に背を向けた人間世界にドロドロとうずまくもろもろの罪のリストが挙げられますが、その初めに28節で注目すべきことばがあります。

1:28 また、彼らが神を知ろうとしたがらないので、神は彼らを良くない思いに引き渡され、そのため彼らは、してはならないことをするようになりました。

 28節によると、「神を知ろうとしたがらない」と訳されているのは、「神を彼らの真の知識に入れるのは適当でない」、つまり、「神など知っても無意味だとする」という人々は、「良くない思い」を抱くようになります。「よくない思い」は、さまざまな具体的罪となってあらわれます。なぜでしょうか?人は、考えたように行動するからです。思想は、その人の生き方を左右するのです。正しい思想を持てば、人は正しく行動しますが、悪い思想を持てば、悪い行動をするのです。「神など要らない」という思想を持てば、29-31節のような悪い行動が出てくるのです。なぜなら、神こそ正義と愛の源だからです。


1:29 彼らは、あらゆる不義と悪とむさぼりと悪意とに満ちた者、ねたみと殺意と争いと欺きと悪だくみとでいっぱいになった者、陰口を言う者、 1:30 そしる者、神を憎む者、人を人と思わぬ者、高ぶる者、大言壮語する者、悪事をたくらむ者、親に逆らう者、 1:31 わきまえのない者、約束を破る者、情け知らずの者、慈愛のない者です。


 そして、こうした神に背を向けた思想をもち、神の御心に背いた生活をする人々は、神の前に死罪つまりゲヘナの永遠の滅びに陥ることになります。

 

1:32 彼らは、そのようなことを行えば、死罪に当たるという神の定めを知っていながら、それを行っているだけでなく、それを行う者に心から同意しているのです。

 


 
結び
 人体を観察し、この自然界の見事な仕組みを見れば、これを造られたとてつもない知恵を持つ方が実在することは、明白な事実です。このお方が、聖書をとおして私たちに語っているのです。
  神は本来私たち人間をご自分の似姿として造り、私たちと人格的交わりのうちに生きるものとしてくださいました。私たちは、神と交わるならば、神の力と愛と正義にみちた命に生かしていただけますが、このお方に背を向ければ、無力と情け知らずともろもろの醜い罪が生じ、そして最後には永遠の滅びに陥ります。
 もし、これまで創造主なる神を信じていなかったという方は、今悔い改めて、神に立ち返りましょう。神は、あなたを招いておられます。また、すでに創造主なる神に招かれて新しい人生に生きている方は、ますます真の神を礼拝し、日々感謝に満ちた生活をしましょう。

福音は神の力

ロマ1:16-17
2018年1月21日 主日伝道礼拝

  1:16 私は福音を恥とは思いません。福音は、ユダヤ人をはじめギリシヤ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力です。
1:17 なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。「義人は信仰によって生きる」と書いてあるとおりです。(ローマ1章16,17節) 

 

使徒パウロの手紙は、あいさつを終わって、ここで手紙の主題を提唱します。主題は、福音です。福音というのは、良い知らせグッドニュースという意味です。神様から私たちに届いた良い知らせ、それが福音なのです。

 

1.かつてパウロは福音を恥ずべきものとした
 
 今日の箇所で、使徒は「私は福音を恥と思いません。」と宣言します。なぜ、こんなことを高らかに宣言しなければならなかったのでしょう。それは、ある人々はパウロが語る福音を恥ずべきものだとしたからです。

(1)かつてのサウロ
 実は、かつてパウロ自身がキリスト教徒たちが宣伝している福音は恥ずべきものだと主張していた人でした。彼は、かつて熱心なユダヤ教の教師でその名はサウロと言いました。ユダヤ教の教師として、天地万物の創造主なる神、裁き主である神を信じていました。また、神はユダヤ人を神の民としてお選びになったのだと教えていました。神の民は、モーセが定めたさまざまな儀式を行い、道徳の基準を達成することによってこそ、最後の審判のときに、神の前に義なる者として認めていただけるのだと教えていました。 もし異邦人が、真の神に救っていただきたいならば、まずユダヤ人になる儀式である割礼を受けて、ユダヤ人と同じように様々な儀式律法・道徳律法を行なわなければいけない、そのように教えていたのです。
さらにサウロはたいへんきまじめな人間でしたから、モーセの律法だけでなく、そこからいろいろな解釈をして派生したもろもろの規則を守って生活をすることを信条としていたのです。
 そういうサウロからすると、キリストの福音を恥ずべきものでした。その理由が少なくとも三つあります。

①受肉の教え
 第一に、キリスト教徒たちが「ナザレのイエスは生ける神の御子キリストである。」と宣伝していたことです。これは、サウロにとってはとんでもないことでした。神は天地万物を創造した唯一絶対であられるのに、神にはひとり子がいて、しかも、生身の人間ナザレ村のイエスという男となって地上に下られたという点つまり「受肉」という出来事をサウロは恥ずべきことであり、唯一絶対の神を冒涜する教えであると考えたのです。

②十字架と復活
 もしイエスが聖なる神の御子であるとするならば、自分たちユダヤ教当局はイエスを裁判にかけて、最後には十字架刑にしてしまったのですから、神の前にとんでもない罪を犯したことになってしまいます。律法を神の言葉を信じて教えて来たユダヤ当局が神の前に取り返しのつかない罪を犯したことになってしまいます。これはサウロには、到底受け入れられませんでした。
 しかも、キリスト教徒たちは、イエスは、ユダヤ当局だ罪に定めて処刑したが、神がイエスは正しい者として復活させたということです。この復活の事実こそ、神がイエスが真の神の御子であるということをお認めになった明白な証拠であるとキリスト教会は宣伝しているのです。これはサウロにとって、なおのことけしからんことでした。

 サウロにとって、聖なる神に独り子がいて、それが人間イエスになったという受肉の教えは、聖なる神への冒涜と映りました。しかも、その神の御子を自分たちユダヤ教当局が十字架で死刑にしてしまったというキリスト教会の主張はがまんならぬことでした。キリスト教は、神とユダヤ教会の敵であると彼は思いました。そこでサウロは怒り狂って、エルサレム中のキリスト教徒というキリスト教徒を男も女も若者の年よりも次々に摘発し、逮捕して、牢屋にぶちこんでしまったのでした。彼はキリスト教徒が宣伝する「福音」は恥ずべきものであり、キリスト教徒は根絶やしにしなければならないと信じて疑いませんでした。

③異邦人たちも福音を恥ずべきものとした
 さらに、パウロは後にキリスト教宣教師となり異邦人に伝道していったとき、ユダヤ人だけでなくギリシャ文化圏の異邦人たちも、キリストの十字架の福音を恥ずべきものとすることを見ました。本日の週報の左下の絵を見てください。二世紀のもので皇帝の給仕養成学校に用いられたという建物の壁に残された落書きです。「アレクサメノスの拝む神」とあります。同じ学校に学ぶ同僚がクリスチャンであったアレクサメノスを十字架につけられたロバを拝む奴と馬鹿にして描いたものです。「十字架にかけられるとは極悪人だろう。だがアレクサメノスによると、キリストは何も悪いことはしなかったという。なら、悪いこともしなかったのに、十字架につけられて殺されてしまうなんて、ロバほどまぬけな奴にちがいない」というわけです。
 ローマの哲学者ケルソスはキリスト教の教理を非難して、「世界に数ある宗教の中で、キリスト教だけが十字架で処刑された罪人を神として礼拝している。」と皮肉りました。ローマ人は力を追求し、力を誇る人々でしたから、彼らにとって、イエスが十字架にかけられてしまったことは弱さと恥にすぎなかったからです。
 パウロはコリント人への手紙で、1コリント1:18「十字架のことばは、滅びにいたる人々には愚かであっても、救いを受ける私たちには、神の力です。・・・・それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシャ人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシャ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです。」

 

2.今、パウロは福音を恥としない

 

 ところが、今、サウロ改めパウロは「私は福音を恥とは思いません」と高らかに宣言するのです。なぜでしょうか?理由は二つあります。

(1)復活のキリストがパウロを捕えたからです
 第一は、イエス・キリストパウロを捕えたからです。サウロがキリスト教徒へと回心した経緯を説明しなければなりません。彼は都エルサレムキリスト教会を弾圧しつくしました。それゆえキリスト教徒たちは、もうエルサレムには住めないので地方の町々へと移住して行き、その先々で、ナザレのイエスは神の御子でありキリストであると伝えて回ったのでした。ユダヤキリスト者たちは当初、異邦人にまで伝道することには抵抗感があったようですが、エルサレム教会が弾圧されたことによって、彼らはユダヤとサマリヤとガリラヤばかりか、飛び地であったダマスコにまで逃げていき、そこでキリストの福音を広げてまわったのでした。ユダヤ教当局からすれば弾圧は逆効果でした。
 そこでサウロは、当局から許可を得て、エルサレムはるか200キロメートル北方のダマスコまでキリスト教会弾圧のために、出張したのです。ところが、ダマスコの城壁の門の外にまで来たとき、突然、天からの光が彼をめぐり照らし、パウロは地面に倒れてしまいます。すると、彼の耳に「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか?」という声が聞こえました。サウロが、「主よ、あなたはどなたですか」と尋ねると答えがありました。「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。立ち上がって、街にはいりなさい。そうすれば、あなたのしなければならないことがわかります。」(使徒9章)
 サウロは、自分はとんでもないことをしていたと知ったのです。自分は神様のためにと必死になってキリスト教徒たちを迫害していたけれど、実は、ナザレのイエスは本当に神の御子であり、キリスト教徒たちは真の神の民なのだと、わかったのです。彼は悔い改めてイエスを信じ回心を遂げました。そして、彼は主イエスから、異邦人への使徒という使命を与えられて、世界中の人々に、「イエスこそ神の御子キリストである」と宣伝することになりました。将棋でいえば、イエス様は相手の飛車を取り上げて、自分の持ち駒として世界宣教を始められたのです。彼は最強の迫害者でしたが、今度は最強のキリスト教の宣教師となって八面六臂の働きを展開するのです。
 まず、この出来事が、サウロが福音を恥じませんという理由です。ユダヤ教の教師は旧約聖書の複雑で精緻な解釈をもって、キリストの福音を否定するかもしれない。また異邦人の哲学者は高度な哲学用語をもって、キリストの十字架のことばを嘲るかもしれない。しかし、キリストは死んだ思想や理屈ではなく、今も生きて働かれる神です。その圧倒的力をもってパウロを捕えたのです。神の国は屁理屈でなく、神の力です。

 

(2)福音は神の力だからです
 さて、ローマ書1章16節でパウロは「私は福音を恥としない!」と叫んで、その理由について語ります。
 「というのは(γαρ)福音はユダヤ人をはじめギリシャ人にも、信じるすべての人にとって、救いを得させる神の力(であるから)です。」
 福音は力である。当時の世界にはプラトンアリストテレスストア派エピクロス派だと、いろいろな哲学や道徳が流行っていました。パウロアテネを訪れてアクロポリスの丘に行った時にも、人々は朝から晩までそこで哲学論議をしていたのです。今日でもソクラテスプラトンアリストテレスの哲学書は大学で研究され続けています。しかし、人はどんな道徳を聞かされ、哲学を勉強しても、人は罪と死と永遠の滅びから救われることはできません。たとえばカントが言ったように、「人間はほかの人を手段としてではなく目的として行動すべきである」という教えは立派です。そうありたいと願います。けれども、そうすべきだとわかっていても、そうできないのが罪ある私たち人間です。道徳や哲学は人間のことばです。人間のことばは無力です。
 しかし、福音は、神の力です。救いを得させる神の力、デユナミスです。岩を打ち砕くダイナマイトの語源です。1:4で「大能」と訳されたことばです。死者の中から死を打ち破って復活をしたキリストの力です。福音は、人間の考えたありがたい教えではありません。福音は、罪と永遠の滅びから実際に私たちを救出する、神の力なのです。福音は罪人を永遠の滅びから救い、死者をよみがえらせる神の力なのです。実際、心からイエスさまの福音を信仰をもって受け入れたならば、生きる力のない人が生きる力を与えられて歩み始めるのです。そして、死の向こうの神の裁きと滅びを恐れる必要はなくなって、平安をもって死の淵も越えて行くことができます。
 しかも、その福音は「ユダヤ人を初め、ギリシャ人にも信じるすべての人にとって」とあります。ギリシャ人とはユダヤ人以外の異邦人の代表という意味ですから、結局、「信じるすべての人にとって」福音は神の力なのです。民族の差別、男女の差別も、職業も、いっさいの差別なく、福音は信じるすべての人にとって救いを得させる神の力なのです。

 

3.神の義を信仰によって受け取る

 使徒パウロは17節に続けて語ります。
「なぜなら、福音のうちには神の義が啓示されているからです。その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです。」
 ここには、これからパウロが詳しく教えようとするキリストの福音のポイントがこの上なく簡潔に書かれています。注目すべきことばは二点。一つは「神の義」、もう一つは「信仰」です。

(1)神の義
 聖書でいう「義」とは、神と人の正常な関係を意味しています。神と人とが正常な関係にあるとは、どういうことか。神様は万物を創造し、人間をご自分に似た人格的存在として造って、ご自分と豊かな愛の交わりのうちに生きることを期待していらっしゃいます。あなたがもし神様に日々感謝と礼拝をささげ、神様の期待にしたがって生きているとすれば、それは神様との関係が正常である、義であるということです。
神との関係が義ではないと、人は神の存在すら疑い、神様に感謝することも礼拝することもしません。できません。神に頼らず、知恵と力で生きていると思ったり、神に背を向けて生きるのがカッコいいなどと思い込んでいます。あるいは、真の神を見失ったので、真の神に代えて石を刻んだ神々の像に礼拝をささげたり、木を刻んだ神々の像に感謝をささげたりして、ご利益を期待します。真の神との関係が、このような異常な状態にあることを、不義といい罪というのです。新約聖書における罪ということばは、ギリシャ語で的外れということばがしばしば用いられますが、まさに、感謝すべきお方に感謝せずに自分が偉いのだと傲慢になったり、礼拝すべき真の神に礼拝せず石や木を刻んだ偶像を拝んでいるというのは、まさに的を外れた状態です。

さてでは、ここまで説明を聞いてみて、あなたと神との関係は、義でしょうか、あるいは不義でしょうか? もし義の状態にあるならば神様に感謝することです。もし、不義の状態にあるとすれば、それはたいへんなことです。義なる状態を回復しなければ、ほんとうの平安と喜びは得られませんし、人には一度死ぬことと、死後にさばきを受けることが定まっておりますから、不義のままでこの世を去るならば、永遠に滅びてしまいます。

 しかし、ここでパウロはいうのです。「福音のうちには神の義が啓示されている。」それは、「神からの義」と訳すこともできます。神が贈り物としてとして、あなたに差し出している義が福音のうちには示されています。人間が、修行をして、頑張って神様の前になにか立派なものを積み上げて獲得する「人間の義」ではありません。神様から差し出されているギフトとしての義があるのです。それが「神の義」です。
 神の御子イエス・キリストは、この神の義をあなたにプレゼントするために、この世に来られました。神であられながら、人としての性質を帯びられ、三十三年の完全な愛のご生涯ののちに、あの十字架にかかって三日目に甦り、私たちの罪に対する罰をことごとく受けつくしてくださいました。キリストご自身が神の義、神様からの贈り物としての義であると言い換えても良いのです。

(2)信仰に始まり信仰に進ませる
 この神からの義であるキリストを、あなたがまだ受け取っていないならば、ぜひ受け取る必要があります。どのようにして受け取るのでしょうか。信仰によって受け取るのです。「信仰から信仰に」とあるのは、終始一貫して神の義は信仰によって受け取るものであるということです。神の義は徹頭徹尾、贈り物なのだというのです。脚注の訳は「その義はただ信仰による」と記しています。
 信仰によるというのは、「行いによらない」ということです。修業や善行によって人は神様からの義をいただくことができるわけではありません。修業や善行によって、神様の御前で自分は正義の人ですと言えるようになれるわけではありません。神の義は贈り物です。贈り物はどのようにして手に入れることができますか。代金を支払ってもらえるわけではありません。贈り物は、その贈り主を信頼して、ありがとうございますといっていただくほかないのです。

<むすび>
私は福音を恥としません。この世の道徳や宗教や教育は立派で美しくても、神の聖なる法廷では無力です。しかし、福音は実際に罪人を救い出す神の力だからです。
 人間は、ほかのことはともかく、自分の罪に対しては実に無力で、自分の力で罪から離れ、神様との関係を正すことなどできません。けれども、いや、だからこそ神からの義が福音のうちに啓示されました。福音は神の力です。神の義であるキリストを、あなたも信仰によって受け取ってください。

魂への負債

ローマ1:8-15

                                                    魂への負債

1 感謝
1:8 まず第一に、あなたがたすべてのために、私はイエス・キリストによって私の神に感謝します。それは、あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。

 手紙の冒頭自己紹介のあと、使徒パウロは神に感謝をささげます。「あなたがたすべてのために、イエス・キリストによって神に感謝する」とありますが、「ために」というよりも「ゆえにepi」です。パウロははるか遠くにいるローマの教会の兄弟姉妹のことを思うと、胸に感謝が湧きあがってきたのです。すばらしいことです。コリント教会やガラテヤ教会のことを思うと、むしろ心配の方が大きかったのですが、ローマの教会のことを思えば、使徒の胸には感謝が湧きあがってくるのです。
 なぜでしょうか。それは、ローマの兄弟姉妹の「信仰が全世界に言い伝えられているから」だといいます。信仰と訳されることばはピスティスといい、真実とも訳されることばです。まだ見ぬ都ローマの教会の兄弟姉妹ですが、彼らがどれほど真実にキリストを愛し、キリストを信じて生きているかという評判は、ローマからはるか遠くのマケドニア半島のコリントの町にまで響いていたのでした。テレビやラジオやインターネットなどなかった時代でしたが、地中海世界が一つであったということが感じられます。
 アンテオケから派遣されたパウロは、小アジア半島の諸都市を巡って福音を伝えて教会を設立し、さらにマケドニア半島にわたってピリピ、コリントといった町々に伝道して教会を設立してきました。福音宣教の拠点というべき都市部に教会をまず設立して、パウロがその群れを去った後にはそこから周辺へと宣教が拡大していくことを狙っていたのでしょう。そういう宣教プランを抱いているパウロにとっては、やはり都ローマは必ず行くべき地でした。世界のすべての陸路も海路もローマに通じていて、ひっきりなしにローマから世界へと人も物も文化も広がっているのです。地方の人々は、商売であれ役所の仕事であれ、ローマに仕事で出張しては、帰ってくるのです。ですから、もし都ローマが福音化されるならば、必ずや世界中に福音がひろがるでしょう。そう考えるパウロにとって、ローマにある教会の兄弟姉妹たちの信仰、主に対する真実な生き方が評判になって全世界にひろがっていることは、この上なくうれしいこと、感謝すべきことでした。
  日本でいえばローマは東京にあたるわけです。東京の教会がもっと活発になり、忠実に主に仕えているならばそのよい影響はかならず地方に及びます。この胆振地区でいえば、苫小牧がローマにあたります。苫小牧の地が福音化されていくならば、その福音の感化はやがて周辺地域へと及んでいきます。
 
2 ローマで何を

(1)ローマに行きたい
 次にパウロは心に抱く願、ローマでしたいことを述べます。


1:9 私が御子の福音を宣べ伝えつつ霊をもって仕えている神があかししてくださることですが、私はあなたがたのことを思わぬ時はなく、 1:10 いつも祈りのたびごとに、神のみこころによって、何とかして、今度はついに道が開かれて、あなたがたのところに行けるようにと願っています。


 どうやらローマの兄弟姉妹から、「パウロ先生、どうぞ私たちのローマにも来てください」という手紙は以前から何度も届いていたようです。16章3節に「プリスカとアクラによろしく」とあるように、パウロとたいへん親しい間柄で一緒に福音のためにともに働いたこのクリスチャン夫婦も、今はローマにいます。彼らは、アジア、マケドニアの諸教会が使徒パウロから明瞭に福音を説き聞かされてどれほど霊的な祝福を受けているかということを知らせましたから、ローマ教会の兄弟姉妹がパウロ先生に来てほしいと願うのは当然の成り行きでした。それで、パウロには何度かローマに来てくださいという書状が届いていたわけです。
 けれども、なかなかパウロのローマ行きは実現しませんでした。それで、9節、10節のように言っているわけです。いつだって、わたしはあなたがたのことを忘れたことがないことについては、神が証人となってくださる。「いつも祈りのたびごとに、神のみこころによって、何とかして、今度はついに道が開かれて、あなたがたのところに行けるようにと願っています。」というのです。神さまを証人として呼び出してまで、自分がどれほどローマに行きたいと願っているかということを真実なことだと証明して見せるのです。祈りを聞いていてくださるのは神様ですから、これほど確かな証人はありません。

 

(2)御霊の賜物を分けたい
 では、パウロはローマの教会の人々のために何ができると思ているのでしょうか。

1:11 私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでもあなたがたに分けて、あなたがたを強くしたいからです。


 「御霊の賜物」とはなんでしょう。これは主がじかにパウロに啓示してくださったところの福音にほかなりません。初代教会の伝道者の中で、パウロほどに旧約聖書に精通し、かつ、この新しい時代のキリストの福音の神髄を明確に啓示され、これを表現することができた者はほかにおりません。それは、神がパウロに託された御霊の賜物にほかならないのです。その明瞭な福音のすばらしさを知ることができたならば、ローマの教会の兄弟姉妹はどれほどさらに強められるでしょう。強められて平安をいただき、さらに福音のよい感化をローマと世界とに及ぼすことができるでしょう。そう思うと、パウロはなんとしてもローマにキリストの福音を携えていきたいと思うのでした。
 そうではあるのですが、ここでパウロは少し控えめに言い直します。

「 1:12 というよりも、あなたがたの間にいて、あなたがたと私との互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。」


 キリストから授かった使徒としての権威をもって言うならば、「御霊の賜物を分けてあげたい」というのは決していいすぎではありません。しかし、ローマの教会はパウロが開拓して設立した教会ではありませんから、彼は姿勢を低くして謙遜に言い換えて「私があなたがたを励ますだけではなく、私もまたあなたがたの信仰によって励ましを受けたいのです」というのです。「私が教えてあげましょう」というのでなく、「私もまたあなたがたから教えてほしいことがある」という姿勢です。
 「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」です。たとい正しい神学的知識、聖書の知識、御霊の賜物をどれほどたくさん持っていたとしても、御霊の実を結んでいないならば、もしかすると何の役にも立たないかもしれません。「私が純正な福音を知っているのだから、無知なあなたがたを励ましてあげよう」というような姿勢は、キリストの福音の伝道者にふさわしくありません。「愛は自慢せず、高慢になりません。」

 

(3)ローマ書の誕生の摂理

 そして、パウロはこういう切なる願いを持っているのだけれども、あちらこちらの教会の必要に答えるために、なかなかローマのみなさんのところに行くことが出来ないでいるのですよ、というわけです。今具体的なことをいえば、実際、ローマ書の最後の15章25節を見ると、パウロはこの手紙を出したらすぐにエルサレムマケドニアの諸教会からの義援金を届けに行くことになっていました。それは非常な危険な任務でしたが、必ず成し遂げなければならないことでした。実際、彼はエルサレムで兄弟たちにあった後、逮捕・投獄されてしまうことになります。


「1:13 兄弟たち。ぜひ知っておいていただきたい。私はあなたがたの中でも、ほかの国の人々の中で得たと同じように、いくらかの実を得ようと思って、何度もあなたがたのところに行こうとしたのですが、今なお妨げられているのです。」


 そんなわけで、パウロはただちにローマに出かけることはできませんでした。

 けれども、からだは行くことができないから、この手紙でもって、キリストの福音の真髄、神の救いの計画の全体について伝えようとしているのです。このことに気づいて、私は「ああパウロがローマに行く都合がなかなかつかなくてよかったなあ」と思いました。もしパウロがローマに行く都合が簡単についたならば、ローマ書は書かれなかったでしょうから。ローマに行けなかったからこそ、そして、これ以上、彼らを待たせるわけにはゆかないと思って、パウロはこのローマ書をしたためたのです。
 そして、ローマから福音の影響が世界におよぶことをパウロは意識していたので、このローマ教会への手紙において、救いの計画の全体をきちんと順序だてて書きました。神のご摂理です。ご配慮です。
 目の前のことしか見えない人間の視点からすると、不都合なこと、困ったことに私たちは足止めされたり、それによって苛立ったりすることがあります。「主よ、いつまでですか」とつぶやきたくなるものです。けれども、神の視点は高く、神の尺度は長いのです。人は1年とかせいぜい10年のスパンでものを考えるだけですが、神は千年、二千年の尺度をもって考えて、パウロを足止めなさり、そして、彼をローマ書執筆へと導かれたのでした。
 むしろ、パウロがそうしたように今、もしあなたがある限界の中に置かれているなら、今は理解できなくても、そこに神のより深い知恵による計画があるということを思いましょう。そして、その限界のなかで主のために最善を尽くすことです。

 

3 魂への負債

 今日の箇所の最後に、パウロは彼の福音宣教に対する強烈な責任感を披瀝しています。


1:14 私は、ギリシヤ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。
1:15 ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。


 「ギリシャ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも」というのは、「文明人にも未開人にも」彼は返さなければならない負債を負っているという意味です。主イエスパウロを「異邦人への使徒」としてお召しになりましたから、彼はギリシャ文化圏にある人々であれ、未開人であれ、とにかく異邦人であれば、だれに対してであれ、私には福音を伝える任務をキリストが与えてくださったのだというのです。
 「負債を負っている」というのが興味深い表現です。借金をしていながら、その借金を返さなければ、処罰されます。そのようにパウロは、自分は異邦人に対して福音を伝えなければ、イエス様からおしかりを受けなければならない、と言っているのです。福音宣教に関する負債意識です。 パウロはコリント人への手紙第一の中でも、次のように言っています。「9:16 というのは、私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、私がどうしても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったなら、私はわざわいだ。 9:17 もし私がこれを自発的にしているのなら、報いがありましょう。しかし、強いられたにしても、私には務めがゆだねられているのです。」
 これがパウロが伝道者として召されたことの印です。すべての信徒が、このような伝道にかんする負債意識を持つわけではありませんが、神が伝道者として召した人には、このような魂への負債の意識をお与えになります。チャールズ・スポルジョンはこの負債意識を牧師・伝道者としての召しのしるしの一つであると言っています。伝道者として召された人であれば、福音を宣べ伝えなければ、自分は返すべき負債を主にお返ししていないという意識を持つのは当たり前です。たとえば主が奏楽者としてお召しになった人は、奏楽の奉仕を離れていると、自分は主の前になすべきことをしていないという負債感を持つでしょう。私は奏楽をしなくても、そんな負債感はもちません。私は、この苫小牧に遣わされた伝道者ですから、この苫小牧市民になんとしても福音を伝えなければならないという負債感をもっていますので、「苫小牧通信」をはじめとして何とかして福音をこの地の人々のうちに満たしたいと願っています。

結び
 ですが、みなさん一人一人も、少なくともあなたの身近な人々については、魂のために負債を負っています。あなたのお友達、家族、あなたの近所の人たちなど、あなたからでなければ、その人にキリストにある救いの証を聞くチャンスがない人がいるのではないでしょうか。今、主の前に、思い浮かべてみてください。その魂は、主があなたに託された魂です。「その人は、神様があなたに託された魂です。あなたが、主の愛に答えて返すべき負債です。
 ひとこと「さあ、主の家に行こう」です。

 

愛の奇跡

マタイ1:18-25

 

2017年12月24日 イブ礼拝

 

1.神の愛の奇跡――受肉

 

19世紀、デンマークキルケゴールという哲学者がおりました。彼は著書の中でひとつのたとえ話をしています。ある国の王様が、領内を視察していたときに、ふと見かけた庶民の一人の娘に一目ぼれしてしまいました。けれども、王は考えました。「もし自分が王として娘のところを訪ねたならば、娘は私が権力ある王だからという恐れをいだき、それが理由で、私に礼儀正しく接することはするだろうが、決して私を一人の男性として自分を愛してはくれないだろう。」そこで王は庶民の姿に身をやつして、この娘のところに出かけて交流してゆくのです。そして彼女と理解しあい、時間をかけて愛を育てて後、自らが王であることを明らかにし、求婚するのです。王が庶民をめとることは異常なことですが、愛は身分のちがいという垣根を乗り越えさせるものなのです。

 イエス・キリストの誕生について「その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になった」と記しています。この出来事はきわめて異常なことでした。異常というのは、処女がみごもることが生物学的にむずかしいなどという程度の話をしているのではありません。そうではなく、そもそも神が人となられたということが、きわめて異常だと言っているのです。まことの神は天地万物の創造主ですが、人間は被造物にすぎません。神は無限ですが人は有限者にすぎません。神は絶対者ですが、人間は相対者にすぎません。神は永遠者ですが、人は朝あっても昼には消えてしまう露のようなものです。それなのに、神があえて人となられたのです。

 あのたとえ話では王様は可憐な娘に一目ぼれしたのでしょう。けれども、愚かにも人間である私たちは神などいるものかと嘯き、あるいは偶像を拝んでいたような憎たらしいものでしょう。可憐なわけではありません。それなのに、神は私たち人間を救うために、人となられたのです。この奇跡は、神の私たちに対する一方的な愛が引き起こした奇跡なのです。神が人となられたことは、奇跡のなかの奇跡です。その奇跡は私たちの理解を超える、神様の愛によって実現したのです。

 

2.愛による正しい応答――神に用いられた人ヨセフ

 

「その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になった」この短い一節には、人間的な観点からいえば、非常に困ったことが記されています。それは、婚約したふたりがいっしょにならないうちに、子供が宿ったということです。現代日本では芸能人たちのふるまいの影響のせいなのか、「できちゃった婚」が当りまえのようですが、聖なる律法を持つユダヤ社会では、婚約中の女性がみごもるということは、スキャンダラスなことでした。当時のユダヤ社会では、婚約ということが現代日本におけるよりもはるかに重大な責任を伴うこととされていました。婚約すると二人はまだいっしょに暮らし交わりを持つことは許されませんでしたが、一定期間、社会の中で夫婦としての責任を果たすことが求められたのです。そうした婚約期間を経て、ようやく二人は結婚しともに暮らすことが許されました。そんなきまじめなユダヤ社会のなかで、婚約中の女性のおなかが大きくなってくるということは、恥ずべきことでした。世間の人たちは事情を知りませんから、ヨセフと婚約しているマリヤのおなかが大きくなってくれば、「ヨセフとマリヤはもっとまじめな人間だと思っていたけれど、人は見かけによらないものだ。」とナザレの町中の人々が、ひそひそと噂をされ、社会的に信用を失うことになりました。

けれども、ヨセフが直面していた現実はさらに深刻でした。マリヤの妊娠についてヨセフにはまったく身に覚えがなかったのですから。ふつうならば激怒して「マリヤ。いったい、誰がおまえを犯したんだ。おまえのおなかにいるのは、どこのどいつだ!」と問い詰めそうなものです。しかし、ヨセフは、マリヤがふしだら女だから、こんなことになったのではないと確信していました。当時のイスラエルが置かれた状況は、ローマ兵がたくさん駐屯していました。当時イスラエルのあちこちでローマ兵に襲われ身重になった娘たちがいたようです。

ヨセフには、怒りに任せてユダヤの法廷にマリヤを訴える権利があるにはありました。有罪となれば、マリヤは法律にしたがって町の人みなから石打ちで処刑されるでしょう。これは旧約聖書にある聖なる律法の定めでした。「人がもし、他人の妻と姦通するなら、すなわちその隣人の妻と姦通するなら、姦通した男も女も必ず殺されなければならない。」(出エジプト20:10)不倫の罪は、婚約している二人が結婚前に一線を越えてしまうのとはレベルがまるでちがう死罪にあたる大罪でした。けれども、ヨセフはマリヤを法廷に訴えず、内密に去らせようとしたのです。「 1:19 夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。」

 ここを見ると、神様の前で「正しいdikaios」ということは聖なる律法を重んじて生きることです。けれども、それは正しいとは律法をただ逐語的に他人に当てはめることではないのだということがわかります。ヨセフはいいなずけのマリヤを信頼し彼女がふしだらゆえにこんなことになったのではないということを確信し、マリヤは被害者として子どもを身ごもらせられたににちがいないと判断しました。ですから法廷に告発するのは正しいことではない。けれども、このまま娶るわけにもいかないので、内密に去らせて、彼女が生きてゆける道を配慮すべきだと彼は考えたのです。律法の根本精神は愛だということをわきまえた、ヨセフの誠実さが「正しい」といわれているのです。

 神は、このように誠実でかつあわれみの心を持つヨセフを信頼なさって、尊い御子を託されたのでした。

 

3.愛の神がくださった救い主――救い主の名

 

 さて、ヨセフはマリヤを内密に去らせようと決意したものの、なお悩みながら寝台の上を転々としていました。結婚の日を目指してマリヤと共にすごした喜ばしい日々のことが思い出されたり、どこの誰がマリヤをかどわかしたのかと思えば憤りを感じます。また、マリヤを内密に去らせるとしても、その先マリヤとおなかの子はどこでどのように生活して行けるだろうと心配したり、なかなかぐっすりと眠りにつくことができません。

 そんなヨセフに主の使いが夢で啓示を与えました。 

1:20 彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。

ダビデの子ヨセフ」と御使いは彼に呼びかけました。メシヤはダビデ王の子孫としてその家系から生まれることになっているというのは、ユダヤ人の常識でした。マリヤの胎に宿る子は、姦淫の子ではなく、聖霊によって宿った神の御子なのだと告げたのです。

 

 続いて御使いは生まれてくる子の名前を告げます。生まれてくる神の御子には、イエスという名とインマヌエルという二つの名が与えられます。その名には、その果たすべき使命と、この方がくださる救いとはなんであるかが明らかにされています。

 

(1)イエス

 1:21 マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」

 イエスというのは、「救い」という意味のヘブル語ヨシュアギリシャ読みです。イエス様とは「お救いさま」と言う意味です。イエス様は救い主としてこられました。単に「救い」と言われても、いろんな救いがあるでしょう。たとえば貧困からの救い、病気からの救い、心の不安からの救い、争いからの救い、災害からの救いなどなどと。では、イエス様は私たちを何から救ってくださる救い主なのでしょうか。イエス様は「ご自分の民をその罪から救ってくださるお方」なのです。

 罪から救ってくださるといいますが、聖書で「罪」とはなんでしょう。泥棒とか人殺しも罪ではありますが、ここで聖書がもちいている「罪」ということばのもともとの意味は「的はずれ」という意味のことばが用いられています。人間にはもともと的があるけれど、その的から外れた生き方をしている、それが罪だということです。陶器師は湯飲みを作るとき、お茶を飲みやすいという的にしたがって形作り、お皿を作るときには食べ物を載せて映えるようにという的にしたがって形作るでしょう。神様は、人間を作るときに神を愛し、隣人を自分自身のように愛して、神とともに生きるという的をもって造りました。罪とは、神を愛し隣人を愛するという的を見失い、自己中心になっていることを意味しています。ところが神を見失っているので、人は自分が何者であるか?なんのために生きているのかがわからなくなって人生むなしくなりました。会社を大きくすることが人生の目的、お金をかせぐことが人生の目的などということで一生懸命にやったけれど、家族が崩壊してしまうなどということはありがちなことです。神なき的外れの人生こそが、聖書でいう「罪」なのです。

 イエス様は、私たちをこの神なき的外れの人生から解放するために来られた救い主です。

「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」

 

 

(2)インマヌエル

 救い主イエス様にはもう一つの名があることを御使いは告げました。

1:23 「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)

 イエス様は私たちを神なきむなしい、独りぼっちの人生から救い出し、「インマヌエル」つまり神と共にある人生に入れてくださいます。神様がともにいてくださる人生がどんなにすばらしいものであるか、どのように説明すればよいでしょうか。それはあまりにも豊か過で、ごく一部を表現できるにすぎませんが、私自身が経験してきたことを三つにまとめてみます。

第一は、まことの神様とともに生きるようになって人生の目的がわかりました。私は高校生のとき身近な者の突然の死に直面して、自分はなんのために生きるのだろうという問いにぶつかって、答えを見つけられませんでした。当時は国文学者になろうと思って受験勉強していましたが、大学にはいり、国文学者になってなんになるのか、ああむなしいと感じました。あなたの人生の目的とはなんでしょうか?人はなぜ生きなければならないのでしょう。けれど、イエス様を信じ、神様を知ってから永遠に神を喜び、神の栄光をあらわすことが私の人生の目的となりました。

第二は、永遠の神の前に罪が赦されているという魂の平安です。神の御子イエス様が、私の罪のためのあがないとなってくださいました。私の罪がいかに重くても、神様の御子がそれをいのちを捨てて償ってくださったのです。ならば、イエス様を信じる私の罪が赦されていることは、疑いえないことです。ですから、「人には一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっています」が、その神のさばきを恐れる必要がありません。その安心があります。

第三には、神さまが、私のことをわが子として愛していてくださるという喜びです。私は今も失敗し神様を悲しませてしまうこともあります。けれども、さして役に立たない私の存在をも神様はわが子として喜んでいてくださいます。クリスチャンにとって人生の途上で起こってくるいろいろな苦しみや悲しみも、神様からの善意に満ちた試練です。生きていればいろんなことがありますけれども、それもこれも神様が私の成長を期待してくださっている試練なのですから、あわてることはないし、あせる必要もありません。困った事態に遭遇しても、この出来事にどのように対処するように神様は期待していらっしゃるのかなあと考えながら、対処することができます。

万物の支配者である神があなたの味方であることほど、すばらしい祝福はほかにありえません。イエス様は、その祝福をあなたにも用意してくださいました。ですから、インマヌエルというもうひとつの名をお持ちなのです。

 

むすび

神様はクリスマスにおいて破格の愛を私たちに現してくださいました。神の御子は、その栄光の座を捨てて、地上に人となっておいでくださり、私たちを神なき的を外れた人生から救い出して、神とともに生きるすばらしい人生、永遠のいのちへと招いてくださいました。あなたも、イエス様を私の救い主として受け入れ、主をたたえましょう。

蓮の花のように

Mt1章1節から17節

2017年12月24日 苫小牧クリスマス礼拝

 

 はじめて新約聖書を読もうとして、日本人なら誰もが最初に面食らうのは、この巻頭の「イエス・キリストの系図」でしょう。しかし、韓国の人たちはさほど驚かないでしょう。殉教者チュ・キチョル牧師の伝記を読んだことがありますが、いずれも巻頭にはその人物の系図が記されていました。チュ牧師の先祖は中国宋代の儒学者朱熹だそうです。系図というものを大切にする文化においては、誰かの生涯を記そうとするときには系図を確認するというのは常識のようです。

 マタイ福音書は当面ユダヤ人を読者として想定して書かれたので、その冒頭にイエスの系図を記しているわけです。旧約聖書に慣れ親しんだユダヤ人にとっては、メシヤ(キリスト)が、アブラハムの子孫のユダ族のダビデの家系から出ることは常識中の常識でしたから、そのことがここで確認されています。

 神様は、この系図をもって私たちに何かを語ろうとしていらっしゃいます。そのメッセージを読み取るために、その特徴に注目してみましょう。

第一の特徴は、「1:1 アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。」という表題です。

 第二の特徴は17節に記されるように、三つの時代に十四代ずつに区分されていることです。「1:17 それで、アブラハムからダビデまでの代が全部で十四代ダビデからバビロン移住までが十四代、バビロン移住からキリストまでが十四代になる。」

 そして、第三の特徴は、ところどころに「~によって~が生まれ」と特筆された4人の女性の名があることです。

 

1 表題

 

 

 まず、第一の特徴を見てみましょう。キリストの系図を説明するのに、二人の先祖の名アブラハムダビデが特筆されている点について。神さまは彼らにそれぞれキリストにあって成就する契約をお与えになりました。

 (1)アブラハム契約

 まずアブラハム契約について。バベルの塔の事件で人間が文明の力をもって傲慢になり自ら神のようになろうとしたので、神は国語を分けられたということが記されています。言語の壁が出来て、人類は多くの民族に分かれていきました。

しかし、そういうバラバラになった人類の中から、神さまはノアの息子セムのすえであったアブラハムをお選びになります。そして、アブラハムに一つの契約をお与えになりました。

12:1 【主】はアブラムに仰せられた。

   「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、

   わたしが示す地へ行きなさい。

 12:2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、

   あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。

   あなたの名は祝福となる。

 12:3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。

   地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」

 

アブラハム契約は相続の契約と呼ばれます。そのポイントは、アブラハムの子孫は星の数のようになり、まず彼の子孫は神の約束の地を相続するようになり、最終的にはアブラハムの子孫にキリストが来られて、世界中のあらゆる民族は祝福を受けるのです。言い換えると、信仰によるアブラハムの子孫が世界の相続人となるということでした。つまり、世界のあらゆる民族国語の壁を越えて、一度はバラバラになってしまった人類から、今度はキリストにあって神をあがめる一つの民、神の家族を造ろうというご計画です。キリストを長男とする神の家族、「聖なる公同の教会」です。

 

(2)ダビデ契約

 次にダビデ契約について。アブラハムが紀元前およそ2000年の人ですが、ダビデは紀元前およそ1000年の人と憶えてください。ダビデアブラハムの子孫イスラエルの王となり、エルサレムに都を置いたとき、ダビデはまず自分の住まいをレバノン杉で作りました。そして、自分がこんな立派な屋敷に住んでいるのに、神様を礼拝する施設が幕屋つまりテントであることを申し訳ないと思い、神様のために立派な神殿を造りたいと願ったのです。ところが、そのとき預言者ナタンを通して神様は彼におっしゃいました。第二サムエル7章です。

7:5 「行って、わたしのしもべダビデに言え。

  【主】はこう仰せられる。あなたはわたしのために、わたしの住む家を建てようとしているのか。 7:6 わたしは、エジプトからイスラエル人を導き上った日以来、今日まで、家に住んだことはなく、天幕、すなわち幕屋にいて、歩んできた。 7:7 わたしがイスラエル人のすべてと歩んできたどんな所ででも、わたしが、民イスラエルを牧せよと命じたイスラエル部族の一つにでも、『なぜ、あなたがたはわたしのために杉材の家を建てなかったのか』と、一度でも、言ったことがあろうか。」

 

 つまり、神様は幕屋でOKだよ。私は文句など言ってないよ、とおっしゃいました。そして、11節から

7:11 それは、わたしが、わたしの民イスラエルの上にさばきつかさを任命したころのことである。わたしはあなたをすべての敵から守って、安息を与える。さらに【主】はあなたに告げる。『【主】はあなたのために一つの家を造る。』

 7:12 あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。

 7:13 彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」

 

 ダビデ契約は王国の契約と呼ばれます。ダビデの子孫から王が出て、神殿を建て、彼の王座を確立すると約束されたのです。この約束は当面ダビデの息子ソロモン神殿で成就したかに見えましたが、ソロモンの罪ゆえにこれは破綻し、王国は分裂して結局滅びて本当の成就はキリストによって成就することになるのです。

 つまり、神の御子イエス・キリストダビデの家系に生まれて、私たちの罪を十字架と復活をもって解決して後、天に昇り、天の王座に着座され、世界中にキリストの弟子を派遣することによって、世界中に「神の王国」が拡張することになったのです。現在、世界のクリスチャンは23億人だそうですが、世界にキリストのみこころが成るために、私たちはそれぞれの場に派遣されているのです。

 

 まとめます。アブラハム契約とダビデ契約で、世界中のあらゆる民族国語から召されて神の家族となり、神のご支配が世界に及んでいく。これがキリストの系図が、「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」と呼ばれる所以です。

 

2.歴史の三区分

 

 キリストの系図の第二の特徴は17節に記されるように、アブラハムからキリストに至るまでの歴史が14代ずつ三区分されていることです。「1:17 それで、アブラハムからダビデまでの代が全部で十四代ダビデからバビロン移住までが十四代、バビロン移住からキリストまでが十四代になる。」

 アブラハムからダビデまでの14代というのは、アブラハムの選びとカナンへの旅、そしてアブラハムの孫ヤコブの時代にエジプトに移住して430年間のエジプトでの生活と人口増加、そして、モーセの時代15世紀にエジプト脱出と約束の地カナンへの帰還と定着、そして、王国の始まりという、いわば民族の歴史としては右肩上がりの時代であったということができるでしょう。子どものいないアブラハムに息子を与え、それが星の数のようになり、アブラハムの時代には土地もなにもなかったけれど、ダビデの時代にはついにこの地が平定されたのでした。神の言われたとおり、たった一人のアブラハムからおよそ五百年後には、一つの王国が出来るまでになりました。

 

 次に紀元前1000年から、ダビデからバビロン移住までの14代はどういう時代だったかというと、これは王国時代ということになります。ソロモンの栄華と呼ばれるようにイスラエルはこの時代非常に栄えました。そして、ソロモンはエルサレムに神の家つまり神殿を建設したのでした。けれども、ソロモンの死後王国は南北に分裂し北王国、南王国はそれぞれに王たちが登場して王国時代を築いてゆきます。けれども、北イスラエル王国偶像崇拝と罪ははなはだしくて、紀元前722年には早々と北王国がアッシリヤ帝国亡ぼされてしまいます。南ユダ王国も紀元前586年にはバビロンによって滅ぼされ、エルサレム神殿も破壊されてしまいました。そして、バビロン捕囚となります。

 

 ではバビロン移住のあとキリストまでの14代はどういう時代だったでしょうか。破壊されたエルサレム神殿の再建が許される時期はありましたが、かつてのように主権をもった国家に戻ることはありませんでした。バビロン王国、ペルシャ帝国、ヘレニズム帝国(シリア)そしてローマ帝国と支配者は交代しますが、イスラエルはずっと主権を奪われて支配下に置かれていたのです。キリストが人として生まれたのは、イスラエルが落ち目となってローマ帝国支配下にあって重税をかけられてあえいでいるときでした。

 

 このように紀元前2000年にアブラハムに与えられた約束、紀元前1000年のダビデに与えられた約束は、イスラエルの歴史のなかで部分的にまた一時的には成就したかにみえました。しかし、結局はイスラエルの民の罪ゆえに成就することはありませんでした。人間の力をもってしては、神の約束は成就しないのだということが、2000年間のアブラハムから始まるイスラエルの歴史によって立証されたということを示しているようです。

 

 人の女性の名が特筆された

 

(1)4人の女性の名

 ところで、キリストの系図に記されている人々の名を見ていくと、ほとんどが男たちなのですが、その中に「誰それによって誰それが生まれ」と、特筆されている4人の女性がいることに気がつきます。タマルによって(3節)、ラハブによって(5節)、ルツによって(5節)、ウリヤの妻によって(6節)です。

 普通、あなたが自分の系図を書くとしたら、そこに特筆したい名前というと、どのような人物の名でしょうか?石川五右衛門くらい有名になれば話は別でしょうが、普通、私の先祖にこんな泥棒がいましたとか、殺人鬼がいましたとか、乞食がいましたなどという不名誉なことは伏せて、なにか立派なことをした人の名を記すでしょう。では、この女性たちはどういう人たちだったのでしょう。

「1:3 ユダに、タマルによってパレスとザラが生まれ、」とありますが、口にすることもはばかられるような経緯があって、タマルは舅のユダと関係を結んでパレスとザラを産みました。(創世記38章)ユダは長男にタマルという嫁を迎えましたが長男が死に、ついで次男にめとらせましたが次男も死んでしまいました。ユダは怖くなって、三男の嫁として彼女を迎えることをやめて、やもめのままでいなさいということにします。けれども、彼女は子孫を残したかったので遊女に身をやつしてユダと寝て、子を得たのでした。

 「1:5aサルモンに、ラハブによってボアズが生まれ、」二人目の名はラハブです。ラハブのことは憶えているかたが多いでしょう。旧約聖書ヨシュア記に出てくる女性です。紀元前1400年頃の人です。彼女は、その罪ゆえに滅ぼされることになっていたエリコに住んでいたカナン人の女性で、しかも、遊女を生業としていました。けれども、ヨシュアが派遣した斥候をかばったことで特別に助けてもらったのでした。血筋を重んじるユダヤ人ですが、来るべきキリストには異邦人、しかも、遊女を生業としていた女性が含まれるとわざわざ記録しているのです。

 次に登場するのはルツです。やはり異邦人です。旧約聖書ルツ記に出てきます。「1:5bボアズに、ルツによってオベデが生まれ、オベデにエッサイが生まれ、」イスラエルで日照りが続いたので、ナオミと夫は隣国モアブに移住しました。そこで息子の一人に嫁としてモアブ人ルツを迎えたのです。イスラエルは血統とか純潔を誇るのですが、メシヤの家系にはラハブにせよ、ルツにせよ異邦人の血がはいっているのです。

 「1:6b ダビデに、ウリヤの妻によってソロモンが生まれ」そして、最後にきわめつけはこれです。この一節には恐ろしく悪質な犯罪の記録です。「ウリヤの妻によって」という書き方がなんとも異常です。子どもは自分の妻によって得るものではありませんか。他人の妻によって得るものではありません。王であったダビデは自分の忠臣ウリヤの妻に欲情を抱いてむさぼりの罪を犯し、権力にものいわせて我が物とし、まじめな人ウリヤをはかりごとにかけて戦地で死に至らしめました。このひどい行いに対して神は怒りを発せられ、英雄ダビデの後半生は悲惨なものとなってしまいます。ダビデはウリヤの死後、ウリヤの妻によってソロモンを産んだのでした。

 

 以上のように、アブラハムダビデの名を付けられたイエス・キリストの系図は、決してうるわしいものとしては書かれていません。この系図を見ていくと、つくづく人間の歴史は罪にけがれているのだなあという思いがします。しかし、こうした罪の泥沼のような系図の最後に次のように記されています。

「1:16 ヤコブにマリヤの夫ヨセフが生まれた。キリストと呼ばれるイエスはこのマリヤからお生まれになった。」

 真っ黒な泥沼の中から咲いた、一輪の純白の蓮の花。イエス・キリストの誕生はまさに奇跡です。

 

(2)4人の名が特筆された目的

 なぜ、聖書は、純潔を尊ぶユダヤ人相手に、わざわざこんな言わずもがな、書かずもがなと思われる、メシヤの家系の恥部をさらすようなことを書くのでしょうか。

①まず異邦人の名が記されているのは、メシヤ、キリストはイスラエル民族のための救い主ではなく、世界中のあらゆる民族国語の救い主としてこられたことを示すためです。アブラハムの子孫からキリストが出て世界のあらゆる民族が祝福されるという契約の成就です。キリストはユダヤ人だけでなく、インド人もフランス人も中国人もケニヤ人もアメリカ人も日本人も、このキリストにあって神の前に祝福を受けるのです。

 

②また、キリストの系図のなかに人間の罪を思い出させる女性たちの名が記されているのは、キリストが正しい人を招くためではなく、神の前に罪ある人を招いて救うために来られた救い主であることを示すためです。主イエスは言われました。マタイ9:12,13

9:12 「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。 ・・・わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」

 イエスさまは「正しい人間」には用がありません。「私は、心の思いと、ことばと、行いにおいて神様の前で恥ずべきことがあります。主よ、わたしをあわれんでください」とありのままの自分のみじめな姿を認める人にとっては、キリストは救い主となってくださいます。「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた』ということばはまことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」1テモテ1:15

 

結び

 わたしたちは異邦人であり、また、神の前には罪ある者です。イエス・キリストは、まさに私たちの救いのために来てくださった救い主です。