水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

魂への負債

ローマ1:8-15

                                                    魂への負債

1 感謝
1:8 まず第一に、あなたがたすべてのために、私はイエス・キリストによって私の神に感謝します。それは、あなたがたの信仰が全世界に言い伝えられているからです。

 手紙の冒頭自己紹介のあと、使徒パウロは神に感謝をささげます。「あなたがたすべてのために、イエス・キリストによって神に感謝する」とありますが、「ために」というよりも「ゆえにepi」です。パウロははるか遠くにいるローマの教会の兄弟姉妹のことを思うと、胸に感謝が湧きあがってきたのです。すばらしいことです。コリント教会やガラテヤ教会のことを思うと、むしろ心配の方が大きかったのですが、ローマの教会のことを思えば、使徒の胸には感謝が湧きあがってくるのです。
 なぜでしょうか。それは、ローマの兄弟姉妹の「信仰が全世界に言い伝えられているから」だといいます。信仰と訳されることばはピスティスといい、真実とも訳されることばです。まだ見ぬ都ローマの教会の兄弟姉妹ですが、彼らがどれほど真実にキリストを愛し、キリストを信じて生きているかという評判は、ローマからはるか遠くのマケドニア半島のコリントの町にまで響いていたのでした。テレビやラジオやインターネットなどなかった時代でしたが、地中海世界が一つであったということが感じられます。
 アンテオケから派遣されたパウロは、小アジア半島の諸都市を巡って福音を伝えて教会を設立し、さらにマケドニア半島にわたってピリピ、コリントといった町々に伝道して教会を設立してきました。福音宣教の拠点というべき都市部に教会をまず設立して、パウロがその群れを去った後にはそこから周辺へと宣教が拡大していくことを狙っていたのでしょう。そういう宣教プランを抱いているパウロにとっては、やはり都ローマは必ず行くべき地でした。世界のすべての陸路も海路もローマに通じていて、ひっきりなしにローマから世界へと人も物も文化も広がっているのです。地方の人々は、商売であれ役所の仕事であれ、ローマに仕事で出張しては、帰ってくるのです。ですから、もし都ローマが福音化されるならば、必ずや世界中に福音がひろがるでしょう。そう考えるパウロにとって、ローマにある教会の兄弟姉妹たちの信仰、主に対する真実な生き方が評判になって全世界にひろがっていることは、この上なくうれしいこと、感謝すべきことでした。
  日本でいえばローマは東京にあたるわけです。東京の教会がもっと活発になり、忠実に主に仕えているならばそのよい影響はかならず地方に及びます。この胆振地区でいえば、苫小牧がローマにあたります。苫小牧の地が福音化されていくならば、その福音の感化はやがて周辺地域へと及んでいきます。
 
2 ローマで何を

(1)ローマに行きたい
 次にパウロは心に抱く願、ローマでしたいことを述べます。


1:9 私が御子の福音を宣べ伝えつつ霊をもって仕えている神があかししてくださることですが、私はあなたがたのことを思わぬ時はなく、 1:10 いつも祈りのたびごとに、神のみこころによって、何とかして、今度はついに道が開かれて、あなたがたのところに行けるようにと願っています。


 どうやらローマの兄弟姉妹から、「パウロ先生、どうぞ私たちのローマにも来てください」という手紙は以前から何度も届いていたようです。16章3節に「プリスカとアクラによろしく」とあるように、パウロとたいへん親しい間柄で一緒に福音のためにともに働いたこのクリスチャン夫婦も、今はローマにいます。彼らは、アジア、マケドニアの諸教会が使徒パウロから明瞭に福音を説き聞かされてどれほど霊的な祝福を受けているかということを知らせましたから、ローマ教会の兄弟姉妹がパウロ先生に来てほしいと願うのは当然の成り行きでした。それで、パウロには何度かローマに来てくださいという書状が届いていたわけです。
 けれども、なかなかパウロのローマ行きは実現しませんでした。それで、9節、10節のように言っているわけです。いつだって、わたしはあなたがたのことを忘れたことがないことについては、神が証人となってくださる。「いつも祈りのたびごとに、神のみこころによって、何とかして、今度はついに道が開かれて、あなたがたのところに行けるようにと願っています。」というのです。神さまを証人として呼び出してまで、自分がどれほどローマに行きたいと願っているかということを真実なことだと証明して見せるのです。祈りを聞いていてくださるのは神様ですから、これほど確かな証人はありません。

 

(2)御霊の賜物を分けたい
 では、パウロはローマの教会の人々のために何ができると思ているのでしょうか。

1:11 私があなたがたに会いたいと切に望むのは、御霊の賜物をいくらかでもあなたがたに分けて、あなたがたを強くしたいからです。


 「御霊の賜物」とはなんでしょう。これは主がじかにパウロに啓示してくださったところの福音にほかなりません。初代教会の伝道者の中で、パウロほどに旧約聖書に精通し、かつ、この新しい時代のキリストの福音の神髄を明確に啓示され、これを表現することができた者はほかにおりません。それは、神がパウロに託された御霊の賜物にほかならないのです。その明瞭な福音のすばらしさを知ることができたならば、ローマの教会の兄弟姉妹はどれほどさらに強められるでしょう。強められて平安をいただき、さらに福音のよい感化をローマと世界とに及ぼすことができるでしょう。そう思うと、パウロはなんとしてもローマにキリストの福音を携えていきたいと思うのでした。
 そうではあるのですが、ここでパウロは少し控えめに言い直します。

「 1:12 というよりも、あなたがたの間にいて、あなたがたと私との互いの信仰によって、ともに励ましを受けたいのです。」


 キリストから授かった使徒としての権威をもって言うならば、「御霊の賜物を分けてあげたい」というのは決していいすぎではありません。しかし、ローマの教会はパウロが開拓して設立した教会ではありませんから、彼は姿勢を低くして謙遜に言い換えて「私があなたがたを励ますだけではなく、私もまたあなたがたの信仰によって励ましを受けたいのです」というのです。「私が教えてあげましょう」というのでなく、「私もまたあなたがたから教えてほしいことがある」という姿勢です。
 「御霊の実は、愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」です。たとい正しい神学的知識、聖書の知識、御霊の賜物をどれほどたくさん持っていたとしても、御霊の実を結んでいないならば、もしかすると何の役にも立たないかもしれません。「私が純正な福音を知っているのだから、無知なあなたがたを励ましてあげよう」というような姿勢は、キリストの福音の伝道者にふさわしくありません。「愛は自慢せず、高慢になりません。」

 

(3)ローマ書の誕生の摂理

 そして、パウロはこういう切なる願いを持っているのだけれども、あちらこちらの教会の必要に答えるために、なかなかローマのみなさんのところに行くことが出来ないでいるのですよ、というわけです。今具体的なことをいえば、実際、ローマ書の最後の15章25節を見ると、パウロはこの手紙を出したらすぐにエルサレムマケドニアの諸教会からの義援金を届けに行くことになっていました。それは非常な危険な任務でしたが、必ず成し遂げなければならないことでした。実際、彼はエルサレムで兄弟たちにあった後、逮捕・投獄されてしまうことになります。


「1:13 兄弟たち。ぜひ知っておいていただきたい。私はあなたがたの中でも、ほかの国の人々の中で得たと同じように、いくらかの実を得ようと思って、何度もあなたがたのところに行こうとしたのですが、今なお妨げられているのです。」


 そんなわけで、パウロはただちにローマに出かけることはできませんでした。

 けれども、からだは行くことができないから、この手紙でもって、キリストの福音の真髄、神の救いの計画の全体について伝えようとしているのです。このことに気づいて、私は「ああパウロがローマに行く都合がなかなかつかなくてよかったなあ」と思いました。もしパウロがローマに行く都合が簡単についたならば、ローマ書は書かれなかったでしょうから。ローマに行けなかったからこそ、そして、これ以上、彼らを待たせるわけにはゆかないと思って、パウロはこのローマ書をしたためたのです。
 そして、ローマから福音の影響が世界におよぶことをパウロは意識していたので、このローマ教会への手紙において、救いの計画の全体をきちんと順序だてて書きました。神のご摂理です。ご配慮です。
 目の前のことしか見えない人間の視点からすると、不都合なこと、困ったことに私たちは足止めされたり、それによって苛立ったりすることがあります。「主よ、いつまでですか」とつぶやきたくなるものです。けれども、神の視点は高く、神の尺度は長いのです。人は1年とかせいぜい10年のスパンでものを考えるだけですが、神は千年、二千年の尺度をもって考えて、パウロを足止めなさり、そして、彼をローマ書執筆へと導かれたのでした。
 むしろ、パウロがそうしたように今、もしあなたがある限界の中に置かれているなら、今は理解できなくても、そこに神のより深い知恵による計画があるということを思いましょう。そして、その限界のなかで主のために最善を尽くすことです。

 

3 魂への負債

 今日の箇所の最後に、パウロは彼の福音宣教に対する強烈な責任感を披瀝しています。


1:14 私は、ギリシヤ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも、返さなければならない負債を負っています。
1:15 ですから、私としては、ローマにいるあなたがたにも、ぜひ福音を伝えたいのです。


 「ギリシャ人にも未開人にも、知識のある人にも知識のない人にも」というのは、「文明人にも未開人にも」彼は返さなければならない負債を負っているという意味です。主イエスパウロを「異邦人への使徒」としてお召しになりましたから、彼はギリシャ文化圏にある人々であれ、未開人であれ、とにかく異邦人であれば、だれに対してであれ、私には福音を伝える任務をキリストが与えてくださったのだというのです。
 「負債を負っている」というのが興味深い表現です。借金をしていながら、その借金を返さなければ、処罰されます。そのようにパウロは、自分は異邦人に対して福音を伝えなければ、イエス様からおしかりを受けなければならない、と言っているのです。福音宣教に関する負債意識です。 パウロはコリント人への手紙第一の中でも、次のように言っています。「9:16 というのは、私が福音を宣べ伝えても、それは私の誇りにはなりません。そのことは、私がどうしても、しなければならないことだからです。もし福音を宣べ伝えなかったなら、私はわざわいだ。 9:17 もし私がこれを自発的にしているのなら、報いがありましょう。しかし、強いられたにしても、私には務めがゆだねられているのです。」
 これがパウロが伝道者として召されたことの印です。すべての信徒が、このような伝道にかんする負債意識を持つわけではありませんが、神が伝道者として召した人には、このような魂への負債の意識をお与えになります。チャールズ・スポルジョンはこの負債意識を牧師・伝道者としての召しのしるしの一つであると言っています。伝道者として召された人であれば、福音を宣べ伝えなければ、自分は返すべき負債を主にお返ししていないという意識を持つのは当たり前です。たとえば主が奏楽者としてお召しになった人は、奏楽の奉仕を離れていると、自分は主の前になすべきことをしていないという負債感を持つでしょう。私は奏楽をしなくても、そんな負債感はもちません。私は、この苫小牧に遣わされた伝道者ですから、この苫小牧市民になんとしても福音を伝えなければならないという負債感をもっていますので、「苫小牧通信」をはじめとして何とかして福音をこの地の人々のうちに満たしたいと願っています。

結び
 ですが、みなさん一人一人も、少なくともあなたの身近な人々については、魂のために負債を負っています。あなたのお友達、家族、あなたの近所の人たちなど、あなたからでなければ、その人にキリストにある救いの証を聞くチャンスがない人がいるのではないでしょうか。今、主の前に、思い浮かべてみてください。その魂は、主があなたに託された魂です。「その人は、神様があなたに託された魂です。あなたが、主の愛に答えて返すべき負債です。
 ひとこと「さあ、主の家に行こう」です。

 

愛の奇跡

マタイ1:18-25

 

2017年12月24日 イブ礼拝

 

1.神の愛の奇跡――受肉

 

19世紀、デンマークキルケゴールという哲学者がおりました。彼は著書の中でひとつのたとえ話をしています。ある国の王様が、領内を視察していたときに、ふと見かけた庶民の一人の娘に一目ぼれしてしまいました。けれども、王は考えました。「もし自分が王として娘のところを訪ねたならば、娘は私が権力ある王だからという恐れをいだき、それが理由で、私に礼儀正しく接することはするだろうが、決して私を一人の男性として自分を愛してはくれないだろう。」そこで王は庶民の姿に身をやつして、この娘のところに出かけて交流してゆくのです。そして彼女と理解しあい、時間をかけて愛を育てて後、自らが王であることを明らかにし、求婚するのです。王が庶民をめとることは異常なことですが、愛は身分のちがいという垣根を乗り越えさせるものなのです。

 イエス・キリストの誕生について「その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になった」と記しています。この出来事はきわめて異常なことでした。異常というのは、処女がみごもることが生物学的にむずかしいなどという程度の話をしているのではありません。そうではなく、そもそも神が人となられたということが、きわめて異常だと言っているのです。まことの神は天地万物の創造主ですが、人間は被造物にすぎません。神は無限ですが人は有限者にすぎません。神は絶対者ですが、人間は相対者にすぎません。神は永遠者ですが、人は朝あっても昼には消えてしまう露のようなものです。それなのに、神があえて人となられたのです。

 あのたとえ話では王様は可憐な娘に一目ぼれしたのでしょう。けれども、愚かにも人間である私たちは神などいるものかと嘯き、あるいは偶像を拝んでいたような憎たらしいものでしょう。可憐なわけではありません。それなのに、神は私たち人間を救うために、人となられたのです。この奇跡は、神の私たちに対する一方的な愛が引き起こした奇跡なのです。神が人となられたことは、奇跡のなかの奇跡です。その奇跡は私たちの理解を超える、神様の愛によって実現したのです。

 

2.愛による正しい応答――神に用いられた人ヨセフ

 

「その母マリヤはヨセフの妻と決まっていたが、ふたりがまだいっしょにならないうちに、聖霊によって身重になった」この短い一節には、人間的な観点からいえば、非常に困ったことが記されています。それは、婚約したふたりがいっしょにならないうちに、子供が宿ったということです。現代日本では芸能人たちのふるまいの影響のせいなのか、「できちゃった婚」が当りまえのようですが、聖なる律法を持つユダヤ社会では、婚約中の女性がみごもるということは、スキャンダラスなことでした。当時のユダヤ社会では、婚約ということが現代日本におけるよりもはるかに重大な責任を伴うこととされていました。婚約すると二人はまだいっしょに暮らし交わりを持つことは許されませんでしたが、一定期間、社会の中で夫婦としての責任を果たすことが求められたのです。そうした婚約期間を経て、ようやく二人は結婚しともに暮らすことが許されました。そんなきまじめなユダヤ社会のなかで、婚約中の女性のおなかが大きくなってくるということは、恥ずべきことでした。世間の人たちは事情を知りませんから、ヨセフと婚約しているマリヤのおなかが大きくなってくれば、「ヨセフとマリヤはもっとまじめな人間だと思っていたけれど、人は見かけによらないものだ。」とナザレの町中の人々が、ひそひそと噂をされ、社会的に信用を失うことになりました。

けれども、ヨセフが直面していた現実はさらに深刻でした。マリヤの妊娠についてヨセフにはまったく身に覚えがなかったのですから。ふつうならば激怒して「マリヤ。いったい、誰がおまえを犯したんだ。おまえのおなかにいるのは、どこのどいつだ!」と問い詰めそうなものです。しかし、ヨセフは、マリヤがふしだら女だから、こんなことになったのではないと確信していました。当時のイスラエルが置かれた状況は、ローマ兵がたくさん駐屯していました。当時イスラエルのあちこちでローマ兵に襲われ身重になった娘たちがいたようです。

ヨセフには、怒りに任せてユダヤの法廷にマリヤを訴える権利があるにはありました。有罪となれば、マリヤは法律にしたがって町の人みなから石打ちで処刑されるでしょう。これは旧約聖書にある聖なる律法の定めでした。「人がもし、他人の妻と姦通するなら、すなわちその隣人の妻と姦通するなら、姦通した男も女も必ず殺されなければならない。」(出エジプト20:10)不倫の罪は、婚約している二人が結婚前に一線を越えてしまうのとはレベルがまるでちがう死罪にあたる大罪でした。けれども、ヨセフはマリヤを法廷に訴えず、内密に去らせようとしたのです。「 1:19 夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた。」

 ここを見ると、神様の前で「正しいdikaios」ということは聖なる律法を重んじて生きることです。けれども、それは正しいとは律法をただ逐語的に他人に当てはめることではないのだということがわかります。ヨセフはいいなずけのマリヤを信頼し彼女がふしだらゆえにこんなことになったのではないということを確信し、マリヤは被害者として子どもを身ごもらせられたににちがいないと判断しました。ですから法廷に告発するのは正しいことではない。けれども、このまま娶るわけにもいかないので、内密に去らせて、彼女が生きてゆける道を配慮すべきだと彼は考えたのです。律法の根本精神は愛だということをわきまえた、ヨセフの誠実さが「正しい」といわれているのです。

 神は、このように誠実でかつあわれみの心を持つヨセフを信頼なさって、尊い御子を託されたのでした。

 

3.愛の神がくださった救い主――救い主の名

 

 さて、ヨセフはマリヤを内密に去らせようと決意したものの、なお悩みながら寝台の上を転々としていました。結婚の日を目指してマリヤと共にすごした喜ばしい日々のことが思い出されたり、どこの誰がマリヤをかどわかしたのかと思えば憤りを感じます。また、マリヤを内密に去らせるとしても、その先マリヤとおなかの子はどこでどのように生活して行けるだろうと心配したり、なかなかぐっすりと眠りにつくことができません。

 そんなヨセフに主の使いが夢で啓示を与えました。 

1:20 彼がこのことを思い巡らしていたとき、主の使いが夢に現れて言った。「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。

ダビデの子ヨセフ」と御使いは彼に呼びかけました。メシヤはダビデ王の子孫としてその家系から生まれることになっているというのは、ユダヤ人の常識でした。マリヤの胎に宿る子は、姦淫の子ではなく、聖霊によって宿った神の御子なのだと告げたのです。

 

 続いて御使いは生まれてくる子の名前を告げます。生まれてくる神の御子には、イエスという名とインマヌエルという二つの名が与えられます。その名には、その果たすべき使命と、この方がくださる救いとはなんであるかが明らかにされています。

 

(1)イエス

 1:21 マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」

 イエスというのは、「救い」という意味のヘブル語ヨシュアギリシャ読みです。イエス様とは「お救いさま」と言う意味です。イエス様は救い主としてこられました。単に「救い」と言われても、いろんな救いがあるでしょう。たとえば貧困からの救い、病気からの救い、心の不安からの救い、争いからの救い、災害からの救いなどなどと。では、イエス様は私たちを何から救ってくださる救い主なのでしょうか。イエス様は「ご自分の民をその罪から救ってくださるお方」なのです。

 罪から救ってくださるといいますが、聖書で「罪」とはなんでしょう。泥棒とか人殺しも罪ではありますが、ここで聖書がもちいている「罪」ということばのもともとの意味は「的はずれ」という意味のことばが用いられています。人間にはもともと的があるけれど、その的から外れた生き方をしている、それが罪だということです。陶器師は湯飲みを作るとき、お茶を飲みやすいという的にしたがって形作り、お皿を作るときには食べ物を載せて映えるようにという的にしたがって形作るでしょう。神様は、人間を作るときに神を愛し、隣人を自分自身のように愛して、神とともに生きるという的をもって造りました。罪とは、神を愛し隣人を愛するという的を見失い、自己中心になっていることを意味しています。ところが神を見失っているので、人は自分が何者であるか?なんのために生きているのかがわからなくなって人生むなしくなりました。会社を大きくすることが人生の目的、お金をかせぐことが人生の目的などということで一生懸命にやったけれど、家族が崩壊してしまうなどということはありがちなことです。神なき的外れの人生こそが、聖書でいう「罪」なのです。

 イエス様は、私たちをこの神なき的外れの人生から解放するために来られた救い主です。

「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です。」

 

 

(2)インマヌエル

 救い主イエス様にはもう一つの名があることを御使いは告げました。

1:23 「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる。」(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である。)

 イエス様は私たちを神なきむなしい、独りぼっちの人生から救い出し、「インマヌエル」つまり神と共にある人生に入れてくださいます。神様がともにいてくださる人生がどんなにすばらしいものであるか、どのように説明すればよいでしょうか。それはあまりにも豊か過で、ごく一部を表現できるにすぎませんが、私自身が経験してきたことを三つにまとめてみます。

第一は、まことの神様とともに生きるようになって人生の目的がわかりました。私は高校生のとき身近な者の突然の死に直面して、自分はなんのために生きるのだろうという問いにぶつかって、答えを見つけられませんでした。当時は国文学者になろうと思って受験勉強していましたが、大学にはいり、国文学者になってなんになるのか、ああむなしいと感じました。あなたの人生の目的とはなんでしょうか?人はなぜ生きなければならないのでしょう。けれど、イエス様を信じ、神様を知ってから永遠に神を喜び、神の栄光をあらわすことが私の人生の目的となりました。

第二は、永遠の神の前に罪が赦されているという魂の平安です。神の御子イエス様が、私の罪のためのあがないとなってくださいました。私の罪がいかに重くても、神様の御子がそれをいのちを捨てて償ってくださったのです。ならば、イエス様を信じる私の罪が赦されていることは、疑いえないことです。ですから、「人には一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっています」が、その神のさばきを恐れる必要がありません。その安心があります。

第三には、神さまが、私のことをわが子として愛していてくださるという喜びです。私は今も失敗し神様を悲しませてしまうこともあります。けれども、さして役に立たない私の存在をも神様はわが子として喜んでいてくださいます。クリスチャンにとって人生の途上で起こってくるいろいろな苦しみや悲しみも、神様からの善意に満ちた試練です。生きていればいろんなことがありますけれども、それもこれも神様が私の成長を期待してくださっている試練なのですから、あわてることはないし、あせる必要もありません。困った事態に遭遇しても、この出来事にどのように対処するように神様は期待していらっしゃるのかなあと考えながら、対処することができます。

万物の支配者である神があなたの味方であることほど、すばらしい祝福はほかにありえません。イエス様は、その祝福をあなたにも用意してくださいました。ですから、インマヌエルというもうひとつの名をお持ちなのです。

 

むすび

神様はクリスマスにおいて破格の愛を私たちに現してくださいました。神の御子は、その栄光の座を捨てて、地上に人となっておいでくださり、私たちを神なき的を外れた人生から救い出して、神とともに生きるすばらしい人生、永遠のいのちへと招いてくださいました。あなたも、イエス様を私の救い主として受け入れ、主をたたえましょう。

蓮の花のように

Mt1章1節から17節

2017年12月24日 苫小牧クリスマス礼拝

 

 はじめて新約聖書を読もうとして、日本人なら誰もが最初に面食らうのは、この巻頭の「イエス・キリストの系図」でしょう。しかし、韓国の人たちはさほど驚かないでしょう。殉教者チュ・キチョル牧師の伝記を読んだことがありますが、いずれも巻頭にはその人物の系図が記されていました。チュ牧師の先祖は中国宋代の儒学者朱熹だそうです。系図というものを大切にする文化においては、誰かの生涯を記そうとするときには系図を確認するというのは常識のようです。

 マタイ福音書は当面ユダヤ人を読者として想定して書かれたので、その冒頭にイエスの系図を記しているわけです。旧約聖書に慣れ親しんだユダヤ人にとっては、メシヤ(キリスト)が、アブラハムの子孫のユダ族のダビデの家系から出ることは常識中の常識でしたから、そのことがここで確認されています。

 神様は、この系図をもって私たちに何かを語ろうとしていらっしゃいます。そのメッセージを読み取るために、その特徴に注目してみましょう。

第一の特徴は、「1:1 アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図。」という表題です。

 第二の特徴は17節に記されるように、三つの時代に十四代ずつに区分されていることです。「1:17 それで、アブラハムからダビデまでの代が全部で十四代ダビデからバビロン移住までが十四代、バビロン移住からキリストまでが十四代になる。」

 そして、第三の特徴は、ところどころに「~によって~が生まれ」と特筆された4人の女性の名があることです。

 

1 表題

 

 

 まず、第一の特徴を見てみましょう。キリストの系図を説明するのに、二人の先祖の名アブラハムダビデが特筆されている点について。神さまは彼らにそれぞれキリストにあって成就する契約をお与えになりました。

 (1)アブラハム契約

 まずアブラハム契約について。バベルの塔の事件で人間が文明の力をもって傲慢になり自ら神のようになろうとしたので、神は国語を分けられたということが記されています。言語の壁が出来て、人類は多くの民族に分かれていきました。

しかし、そういうバラバラになった人類の中から、神さまはノアの息子セムのすえであったアブラハムをお選びになります。そして、アブラハムに一つの契約をお与えになりました。

12:1 【主】はアブラムに仰せられた。

   「あなたは、あなたの生まれ故郷、あなたの父の家を出て、

   わたしが示す地へ行きなさい。

 12:2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、

   あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとしよう。

   あなたの名は祝福となる。

 12:3 あなたを祝福する者をわたしは祝福し、あなたをのろう者をわたしはのろう。

   地上のすべての民族は、あなたによって祝福される。」

 

アブラハム契約は相続の契約と呼ばれます。そのポイントは、アブラハムの子孫は星の数のようになり、まず彼の子孫は神の約束の地を相続するようになり、最終的にはアブラハムの子孫にキリストが来られて、世界中のあらゆる民族は祝福を受けるのです。言い換えると、信仰によるアブラハムの子孫が世界の相続人となるということでした。つまり、世界のあらゆる民族国語の壁を越えて、一度はバラバラになってしまった人類から、今度はキリストにあって神をあがめる一つの民、神の家族を造ろうというご計画です。キリストを長男とする神の家族、「聖なる公同の教会」です。

 

(2)ダビデ契約

 次にダビデ契約について。アブラハムが紀元前およそ2000年の人ですが、ダビデは紀元前およそ1000年の人と憶えてください。ダビデアブラハムの子孫イスラエルの王となり、エルサレムに都を置いたとき、ダビデはまず自分の住まいをレバノン杉で作りました。そして、自分がこんな立派な屋敷に住んでいるのに、神様を礼拝する施設が幕屋つまりテントであることを申し訳ないと思い、神様のために立派な神殿を造りたいと願ったのです。ところが、そのとき預言者ナタンを通して神様は彼におっしゃいました。第二サムエル7章です。

7:5 「行って、わたしのしもべダビデに言え。

  【主】はこう仰せられる。あなたはわたしのために、わたしの住む家を建てようとしているのか。 7:6 わたしは、エジプトからイスラエル人を導き上った日以来、今日まで、家に住んだことはなく、天幕、すなわち幕屋にいて、歩んできた。 7:7 わたしがイスラエル人のすべてと歩んできたどんな所ででも、わたしが、民イスラエルを牧せよと命じたイスラエル部族の一つにでも、『なぜ、あなたがたはわたしのために杉材の家を建てなかったのか』と、一度でも、言ったことがあろうか。」

 

 つまり、神様は幕屋でOKだよ。私は文句など言ってないよ、とおっしゃいました。そして、11節から

7:11 それは、わたしが、わたしの民イスラエルの上にさばきつかさを任命したころのことである。わたしはあなたをすべての敵から守って、安息を与える。さらに【主】はあなたに告げる。『【主】はあなたのために一つの家を造る。』

 7:12 あなたの日数が満ち、あなたがあなたの先祖たちとともに眠るとき、わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる。

 7:13 彼はわたしの名のために一つの家を建て、わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる。」

 

 ダビデ契約は王国の契約と呼ばれます。ダビデの子孫から王が出て、神殿を建て、彼の王座を確立すると約束されたのです。この約束は当面ダビデの息子ソロモン神殿で成就したかに見えましたが、ソロモンの罪ゆえにこれは破綻し、王国は分裂して結局滅びて本当の成就はキリストによって成就することになるのです。

 つまり、神の御子イエス・キリストダビデの家系に生まれて、私たちの罪を十字架と復活をもって解決して後、天に昇り、天の王座に着座され、世界中にキリストの弟子を派遣することによって、世界中に「神の王国」が拡張することになったのです。現在、世界のクリスチャンは23億人だそうですが、世界にキリストのみこころが成るために、私たちはそれぞれの場に派遣されているのです。

 

 まとめます。アブラハム契約とダビデ契約で、世界中のあらゆる民族国語から召されて神の家族となり、神のご支配が世界に及んでいく。これがキリストの系図が、「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」と呼ばれる所以です。

 

2.歴史の三区分

 

 キリストの系図の第二の特徴は17節に記されるように、アブラハムからキリストに至るまでの歴史が14代ずつ三区分されていることです。「1:17 それで、アブラハムからダビデまでの代が全部で十四代ダビデからバビロン移住までが十四代、バビロン移住からキリストまでが十四代になる。」

 アブラハムからダビデまでの14代というのは、アブラハムの選びとカナンへの旅、そしてアブラハムの孫ヤコブの時代にエジプトに移住して430年間のエジプトでの生活と人口増加、そして、モーセの時代15世紀にエジプト脱出と約束の地カナンへの帰還と定着、そして、王国の始まりという、いわば民族の歴史としては右肩上がりの時代であったということができるでしょう。子どものいないアブラハムに息子を与え、それが星の数のようになり、アブラハムの時代には土地もなにもなかったけれど、ダビデの時代にはついにこの地が平定されたのでした。神の言われたとおり、たった一人のアブラハムからおよそ五百年後には、一つの王国が出来るまでになりました。

 

 次に紀元前1000年から、ダビデからバビロン移住までの14代はどういう時代だったかというと、これは王国時代ということになります。ソロモンの栄華と呼ばれるようにイスラエルはこの時代非常に栄えました。そして、ソロモンはエルサレムに神の家つまり神殿を建設したのでした。けれども、ソロモンの死後王国は南北に分裂し北王国、南王国はそれぞれに王たちが登場して王国時代を築いてゆきます。けれども、北イスラエル王国偶像崇拝と罪ははなはだしくて、紀元前722年には早々と北王国がアッシリヤ帝国亡ぼされてしまいます。南ユダ王国も紀元前586年にはバビロンによって滅ぼされ、エルサレム神殿も破壊されてしまいました。そして、バビロン捕囚となります。

 

 ではバビロン移住のあとキリストまでの14代はどういう時代だったでしょうか。破壊されたエルサレム神殿の再建が許される時期はありましたが、かつてのように主権をもった国家に戻ることはありませんでした。バビロン王国、ペルシャ帝国、ヘレニズム帝国(シリア)そしてローマ帝国と支配者は交代しますが、イスラエルはずっと主権を奪われて支配下に置かれていたのです。キリストが人として生まれたのは、イスラエルが落ち目となってローマ帝国支配下にあって重税をかけられてあえいでいるときでした。

 

 このように紀元前2000年にアブラハムに与えられた約束、紀元前1000年のダビデに与えられた約束は、イスラエルの歴史のなかで部分的にまた一時的には成就したかにみえました。しかし、結局はイスラエルの民の罪ゆえに成就することはありませんでした。人間の力をもってしては、神の約束は成就しないのだということが、2000年間のアブラハムから始まるイスラエルの歴史によって立証されたということを示しているようです。

 

 人の女性の名が特筆された

 

(1)4人の女性の名

 ところで、キリストの系図に記されている人々の名を見ていくと、ほとんどが男たちなのですが、その中に「誰それによって誰それが生まれ」と、特筆されている4人の女性がいることに気がつきます。タマルによって(3節)、ラハブによって(5節)、ルツによって(5節)、ウリヤの妻によって(6節)です。

 普通、あなたが自分の系図を書くとしたら、そこに特筆したい名前というと、どのような人物の名でしょうか?石川五右衛門くらい有名になれば話は別でしょうが、普通、私の先祖にこんな泥棒がいましたとか、殺人鬼がいましたとか、乞食がいましたなどという不名誉なことは伏せて、なにか立派なことをした人の名を記すでしょう。では、この女性たちはどういう人たちだったのでしょう。

「1:3 ユダに、タマルによってパレスとザラが生まれ、」とありますが、口にすることもはばかられるような経緯があって、タマルは舅のユダと関係を結んでパレスとザラを産みました。(創世記38章)ユダは長男にタマルという嫁を迎えましたが長男が死に、ついで次男にめとらせましたが次男も死んでしまいました。ユダは怖くなって、三男の嫁として彼女を迎えることをやめて、やもめのままでいなさいということにします。けれども、彼女は子孫を残したかったので遊女に身をやつしてユダと寝て、子を得たのでした。

 「1:5aサルモンに、ラハブによってボアズが生まれ、」二人目の名はラハブです。ラハブのことは憶えているかたが多いでしょう。旧約聖書ヨシュア記に出てくる女性です。紀元前1400年頃の人です。彼女は、その罪ゆえに滅ぼされることになっていたエリコに住んでいたカナン人の女性で、しかも、遊女を生業としていました。けれども、ヨシュアが派遣した斥候をかばったことで特別に助けてもらったのでした。血筋を重んじるユダヤ人ですが、来るべきキリストには異邦人、しかも、遊女を生業としていた女性が含まれるとわざわざ記録しているのです。

 次に登場するのはルツです。やはり異邦人です。旧約聖書ルツ記に出てきます。「1:5bボアズに、ルツによってオベデが生まれ、オベデにエッサイが生まれ、」イスラエルで日照りが続いたので、ナオミと夫は隣国モアブに移住しました。そこで息子の一人に嫁としてモアブ人ルツを迎えたのです。イスラエルは血統とか純潔を誇るのですが、メシヤの家系にはラハブにせよ、ルツにせよ異邦人の血がはいっているのです。

 「1:6b ダビデに、ウリヤの妻によってソロモンが生まれ」そして、最後にきわめつけはこれです。この一節には恐ろしく悪質な犯罪の記録です。「ウリヤの妻によって」という書き方がなんとも異常です。子どもは自分の妻によって得るものではありませんか。他人の妻によって得るものではありません。王であったダビデは自分の忠臣ウリヤの妻に欲情を抱いてむさぼりの罪を犯し、権力にものいわせて我が物とし、まじめな人ウリヤをはかりごとにかけて戦地で死に至らしめました。このひどい行いに対して神は怒りを発せられ、英雄ダビデの後半生は悲惨なものとなってしまいます。ダビデはウリヤの死後、ウリヤの妻によってソロモンを産んだのでした。

 

 以上のように、アブラハムダビデの名を付けられたイエス・キリストの系図は、決してうるわしいものとしては書かれていません。この系図を見ていくと、つくづく人間の歴史は罪にけがれているのだなあという思いがします。しかし、こうした罪の泥沼のような系図の最後に次のように記されています。

「1:16 ヤコブにマリヤの夫ヨセフが生まれた。キリストと呼ばれるイエスはこのマリヤからお生まれになった。」

 真っ黒な泥沼の中から咲いた、一輪の純白の蓮の花。イエス・キリストの誕生はまさに奇跡です。

 

(2)4人の名が特筆された目的

 なぜ、聖書は、純潔を尊ぶユダヤ人相手に、わざわざこんな言わずもがな、書かずもがなと思われる、メシヤの家系の恥部をさらすようなことを書くのでしょうか。

①まず異邦人の名が記されているのは、メシヤ、キリストはイスラエル民族のための救い主ではなく、世界中のあらゆる民族国語の救い主としてこられたことを示すためです。アブラハムの子孫からキリストが出て世界のあらゆる民族が祝福されるという契約の成就です。キリストはユダヤ人だけでなく、インド人もフランス人も中国人もケニヤ人もアメリカ人も日本人も、このキリストにあって神の前に祝福を受けるのです。

 

②また、キリストの系図のなかに人間の罪を思い出させる女性たちの名が記されているのは、キリストが正しい人を招くためではなく、神の前に罪ある人を招いて救うために来られた救い主であることを示すためです。主イエスは言われました。マタイ9:12,13

9:12 「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。 ・・・わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです。」

 イエスさまは「正しい人間」には用がありません。「私は、心の思いと、ことばと、行いにおいて神様の前で恥ずべきことがあります。主よ、わたしをあわれんでください」とありのままの自分のみじめな姿を認める人にとっては、キリストは救い主となってくださいます。「『キリスト・イエスは、罪人を救うためにこの世に来られた』ということばはまことであり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。」1テモテ1:15

 

結び

 わたしたちは異邦人であり、また、神の前には罪ある者です。イエス・キリストは、まさに私たちの救いのために来てくださった救い主です。

復活

マルコ16:1-8、ルカ24:36-43

 

はじめに

 キリスト教の祭りといえば、クリスマスとイースターというのは聞いたことがおありだと思いますが、イースターは復活節のことで、これは春に行われます。ですが、実は、日曜礼拝は毎週復活節なのです。なぜなら、キリスト教会が週の初めの日、日曜日に礼拝をするようになったのは、キリストが週の初めの日に復活されたからです。それまで、ユダヤ教では土曜日を安息日としていました。キリストの復活という出来事は、キリスト教会にとって、とっても重要なことです。キリストの復活なくして、二千年におよぶキリスト教会は存在しません。キリストが死なれたとき、弟子たちはおびえて世界に福音を伝えに行く勇気などもちあわせていなかったのです。キリストが復活されたからこそ、弟子たちは勇気百倍となって世界に福音を伝えに行ったのです。十字架におけるキリストの死の出来事と、その日から数えて三日目の復活の出来事とは、キリスト教の中心です。

 本日は、キリストの復活と私たちの希望についてお話します。キリストの復活について記した二つの聖書箇所をお読みします。

 

マルコ16:1-8

 16:1 さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。

 16:2 そして、週の初めの日の早朝、日が上ったとき、墓に着いた。

 16:3 彼女たちは、「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるでしょうか」とみなで話し合っていた。

 16:4 ところが、目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった。

 16:5 それで、墓の中に入ったところ、真っ白な長い衣をまとった青年が右側にすわっているのが見えた。彼女たちは驚いた。

 16:6 青年は言った。「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。

 16:7 ですから行って、お弟子たちとペテロに、『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます』とそう言いなさい。」

 16:8 女たちは、墓を出て、そこから逃げ去った。すっかり震え上がって、気も転倒していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。

 

 

ルカ24:36-43

 24:36 これらのことを話している間に、イエスご自身が彼らの真ん中に立たれた。

 24:37 彼らは驚き恐れて、霊を見ているのだと思った。

 24:38 すると、イエスは言われた。「なぜ取り乱しているのですか。どうして心に疑いを起こすのですか。

 24:39 わたしの手やわたしの足を見なさい。まさしくわたしです。わたしにさわって、よく見なさい。霊ならこんな肉や骨はありません。わたしは持っています。」

 24:41 それでも、彼らは、うれしさのあまりまだ信じられず、不思議がっているので、イエスは、「ここに何か食べ物がありますか」と言われた。

 24:42 それで、焼いた魚を一切れ差し上げると、

 24:43 イエスは、彼らの前で、それを取って召し上がった。

 

 1.キリストの復活の事実

 

(1)墓の石

 お読みした出来事は、イエス・キリストの復活の場面です。主イエス・キリストが十字架にかけられて処刑されたのは、ユダヤ暦ではニサンの月15日、西暦では33年4月3日いまでいう金曜日、エルサレムでの出来事でした。この日付は、同時代の小アジア半島のビテニヤ地方のフレゴンという人物の年代記からあきらかにされています。

 金曜日の日没から神を礼拝する安息日が始まりますから、ユダヤ人たちは忌まわしい十字架上の死体は取り下ろさねば、ということになりました。そのとき、イエスを信じていた国会議員アリマタヤのヨセフが引き取って、自分のために用意してあった墓に葬り魔性と申し出ました。

 彼がイエスの亡骸を丁重に墓に納めると間もなく日が西の山の端に沈んで、安息日が始まりました。ユダヤでは日没から日没を一日と数えます。安息日の間は24時間、決して物の売り買いも、会堂礼拝に行く以外には外出もできません。

 そして、週の七日目(土曜日)、太陽が西の山の端に落ちると、安息日が開けて、週の初めの日(日曜日)が始まりました。そこで、ようやくイエスの弟子であった女たちは市場に出かけて香料を買い整えて、イエス様のお墓に出かけて骸に香料を施してさしあげる準備をしたのでした。

 16:1 さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。

 ここを見ると、彼女たちはイエス様が復活するなどということなどまったく期待していなかったことがわかります。もしイエス様が復活してまたお目にかかれると思っていたら、日が山の端に隠れるやいなやきっと墓へとでかけたことでしょうから。準備を終わると彼女たちは床について数時間寝て、朝が来ると女たちはイエス様が葬られた墓へと急ぎました。でも、彼女たちは墓に向かいながら不安になりました。「墓の入口からあの石をころがしてくれる人が、だれかいるかしら」(16:3)と。

 当時のユダヤの墓は、岩壁に横穴を掘って造られたもので、その穴の前に大きな円盤状の石を立てかけておいたものでした。主イエスが葬られたアリマタヤのヨセフの墓も同じ様式であって、今日、これがイエスの墓であったといわれる「園の墓」の石は、厚さ40センチ、直径は3メートル余りと非常に巨大なものであったと推定されています。到底、数人の女性たちの手で動かせるようなものではありませんでした。

 しかも、マタイ福音書の並行記事によれば、墓にはローマの番兵がついていて、誰にも近づけないように警戒していました。さらに、石には「封印」をしたとも記録されています。ローマ帝国の双頭の鷲の封印であって、これを破ることは決して許されないものでした。番をしている兵士だって、ローマ総督の許可なしにあけることなどできはしません。ですから、彼女たちは墓にやってきたものの、墓の入り口からあの石をころがしてくれる人がいるかしら」と心配になったのも無理はありません。

 

(2)墓は空っぽで、青年がいた

 ところが、墓までやってくると、あの封印は破られ、墓のふたの石はゴロリとわきに転がされていたのです。そして、ぽっかりと黒い穴が見えました。

 16:4 ところが、目を上げて見ると、あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった。

 彼女たちは恐る恐る墓の中にはいってみます。

 16:5 それで、墓の中に入ったところ、真っ白な長い衣をまとった青年が右側にすわっているのが見えた。彼女たちは驚いた。

 ほかの福音書の並行記事では「み使い」となっていますが、マルコが「青年」と書いてあるのが、いかにもナマの証言という印象がします。青年は言いました。

 16:6「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません。ご覧なさい。ここがあの方の納められた所です。 16:7 ですから行って、お弟子たちとペテロに、『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます』とそう言いなさい。」

 

 女たちは鳥肌がたちました。青年つまりみ使いから弟子たちに大事な知らせをしなさいと言われたのですが、すぐにはできなかったようです。次のようにあります。

 16:8 女たちは、墓を出て、そこから逃げ去った。すっかり震え上がって、気も転倒していたからである。そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである。

 復活などという出来事に直面したり、天使に会うなどという出来事に直面すれば、人間は腰が抜けて、こんなふうに震え上がるものなのですね。異次元の出来事との出会いの恐怖というのでしょうか。実はマルコ福音書はここで終わっていたようです。この後に付け加えられているのは、ほかのマタイ、ルカ福音書の復活記事の要約です。初代教会で全福音書が各教会にそろっていない時代には、そうした付録が必要だったのでしょう。しかし、マルコ福音書が「恐ろしかったからである」で終わっていたということにも、復活という恐るべき出来事のリアリティが現れていますね。

 しかし、ほかの福音書を参照すると、やがて気を取り直すと彼女たちは弟子たちの所へ行き、墓が空っぽであることを告げました。するとペテロとヨハネが墓に行って、たしかに墓は空っぽであることと、そこにはイエスの亡骸を巻いた白い亜麻布が置かれているのを確認しました。

  

(3)弟子たちに現れた

 その日の夕方、主イエスは弟子たちが集まっているところに出現しました。そのことは、ルカ福音書ヨハネ福音書にくわしく記録されています。お読みした第二の箇所はルカ福音書です。弟子たちは最初はイエスの幽霊が現れたのだと飛び上がりました。「うらめしや。よくもわたしを捨てて逃げたな~」と言うかと思ったら、主イエスは手足をまくって見せて、「ほれ、手もあれば、足もあるよ」と示しました。そこには、十字架にはりつけにされた傷跡が見えます。それでも弟子たちがうれしすぎて信じられないので、イエスはそこにあった焼き魚まで神妙な顔をして食べて見せて、ご自分が復活のからだをもって現れたことを証明なさいました。

 

 マルコとルカの復活の記事から私たちが知ることができるのは、主イエスの復活というのは、肉体は死んだけれど霊だけがよみがえったというふうなことではないし、まして、弟子たちの心にイエスは生きていますというふうな文学的・抒情的な話ではなく、客観的な事実なのだということです。死んだ者が生き返るなんて、なんて馬鹿げたことを、と思うでしょう。実にそのとおりであって、主イエスの弟子たち自身も、最初、墓を訪ねた女たちの証言をバカバカしくて信じることができませんでした。また、復活したイエスが弟子たちの目の前に出現しても、なお不思議で信じることができなかったのです。ですが、現に、目の前に三日前にたしかに十字架で死んでしまったイエスが生きていて、腕まくり裾まくりまでして、自分が生きていることを証明してお魚まで食べているのを見て、ようやく信じることができたのです。

 仮死状態の人が蘇生したというのはときどき聞きますが、ほんとうに死んだ者がよみがえるということは、実際、普通はありえないことです。

 

2.復活の意義

 

 では、そのあり得ない出来事がなぜ起きたのか。これは、神が起こされた奇跡以外の何物でもありません。死者をよみがえらせることが出来るのは、無から生命を創造した神以外にはないからです。イエス・キリストの復活の奇跡の意義とは何でしょうか。聖書では奇跡をしるしといいます。サインです。サインはその意味を読み取らねばなりません。神さまは奇跡をもって、特別大事なメッセージを私たちに悟れとおっしゃるのですから、私たちはしるしの意味を悟らなければなりません。

 

(1)死とは罪に対する呪いである

 キリストの復活の意義を理解するためには、まず、死とはなんであるかについて知らなければなりません。聖書は死について何を教えるでしょうか。

 聖書は、死とは自然なことではなく、不自然なこと、非本来的なことであると教えています。ローマ皇帝でもあったマルクス・アウレリウスという哲学者は、<死とは人間が、寝たり起きたりご飯を食べたり呼吸をするのと同じように自然なことである。誰もが経験する当たり前の事、自然なことであって、恐れるに足りないことなのだ。>というふうに力説しました。 ところで、「人が寝ることは自然なことである」とか「人が呼吸するのは自然なことである」とか「人が食事をするのは自然なことである」などと一生懸命に主張する人がいるでしょうか?いませんね。なぜでしょうか?寝ること、呼吸すること、食べることなどはほんとうに自然なこと、当たり前のことであるからです。自然な当たり前ことについては、別に力説する必要はありません。

 「死は自然なことである」と哲学者が力説し、私たちを説得しようとするのは、死が不自然なことであるとを誰もが感じているからにほかなりません。不自然なことというのは、本来あるべきでないことです。人は、「ご飯ですよ」「もう寝る時間だよ」と声をかけられてもショックを受けませんが、医者から「あなたは末期がんです」などと宣告を受けるとショックを受けます。

 死とは不自然なもの、本来あるべきでないものとは、もっと具体的にはどういうことなのでしょうか。死とは、人間の罪に対する神の怒り、神からの呪いとして入ってきたものであると聖書は教えています。ローマ書に、

「罪からくる報酬は死です」(3:23)

また、

「ちょうどひとりの人の罪が世界にはいり、罪によって死がはいり、こうして死が全人類に広がったのと同様に、それというのも全人類が罪を犯したからです。」(ローマ5:12)とあるとおりです。

 そして、聖書はこの肉体の死後には、聖なる審判者の前でさばきを受けなければならないと断言しています。

「人には一度死ぬことと、死後にさばきを受けることが定まっている」(へブル)のです。そして、そこで有罪であると判決がくだれば永遠の死に陥ることとなります。

 

  • 復活とは死に対する勝利である

 ところが、イエス・キリストは確かに死んだにもかからわず、三日目によみがえられました。この神が引き起こされた奇跡には、少なくとも三つの意義があります。

①第一に、イエス・キリストの復活は、イエスが人となってこられた神の御子であるということの証です。イエスさまと3年間寝食をともにすごした弟子たちは、イエス様のことばと行動から不思議なことを経験しました。いくつか思い出してみましょう。

 弟子ペテロはその三年間を思い起こして、「キリストは罪を犯したことがなく、その口に偽りを見いだされませんでした」と証言しています。結婚をして寝食をともにするようになって3年間、「この人はほんとうに罪のない人なんだ」というふうに思える人はいないでしょう。もう三日目には「ああ、この人にも罪があるんだと気づくでしょう。でもイエス様には罪がなかった。

 またイエス様の行動です。その行動が人間ではありえないことでした。ある日、ガリラヤの湖に小舟を出して弟子たちと一緒に出た時、突然、空が掻き曇ったと思ったら嵐になりました。舟は荒れ狂う湖の上で木の葉のようにもみくちゃになりました。そのとき、主イエスは弟子たちにたたき起こされて、やおら立ち上がると吹き荒れる嵐に向かって「黙れ。静まれ。」と命じました。すると、急になぎになってしまいました。弟子たちは鳥肌が立って言いました、「湖や風という自然現象にまで命令すると、いうことを聞くとは、いったいこの方はどういうお方なのだろう。」

 そして、十字架の上での主イエスの態度です。イエスはねたむ人々によってとらえられて裁判にかけられ死刑判決を受けて、十字架上で処刑されてしまいました。十字架上のイエスはいのられました。「父よ。彼らをゆるしてください。彼らは自分で何をしているのかわからないのです。」と。自分を無実の罪で殺そうとする者たちのために、こんな愛を注いで祈ることができるとは、いったいこの方はどういうお方なのでしょう。

 罪を犯したことがなく、自然法則を覆すような力をもち、敵をも心からの愛をもって赦すことができるお方。このお方に向かって弟子ペテロは「あなたは生ける神の御子キリストです」と告白したのでした。イエスの復活の出来事は、まさにイエスは罪のない神の御子であるということを鮮明にしているのです。

 

②第二に、キリストは、私どもの罪に対する、神の聖なる怒りを受け尽くされたのです。神は正義の審判者ですから、罪に対して怒り正当な罰をお与えになります。私たちは神の前には罪があるので、他人の身代わりになることはどできません。ただ自分の罪のゆえに地獄で刑罰を受けるほかありません。しかし、神の御子イエスキリストは、私たちの罪に対する神の聖なる怒りを身代わりとなって受けてくださったのです。

 何かの理由で刑務所に入った人も、その刑期を完了したならば、すべての刑罰は終わったのだということで、出所してくるでしょう。「罪から来る報酬は死である」とは神の定めですが、キリストは罪の刑罰をすべて受けつくされたので、その証として復活されたのです。

 

 第三に、キリストは「初穂としてよみがえられ」(1コリント15)たのです。麦畑に初穂が実ると、それに続いてあちらでもこちらでも穂が実り始めます。そのように、キリストを信じる者は、キリストにあって新しく生まれただけでなく、キリストのように新しいからだをいただいて、新しい天と新しい地、完成した神の国に復活します。そうして、新しい天と新しい地に、神とともに永遠の喜びのうちに生きることになります。

「神は彼らの涙をすっかりぬぐい取ってくださる。もはや死もなく、悲しみ、叫び、苦しみもない。なぜなら、以前のものはもはや過ぎ去ったからである。」(黙示録21:4)

 

結び 復活を受け取るには

 

 紀元33年4月3日すでにキリストは、人として地上に来られ、十字架にかかって私たちの罪を身代わりに背負って十字架で刑罰を受けてくださいました。そして、4月5日によみがえられたのです。

 キリストは今は父のもとで生きていて、私たちの祈りを聞き、聖書と聖霊をもって私たちに人生の導きを与えてくださいます。私たちのためにとりなしていてくださいます。キリストを信じる者の心には聖霊が与えられて、あたかも身近にキリストがいてくださるようにして、この世を生きることができます。キリスト信仰とは死んでしまった偉い人を偲ぶというふうなことではありません。今、生きて働かれるお方とともに生きることです。

 私たちがこのキリストにある、すばらしい救いをいただくには、ただ、いったい何をすればよいと聖書は教えているのでしょうか。ただ、「神に対する悔い改めと、主イエスに対する信仰」です。神に背を向けた人生から方向転換をし、主イエスを神の御子救い主として受け入れることです。あなたも、死と死後の恐ろしいさばきが待つ人生でなく、死に対する勝利、復活の希望をもって、神の栄光をあらわすための人生を生きることができます。

 「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」

 

 

詩篇10篇   悪者が栄えて

詩篇10編

悪者が栄えて

 

 

1 悪者のふるまい

 

人に対し

 10:1 【主】よ。なぜ、あなたは遠く離れてお立ちなのですか。

  苦しみのときに、なぜ、身を隠されるのですか。

 詩人はいきなり、主に対して叫びます。彼は悪者がやりたい放題にふるまっている現状を前に、神に叫ぶのです。正義の神はなぜこういうとき、遠くにおられるのですか?身を隠されるのですか?と。正しい者が悪者に追い詰められ、悪者はやりたい放題にやっているのを見て、彼は神はなぜ遠くで傍観していらっしゃるのですか?と問うのです。

 10:2 悪者は高ぶって、悩む人に追い迫ります。

  彼らが、おのれの設けたたくらみに みずから捕らえられますように。

 この世にあっては、しばしば悪者が栄え、義人が苦難にあうのはなぜか?という問いは、古来、正義にして全能の神を信じる者たちの頭を悩ませてきました。ヨブ記詩篇73篇などはその代表的なものです。

 

神に対し

 詩人の悪者の描写が続きます。悪者たちは正しい人間に対してひどいことをするばかりか、彼らはあろうことか神を呪い、また、あなどるのです。そして、「神などいるものか」と思っているのです。実に高慢です。

 10:3 悪者はおのれの心の欲望を誇り、貪欲な者は、【主】をのろい、また、侮る。

 10:4 悪者は高慢を顔に表して、神を尋ね求めない。

  その思いは「神はいない」の一言に尽きる。

 

 日々、いな時々刻々、太陽も大地も食物も空気も供給していただきながら、「神はいない」というのです。愚かしいほどに高慢です。

 

悪者の生態

 ところが、そんな悪者がいつも栄えているように見えます。その有様が5-11節です。

 10:5 彼の道はいつも栄え、あなたのさばきは高くて、彼の目に、入らない。

  敵という敵を、彼は吹き飛ばす。

 10:6 彼は心の中で言う。

  「私はゆるぐことがなく、代々にわたって、わざわいに会わない。」

 また悪者のことばの毒について述べます。

 10:7 彼の口は、のろいと欺きとしいたげに満ち、彼の舌の裏には害毒と悪意がある。

  そして悪者は悩む人、悪意をもって不幸な人を罠に陥れてさらに不幸にするのです。

 10:8 彼は村はずれの待ち伏せ場にすわり、隠れた所で、罪のない人を殺す。

  彼の目は不幸な人をねらっている。

 10:9 彼は茂みの中の獅子のように  隠れ場で待ち伏せている。

  彼は悩む人を捕らえようと待ち伏せる。

  悩む人を、その網にかけて捕らえてしまう。

 10:10 不幸な人は、強い者によって砕かれ、うずくまり、倒れる。

 そうして、悪者は神は見ていないとつぶやくのです。

 10:11 彼は心の中で言う。

 

  「神は忘れている。顔を隠している。彼は決して見はしないのだ。」

 そのことばをもって人を罠に陥れて不幸にし、そんな悪事をなしながら、「神はいない。いや、もしかしたら、いるかもしれないが、俺の悪事は見逃してくれるだろう。」・・・これが悪者の生態です。

 

.神への叫びと応答

 

 こうした現状を見るに見かねて、詩人は神に向かって声を上げます。立ち上がってください。貧しい者たちのために。

 10:12 【主】よ。立ち上がってください。  神よ。御手を上げてください。

  どうか、貧しい者を、忘れないでください。

 

 悪者があれほどやりたい放題に悪事を行ない、貧しい者を苦しめているのですよ。彼らは、神よあなたを侮っているのです。神はいない。もしかして神が存在したとしても、俺のことは追いかけてはこないさ、神は死んだ神だからね、という風に考える。

 10:13 なぜ、悪者は、神を侮るのでしょうか。

  彼は心の中で、あなたは追い求めない と言っています。

 

  しかし、まことの神はさばき主としてすべてをご覧になっているのです。正義の審判を神よ行ってくださいと詩人は言います。貧しい者、みなしご、悩むものを助けて悪者をくじいてくださいと。

 10:14 あなたは、見ておられました。害毒と苦痛を。

  彼らを御手の中に収めるために  じっと見つめておられました。

  不幸な人は、あなたに身をゆだねます。  あなたはみなしごを助ける方でした。

 10:15 悪者と、よこしまな者の腕を折り、その悪を捜し求めて

  一つも残らぬようにしてください。

 

 

3 審判への希望

 

 詩人は、悪者が栄え、正しい者、悩む者が苦しめられている現状を見て、いてもたってもいられず、神に向かって叫びました。正義の神よ立ち上がってください、と。そうして祈り叫ぶ中で、神がこの歴史全体の審判者であられることに思い至り、最後の審判においては、地のすべての権力者たちの国々は滅び失せるのだと確認するのです。

 10:16 【主】は世々限りなく王である。国々は、主の地から滅びうせた。

 10:17 【主】よ。あなたは貧しい者の願いを 聞いてくださいました。

  あなたは彼らの心を強くしてくださいます。

  耳を傾けて、 

10:18 みなしごと、しいたげられた者をかばってくださいます。

  地から生まれた人間が もはや、脅かすことができないように。

 

 詩人は最後の審判に究極の望みをかけるのです。今の世には不合理、不条理に見えることがしばしばあるでしょう。しかし、最後にはキリストが再び来られて、公正この上ない審判をなさって、帳尻を合わせてくださるのだという信仰です。終末に対する希望です。

 そのとき、「神はいない」「神がいても、見てはいない、見逃してくれる」などと勝手なことを言っていた悪者は、神から厳しい裁きをうけることになります。神を畏れ、それゆえにあえて貧しくなり困難な道を歩むものには、神は天来の報いを与えてくださいます。

 ですから、私たちは、目先の損得に左右されず、地にあって揺るぐことなく善をおこないたいものです。

 

 

キリストとともに葬られる

マルコ15:39-47

 

15:39 イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、「この方はまことに神の子であった」と言った。

 15:40 また、遠くのほうから見ていた女たちもいた。その中にマグダラのマリヤと、小ヤコブとヨセの母マリヤと、またサロメもいた。

 15:41 イエスがガリラヤにおられたとき、いつもつき従って仕えていた女たちである。このほかにも、イエスといっしょにエルサレムに上って来た女たちがたくさんいた。

  15:42 すっかり夕方になった。その日は備えの日、すなわち安息日の前日であったので、

 15:43 アリマタヤのヨセフは、思い切ってピラトのところに行き、イエスのからだの下げ渡しを願った。ヨセフは有力な議員であり、みずからも神の国を待ち望んでいた人であった。

 15:44 ピラトは、イエスがもう死んだのかと驚いて、百人隊長を呼び出し、イエスがすでに死んでしまったかどうかを問いただした。

 15:45 そして、百人隊長からそうと確かめてから、イエスのからだをヨセフに与えた。

 15:46 そこで、ヨセフは亜麻布を買い、イエスを取り降ろしてその亜麻布に包み、岩を掘って造った墓に納めた。墓の入口には石をころがしかけておいた。

 15:47 マグダラのマリヤとヨセの母マリヤとは、イエスの納められる所をよく見ていた。

 

 

 ゴルゴタの丘で主イエスの死のありさまを見て、イエスは神の御子であると信仰告白をしたのは、選民イスラエルの宗教の専門家たちでなく、異邦人であるローマ人の百人隊長でした。キリストの十字架の福音が、民族国語のわくを越えて世界へとひろがっていくことが予告されているようです。 また、キリストの死と葬りをしっかりと見ていたのは、女たちであったということが40節、41節、47節に強調されています。異邦人といい、女性と言い、当時のユダヤ社会の中では軽んじられていた人々ですが、神は彼らを証人として用いられたのでした。

 本日は主イエスの葬りの場面です。

 

1.葬り

 

 使徒信条において、私たちは「われらの主イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりて宿り、ポンテオ・ピラトのもとに十字架につけられ、死にて葬られ」と告白します。ただ「死んだ」というだけでなく、「葬られた」と告白するわけです。コリント人への手紙第一の15章でも、パウロは福音を説明するにあたって、「15:3 私があなたがたに最もたいせつなこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書の示すとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、15:4 また、葬られたこと、また、聖書の示すとおりに、三日目によみがえられたこと」であると、わざわざ葬られたことを告げています。「主イエスは十字架で死んで、よみがえられた」と告白するのでなく、「十字架に死んで、葬られて、よみがえられた」のです。主イエスが葬られたことは大事なこととして福音書で扱われています。 ハイデルベルク信仰問答41は次のように述べます。

 なぜ、このお方は葬られたのですか。
答 このお方が本当に死んでしまったということを証言するためです。

 葬りは、本当に死んだという事実を明らかにするのです。死は私的な出来事ではなく、公的な出来事です。たとえば、誰かが死んだとしても、葬式をしなければ、世間的には失踪したのか、死亡したのかわからない状態です。葬式をして初めて死が事実ですと公にされます。 主イエスは「死んで葬られた」。それは、主イエスは死は公になった事実だということを意味します。それゆえに、キリストの復活もまた公の事実なのです。

 

2.アリマタヤのヨセフ

 

 さて、主イエスが十字架で最期に「父よ。わが霊を御手にゆだねます。」と叫んで十字架に果て、首を垂れると、百人隊長は総督ピラトに報告に行きます。ピラトは驚きました。十字架に6時間かけられているだけで死に至ることは通常ないからです。そこで、兵士

エスの脇腹をめがけて槍を突き立てて、さらに死を確かなものとします。そうすると、主イエスの脇腹から血と水とが出てきたと記録されています。医学的な説明によれば、それは苦しみのあまり心臓が破裂し、胸腔内にたまっていた血液が赤血球と透明な血漿に分離していたからです。主イエスはまぎれもなく死んでしまったのです。

そこにアリマタヤのヨセフという人物が総督に、イエスのからだを引き取りたいと願い出ました。そして、イエス様のおからだを取り下ろし始めたのです。

「 15:42 すっかり夕方になった。その日は備えの日、すなわち安息日の前日であったので、

 15:43 アリマタヤのヨセフは、思い切ってピラトのところに行き、イエスのからだの下げ渡しを願った。ヨセフは有力な議員であり、みずからも神の国を待ち望んでいた人であった。

 15:44 ピラトは、イエスがもう死んだのかと驚いて、百人隊長を呼び出し、イエスがすでに死んでしまったかどうかを問いただした。

 15:45 そして、百人隊長からそうと確かめてから、イエスのからだをヨセフに与えた。

 15:46 そこで、ヨセフは亜麻布を買い、イエスを取り降ろしてその亜麻布に包み、岩を掘って造った墓に納めた。墓の入口には石をころがしかけておいた。」

 

(1)イザヤ53章の預言の成就

 この出来事は、旧約時代、紀元前8世紀の預言者イザヤが告げた預言に書かれていたことの成就でした。イザヤ書53章9節に次のようにあります。

「53:9 彼の墓は悪者どもとともに設けられ、

   彼は富む者とともに葬られた。」

 不思議な預言です。悪人とともに処刑される者が、富む者とともに葬られるなどということは、普通にはありえないことでしょう。しかし、このイザヤの預言は、主イエスが犯罪人たちとともにゴルゴタの丘で十字架につけられ、そして、死後、アリマタヤのヨセフというユダヤ最高議会の議員に引き取られて、彼の用意していた新しい墓に葬られたときに成就したのです。 

 預言が成就したということは、主イエスの十字架の死も葬りは、神の人類救済のご計画の中心であることを意味しています。

 

(2)アリマタヤのヨセフという人物

 ところで、アリマタヤのヨセフとはどういう人なのでしょう?ヨセフについては四つの福音書いずれにも取り上げられています。4福音書の並行記事を読んでみます。

 

マタイ27:57「夕方になって、アリマタヤの金持ちでヨセフという人が来た。彼もイエスの弟子になっていた。」

 

マルコ15:43 アリマタヤのヨセフは、思い切ってピラトのところに行き、イエスのからだの下げ渡しを願った。ヨセフは有力な議員であり、みずからも神の国を待ち望んでいた人であった。

 

ルカ23:50 さてここに、ヨセフという、議員のひとりで、りっぱな、正しい人がいた。

 23:51 この人は議員たちの計画や行動には同意しなかった。彼は、アリマタヤというユダヤ人の町の人で、神の国を待ち望んでいた。

 

ヨハネ19:38 そのあとで、イエスの弟子ではあったがユダヤ人を恐れてそのことを隠していたアリマタヤのヨセフが、イエスのからだを取りかたづけたいとピラトに願った。それで、ピラトは許可を与えた。そこで彼は来て、イエスのからだを取り降ろした。

 

 

 総合してみると、ヨセフは①アリマタヤという町の出身で、②金持ちであり、③ユダヤ最高議会の有力な議員という社会的な地位と名誉も兼ね備えた人でした。さらに、④ルカ伝はヨセフは「りっぱな、正しい人」だったと記していますから、お金と地位と名誉があるだけでなく、その人柄も立派で尊敬もされていたのです。

 では、ヨセフは主イエスに対して、これまでどういう立場をとっていたかといえば、マタイは「弟子になっていた」と表現し、マルコとルカは「神の国を待ち望んでいた」と表現しています。つまり、ヨセフは心の中でイエスは神の御子キリストであると信じていたのでした。けれども、それを大っぴらにはしていない、いわば隠れキリシタンでした。

 では、ヨセフはユダヤ最高議会がイエスを逮捕し処刑しようとしたことに対してどういう態度をとったのでしょうか。ルカ福音書は「議員たちの行動に同意していなかった」と表現しています。一方、ヨハネ福音書は、ヨセフは「イエスの弟子ではあったがユダヤ人を恐れてそのことを隠していた」と厳しい調子で記しています。ヨセフは、たしかに心のなかで議員たちの行動に賛成していませんでしたが、さりとて明瞭に反対したわけでもなく。中途半端な態度を取り続けていました。ヨセフが「私はあのお方が正しいと思う。あのお方が解いていることは真理であるし、私たちが偽善的な間違いを犯していることは事実ではないか。私はあの方の弟子なのだ。」と公言すれば、ユダヤ最高議会の議員の資格を剥奪され、会堂からも追放されてしまうことは火を見るよりも明らかだったからです。

彼はイエス様を信じるようになってから、恐らく「私は心の中でイエス様をひそかに信じていて、かげながら応援していればいいじゃないか。事を荒立てる必要はない。」というふうに考えていたのでしょう。しかし、サタンは、そのように態度を曖昧にしている者を自分の仲間に取り込んでいくものなのです。主イエスエルサレムに入城なさってから、事態は急展開していきます。ユダヤ最高議会は、ゲツセマネの園でイエスを逮捕し、議員たちをカヤパの官邸に召集して、裁判にかけてしまいまったのです。改めて、その箇所を開いておきましょう。マルコ14:61-64

 

「14:61 しかし、イエスは黙ったままで、何もお答えにならなかった。大祭司は、さらにイエスに尋ねて言った。「あなたは、ほむべき方の子、キリストですか。」

 14:62 そこでイエスは言われた。「わたしは、それです。人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見るはずです。」

 14:63 すると、大祭司は、自分の衣を引き裂いて言った。「これでもまだ、証人が必要でしょうか。14:64 あなたがたは、神をけがすこのことばを聞いたのです。どう考えますか。」すると、彼らは全員で、イエスには死刑に当たる罪があると決めた。」

 

 

 あの裁判の最後、主イエスはイエス様がご自分が神の御子キリストであり、やがて世の終わりには再び戻ってこられて世界をさばかれるのだと証言なさいました。大祭司カヤパと議員たちは「全員で」イエスを死刑に定めたとあります。この時ヨセフは何をしていたのでしょうか?周囲を見回して、心ならずもイエスを死刑にすることに賛成したのです。ヨセフは立派な正しい人だったとルカは記していますが、立派な正しい人であることの限界で、挫折したのでした。彼は保身のために御子イエスを裏切った臆病者でした。

 

さて、イエス様はピラトの法廷に送られ、そこでも死刑判決を受け、十字架を背負ってゴルゴタへと歩んでゆかれ、午前9時に十字架につけられ、午後3時にいのちを終えられたのでした。その一部始終をアリマタヤのヨセフは見てきました。そして、今、決断したのです。

「マルコ15:43 アリマタヤのヨセフは、思い切ってピラトのところに行き、イエスのからだの下げ渡しを願った。」

 ヨセフは主イエスに従う決断をしました。このとき、ヨセフは主イエスを葬ったばかりでなく、自分自身をもこの世に対して葬ったのでした。ヨセフは、サンヒドリン議員としての地位と名誉を放棄したのです。会堂を追放されることも覚悟しました。しかし、彼が失った地位と名誉は、彼が手に入れたキリストに比べれば、実に、ちりあくたにすぎませんでした。地上のわずかな命に代えて、ヨセフはキリストにある永遠の命を得ました。人間からの栄誉に代えて、彼は神から栄誉を受けました。地上のわずかな富に代えて、御国のあふれるばかりの祝福を得たのです。

 主イエスのなきがらを抱き下ろして、ヨセフは悲しみを感じつつも、同時に、主イエスに従うことができたという深い喜びと、サタンが支配する罪と欲望の世界からの解放感満たされていたにちがいありません。彼は、キリストに結ばれて、この世の束縛から解放されて、神の支配のもとにあって自由を得たのです。

 

結び

 私たちも主イエスに従おうとするとき、そこにはこの世との衝突が生じることがあります。まことの神を知らない家族や親族、世間からの反対や非難であるとか、ときには、キリストの名のゆえに、社会的な地位や、過去の歴史においては命を失うことを意味することもあります。古代ユダヤの時代やローマ帝国の時代だけでなく、この国においても、そういう時代がありました。これから、そういう時代が来るかもしれません。いや、今の日本であっても、私が昨年まで仕えていた教会があった因習の強い農村部などでキリストを信じるということは、そのような決断を意味します。

 しかし、もしキリストの名のゆえに失うことがあったとすれば、それは神の前に誉れあることです。多くの聖徒たちは、キリストの名のゆえにこうむる非難を喜びとしました。主イエスは、おっしゃいました。

「5:10 義のために迫害されている者は幸いです。天の御国はその人たちのものだから。

 5:11 わたしのために人々があなたがたをののしり、迫害し、ありもしないことで悪口を浴びせるとき、あなたがたは幸いです。

 5:12 喜びなさい。喜びおどりなさい。天ではあなたがたの報いは大きいから。」

                           マタイ5:10-12

 

 私たちは、この世にあって、置かれた持ち場、立場があります。それは神が遣わしてくださった場ですから、まずは、その場でキリストの証人として生きることが原則です。使徒パウロは「おのおのが、主からいただいた分に応じ、また神がおのおのをお召しになったときのままの状態で歩むべきです」(1コリント7:17)と教えました。しかし、もし主イエスに従うためには、どうしてもこの世における名誉や富や立場を失わねばならない局面に置かれたなら、断然、名誉も富も放棄してキリストに従うことです。私たちの誇りは、ただキリストの十字架にあります。そして、キリストとともに死ぬものはキリストとともによみがえるのです。

 「6:14 しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません。この十字架によって、世界は私に対して十字架につけられ、私も世界に対して十字架につけられたのです。」ガラテヤ6:14

 

小さくかつ偉大な者  

詩篇8篇                     

 

2017年12月3日

8:1 私たちの主、【主】よ。

  あなたの御名は全地にわたり、

  なんと力強いことでしょう。

  あなたのご威光は天でたたえられています。

 8:2 あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、

  力を打ち建てられました。

  それは、あなたに敵対する者のため、

  敵と復讐する者とをしずめるためでした。

 8:3 あなたの指のわざである天を見、

  あなたが整えられた月や星を見ますのに、

8:4 人とは、何者なのでしょう。

  あなたがこれを心に留められるとは。

  人の子とは、何者なのでしょう。

  あなたがこれを顧みられるとは。

 8:5 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、

  これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。

 8:6 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、

  万物を彼の足の下に置かれました。

 8:7 すべて、羊も牛も、また、野の獣も、

 8:8 空の鳥、海の魚、海路を通うものも。

 8:9 私たちの主、【主】よ。

  あなたの御名は全地にわたり、

  なんと力強いことでしょう。

 

 

 詩篇第8篇は、最初と最後の節に「私たちの主、主よ。あなたの御名は全地にわたり、なんと力強いのでしょう。」と賛歌が繰り返されます。神のご栄光はどのようにあらわされるのか、どのような者を用いて神の栄光は現わされるのでしょうか。

 

1.神を知ると自分の小ささがわかる

 

 主の御名の全能、そのご威光がいかなるものを通して現わされるかということが、語られていくのが2節以降です。

 

 「あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、力を打ち立てられました。・・・」

 

 神の御名の力が全地に現わされる方法、そのために用いられる人はどんな人でしょうか。人間の知恵で考えれば、強力な大統領や官僚、大金持ち、ノーベル賞学者、そういうものを考えがちでしょう。権力があれば法律を作って社会を動かせるとか、お金があればそういう政治家も動かせるとか、科学的発明で大きな社会変革ができる、とか。けれども、神はそれらの知恵を愚かなものとし、神はそれらの力を無力なものとされたのです。神は、御自身の御名を「幼子と乳飲み子たちの賛美」によって現わされ、これによって神に敵対する力ある者たちを滅ぼしたまうのです。

 エルサレム入城と「宮清め」の事件の後、律法学者・長老たちはイエス様に抗議の申し立てをしました。「子どもたちがホサナといって、あなたのことをあたかもメシヤ、あたかも神のごとくに賛美しているではないか、とんでもないことだ」と。すると、主イエスはこの詩篇を引用なさいました。律法のエキスパートであると自任する者たちに対してこのことばを引用されたのです。

マタイ21:16

「あなたは、子どもたちが何と言っているか、お聞きですか。」イエスは言われた。「聞いています。『あなたは幼子と乳飲み子たちの口に賛美を用意された』とあるのを、あなたがたは読まなかったのですか。」

 

 また、あるとき主は祈られました。

「天地の主であられる父よ。あなたをほめたたえます。これらのことを、賢い者や知恵のある者には隠して、幼子たちに現わして下さいました。そうです。父よ。これがみこころにかなったことでした。」(Mt11:25,26)

 「あなたは幼子と乳飲み子たちの口によって、力を打ち立てられました。・・・」

 神の御力を打ち立てるのは、高ぶった人間ではなく、幼子と乳飲み子のような存在です。神の御前に己の卑しさ、貧しさを認めた人間、へりくだった魂なのです。

 

 次に詩人は、夜空を見上げます。真っ黒のビロードにダイヤモンドを散らしたように、夜空にまたたく幾千万の星。寸秒違うことなく軌道上を運行する月や星星。これらを見上げるとき、詩人は自分という存在がなんとちっぽけなものかと、思わずため息が出るのです。宇宙の広大さの中で、己は塵に過ぎぬことを悟ります。昔、散歩するとよく父が、「この星空を見ていると、自分がもっている悩みとか怒りとかいうことはなんとちっぽけでくだらないことかと思うよ。」といっていました。この地球も広大無辺の宇宙のなかでは片隅の砂粒のような者でしょう。その上に現れた私という人間は、宇宙全体からみれば、一つのウィルスみたいなものでしょう。

 けれども、詩人の神に対する驚きは、宇宙に対するよりもはるかに大きいのです。詩人の肉眼が見るのは星空ですが、霊の眼は、星空をつきぬけてその星空を造った主なる神を見るのです。しかも、神にとって、星空を創造されることなど造作ない事、「指のわざ」にすぎないではないかと歌います。その偉大な創造主がどうして私ごときに目をとめて下さるのだろうか。不思議です。

「あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とは何者なのでしょう。あなたがこれを心にとめられるとは。人の子とは何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。」

 まことの神の前に立つ時、私たち人間は、まず自分の存在の小ささを思い知らされるのです。これが人間の第一の智恵です。

 

 ところが神に背を向けた近代科学文明は、人間をたいそう傲慢にし、おろかにしてしまいました。科学の力によって人間はなんでもやることができると人間は思い上がってきました。偉大な物理学者とされている英国のスティーブン・ホーキング Hawking 博士が、Grand Design の中で「宇宙の誕生に創造者の手は必要ではない、それは物理法則にしたがって、自然発生した」。重力の法則をはじめとする物理法則によれば、無から有が生じるのは不思議ではない。むしろ存在しないことより、存在することのほうが自然なのだ、これがホーキング発言の要旨なのだそうです。 ちょっと頭の良い小学生なら言うでしょう。「博士。じゃあ、重力の法則を初めとする物理法則は創造されたんですね。」神様を畏れない傲慢な知性と文明は、バベルの塔に象徴されるように、実に愚かなのです。

 

 私たちは文明を築くことはよいことです。そのために、神様が私たちにくださったのですから。しかし、文明や科学に酔っ払ってはなりません。人間の知識と文明を神のごとくに思いこんでこれを偶像として拝んではならないのです。あらゆる偶像崇拝と同じように、文明崇拝・科学崇拝は、目先の得は約束しても最終的に人間に不幸をもたらすのです。実際、今、物理学の最先端の知識が核兵器を造りだしてしまったので、私たちは「東京に核ミサイルが落とされれば一瞬にして400万人のいのちが失われる」と聞かされて恐怖を感じなければなりません。愚かなことです。

 人間が造りあげた文明など、実は、神の御目から見るならばごくお粗末なものです。あのバベルの塔にしても、ホーキングの宇宙論にしても、この大宇宙を指先でちょいちょいと創造し治めていらっしゃる神の御目から見るならば、浅はかなものです。人間は、神様の御前に出て、自分の愚かさ、小ささをよくわきまえることこそが人間の第一の知恵です。

「主を恐れることが知識の初めである。」(箴言1章7節)

 

2.神を知ると人間の偉大さがわかる

 

 しかし、こんなにちっぽけな私という人間を、全宇宙を治めていらっしゃる神様は心に留めて下さる不思議。そればかりか、二千年前には、みずから人となってこの世界に来てくださり、十字架の死をもって罪までもあがなってくださったことはもっと不思議です。なぜ、こんなにも神様は人間に心をとめてくださるのでしょうか。

「あなたの指のわざである天を見、あなたが整えられた月や星を見ますのに、人とはいったい何者なのでしょう。あなたがこれを心に留められるとは、人の子とは、何者なのでしょう。あなたがこれを顧みられるとは。」

 

 そういう思いの中に啓示されてきたのは、5-8節です。

 

8:5 あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、

  これに栄光と誉れの冠をかぶらせました。

 8:6 あなたの御手の多くのわざを人に治めさせ、

  万物を彼の足の下に置かれました。

 8:7 すべて、羊も牛も、また、野の獣も、

 8:8 空の鳥、海の魚、海路を通うものも。

 

 背景にあるのは、もちろん創世記1章に記される人間の創造における神の御言葉です。

「我々は我々に似るように人を造ろう。そして、彼らに、海の魚、空の鳥、家畜、地のすべてのもの、地をはうすべてのものを支配させよう。」

 こんなに小さく卑しい私たちであるが、神は私たちをご自分の似姿、御子のかたちに似せて造って下さったのです。物理的、空間的にはいかにも小さな自分ですが、神の似姿というかぎりにおいて私たち人間は偉大なものです。地を治めるべく立てられているのです。そのように詩人は思い直すのです。私がいかに小さな者であっても、能力にも限界があっても、造り主である神の似姿に似た者であるかぎり、私には尊厳があり責任があるのだと分かったのです。

 私たちは人間として、自分の偉大さと自分の小ささとを同時に知らねばなりません。いずれの知識が欠けてもいけないのです。パスカルは言いました。

「人間に自分の悲惨さを知らせないで偉大さだけを教えることは危険なことである。また人間に自分の偉大さを知らせないで自分の悲惨さだけを教えることはさらに危険なことである。しかし、人間に自分の偉大さと同時に悲惨さを知らせることはたいへん有益なことなのである」と。

 実は、パスカルを初めとして17世紀に近代自然科学の原理を築いた人々は、実は、ことごとく神を畏れる人々でした。地動説を初めて唱えたコペルニクスは司祭でしたし、ケプラーは司祭の子どもでしたし、ガリレオ・ガリレイも敬虔なキリスト者でした。彼らは万物の創造主なる神を畏れていたからこそ、近代自然科学の土台を築くことができました。ガリレオ・ガリレイスウェーデン王妃クリスティナあての手紙に次のようなことばを残しています。

「聖書も自然も、ともに神の言葉から出ており、前者は聖霊の述べ給うたものであり、後者は神の命令によって注意深く実施されたものです。(中略)神は、聖書の尊いお言葉の中だけでなく、それ以上に、自然の諸効果の中に、すぐれてそのお姿を現わし給うのであります」

 「自然は、創造主なる神がロゴス(ことば・理性)をもって造った作品である。だからこそ、神の似姿にしたがって理性を与えられた人間は、これを読みとることができる」とケプラーガリレオパスカルたち近代自然科学の根本原理です。創造主が造られた世界なのだから、太陽系を成り立たせている原理も、ピサの斜塔から物が落ちる原理も共通であると考えられたので、近代物理学は成立したのです。

 しかし、現代人は、神などいないと傲慢になりながら、実に、自分で自分を惨めな者にしてしまっています。進化論や唯物論の影響の下で、ほとんどの日本人はチンパンジーよりも少しばかり智恵のあるサルにすぎないと思いこんでいます。ですから、人間としての道徳的責任というものがわからず、男と女は単なるオスとメスのようにふるまっています。サルが人生の目的を考えないように、多くの人はなんのために自分が生きているのかを考えようとしません。

 あるいは人間を精巧なコンピュータを備えたロボットにすぎないと教える学者たちもいます。故障したロボットは廃棄処分にされるように、役に立たない人間は殺してしまって良いと子どもたちは思うのです。中学生たちがホームレスのおじさんを殺してしまったという事件がありました。彼らに罪があります。しかし、彼らだけを責められないのは、彼ら自身家でも学校でも、より多くの偏差値を取るなら価値があり、偏差値の低い人間は価値がないと教えられてきたということが背景にあるのでしょう。今、多くの中学生・高校生たちは人間として扱われず、人間としての尊厳を無視されて偏差値ロボットとして扱われているのです。

 

 人間はちっぽけな存在です。しかし、同時に、偉大な存在です。それは人間が神の似姿として造られたからです。この原点に帰らねばなりません。神の似姿として造られたところに、人間の価値と尊厳の根拠があるのです。人間は、ロボットではない。サルでもない。人間は神の似姿です。

 

結び

 

 私たちは創造主である神の似姿です。神を見上げ、神を恐れ、神を愛しているかぎりにおいて、私たちは神の似姿として十分に生きることができます。神を離れてしまうならば、私たちはサルかロボットに成り下がってしまいます。

 神の御前に卑しい己、神の御前にいかにも小さな己を自覚する者こそ、全地を治めるのにふさわしいものです。ただ神の御前で己がいかに小さくはかない者であるかを認めるとき、私たちは同時に自分は神の似姿として尊厳ある者だと知ります。そのとき、神はその人を通して力を打ち立て給うのです。

 あなたの子どもに、お孫さんに、「君は、偶然生じてきた宇宙のゴミではない。ロボットでも、サルでもない。君は、神様の似姿として造られた尊い存在なんだよ。」と教えてください。