水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

   永遠に価値あることを   

ヨハネ2:12-17

                              

2:12 子どもたちよ。私があなたがたに書き送るのは、主の御名によって、あなたがたの罪が赦されたからです。

 2:13 父たちよ。私があなたがたに書き送るのは、あなたがたが、初めからおられる方を、知ったからです。若い者たちよ。私があなたがたに書き送るのは、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。

 2:14 小さい者たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが御父を知ったからです。父たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが、初めからおられる方を、知ったからです。若い者たちよ。私があなたがたに書いて来たのは、あなたがたが強い者であり、神のみことばが、あなたがたのうちにとどまり、そして、あなたがたが悪い者に打ち勝ったからです。

 

 2:15 世をも、世にあるものをも、愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。

 2:16 すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢などは、御父から出たものではなく、この世から出たものだからです。

 2:17 世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行う者は、いつまでもながらえます。

 

 

1.敵は悪魔

 

 12-14節からわかることは、使徒ヨハネが想定している手紙の受取人がすでにイエス様を信じ、御父を知り、罪をゆるされて救われた人々であるということです。クリスチャンとなったあなたがたに、私は手紙を書いていますというのです。つまりクリスチャンとしての心得をここに記されているのです。

 

 13節と14節に「あなたがたは悪い者に打ち勝った」と繰り返されます。「悪い者τ?ν πονηρ?ν」(単数)とは悪魔のことです。悪魔というものが実在することは聖書の明白な主張です。悪魔について話をするとき、私はいつも申し上げるC.S.ルイスのことばがあります。「「悪魔は二種類の人々を歓迎する。ひとつは、悪魔に不必要なまでに深い関心を持つ人々である。もうひとつは、悪魔などいないという人々である。悪魔は、魔法使いと無神論者を大歓迎するのだ。」ですから、私たちは聖書が教えるところまで悪魔についての知識を得るべきですが、それ以上に悪魔に変に興味をもつべきではありません。日本で言うと、私くらいの世代までは啓蒙主義・唯物主義の影響の強い世代であると思います。こういう世代は無神論者として悪魔に歓迎されているのです。しかし、かつて新人類と呼ばれた私から少し下の世代から以降は、むしろ占いとかオカルトなどに心開く世代となっています。この世代も悪魔の大好物なのです。唯物主義にも、魔術的なものも、悪魔の罠です。では、私たちは悪魔に対する態度として、どうすればよいのでしょうか。聖書の教えるところまで行き、聖書が止まるところで止まることです。

 悪魔というものは本来神に仕える天使でありましたが、自ら神のようになろうとしたことによって、堕落天使となりました。そこで悪魔は仲間の天使を引き連れて神を信じる者のじゃまをするのです。悪魔の別名はサタン、ベルゼブルなどです。その手下どもとは悪霊どもです。悪魔は、神と対等な存在ではありません。たとい悪事をなすとしても、神の許可がなくてはできないのです。

 

2.悪魔の策略、世の欲

 

 悪魔はあからさまに、人間を誘惑することもあります。たとえば、占いとか霊媒などといったオカルト的な仕業に誘い込むようなことです。もともとアフリカ、中南米にあった悪魔礼拝というものが、今やかつてキリスト教国と呼ばれた欧米諸国で流行しています。私たちの国では、悪魔礼拝というのは考えにくいでしょう。しかし、多くの場合、悪魔はもっと巧妙にいろいろな手段を用いて、我々の神様にそむこうとする肉的性質を刺激して誘惑するのです。一見、悪くないような、一見、楽しそうなことがらをもって。それが、きょう学ぶ「世」の問題です。

 14節の「悪魔に打ち勝った」というそのつながりから、15節以下では悪魔の策略とそれに対抗すべきことついて語られていくのです。

 

 悪魔の策略の第一番目として、きょうは「世」の問題を学びます。15節。

「世をも世にあるものをも愛してはなりません。もしだれでも世を愛しているなら、その人のうちに御父を愛する愛はありません。」

 ここで愛するということばは、アガパオーということばです。ここで「世」という言葉で意味していることはどういうことでしょうか。聖書のほかの箇所には「神は実にそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。」(ヨハネ3:16)とあります。このばあいには、「世」とは「世界の人々すべて」という意味でしょう。それは神様の愛の対象ですし、私たちもその意味では世を愛さなければなりません。たとえ神様なんか知らないよというような人々であっても、私たちの信仰に反対して迫害する人々であっても、滅びゆく魂を愛して祈らねばなりません。神様が、その人々をも愛し、その人々のためにイエス様は死んでくださったからです。

 しかし、この手紙でヨハネが「世をも世にあるものをも愛してはなりません」という場合の「世」は、違う意味です。16節。「すべての世にあるもの、すなわち、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢」これがヨハネがここで言わんとする「愛してはならないもの」としての「世」にほかなりません。つまり、ここでいう「世」とは神様に背を向けたこの世の欲望あるいは価値観ということです。

 

「肉の欲」

 詳訳聖書によれば「肉の欲」とは「官能的な満足に対する渇望」です。この世の不品行や姦淫とかいわゆるポルノのような性的な不道徳な欲望ということです。日本では、ポルノが蔓延しすぎてどうも無感覚になっているきらいすらあります。宣教師が四年ぶりとかで日本に帰って来られると、あまりに急速に性道徳が混乱し、ポルノが蔓延しているので驚いたというのを聞きます。よく欧米では日本よりもひどいというような話を聞かされてそう思いこんでいる日本人が多いのですが、実際には、たいへん強い制約があって、子どもたちが自由に出入りするコンビニなどでポルノ雑誌を見かけるということはないそうです。

 一般に、欲それ自体は、性欲にせよ食欲にせよ、ほんらい神様が人間に与えられたよいものです。しかし、これら欲望は神様がお許しになったルールのなかでのみ、人間を幸福にするのです。神様が性についてお与えになった戒めは明白です。

第一は、「結婚関係における性の交わりは祝福ですが、このルールを越えた性交は罪です」。第二は、とくに既婚者が、不倫行為は姦淫として、未婚者の不品行とは区別されていて、旧約時代には男女ともに死刑が適用されました。それは、不倫ということは、家庭を破壊し社会を破壊するだけでなく、結婚という聖なる契りを破壊するからです。

 罪は罪を生みます。神様が性について定められたルールを越えた結果、妊娠し、不都合だというのでおなかの子どもを殺害する殺人という罪を犯す者たちが、日本では後をたちません。数年前の数字ですが戦後、日本で殺された胎児たちの数は五千万人といわれます。日本が世界から堕胎天国という汚名をいただいてから久しいのです。こうした事態に心を痛めたクリスチャンたちが「小さないのちを守る会」という実践をしています。こうした地の塩の働きがなければ、すでに日本には神様の裁きがくだっていたかもしれないと思います。

 

「目の欲」

 「目の欲」とは「むさぼるような心の欲求」です。アウグスティヌスは目の欲とは「不健全な好奇心」であると言いました。荒野の40日の試みのとき、悪魔は主イエスに「高い所から飛び降りてみよ」と誘惑したことがありました。好奇心が良い面で働いて科学の発達をうながすこともあります。しかし、ここでいう「不健全な好奇心」とは、たとえば血みどろの残酷なホラー映画やビデオを見たがるとか、悪霊にかかわるようなオカルトに対する好奇心だとか、いたずらに危険なことをしたがるいうものです。今や日本のテレビやゲームはこうしたものに満ちています。あるいは麻薬や覚醒剤にもこのような好奇心からはいっていくのでしょう。見れば心が汚れる、やればからだはボロボロになる、もしかすると死ぬかもしれないと知っていながら、そのなかに落ちていってしまう。こういう「目の欲」を刺激するようなものもまた悪魔の罠なのです。 映画やビデオ会社は手軽に人寄せができるものですから、ポルノとホラーものに走るのです。

 

「暮らし向きの自慢」

 これは有る聖書では「虚栄心」と訳しています。「暮らし向きの自慢」とは、所有物にかんする虚栄心のことです。たとえば豪邸に住んでいるとか、高級車を持っているとか、何億円かの貯金があるとか、ブラントもののハンドバッグを持っているとかいうことで自分が偉いと思うことです。

 大邸宅に住むこと自体が罪ではないし、ベンツやBMWや高級な4WDに乗ることも、貯金をすることも、ブランドもののハンドバッグやスーツを持っていることも、それ自体では罪ではありません。しかし、そんなものを所有しているから自分を偉いと思うとかいう心があるならば、その人は永遠の滅びに向かう悪魔の罠に陥っているのです。

 

3.世の欲への対処

 

 では、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢について、どう対処すればよいのでしょうか。それは、なにがほんとうに永遠に価値があるのかを思うことです。ほんとうに価値あるものは永遠に価値があるのです。

 肉の欲を満たし、目の欲を満たし、持ち物を自慢するようなことはどれほどの価値があるでしょうか。こんなものはみんな滅びてしまうものです。17節「世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なう者は、いつまでもながらえます。」

 主イエスが、金持ちとラザロの話をなさいました。ルカ16:19-31。

金持ちは豪邸に住み、ぜいたくな紫の衣を来て、毎日美食と美酒に明け暮れていました。しかし、彼は玄関の前に来た、貧しいラザロには目もくれようともしませんでした。そして貧乏人は餓死しました。旧約聖書箴言には次のようにあります。

箴言19:17 寄るべのない者に施しをするのは、【主】に貸すことだ。

  主がその善行に報いてくださる。

箴言28:27 貧しい者に施す者は不足することがない。

  しかし目をそむける者は多くののろいを受ける。

 

 この金持ちが知らないわけがありません。この金持ちはまったく神に貸さなかったのです。彼は神のみこころなどに無関心でした。ただ自分と仲間だけが富を蓄え、ただ快楽に耽り、肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢をしていればよいという価値観のなかで生きていたのです。

 やがて、死がこの金持ちを訪れました。葬式は町の名士たちが集い、日本風にいえば錦の袈裟をまとった坊主たちが五人も六人もいる豪華なものでした。墓も日本風にいえば黒御影に金文字の立派な墓でした。日本風にいえば長々とした院号のはいった何百万円もするような戒名を刻んだ墓でした。それこそ、暮らし向きの自慢に身を費やしたあの金持ちにふさわしい葬式と墓だったでしょう。しかし、金持ちはどこに行きましたか。地獄に落ちました。永遠の滅びのなかに落ちたのです。

 肉の欲、目の欲、暮らし向きの自慢といったことは、この世がこれこそ価値あるものとして一生懸命に宣伝し、またみんなひたすらに求めているものです。けれども、こんなものは一時的なもの滅びるものにすぎません。

 悪魔は釣りをします。魚はこの世の人々です。悪魔は、釣り糸の先にいろいろな餌をつけます。それこそ、肉の欲、目の欲、暮らし向きの虚栄を刺激し満足させるような餌です。異性であるとか、出世、権力とか、よい給料とか、社会的地位とか、名誉とか、高級車とか、豪邸とか、シャネルのバッグとか。この世の人がパクリと食いつきますと、悪魔はこれを釣り上げてしまいます。そして釣り上げられた魚は、ポイと地獄の炎のなかに放り込まれるのです。

 

 「しかし、神のみこころを行なう者はいつまでもながらえる」とあります。「神のみこころを行なう」ということの第一のことは、罪を悔い改めて主イエスを信じることです。神様に背を向けを神様をないがしろにして生きて来た自分の生き方そのものが罪であったことを認めて、救い主であるイエス様を信じ受け入れることです。

 「神のみこころを行なう」ということの第二は、神様が私たちに命じられるように、神を愛する愛と隣人愛を具体的な身近な生活のなかで実践することです。大きなことではありません。神は無い所から刈り取ろうとする方ではありません。私たちにそれぞれ託された分に応じて、求められるのです。私たちの持っている良いもので神様からもらったのではないものは一つもありません。実はもらったのではなく、お金も健康も時も家も一切の持ち物は神様から託されたものです。神様はあなたにもこういうものを託して、みこころにかなって有効に用いることを期待しておられるのです。ですから、これらのものをもって神様の喜ばれることを行なうことです。そうするならば、あなたは天に宝を積むことになります。地上において行なうよき業は、永遠の御国にまでついていくのです。

 私たちは目先の滅びるものではなく、永遠に価値のあることを求めて天に宝を積みたいと願います。

 

「世と世の欲は滅び去ります。しかし、神のみこころを行なうものは、いつまでもながらえます。」1ヨハネ2:17                                                      

 

 

 

 

神の国から遠くない 人  

マルコ12:28-34

                                                       

 

12:28 律法学者がひとり来て、その議論を聞いていたが、イエスがみごとに答えられたのを知って、イエスに尋ねた。「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか。」

 12:29 イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。 12:30 心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』

 12:31 次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」

 12:32 そこで、この律法学者は、イエスに言った。「先生。そのとおりです。『主は唯一であって、そのほかに、主はない』と言われたのは、まさにそのとおりです。

 12:33 また『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛し、また隣人をあなた自身のように愛する』ことは、どんな全焼のいけにえや供え物よりも、ずっとすぐれています。」

 12:34 イエスは、彼が賢い返事をしたのを見て、言われた。「あなたは神の国から遠くない。」それから後は、だれもイエスにあえて尋ねる者がなかった。

 

 「あなたは神の国から遠くない。」イエス様は、今回イエス様に対して論じてきた律法学者に向かってこのようにおっしゃいました。「あなたは神の国から遠くない」と言われたら喜べばいいのでしょうか?それとも悲しむべきなのでしょうか?「あなたは神の国から遠い」と言われることから比べるならば、ほめられているようでもありますが、じゃあ「神の国はあなたのものだ。」と言われるわけでもない。「あなたは神の国から遠くないけれど、神の国の近くまできてうろうろしている」ということです。「あなたは神の国の入口に立ちながら、入らないでいる」ということになりましょう。だとすれば、残念なことです。

 

1.一番たいせつな命令

 

 この律法学者は、旧約聖書のなかに数々の命令がありますが、そのうちで一番大切な命令はなんですかと質問しました。イエス様はこの度はズバリ端的にお答くださいました。29-31節。

12:29 イエスは答えられた。「一番たいせつなのはこれです。『イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。

 12:30 心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ。』

 12:31 次にはこれです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ。』この二つより大事な命令は、ほかにありません。」

 

 

(1)二つで一つ

 この質問に対するイエス様のお答えの大事な点の一つ目は、一番たいせつな命令は何かと問われたにもかかわらず、「第一に神様を愛することであり、次に隣人を自分自身のように愛せよということだよ」とおっしゃったことです。「一番たいせつな」と問われたならば、普通は答としては一つだけが期待されているでしょう。たとえばウェストミンスター小教理ならば、「人の主な目的はなんですか。」という問いに対して、「人の主な目的は神の栄光を現わし、神を永遠に喜ぶことである」と答えています。ところが、主イエスはあえて二つお答になったのです。これは何を意味しているのでしょうか。

 それは、神様を愛するということと、隣人を自分自身のように愛するということは密接不可分だということを意味しているのです。この神への愛と隣人愛とは二つを切り離した瞬間に、中身がなくなってしまう、そういう種類の命令なのです。私たちは目に見える隣人を愛することを通して、神を愛することを具体化するのです。目に見える隣人に冷淡であったり、憎んでいたりしながら、目に見えない神を愛しているというのは偽りです。

 律法学者・パリサイ人と呼ばれる人々の多くの者たちが陥っていたのは、彼らは神を愛すると言いながら、主にある兄弟姉妹を愛していないということでした。自分は神を知り聖書に通じているということを誇りとして、一般民衆を軽蔑していたのでした。

 また、人間中心主義のはびこる現代社会においては、逆のことがあるかもしれません。人間愛ばかり説き、人権、人間の都合ばかり力説するうちに、神様のみこころをないがしろにして、何が正しいことなのか、間違ったことなのかということがわからなくなってしまっている現代社会です。

 

(2)神への愛が先

 イエス様のお答えのもう一つの特徴は、神を愛せよという命令と隣人を自分自身のように愛せよという命令は密接不可分ではあるが、けっして順序が逆にはならないということです。つまり、必ず先に「心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛せよ」がきて、その後に、「隣人を自分自身のように愛せよ」という順序であって、その逆ではないのです。つまり、神をぬきにして、真実の隣人愛はありえないということです。神様と神様の御旨を抜きにして人間的情愛でもって人と人とが結びつこうとするならば、それは結局は腐った結びつきになってしまうのです。

 あるときピリポ・カイザリヤで、イエス様が、<御自分がエルサレムに行けば、長老・祭司長たちに捕らえられ総督に引き渡されて処刑されるが三日目に復活する>という予告をなさったときに、使徒ペテロはイエス様を諌めました。「あなたのおからだは大切なお体です。そんなことをおっしゃらないでください。」すると、主イエスは「下がれ。サタン。あなたは神のことを思わないで人のことを思っている。」とペテロを厳しく叱責なさいました。イエス様が神の御旨を語り、その御旨にしたがって行こうとしているのに、ペテロが人間的情愛でもって神の御旨をないがしろにしたからです。 

 神への愛を第一として隣人愛を実践するときに、私たちの交わりは真実な交わりとなります。正しく距離を取ることのできる交わりであり、相手の人格(自由と責任)を尊重する交わりです。そうでないと、その交わりは傷のなめ合いのような不健康なものや、あるいは、支配と被支配の関係、あるいは、エバがアダムにも木の実をとってやったような罪を共有しあうような交わりに堕落してしまいます。

 人間と人間の関係にばかり気を取られて、神様をないがしろにしがちな私たちとしては、特にこのことに気を付けなければなりません。神様のうちに愛も真実もすべての祝福の泉があるのです。その神様をないがしろにして、人間どうしで結びつこうとしたり、人のご機嫌を取ろうとするならば、その交わりには愛も真実もなにもない、腐敗臭プンプンとするものになってしまいます。

 神への愛と隣人愛は密接不可分です。切り離せば、題目だけの空虚なものとなります。しかし、神への愛が先にあってこそ隣人愛はいのちある真実なものとなる。このことを覚えて実践したい。

 

2.「あなたは神の国から遠くない」

 

 律法学者は、賢そうにイエス様に言いました。32、33節。

 12:32 そこで、この律法学者は、イエスに言った。「先生。そのとおりです。『主は唯一であって、そのほかに、主はない』と言われたのは、まさにそのとおりです。

 12:33 また『心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして主を愛し、また隣人をあなた自身のように愛する』ことは、どんな全焼のいけにえや供え物よりも、ずっとすぐれています。」

  この律法学者の旧約聖書理解は、たいへん優れたものでした。格別、愛の律法に関する理解はほとんど完璧でした。特に32節に、「(この二つの愛の命令は)どんな全焼のいけにえや供え物よりも、ずっとすぐれています。」とつけ加えたことには、彼の律法理解が主イエスの律法理解と軌を一にしていることがわかります。

 当時パリサイ人や律法学者たちの多くの人々が陥っていた過ちは、儀式律法の形式的遵守を偏重するということでした。儀式ばった宗教というものが一般に陥りがちなことなのかもしれません。イエス様はある安息日に会堂に出席なさって、そこでみことばを語っていらっしゃいました。すると、会堂の隅っこ片手のなえた人がいました。イエス様は、片手がなえているという障害をかかえて、彼が今日までどんな思いで過ごしてきたのかということを、痛いほどに感じられました。そして、話が終わると、彼に向かって言いました。「さあ、真ん中にでていらっしゃい。」そして、彼のなえた手を癒してやりました。すると、そこにいたパリサイ人たちは、「あなたは安息日にしてはならない仕事をした」とイエスを非難しました。そのとき、主イエスは「安息日にしてよいのは、善をおこなうことなのか。それとも悪を行うことなのか。いのちを救うことなのか。それとも殺すことなのか。」と彼らにおっしゃいました。 律法の核心は、神を愛し隣人を愛することです。しかし、「安息日に仕事をしてはならない」という字句にこだわりすぎるあまり、その核心を忘れてしまうことが、私たちにはあるのです。

 福音書を読むと、こうした過ちは多くの律法学者・パリサイ人たちの通弊であったようです。ところが、このとき主イエスのところにやってきた律法学者にかぎっては、形式主義・儀式主義の陥りがちな過ちまでも、ちゃんと押さえていたのです。彼の律法解釈理論は、完璧でした。

 

 そこで、主イエスは「あなたは神の国から遠くない」とおっしゃいました。「あなたの律法解釈は正確だ。」ということです。けれども、「神の国はあなたのものだ」とはおっしゃりません。あなたは神の国の中にいる、ともおっしゃいませんでした。「あなたは神の国の玄関の前まで来ているけれど、入ってはいませんね。」とおっしゃるのです。

 なぜでしょうか。イエス様のいいたいことは「あなたの聖書理解、教理は立派です。けれども、問題はそれを本気で実行していないことだ」ということでした。この律法学者は、「心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛せよ」「あなたの隣人を自分自身のように愛せよ」という命令が一番たいせつであると模範解答を提出し、さらに、あわれみは儀式律法に勝るものであるという重要点を指摘できましたが、彼にはほんとうには、神の国が見えていないのです。

 

 三浦綾子塩狩峠』の主人公、最初、永野信夫は札幌で優秀かつ品行方正な鉄道員として将来が約束されたような歩みをしていました。彼の同僚に三堀峯吉という素行に問題のある鉄道員がおりまして、彼は同僚の机の上にあった給料を着服してしまいます。そのことで、三堀は旭川に左遷されるのです。ちょうどその頃、永野はキリスト教伝道者の説教を聞き、キリスト教を信じてもよいと思いました。すると、伝道者は彼に「キリストの十字架の意味を悟りたければ、ひとつ本気で聖書のことばを実行してごらんなさい」と勧めます。そこで、永野信夫は、よきサマリヤ人の話を読んで、ここはひとつ自分はこのサマリヤ人のように徹底的に三堀に隣人愛を尽くそうと考えました。そして、自分も旭川に来るのです。

 しかし、三堀は永野に向かって、「お前はおれを監視しにきやがったんだろう」などと勘繰り、何を言っても、どんなに親切にしても永野を拒否します。その経験をする中で、信夫は自分の罪を悟り洗礼を受けるのです。その洗礼のために準備したあかしの一部を紹介しましょう。

「(前略)わたくしは彼の隣人になるために、さまざまな損失を承知の上で、その友人のいる旭川に参りました。そして、私が彼を心から愛し、真実な友になるのだから、当然相手も喜ぶと思いました。しかし彼は私を受け入れてくれませんでした。私は彼を非常に憎みました。あのサマリヤ人のように、山道に倒れている、生きるか死ぬかの病人を一所懸命介抱しているのに、なぜ怒鳴られるのか、私にはわかりませんでした。わたしは彼を救おうとしました。だが彼は私の手を手荒く払いのけるのです。彼が払いのけるたびに、私は彼を憎み、心の中で罵りました。そしてついには、私の心は彼への憎しみでいっぱいに満たされてしまいました。そして私はやっと気づいたのです。

 わたしは最初から彼を見下していたということに、気づいたのです。毎日毎日が不愉快で、わたしは神に祈りました。その時に私は神の声を聴いたのです。お前こそ、山道に倒れている重傷の旅人なのだ。その証拠に、お前はわたしの助けを求めて叫び続けているではないか、と。私こそ、ほんとうに助けてもらわなければならない罪人だったのです。そして、あのよきサマリヤ人は、実に神のひとり子、イエス・キリストであったと気づいたのです。

 それなのに、わたしは傲慢にも、神の子の地位に自分を置き、友人を見下していたのでした。いかに神を認めないということが、大いなる罪であるかを私は体験いたしました。そして、自分のこの傲慢の罪が、イエスを十字架につけたことを知りました。いまこそわたしは、十字架の贖いを信じます。そのご復活を信じます。また約束された永遠のいのちを信じます。(後略)」

 

 永野信夫さんは、まじめな人で自分でも自分はよい人間であると思っていました。けれども、本気でよきサマリヤ人の愛を実行しようとしたとき、自分は実はとても傲慢で罪深い人間なのだとわかったのです。そして、イエス様の十字架と復活が、この私のためだ、私の罪が主イエスを十字架に付けたのだとわかったのです。 

 あのすぐれた律法学者に欠けていたのは、この経験だったのでしょう。「心を尽くし、知恵を尽くし、力を尽くして神を愛せよ」「あなたの隣人を自分自身のように愛せよ」という律法を理論的には、この上なく正確に解釈していました。理論は完璧でした。しかし、それだけでした。あなたが、もしこの戒めに、本気で取り組むなら、どれほど自己中心の傲慢な人間であるか、愛することよりも愛されることばかりを求めがちな人間であるかということを悟り、神の恵みにすがることでしょう、その時、「心の貧しい者は幸いです。神の国はあなたのものです。」ということが、あなたにおいても実現します。主は、そうおっしゃりたいのです。

 

結び

 あなたは神の国に入っているでしょうか。それとも、神の国の門の前で入ろうか、入るまいかとウロウロしている「神の国から遠くない人」でしょうか。もし、自分が神の国の門前まで来ながら、ウロウロしているなあと思われるならば、あなたも主イエスのチャレンジに応答して、神を愛し、隣人を愛することに徹してみてください。主の祝福と導きがありますように。

私たちの弁護者

ヨハネ2:1-11

                        

 「私の子どもたちよ。」使徒ヨハネは深い親愛の情をこめて語ります。「子どもたち」という意味は、ヨハネが伝えた主イエスの福音によって救われた人々に向かっていっているのです。伝道者にとって、人々に福音を伝え救いに導くということは、母親にとっての出産にあたいする務めです。母親が子を生むために生命の危険をもあえて犯すように、伝道者は人を救いに導くためには生命の危険を冒すこともあります。また、母親が子どもが生まれ産声を聞いたとたんに、あの苦しみが喜びにかわるように、伝道者にとって一人の人が主イエスを信じ主の御名によって洗礼にあずかった喜びは何物にもかえることができません。牧師として召していただいてよかったなと思うときです。

                                                                               

  1.弁護士キリストのもとで罪赦されて罪なきをめざしていきる(2:1-3)

 

 「私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪を犯さないようになるためです。」「これらのこと」というのは、前の1:8-10の内容です。イエス様を信じたとしても私たちのうちには罪の性質が残り、罪を犯してしまうことがあります。しかし、そうしたばあいには自分の罪の一つ一つを具体的に神様の御前に告白すれば、神様は罪を赦しきよめてくださるということです。・・・このことばをあまりにも安易に受け止める人は、「だったらクリスチャンになっても罪を犯し続けてもよいのだ。どうせ告白すれば赦されるのだから・・・」というふうに捉えるかもしれません。そこで使徒は、「そんなことはない。私がこれらのことを書き送るのは、あなたがたが罪のなかに安住するためではなくて、罪を犯さなくなるためなのだ。」と言うのです。あなたがたが罪を犯さなくなるためにこそ、神は罪の赦しときよめをくださったのだ、と。

 クリスチャンは罪を犯さないことを目指して生きるべきです。そのスタート、土台は神様が私の罪を赦して下さったという事実です。

 しかし、それでももし罪を犯してしまったときには、イエス様が私たちを弁護してくださるのです。ヨハネは神の法廷を目に思い浮かべなさいと奨めます。正面には厳正な審判をなさる御父。私たちはその前に立つ被告です。神様は私たちのたましいと霊の分かれ目まで見通される御目をもって、私たちの罪を見通されます。だれがこの聖なる裁きに立ちおおせるでしょう。恐ろしくて立っていられないほどです。

 しかし、わたしたちには神の法廷にあって強力で親身になってくれる弁護士がいらっしゃる。パラクレートスです。パラクレートスとは、弁護人のほかに慰め主とも訳されます。直訳すると「側にいて呼びかける者」という意味のことばです。

 第一に弁護士は罪を犯した者のそばに立つ者です。罪人の立場に立って、その弱さに十分同情できなければ弁護士はつとまりません。高い所から被告人を見下ろして軽蔑し、こんな罪を犯すやつはどうしようもない。弁護の余地などないと思ったら弁護はできないでしょう。イエス様は罪を犯されませんでしたが、私たち人間と同じように弱さをになってくださいました。イエス様は罪は犯されませんでしたが、私たちの会う誘惑をすべてお受けになるために弱さをになってくださったのです。

「イエス様はまぶねの中に産声上げ、大工の家で成長されました。早く父ヨセフはこの世を去り、母と多くの兄弟たちの世話をしました。貧乏ということの苦しみも、生きることの悩みもなめつくされたのでした。空腹がどんなにつらいか、お金がないということがどんなにたいへんか。

 主イエスは長じて伝道生活にはいると、食事をする暇も忘れて、常にしいたげられた人たちの立場に立ちました。病人、みなしご、やもめ、やむなき家庭事情のなかで身売りをした女郎たち、取税人たちこういう人たちのそばにいつもイエス様はたたれました。

 そして、すべてのものをお与えになった末に、十字架に最後の苦しみを受けられました。私たちと同じ肉体を担われた主イエスです。くぎ打たれたとき骨は砕け苦痛にうめかれました。十字架が立てられると、肺と心臓は圧迫されて息することも苦しくなりました。主は私たちの肉体的な弱さをもよく知ってくださいます。そして、主は祈られました「父よ彼らをゆるしてください。彼らは自分で何をしているのかわからないのです。」」

 神の法廷における私たちの弁護人とは、このようなお方です。

 

 第二に弁護士は、単なる同情的な人というのではなく、正義の律法に基づいて主張をする者です。神様の立てられた律法では、罪なしと認められた者が血を流すことなくして罪が償われることはないのです。そこで、主イエスはきよい神の御子であられながら、まったき人として地においでになり、私たちの罪をその一点の罪のしみもない御自身の身に背負ってくださったのです。父なる神の御怒りをなだめるなだめの供えものとして、ご自分を差し出してくださいました。主イエスは「私は、彼のために十字架において罪の刑罰をすでに受けたのです。彼の刑罰はすでに完了いたしました。よって、これ以上彼を罰することはできません。」と正義の主張をしてくださるのです。

 

 私たちは、神様のこれほどの深い愛と大きな犠牲によって、罪を赦されたのです。そのことを本当に信じているなら、「もはや私は罪のうちにとどまりつづけたくない」と思わなければ嘘です。

 

2.神の命令にしたがっているなら神を知っているといえる(2:3-6)

 

2:3 もし、私たちが神の命令を守るなら、それによって、私たちは神を知っていることがわかります。

 2:4 神を知っていると言いながら、その命令を守らない者は、偽り者であり、真理はその人のうちにありません。

 2:5 しかし、みことばを守っている者なら、その人のうちには、確かに神の愛が全うされているのです。それによって、私たちが神のうちにいることがわかります。

 2:6 神のうちにとどまっていると言う者は、自分でもキリストが歩まれたように歩まなければなりません。

 

 

 救いの確信の問題です。私たちは、どのようにして自分が神様を知っていると言えるでしょうか。ここでいう「知る」というのは単なる知識として知るということではなく、救われている、神との人格的ないのちある交わりがあるという意味です。

 3節から6節で、言わんとするのは、私たちが神をほんとうに知っており、神のうちにあって神様のいのちに生かされているということは、私たちの生活によってわかるということです。神の命令にしたがい、神のみことばを守り、キリストが歩まれたように歩んでいるならば、その人は確かに神を知っていると言える、と。その人は私は救われているという確信をもってよい。知行合一です。

 たしかに使徒ヨハネは、クリスチャンもまた罪を犯してしまうことがあると言います。しかも、先の主日夕拝に学んだように、クリスチャンになったからこそ、罪意識がはっきりしてくることも事実です。暗闇のなかでは見えなかった自分の汚れが、太陽の光の下ではあからさまになってくるのです。しかし、そうした現実をわきまえながら、なお使徒ヨハネは、クリスチャンであるしるしは、神のことばにイエス様のようにしたがって生きているということである、と。

 主イエスのことばで言えば、「良い木はみな良い実を結ぶが、悪い木は悪い実を結びます。良い木が悪い実をならせることはできないし、また、悪い木が良い実をならせることもできません。」

 つまり木はその実によって判断されるということです。木の幹を見ても、その葉っぱを見てもまるで同じに見える二本の柿の木があります。一方は渋柿をならせ、一方は甘柿をならせる。実をもってその木がよい木か悪い木かが判断されるのです。

 

3.神の命令とは何か(2:7-11)

 

 しかし、注意してください。ここでいう実とは、この効率主義の現代においていわれるいわゆる「成果」とはちがいます。効率主義の世の価値観でいう成果とは、何か大きな事、人目を驚かせるようなこと、大金持ちになることそういうことを実だと思われがちです。しかし、主イエスがおっしゃいました。22節。終わりの日に偽預言者たちは、私は預言をした、私は悪霊を追い出した、私は奇跡をたくさん行ったという人目を驚かせるようなスゴイ成果は、神様の御前ではなんら「良い実」に数えられないのです。

 では、イエス様がいわんとする良い実つまり、ヨハネの言う「神の命令を守ること」とはなんなのでしょうか。7-11節。

2:7 愛する者たち。私はあなたがたに新しい命令を書いているのではありません。むしろ、これはあなたがたが初めから持っていた古い命令です。その古い命令とは、あなたがたがすでに聞いている、みことばのことです。

 2:8 しかし、私は新しい命令としてあなたがたに書き送ります。これはキリストにおいて真理であり、あなたがたにとっても真理です。なぜなら、やみが消え去り、まことの光がすでに輝いているからです。

 2:9 光の中にいると言いながら、兄弟を憎んでいる者は、今もなお、やみの中にいるのです。

 2:10 兄弟を愛する者は、光の中にとどまり、つまずくことがありません。

 2:11 兄弟を憎む者は、やみの中におり、やみの中を歩んでいるのであって、自分がどこへ行くのか知らないのです。やみが彼の目を見えなくしたからです。

 

 読めばわかるように、それは古い命令であり、キリストにあって新しくされた命令、「兄弟を愛しなさい」という命令です。兄弟と言われているのは、クリスチャンの仲間のことです。もちろんクリスチャンはクリスチャンでない人々をも愛さねばなりません。主は「あなたの敵を愛しなさい」とさえ言われました。しかし、まずは身近な主にある兄弟姉妹を愛しなさいとおっしゃるのです。

 兄弟姉妹への愛が古い命令と言われるのは、旧約聖書のなかにすでに紀元前千五百年も前から「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい」とあるからです。しかし、キリストにあってこの命令は新たに私たちに与えられました。ヨハネ福音書13:34

「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もあいあなたがたの互いの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」

 どういう点で新しくなったでしょう。昔は兄弟を愛するための見本が「自分自身を愛する自分」の姿であったのが、今は兄弟を愛する見本はイエス様がこの私を愛して下さったそのお姿になったという点です。完全な愛のお手本が出現したのです。ですから、私たちはあの兄弟姉妹にどんなふうにして上げるのがよいのだろうかと考えるときに、「イエス様は私にどうしてくださったかな?」と思い描けばよいのです。イエス様は、どんな愛を私に対して注いでくださったでしょうか。イエス様は弁護士として、私たちのそばに立ってくださいました。私たちの弱さを見下げるどころか、私たちの弱さに深く同情してくださいました。そして、ご自分を犠牲にして神と私たちの交わりを「義」なる状態つまり正常にしてくださいました。そのように私たちも、十字架の愛をもって主にある兄弟姉妹を愛するべきです。

 神の命令を守るというのは、主にある兄弟姉妹を愛するということです。ですから、もし私たちが主にある兄弟姉妹を愛していないなら、憎んでいるならば、救いの確信が失われ、神様のいのちにつながっていないと感じるのはしぜんなことです。しかし、もし私たちが主にある兄弟姉妹への愛を実践しているならば、私たちは心に確信と平安をもってよいのです。私は神様を知っている。いなむしろ、神様は私を知ってくださって、こんな愛にかけた罪人のうちにも兄弟姉妹を愛する愛をくださったのだ、なんとありがたいことだろう!と。

 

 

上からの救い

ヨハネ3:1-16

 

 

1. 上から生まれる

                                                             

 夜、主イエスのところに独りの人物が訪ねてきました。「さて、パリサイ人の中にニコデモという人がいた。ユダヤ人の指導者であった。」とあります。ニコデモはすでに相当の年寄りでした(4節参照)。今日にいたるまで、パリサイ人の教師として、まじめに旧約聖書の律法をユダヤ人たちに説いてきた人でした。パリサイ人というのは、旧約聖書にある律法に基づいて当時のユダヤ人たちを導いていた人々です。パリサイ人たちの教えは、神がくださった律法をことごとく守ることによって、人は神の国にあずかることができるということでした。

 「神の国」とは、この世にあっても次の世にあっても、神様のご支配のもとに生きるすばらしい人生です。神の国とは、死後のいわゆる天国のことだけを意味するのではなく、地上に生きている間も、正義の愛の支配の下にある状態です。神の国とは言い換えると「永遠のいのち」ということでもあります。イエス様のもとには「神の国にはいるにはどうしたらよいのか」、とか、「永遠のいのちを得るにはどうしたらよいのかと訪ねて来る求道者がいました。

 ニコデモはパリサイ派で、しかも民の指導者と呼ばれています。パリサイ派というと、偽善者ばかりのイメージがあるかもしれませんが、実際には、パリサイ人にもピンからキリまでいました。形式的にだけ律法を守ったことにするというようないかにも偽善者的なパリサイ人たちもいて、イエス様から「白く塗られた墓」などと厳しく非難もされています。しかし、パリサイ人の中にはニコデモとかサウロのように、日々、生真面目に律法を守り行って神の前に正しく歩もうと努力していた誠実な人たちもいたのです。

 ニコデモは、子どもの頃から一途に律法を行うように務めてもきたし、長じてからは人にもそのように教えてきたのです。老ニコデモはそういうパリサイ派のなかでも「民の指導者」の一人とされ、ユダヤの最高法院サンヒドリンの議員のひとりでもありました。(7:50)ニコデモは品行方正で親切で、社会的な名誉も持っていた人です。

 

 けれども、そんな誠実な人ニコデモがイエス様のもとに教えを乞いにやってきたのです。なぜでしょうか?長年律法を守ってきたつもりだけれど、自分の教えてきたことに彼は、本当のところ自信がなかったからです。自分は「ああすべきだ。こうすべきだ。」と、律法についていろいろ教えてきたけれども、中身がなくてスカスカの自分を感じていたからです。

 2節に彼は夜やってきたとあります。こっそりやってきたのです。それは、彼がイエスに教えを乞うているところを人に見られることを恐れたからに違いありません。ニコデモのパリサイ派の代表的教師であり、ユダヤ最高法院の議員であるという社会的地位や名誉からいうならば、ガリラヤのナザレに最近現れたひとりの若者のもとに教えを乞うということはスキャンダルでありました。けれども、ニコデモはイエス様のもとに来ないではいられなかったのです。それは、彼が生涯を賭けて説いてきた「律法を行うことによって、人は神の国を見ることができる」という道に疑念を感じていたからです。それで彼は夜だけれど勇気を出してやってきました。彼は正直な人だったと言えるでしょう。

 老ニコデモは、2節に見るように、たいへん礼儀正しく、若いイエス様にことばをかけました。「先生。私たちは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神がともにおられるのでなかれば、あなたがなさるこのようなしるしは、だれも行うことができません。」

ニコデモのことばを見る時、彼から見た主イエスと自分との一番大きなちがいは「神がともにおられる」という点だったのだということだとわかります。ニコデモは、律法を隅から隅まで覚えていて、自由に引用することも解釈することもできました。ニコデモは努力に努力を重ねて律法とともに歩んできました。しかし、神が彼とともにいるとは確信できませんでした。

 そこで、いきなりイエス様はおっしゃいます。3節。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」イエス様の答は一見すると唐突です。しかし、このお言葉は、ニコデモが問題を感じていることにズバリと解答を突きつけたことなのでした。ここでたいせつなことばは「新しく」と訳されていることばアノーテンです。このことばはおもしろいことに、「新しく」という意味と「上から」という意味の二つを合わせ持っているのです。たとえば、同じヨハネ福音書3:31に「上から来る方は」とありますが、この「上から」はアノーテンということばです。イエス様が上から来る方と呼ばれているのです。つまり、ここにいう「上から」というのは、「天から」「神から」という意味にほかなりません。

 イエス様は「まことに、まことにあなたに告げます。人は、神から新しく上から生まれるのでなければ、神の国を見ることはできません。」とおっしゃったのです。

 

 考えてみれば、老ニコデモが若い日から今日まで学び行ってきた、そして、人にも熱心に教えてきたことは、いわば「下から」の道でした。ユダヤでは、自分の名前を言うまえにトーラーのことばを唱えるようになるというほど、律法の教育が徹底して行われます。日々、律法を暗唱し、律法を行い、敬虔な宗教生活の功徳を「下から」積み上げ、積み上げ、積み上げ、積み上げて、段々と「地から」天に向かって神様の基準にかなう自分の義を建てあげていくというのが、パリサイ派のニコデモが教えてきたことでした。そうして神をあがめ神に従う神の国を見ることができると教えてきたのです。

 ところが、主イエスは「下からではだめだ。人は上から、つまり天から、神によって生まれなければ、だれも神の国を見ることはできない。」と断定なさったのです。

 

 ニコデモは戸惑いました。ニコデモには主イエスのおっしゃる意味がわかりませんでした。彼は「新しく生まれる」という意味にだけ、主イエスのことばを取ったようです。そして、ちょっとあざける調子で、そんな「人は、老年になっていて、どのようにして生まれることができるのですか。もう一度、母の胎に入って生まれることができましょうか。」と言ったのです。ニコデモの言葉にはた しかに彼がつき当たっていた根本的な問題が暗示されています。人がどんなにまじめに律法を暗唱し、善行を下から上へと積もうとしても、どうしても乗り越えられない問題があると感じていたのです。限界があると感じていたのでしょう。もういっぺん生まれ直して、根本から洗い直してやり直すしかないか、などという感情です。

 

 すると、イエスは「上から、神から」生まれるということはどういうことを意味しているかをさらに説明なさいました。5節。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることはできません。肉によって生まれた者は、肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」

 水とは洗礼のことです。聖霊をともなう洗礼を受けなければだれも、神の国に入ることはできないとおっしゃったのです。主イエスヨハネが授けた水だけの洗礼ではなく、同時に御霊をも注いでくださるお方であるということです。さて、「肉によって生まれた者は肉です。御霊によって生まれた者は霊です。」とはどういうことか。肉とは肉体のことではありません。ヨハネ福音書で「肉」というのは、「自分の力、人間の力」です。御霊とは神様が注いでくださる聖霊です。ですから、主は、「人が自分の力で功徳をどんなに積み上げても、人は決して神の国にはいることはできない。」とおっしゃるのです。人がどんなにまじめに暗唱聖句をし、偶像を礼拝せず、安息日を守り、両親を敬い、殺すまいとし、姦淫をおかすまいと努力し、盗むまいと努力し、嘘はいうまいと努力し、となり人のものを欲しがったり、人の幸せを妬むまいと努力したとしても、人は決して神の国にはいることはできないのです。どんなにまじめに律法に取り組んでも、罪の力から解放されて生きることはできない、神の国に入ることはできないとおっしゃるのです。

 ニコデモは、いろいろな神の律法を守り、いろいろな教えを学び実践することによって、人は神の国を見ることができると教えてきました。しかし、どんなに律法をきまじめに行おうと努力しても、罪の力からの解放は経験できなかったのです。

 

 ニコデモと同じパリサイ派であったサウロは、自分の律法にまつわる経験について述べています。ロマ7章7-13節。サウロはまじめに律法を守り行おうとしました。まじめな彼としては十戒のうち九つまでは自分で満足できるように、行うことができたようです。ところが、第十番目の戒めに彼は縛りつけられてしまったのです。「汝その隣人の家をむさぼるなかれまた汝の隣人の妻およびそのしもべ、しもめ、牛、ろばならびにすべて汝の隣人のもちものをむさぼるなかれ。」サウロは、自分の心が隣人の家、妻、その所有物を欲しがる欲求を抑えることがどうしてもできないことに気づいたのです。そして、朝に昼に夕に、サウロは自分のうちに沸き起こってくるこの「むさぼり」に苦しみました。

 ニコデモも律法による道の限界を感じていたのです。そしておそらくこの度もイエス様のところに来れば、自分にもう一つ欠けていた教えというか奥義を教わることができるかと思ったのです。けれども、イエス様はそれを根本から否定なさったのです。「肉によって生まれた者は肉です。」と。

 

 今日でも世にはいろいろな道徳、自己救済、自力救済の道が説かれています。早起き会とかいって毎日朝早く起きて一日を始めれば良いことがある。一日一善。前向きの意識で成功する。積極志向でいきましょう。自己啓発セミナーなどなど。それらがある程度の効果を人間生活にあらわすのは事実でしょう。だからその手の本が売れ、セミナーがはやったりするのでしょう。これらはいずれも「下から」のものです。「肉」によるものです。「肉」を強化することによって、問題の解決を得ようとするものです。けれど、結局は、「肉から生まれたものは肉」にすぎないのです。 「御霊によって生まれた者は霊です。」と主イエスは、ご自分がもたらす救いについて話されるのです。7節、8節。

3:7 あなたがたは新しく生まれなければならない、とわたしが言ったことを不思議に思ってはなりません。 3:8 風はその思いのままに吹き、あなたはその音を聞くが、それがどこから来てどこへ行くかを知らない。御霊によって生まれる者もみな、そのとおりです。」

霊と訳されることはプネウマは、おもしろいことばで、「風」という意味もあります。風は自由に吹きます。御霊も自由に働かれるのです。人がコントロールできるわけではありません。また、御霊によって生まれると、その人は自由なのです。御霊にある自由、ここがニコデモやサウロがはげんできた堅苦しい律法主義・自力主義との大きな違いです。

ここに一つの証しがあります。長野福音教会のメンバーの召田さんという方です。

 「クリスチャンの歩みって何だろうと考えてみました。クリスチャンになる前は、道徳的に正しい人になる、悪いことをしない、この世的な楽しみは控えた方が・・・。そんなイメージで見ていました。ですから、ちょっと堅苦しいという思いがあって、学生時代の友人のクリスチャンから強くすすめられながら、なかなか受け入れられなかったことを覚えています。

 しかし、いざクリスチャンとして歩み始めると、逆に堅苦しい枠から解放されました。瀧に打たれたりして難行苦行を積む必要もありません。イエス様の十字架のあがないによって、一方的に赦され、罪から解放されていることが分かったからです。何を着ようか、何を食べようかと心配することは、それほど意味を持たないこともわかりました。クリスチャンはいつも自由です。

 ただ神の国とその義をまず第一に求めなければならないことを教えられます。神様の支配に従い、神様との正しい関係を第一とする生活です。そうすればそれに加えて、これらのものは全てが与えられますとこの世の必要は神様が保証してくださると約束してくださっています。・・・・」

 クリスチャン生活の実感がよく現れていますね。クリスチャン生活は、御霊による誕生によって始まり、御霊のご支配のもとにある自由のなかで営まれていくのです。祈ることも聖書を読むことも、主の日を守ることも、愛の業を行うことも、みな御霊がなさせてくださいます。御霊がさせてくださるとき、私たちは自由に愛をもって律法の要求を十二分におこなうのです。「主は御霊です。そして、主の御霊のあるところには自由があります。」(1コリント3:17、18)

 

2.十字架のキリストを見上げる

 

 しかし、ニコデモには主イエスがおっしゃる御霊によって生まれたクリスチャンの人生というものは理解できません。彼はまだ上から生まれていないからです。彼は答えます。9節「どのようにして、そのようなことがありうるのでしょう。」そこで、イエス様は御霊について話すことに困難を覚えます。11、12節。

3:11 まことに、まことに、あなたに告げます。わたしたちは、知っていることを話し、見たことをあかししているのに、あなたがたは、わたしたちのあかしを受け入れません。

 3:12 あなたがたは、わたしが地上のことを話したとき、信じないくらいなら、天上のことを話したとて、どうして信じるでしょう。

 そして、ニコデモが幼い頃から親しんできた旧約聖書の故事に基づいて、イエス様のもたらされる救いを、別の観点からお話になるのです。13-15節。

3:13 だれも天に上った者はいません。しかし天から下った者はいます。すなわち人の子です。

 3:14 モーセが荒野で蛇を上げたように、人の子もまた上げられなければなりません。

 3:15 それは、信じる者がみな、人の子にあって永遠のいのちを持つためです。

3:16 神は実にそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは、御子を信じる者がひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。」

民数記21:4-9節。イスラエルの民の神に対する忘恩と不信の罪に対して燃える蛇の罰がくだりました。ところが、神様はモーセの祈りに答えて救いの道を与えてくださいました。それは、ただ旗ざおに付けられた青銅の蛇をあおぎ見るということでした。旗ざおはちょうど十字架のかたちをしています。8節。「それをあおぎ見れば、生きる。」蛇は呪われた罪の象徴でした。

 ここには律法の「行い」による救いとは違う、信仰による救いの道が象徴されています。イスラエルの民は、蛇にかまれもはや自分で自分をどうすることもできなかったのです。どんな罪のつぐないとしての善行をすることも、徳を積むこともできませんでした。ただ、神の約束を信じて「あおぎ見たら、生きた。」のです。神の約束を信じないで、自分の努力で蛇の毒のまわりを抑えようとしたりしている者は死にました。

 主イエスは、この故事をもって、御霊によって生まれるという救いがどういうことかということを、ニコデモに説明なさったのです。御霊によって生まれるという救い、それは御約束を信じて十字架のキリストをあおぎ見ることによる救いなのです。

 青銅の蛇を付けられた十字架のかたちをした旗ざお。それは、私たちの罪の呪いを受けられたイエス・キリストの十字架を示しています。神の御子イエス・キリストが罪の呪いを受けるために、十字架に上げられてくださったのです。どうしたら人は救われるのか。私の罪のために十字架に付けられた御子イエス・キリストふりあおぐことです。その時、新しい人生が始まるのです。罪赦され、罪の力と律法の呪いからも解放され、御霊によって神の国を見る人生が始まります。

 ニコデモはこのイエス様の話にどういう反応を示したかは、ここには記録されてはいません。彼は三年ほど、ユダヤ当局につくでもなく、キリストの弟子となるでもなく、どっちつかずの生き方をしていました。しかし、これから3年後イエス様が十字架に上げられるにおよんで、ついに彼は回心しました。新しい人として生まれたのです。ニコデモは、自分がイエス様を信じることを公にします。すなわち、主イエスが十字架から降ろされ、墓に葬られようとするとき、彼はたくさんの高価な没薬をもって墓にやってきたのです。かつてパリサイ人としての誇り、サンヒドリン議員という社会的な地位と名誉、こうしたものに縛られていたニコデモは、ついにこれらから解放されました。そして、キリストの弟子となり、神の国を見る生き方を始めたのです。

 

結び 「人は上から神によって新しく生まれなければ神の国を見ることはできません。」 

 神の前に自分の限界と罪を認め、主イエスが私の罪のために十字架にかかって甦られたことを感謝して受け入れましょう。そのとき、あなたも神の国を見ることができます。主は言われます

「 地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。

  わたしが神である。ほかにはいない。」イザヤ45章22節

  神の光に歩む  

ヨハネ1:5-10

                                                                

 

1:5 神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。

 

 1:6 もし私たちが、神と交わりがあると言っていながら、しかもやみの中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っているのであって、真理を行ってはいません。

 1:7 しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

 

 1:8 もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。

 1:9 もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

 1:10 もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。

 

 

1.神を知り、神を味わい、そして、生きる

  

 5節でまず「神は光である」とあります。そして6節から10節は神が光であることに基づいて、私たちの交わりがいかなるものか、私たちがいかに生きるかということへと展開していくのです。この順序が実はとてもたいせつです。クリスチャンの信仰の本質は律法を守るところにはありません。いろいろな規律・ルールはたしかにたいせつなものです。十戒は神のことばです。しかし、規律を守ること自体に意味があるのではありません。クリスチャン生活の本質は、神との人格的交わりのうちにあるのです。

 交わりとはなんでしょうか。それは互いに深く知りあうということです。相手の人格に深い関心をもって耳を傾け、また自分も心開いて語るというところに交わりが生まれてきてまた交わりが育つのです。また交わりとは、喜びや悲しみを分かち合うということです。

 「朱に交われば赤くなる」ということばがあります。友達が悪いと、私たちは知らず知らずのうちに、その悪友に感化されて悪くなるという意味です。しかし、逆のことも言えます。良い友を得て、愛と尊敬をもって交わるならば、私たちの生き方・価値観も表情も変わってくるのです。ですから、字が違いますが、「主イエスに交われば、きよくなる」のです。光である神に交われば、私たちも光るのです。

 どんなふうにお祈りするのか。どんなふうにクリスチャンとしての家庭生活を営むのか。どんなふうに伝道すればよいのか。どんなふうに献げものをするのか。これら具体的なことも大切なことです。具体的な生き方に私たちの内にある信仰は現れるものだからです。けれども、このようなハウツーを求める以前にたいせつなことは神様がどのようなお方であるかを知り、このお方を見上げ続けることです。「朝晩、み顔を仰いでいれば、主イエス様に近づけるでしょうか。」という歌があります。

 J.I.パッカー牧師が勧めていることですが、みことばを開いたら、まず「神様(あるいはイエス様)あるいは聖霊はどのようなお方ですか?」という問いを意識するといいです。次に神がどのようなお方であるかをよく味わうのです。その上で、生活への適用します。私たちの生活は主との交わりの生活です。ですから、主がどのようなお方であるかということを知ること、そして私を主に知って頂くことが、私たちの生活の出発なのです。それがなくて、聖書を開いてただすべきことだけを求めていると、あなたはきっとくたびれてしまいます。あなたの内にいのちがないからです。もしあなたが主を振り仰ぎ、主と交わった上で、行くべき道を見出せば、前に進んでいくことができます。

 

 では、今日のみことばでは、神様について私たちは何を知らされるでしょうか。

 「神は光であって、神のうちには暗いところが少しもない。これが、私たちがキリストから聞いて、あなたがたに伝える知らせです。」ここで、「神は光であって・・・」はたいそう強調されています。ヨハネが「神は~である」というのは、三つです。ひとつは「神は霊である」、ひとつは「神は愛である」、そしてもうひとつが「神は光である」です。

 光は、聖書のなかでは「悲しみに対する喜び、敵意に対する祝福、死に対するいのちにかかわることばとして使われている」「神のきよさ」(新聖書辞典)を意味しています。振り返ってあの三年間、弟子ヨハネは、神は光であるという経験を主イエスとともに歩む生活のなかでしたのでした。御子イエスは、光そのものでした。主イエスには偽り、偽善、罪がたしかになかった。いつも喜びと祝福といのちがあふれた聖さに満ちておられました。主イエスはそういうお方でした。

 変貌の山では、主イエスの光り輝く姿を実際に目撃した一人がヨハネでした。

 

2.光の中を歩む  

                                                              

 神が光でいらっしゃる。その神と絶えず親しく交わっているなら、私たち自身も光となります。主イエスは私たちに向かって「あなたがたは世界の光です」とおっしゃいます。またエペソ書には「光の子どもらしく歩みなさい。」とあります。私たちが光の子として生きるとはどういうことでしょう。

 

(1)闇の中に住む

  「もし私たちが神と交わりがあるといっていがら、しかも闇の中を歩んでいるなら、私たちは偽りを言っており・・・」。

 「闇のなかを歩む」「光の中を歩む」というふうにパウロは言います。「歩む」と訳されることばは「あるきまわる」「うろつく」という意味のペリパテオーという言葉です。「闇の中で生活する」「光の中で生活する」と思いきって訳す人もいます。つまり、「~のうちに歩む」というのは常習的にそこに住み着いてうろうろしているという状態なのです。ですから6節に言わんとすることは、「もし神と交わりがあるクリスチャンですと名乗っていながら、しかも常習的に闇のなかに住み着いているとすれば、『私は神と交わりがあるクリスチャンです』というのは嘘である」ということです。

 「闇のうちに生活する」とは具体的にはどういうことか。ヨハネの手紙では二つの面で言われます。1ヨハネ2:9「光の中にいると言いながら、兄弟を憎んでいる者は、今もなお闇の中にいるのです。」

 「兄弟」とはクリスチャンの兄弟姉妹のことです。主にある兄弟どうしでも、時には喧嘩をしてしまうこともあるかもしれない。そういうことがあったとしても、またイエス様の御前で赦しあうことです。その人は、闇のうちに住んではいない。闇のなかに落ちたけれども、すぐに出てきたからです。けれども、もし「自分が相手を憎むことは当然だ。あいつが悪いのだから。」と自己を正当化し、その憎しみを燃やし続け、復讐を誓い続ける人があったとすれば、それこそ「闇の中に歩む、闇の中で生活する」ということです。そういう人は、いくら口で「私はクリスチャンです。神様と交わりがあります。」と言っていても、そのことばは偽りです。

 もう一つヨハネの手紙で闇とは悪魔と罪のことです。3:8-9

3:8 罪を犯している者は、悪魔から出た者です。悪魔は初めから罪を犯しているからです。神の子が現れたのは、悪魔のしわざを打ちこわすためです。

 3:9 だれでも神から生まれた者は、罪を犯しません。なぜなら、神の種がその人のうちにとどまっているからです。その人は神から生まれたので、罪を犯すことができないのです。

 

 クリスチャンになっても、残念ながら、なお罪を犯してしまうことがあります。しかし、クリスチャンは罪のなかに住み着いていることはできません。 私たちも、時に、悪魔の誘惑に載せられて、こうした罪に陥ることがあるかもしれない。しかし、罪を犯すことに慣れてしまってはならない。罪の生活を楽しんではならないし、罪のなかに住み着いてはならないのです。罪のなかに住み着いているならば、その人がいくら「私は神様と交わりがあります」と言っていたとしても、それは嘘です。

 

(2)光のうちを歩むなら(7節)

  「光のうちに歩む」というのは、「神様の光のうちに生活する」「神様の光の中に住みつく」ということです。

1:7 しかし、もし神が光の中におられるように、私たちも光の中を歩んでいるなら、私たちは互いに交わりを保ち、御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。

それは主にある兄弟を愛することです。また、律法にかなう正義を行うことです。それは、神が光であり光のうちにいらっしゃるので、光なる神と交わるときに、内側から実践しないではいられなくなるものです。

 けれども、実は、光のうちに歩んで、光である神様と交わりながら生活しているときには、自分は律法を守っているとか、よいことをしているということはあまり意識していないものです。終わりの審判のとき、イエス様から「あなたは私が牢にいるときに見舞い、私が飢えているときに食べさせ、私が裸のときには着る物をくれましたね。」と言われるクリスチャンたちは、「そんなこと、いつしましたっけ」と思うものです。

 なんで自分がよいことをしていることについて、クリスチャンは鈍感になるのか。・・・それは太陽の光の中で懐中電灯や車のヘッドライトが目立たないのと同じことです。神様の光の中で生きているときには、私たちの光は目立たない。神様のあまりにも豊かで偉大な愛の下で生きているときには、私たちは自分のした愛の行いなどちっぽけなことにすぎないと感じるし、この位のことはあたりまえだと感じないではいられないからです。

 だから、光である神様と交わることがとてもたいせつなのです。そうしないで、律法を見つめ、「親切にしなければ」「~こうしなければ」云々ということで、一生懸命兄弟を愛したり、律法を行ったりしようとすると、くたびれます。それに「私がこんなに親切にしてあげたのに、『ありがとう』のひとこともない。」とかいう不満が出てくるのです。そのときには、神様の光の中ではなく、律法の文字にしばられて生きているのです。

 神様の光の下で生きるなら、自由と喜びがあります。

 

(3)罪の告白について

  逆に暗闇のなかでは目立たないけれど、明るい光の下に持ち出すと目立つものとはなんでしょうか。それは、汚れです。クリスチャン生活にはいって、私たちの心を責めさいなむ物はこの罪意識です。クリスチャンになってからも犯してしまう罪の問題について8節から10節に語られます。

1:8 もし、罪はないと言うなら、私たちは自分を欺いており、真理は私たちのうちにありません。

 1:9 もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。

 1:10 もし、罪を犯してはいないと言うなら、私たちは神を偽り者とするのです。神のみことばは私たちのうちにありません。

 

 まず、8節でズバリいわれることは、クリスチャンの心の中にも罪があるということです。ここで言う罪は単数です。9節の告白すべき罪というのは、複数となっています。これは具体的な、数え上げられる罪です。さて、8節。もし、あなたが「私の心はまったくきれいになっていて、罪ある思いを持つこともありません。」というならば、それは単なる思いこみか嘘ですよということです。主が再臨なさって御前に挙げられるときまで、私たちは罪から完全に解放されることはないのです。10節でも言われます。「もし、罪を犯してはいないというなら、私たちは神を偽り者とするのです。」

 では、罪を犯してしまったとき、どうすればよいのか。9節。「自分の罪を言い表す」という罪とは具体的な罪の数々です。複数形です。ですから、よろしいですか。クリスチャン生活のなかで、罪を犯したときには、これを具体的に告白することが必要なのです。抽象的に漠然とごまかして「罪を犯しました」とか「私は罪深いのです」というのではなく、たとえばお祈りのなかで「私はきょうコレコレコウイウの罪を犯しました。」と言い表すことです。

 そうするならば、神様はお約束を違えるようなお方ではありません。真実で正しいお方ですから、お約束の通りに、あなたの罪をゆるしきよめてくださいます。

 

結び

 クリスチャン生活は、神と基督と聖霊によって交わって生きるところにあります。

 神を意識してその光の内に歩むなら、私たちも父や御子と似た者とされていきます。

 しかし、光の下に出てくると、自分の罪があらわにされてくるものです。その心が主にある兄弟姉妹に対する憎しみによって汚されていたり、明らかに律法に背いていることが、神のもとに来るとわかるものです。もし、罪が示されたならば、罪を告白して、神様にゆるしていただいて、心を洗っていただくことです。

 このようにして、神は光であり、神には暗い所がひとつもない。この光なる神様を見あげて、光の子どもらしく歩みましょう。                                                            

 

  

 聖書と神の力と

Mk12:18-27

                               

2017年7月1日 苫小牧主日礼拝

 

 12:18 また、復活はないと主張していたサドカイ人たちが、イエスのところに来て、質問した。

 12:19 「先生。モーセは私たちのためにこう書いています。『もし、兄が死んで妻をあとに残し、しかも子がない場合には、その弟はその女を妻にして、兄のための子をもうけなければならない。』

 12:20 さて、七人の兄弟がいました。長男が妻をめとりましたが、子を残さないで死にました。

 12:21 そこで次男がその女を妻にしたところ、やはり子を残さずに死にました。三男も同様でした。

 12:22 こうして、七人とも子を残しませんでした。最後に、女も死にました。

 12:23 復活の際、彼らがよみがえるとき、その女はだれの妻なのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのですが。」

 12:24 イエスは彼らに言われた。「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではありませんか。

 12:25 人が死人の中からよみがえるときには、めとることも、とつぐこともなく、天の御使いたちのようです。

 12:26 それに、死人がよみがえることについては、モーセの書にある柴の個所で、神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか。『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあります。

 12:27 神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。あなたがたはたいへんな思い違いをしています。」

  主イエスの御在世当時、ユダヤの宗教的指導者にはパリサイ派サドカイ派そしてエッセネ派というのがありました。聖書にはエッセネ派という名は見えませんが、バプテスマのヨハネがこれに属していただろうと言われています。彼等は隠遁的な宗教生活をしていました。社会に表立って出てくる指導者たちとしてはパリサイ派サドカイ派です。

 12:18 また、復活はないと主張していたサドカイ人たちが、イエスのところに来て、質問した。

 さて、きょう登場するサドカイ派というのは、ギリシャ思想の影響を受けた人々であり、身分的には祭司階級を占めていた人々です。サドカイ派の宗教というのはいわゆるインテリ的な宗教でした。それは頭で納得いく合理主義的な宗教でした。合理主義的な考え方というのは、人間の理性をすべての基準とする考え方ということです。人間の経験にかなうことしか信じようとしない人々です。21世紀にもそういう人々はたくさんいますが、2000年まえにもそういう人々はいたのです。

 サドカイ派は、創造主である神が存在することは信じてはいましたが、天使が実在するということと、死者が終わりの日に復活するという聖書の約束は否定していました。神の住まう天界と人の住むこの世を峻別し、神はこの世に介入することができないとしました。だから、ギリシャ哲学の理性の枠組みのなかでは、死者が復活するとか、天使が実在するというのは比喩か迷信ということになったわけです。つまり、サドカイ人は神を信じているとは信じていましたが、それは私たちが住んでいるこの世界において生きて働かれる神ではなく、哲学的な観念としての神にすぎなかったのです。

 サドカイ派が影響を受けたギリシャの哲学者たちも神を信じていました。たとえばアリストテレスは、第一原因としての神ということを主張しました。ものごとには必ず原因がある。たとえば、ここに本があるとすれば、その本をここに置いた人がいる。その人がそこに存在するのは、その人を生んだ人がいるからである。こういうふうに今ある結果には何か原因があるから、原因と結果の鎖をさかのぼっていけば、ついには最初のこれ以上さかのぼれない原因に至ることになる。つまり、それが第一原因すなわち神であるというのです。哲学における上というのは人間の理屈によって証明できる神ということです。人間の理屈の枠のなかに納まる神なのです。

 

 サドカイ派の人々は、日頃から考えていた復活に関する聖書の矛盾点を指摘して、イエス様をギャフンと言わせてやろうとして来たのです。それは、結婚に関する問答です。19-23節。

 12:19 「先生。モーセは私たちのためにこう書いています。『もし、兄が死んで妻をあとに残し、しかも子がない場合には、その弟はその女を妻にして、兄のための子をもうけなければならない。』

 12:20 さて、七人の兄弟がいました。長男が妻をめとりましたが、子を残さないで死にました。

 12:21 そこで次男がその女を妻にしたところ、やはり子を残さずに死にました。三男も同様でした。

 12:22 こうして、七人とも子を残しませんでした。最後に、女も死にました。

 12:23 復活の際、彼らがよみがえるとき、その女はだれの妻なのでしょうか。七人ともその女を妻にしたのですが。」

  

 彼らは、ほんとうにこの問題の答を聞きたいわけではありません。ただ死人の復活という約束を否定したかっただけです。いや、それよりも、イエスを黙らせたかっただけのことです。

 サドカイ人たちが持ちかけた議論の背景には、旧約の律法にあるレビラート婚という慣習があります。古代イスラエル人にとっては、子孫を残していくということはきわめて重要なこととされていました。それで、AさんがBさんと結婚をしたけれども、もしAさんが子孫を残すことができないまま死んでしまった場合、Aさんの弟は、Aさんの妻Bさんをめとって子どもを生ませなければならないとされました。

 このレビラート婚の定めにしたがった場合、世界の歴史の終わりの時に死者のよみがえりがあるとすれば、非常に不合理なことが起こることになります。つまり、復活した7人の誰がその女性を妻とするかが問題になってしまうではないか、というわけです。神は秩序の神であり、理にかなったことをなさるお方である。したがって、パリサイ派がいうように、終わりの時に復活があるという教えが間違っているのだというのがサドカイ人たちの主張です。 夫に次々と死なれた女性がいたとして、このような状況において、死者が復活したならば、神のおっしゃる結婚の戒めを破ってしまうことになるではないかという訳です。ということは、矛盾であるから、死者の復活というのは将来、この時間と空間のなかで現実になる約束ではなく、文学的比喩にすぎないと言いたかったのです。

 

 イエス様は、彼らの質問の本質を見抜いてズバリとサドカイ派の人々の信仰のありかたの根本的問題をずばりと指摘なさいます。24節。

 「そんな思い違いをしているのは、聖書も神の力も知らないからではありませんか。」

 言いもいったりです。なにしろ相手は祭司階級の人々、つまり、聖書と神様の専門家たちです。しかし、主イエスは「あなたたちは、たくさんの微に入り細を穿って聖書知識を持っているけれども、あなたがたの聖書知識は死んだ知識だし、あなたがたの「神」は生ける神でなく、単なる哲学者の観念的ないわば括弧付きの「神」にすぎないとおっしゃるのです。あなたがたサドカイ派の神は、聖書にご自身を啓示していらっしゃる、今も生きて働かれるお方、死者をもよみがえらせることもできる神ではないのだ、とおっしゃるのです。

 

 そして、旧約聖書の一節を引用なさって、復活の証言となさるのです。26-27節。

 12:26 それに、死人がよみがえることについては、モーセの書にある柴の個所で、神がモーセにどう語られたか、あなたがたは読んだことがないのですか。『わたしは、アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあります。

 12:27 神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神です。あなたがたはたいへんな思い違いをしています。

 

 これがどうして復活があるのだという証拠聖句となるのでしょうか。旧約時代にアブラハム、イサク、ヤコブという族長と呼ばれる人々がいました。彼らの子孫となるイスラエル民族に神様は約束の地をお与えになると約束なさいました。紀元前二千年ころのことです。それから五百年ほどたってモーセに対して神様が現れたのです。それが、26節にいう燃える柴の箇所に書かれているのです。当然ながら、この時点ではすでにアブラハム、イサク、ヤコブはこの世を去っているのです。

 ところが、主なる神様は燃える柴のところでモーセに出現なさったとき、自己紹介をなさっておっしゃいました。「わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である」と。つまり、モーセからいえば四五百年ほども前にこの世を去ったアブラハム、イサク、ヤコブは過去の人ではなく、今も生きているのだということです。神の御許にあって今も生きているのです。 だから「神は死んだものの神ではありません。生きている者の神です。」ということになります。「あなたがたはたいへんな思い違いをしています。」と主イエスはお嘆きになりました。神様の御前に祈り、聖書を人々に教えるべき祭司階級を占めている、あなたがたともあろう者が、なんという思い違いをしているのですか!というのがイエス様のお気持ちでしょう。

 

 彼らの問題は「聖書も神の力も知らない」ということでした。もちろん彼らは聖書を知っていたでしょう。では、どのようなものとして彼らは聖書を知らなかったのでしょうか。また聖書はどのようなものとして知るべきであると、主イエスはおっしゃるのでしょうか。

 聖書を完全無欠な真理、神のことばそのものとして知ることです。主イエス様は聖書を隅からすみまで完全無欠な神のことばであると主張なさるのです。旧約の小さな一句を根拠に死者の復活を証明なさった一事を見てもよくわかります。また主イエスは、「まことに、あなたがたに告げます。天地が滅びうせない限り、律法の中の一点一画でも決してすたれることはありません。」(マタイ5:18)とおっしゃいました。サドカイ派の人々は、聖書のことばよりも自分の経験やギリシャ哲学を上に置いていたのです。そして、自分たちの理屈にかなわない奇跡の記事、復活の約束などは、勝手にはぶいて読んでいたのです。ですから、彼らはあなたがたは「聖書を知らない」と言われたのです。

 私たちは「旧新約聖書六十六巻は、すべて神の霊感によって記された誤りのない神のことばであって、救い主イエス・キリストを顕し、救いの道を教え、信仰と生活の唯一絶対の規範である。」と同盟教団の信仰告白の第一条に告白しています。私たちは一点一画までも誤りのない神のことばとして、聖書を信じなければなりません。

 

 「神の力を知らない」とサドカイ派は主イエス様からしかられました。それは彼らは神様も、自然法則の下にあるかのように思っていたのです。神様の力も自然法則には及ばないと思いこんでいたのです。ですから、自然法則に反する復活や奇跡などということはありえないことと考えたのです。

 神様とはいったいどういうお方ですか。まことの神様は、無から天地万物をそのお言葉によって創造なさったお方ではありませんか。万有引力の法則も、生命法則も、すべて神様が創造なさった被造物にすぎないのです。いのちを造られたのも、いのちを取りあげられるのも神御自身です。だから、命を再びお与えになるのもまた神の力にとって当然可能なことなのです。奇跡を行なうことができないならば、それは神ではありません。それは自然法則にしばられた被造物にすぎないのです。

 まことの神は、命を造り、命を与え、命を奪い、また信じる者に再び命をお与えになることのできるお方なのです。

 

(結び)

 今日でもサドカイ派のような神学者や牧師や小説家などがいます。これは18世紀、19世紀の啓蒙主義哲学、デカルト、カント、ヘーゲルの哲学の影響を受けた自由主義キリスト教といいます。自由主義キリスト教でいう自由とは、聖書と教会の伝統から理性が自由であるということです。理性の方が聖書より上という立場です。

  1910年のアメリカ合衆国長老教会大会で、自由主義キリスト教えに対して、聖書主義に立つ5つの基本信条が確認されました。

1 聖書は誤りのない神のことばであること(Inerrancy of the Bible)

2 イエス・キリストの処女降誕と神性(イザヤ7:14) (The virgin birth and deity of Jesus Christ)

3.キリストの代償的贖罪の教理(ヘブル9章) (The doctrine of atonement)

4.イエス・キリストの体の復活(マタイ28) (The bodily resurrection of Jesus Christ)

5.イエス・キリストの再臨 (The bodily second coming of Jesus Christ )

 自由主義キリスト教は、近現代のサドカイ派です。今日、一般の書店で手に入るキリスト教関係の書物の多くは自由主義キリスト教の影響を色濃く受けています。彼らは一流の知識人として自他共に認めるような人々です。その昔、イスラエルサドカイ派の祭司連が主イエスの時代のローマ帝国に対するユダヤ教の顔役であったのと同じです。

 しかし、主イエスは彼らにおっしゃるに違いありません。

 「あなたがたは、聖書も神の力も知らない。」                              

  私たちは、主イエスに倣って、聖書の一言一句を生ける神のことばと信じます。また、主イエスに倣って、死者をよみがえらせる力をもっていらっしゃる生ける神を信じます。それこそ主イエスの弟子にふさわしい信仰です。

いのちのことば

ヨハネの手紙第一1:1-4

                                                        

 

 1:1 初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、

 1:2 ──このいのちが現れ、私たちはそれを見たので、そのあかしをし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。すなわち、御父とともにあって、私たちに現された永遠のいのちです。──

 1:3 私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです。

 1:4 私たちがこれらのことを書き送るのは、私たちの喜びが全きものとなるためです。

 

 

1.いのちのことば(1、2節)

 

 ヨハネは、これから私たちに伝えようとすることは「いのちのことば(ロゴス・テース・ゾーエース)」であると言います。「いのちのことば」とは何でしょうか。

 

 古代から人間は死を恐れつつ永遠のいのちを捜してきました。それは洋の東西を問いません。中国では秦の始皇帝は不老長寿の薬を見つけ、これを飲んでいたそうですが、それが水銀だったのでかえって水銀中毒でいのちを縮めてしまったそうです。ギリシャの哲学者ソクラテスは、哲学とは死に関する学問であるとさえ言いました。それは言い換えると、永遠のいのちを望みながら、実際には死んでいかねばならない人間の不思議さを考えることが哲学であるということでしょうか。ソクラテスからしばらく後に現れた哲学者たちにストア派というのがありました。彼らは死を恐れぬものの考え方を編み出しました。「死は恐れるに足りない。なぜなら、死がやってきたとき、すでに私はそこにいないからである。」なかなかのへりくつです。しかし、こんなことを言えばいうほど、彼らがいかに死にこだわり死を恐れていたかがわかります。

 世界の理法とか人生論とか倫理とか道徳。哲学者や思想家たちはいろんなことを昔から考えてきました。それは、生きることいのちということ人生について、そして死ということについてです。使徒ヨハネが手紙を書いた相手は、ギリシャ文化の影響の下にある人たちでした。ギリシャ文化圏のストア派の哲学者たちはロゴスということばで、神が定めた宇宙の理法を意味していましたから、ギリシャ文化圏の読者たちが、ロゴスという言葉を読めば、さてヨハネ先生はどういう「ロゴス」どういう哲学を展開するのだろうかという読み方をされたのでしょう。はたして「いのちのことば」ロゴステーズゾーエースの話です。

 

  ところが、いきなり初めからヨハネは「いのちのロゴス」について、不思議なことを語ります。「いのちのロゴス」を私たちは「この耳で聞いたし、この目で見たし、じっと見つめたし、また手でさわりもしたんだよ。」というのです。「ことばlogosをこの耳で聞いた」というのはわかります。また「書物でlogosを学んだ」というものわかります。しかし、ヨハネは「ロゴスを見た、じっと見た、手でさわった」というのです。ロゴスがどうして見えましょう。ロゴスがどうして手でさわれましょう。ロゴスは宇宙の理法です。「目で見て、耳で聞いて、手でさわれる」ものは、ただ歴史の現実のなかに時間と空間のなかに現れた現実のものだけではありませんか。

 この宇宙を支配する「いのちのロゴス」とは、人となって来られ、イスラエルのガリラヤ地方を歩まれたイエス・キリストそのお方であるというのです。

 

2 グノーシス主義に対して

 

 ヨハネが「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの」それが「いのちのロゴス」イエス・キリストであるという不思議な紹介をしているのには、背景があります。

 ギリシャの哲学では、真理とか善とか美というものは、観念として存在するものであって、それが一個の人格としてこの世に出現するということなど考えられないことでした。

 ギリシャ思想においては基本的に、物質ないし肉体は悪であり、精神は善であるという考え方がありました。こうしたことを背景として、イエス様についてとんでもない異端説グノーシス主義が流行しつつありました。グノーシス主義者はキリストの受肉を否定しました。なぜなら、善であるキリストが悪である肉体をもつことは論理的にありえないからです。だから、「永遠のいのちである神がこの世界に現実の人となって来られたことはなかった、幻として現れたのである。」と教えました。これを仮現説といいます。また、言いました。彼らはまた「イエスはからだをもって復活などしなかった、幻として現れたにすぎない。また、弟子たちの心の中に暖かいすばらしい思いでとして生きているのが復活のイエスである」というのです。煮詰めて言えば、彼らはキリストの受肉を否定し、肉体をもって十字架で苦しまれたことを否定したのです。こうしたグノーシス思想を背景として、ヨハネは次のように言っています。

4:2 「人となって来たイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。それによって神からの霊を知りなさい。」

 そこで、ヨハネは「いや、私はこの耳で人となられた神の肉声を聞き、そのお顔をこの目で見た、じっと見た。そしてこの手でイエス様にさわったよ。」というのです。

 

 ギリシャ哲学と聞くと難しくいかめしい感じがしますが、イエス様の時代に流行していた二つの哲学学派の教えを簡単に説明しましょう。その課題は「どうしたら人間は幸せになれるか?」でした。エピクロス派は考えました。「腹が減ったら飯を食うと幸せになれる。だから「人が幸せになるためには、欲を快楽によって満たすことが必要である。」と。快楽説です。  もう一方のストア派は考えました。「欲は満たしてもまたすぐにかわくものだ。欲に追い回されているから人は幸福になれないのだ。だから、欲を押さえる訓練をすれば、人は幸福になれるはずだ。」禁欲説です。

 いずれにしても、欲を満たすためになにかすべきである。いや欲をおさえるために訓練をする。「何かする」ことによって、人生は幸せになれると思ったのです。「ああすべきである」「こうすべきである」ということばです。ストレスの多い今日の日本にもいろんな道徳的な教えが花盛りです。PHP、モラロジー、成長の家、実践倫理などなどと。

 しかし、ほんとうの苦しみと無力の中にあるとき、人は「前向きになれないから」困っているのですし、「ゆとりをもって考えられない」「自分をほめられない」から困っているのです。あるいは「あれをほしがるべきではない」という道徳のことばはわかっていても、「自分の欲を押さえられない」ので救われないのです。単なる道徳とか観念とか「ことば」では、ほんとうには人は救われないのです。いきいきとした人生を生きられないのです。なぜか。そこには「ことば」はあっても現実的な「いのち」がないからです。

 

 「初めからあったもの、私たちが聞いたもの、目で見たもの、じっと見、また手でさわったもの、すなわちいのちのことばについて、---このいのちが現れ、私たちはそれを見たので、それをあかしし、あなたがたにこの永遠のいのちを伝えます。」

 つまり、ヨハネが伝えようとしているよい知らせ、単なることばではない。真理という観念でもない。道徳でもない。人生哲学でもない。ヨハネが伝えようとしている福音「いのちのことば」とは、今現実に生きて働かれるイエス・キリストというご人格なのです。あなたが何かをすることによって、救われるのではない。あなたが主イエスに信頼して自分をおゆだねするならば、イエスがあなたをお救いになるのです。イエスは、生きておられあなたを愛しておられるからです。

 

3.交わり

 

(1)交わりの回復者

 主イエスが「いのちのことば」と呼ばれるのはなぜでしょうか。「いのち」とはなんでしょうか。聖書によれば、いのちとは神との交わりです。たとえば、主イエスはおっしゃいました。

「わたしはぶどうの木であなたがたは枝です。人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます。わたしを離れては、あなたがたは何もすることができないからです。だれでも、もしわたしにとどまっていなければ、枝のように投げ捨てられて、枯れます。人々はそれを寄せ集めて、火に投げ込むので、それはもえてしまいます。」ヨハネ15:5、6

 私たちは、本来、創造主であるお方のもとにあって、創造主から生きる力をいただいてこそいきいきと生きられるものです。ところが、創造主に背を向け、その御許を離れ、自分勝手に歩んでいる。そこにいのちはありません。死があるだけです。枝がぶどうの木についていなければ、しばらくは青い葉っぱを付けてはいても、決して実を結ばないのと同じことです。

 創造主なる神様を離れた人生は死です。その明らかなしるしの一つは心がむなしいということです。いろんなことを一生懸命にやっても、むなしいのです。それは「自分は何のために生きているのかわからない」ということです。被造物の存在目的は、創造者が決めるものです。たとえば時計の存在目的は、人間が時を告げ知らせることであると決めたからはっきりしています。でもゴミには存在目的ないでしょう。なぜならわざわざ意図してゴミを造る人はいないからです。創造者がいなければ被造物には存在目的はありません。ですから、創造主を見失ったら、人間は自分がなんのために生きているかわからないゴミになってしまうのです。

 神を離れた人生には愛がありません。なぜなら神は愛だからであり、愛は神からでているからです。たしかにクリスチャンになったからといって、簡単に敵をも愛せるようになるかというと、そうでもありません。つくづく自分には愛がないなあという反省をすることがしばしばあります。けれども、もう一度、神様を知る前の自分のことを思い出すと、それこそ愛がないなあなどという反省をすることもなく、自分のことばかり考えていた、人を踏み台にしても自分はよい道に生きたいとかばかり考えていたことを思います。そして、人生そういうものだとあきらめ高を括っていたのでした。たしかに、私の人生は変えられました。どうしてですか。いのちのことばである生けるキリストが、私とともに生きて下さるようになったからです。

 主イエスが「いのち」と呼ばれるのは、主イエスにあってこそ私たちは、この創造主である父なる神との交わりを回復されたからです。私たちは、主イエスにあって、父なる神様との人格的交わりを回復しました。

 

(2)交わり--教会

 主イエスが回復してくださるいのちの交わりとは、どういうものでしょうか。3節。「私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父及び御子イエス・キリストとの交わりです。」

 キリスト教は交わり(コイノニア)の宗教であるといわれます。それは、洞窟のなかで孤独な座禅の修業をするというのではなく、御子イエスと父とそして、御父を仰ぐ兄弟姉妹たちとの交わりのうちに生きることが、キリスト信仰の姿であるからです。神御自身が三位一体の神として、御父と御子とは聖霊にあって完全な愛の交わりのうちにいらっしゃるのです。キリストの福音が宣べ伝えられるならば、そこに教会が形成されていくのです。教会とは単なる人間集団ではありません。教会とは御父および御子との聖霊による愛の交わりなのです。

 私が教会に通い始めてまもないころ、まだ洗礼を受ける前のことでした。私は礼拝が終わるとすぐに家にかえるようにしていたのです。ところが、ある主の日のことです。S君という友人が私を引き止めて言いました。「水草、きょうは青年会に残っていけや。まじわりということも奉仕の一つなんやから。」と。そのとき、初めて私は教会で人々と会話をしたりともに祈ったりするということが、そんなに大切な奉仕なんだと知ったのです。それまで、私は自分で聖書を読み、礼拝に出て説教を聞いて、自分で神様のことを知って生活すれば、それで十分だと思っていました。頭だけ理屈だけの信仰だったわけです。けれども、その日を境にして私は教会の兄弟姉妹とともに語らい、ともに祈り、共に賛美し、ともに重荷を分かち合うということがほんとうに喜びになったのです。

 炭火が一個だけだと消えてしまうけれど、何個か集まるとかっかと燃えるように、私の信仰もかっかと喜びに燃えあがるようになったのです。クリスチャンになってつらつら考えると、私は教会生活のなかでほとんどの神様の恵みをいただいて来たのです。白石君のように戒めてくれる兄弟がいて、私は目が醒めました。多くの兄弟姉妹に祈られて私の信仰は成長しました。愛することを知らない孤独な人間だったのに、愛し愛されること、赦し赦されることを多くの体験によって学びました。

 みなさん。三位一体の神は交わりの神、愛の神です。私たちは、愛なる三位一体の神様の愛を、この苫小牧の交わりのうちに実現していくべく、召されているのです。                                                                              

  ヨハネ福音書13:34、35

「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、そのように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もしあなたがたの間に愛があるなら、それによって、あなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです。」