水草牧師の説教庫

聖書からのメッセージの倉庫です

牢獄にあっても

創世記40

 

2017.4.9 苫小牧夕礼拝

 

1.あわてない。主がともにおられる。

 

 監獄にだまされて入れられてもヨセフはうろたえず、ふてくされず、もがきませんでした。その置かれた場において、ヨセフは主とともに生きました。彼は環境を超越していました。ヨセフはすべての超越者である主とともに生きたからです。

 海でおぼれたことがあるでしょうか。私は小学生3年くらいの夏に、あの『二十四の瞳』で有名な小豆島で家族5人で海辺にキャンプをしたことがあります。実に楽しかった。瀬戸内のおだやかな海辺の砂浜にテントを立てて、飯盒でご飯を炊いて、泳ぎたければいつでも泳ぐことが出来ます。一泊した翌朝四時過ぎ、父母姉はまだおきていませんでしたが、兄と私は泳ごうといって海にはいりました。しばらく泳いでさて立とうとしたら、足が届かないのです。遠浅でなく「近深」の海で、私は溺れそうになって「ブクブク・・・」となりました。兄は「何をふざけとうんや。」と最初笑っていました。水面から胸の出ている兄から私まで、ほんの3メートルしか離れていなかったからです。が、ほんとうに溺れているとわかってびっくりして、テントに走っていきました。「しゅうちゃんが溺れた!」と叫びながら。

 ・・・その時、私はふと冷静になって、すぐそこまで泳げばいいんだと思いました。そして、からだの力を抜いて仰向けになるとからだはぷっかりと浮き上がりました。そして、ばしゃばしゃ泳いで岸まで行ったのです。助かりました。しばらくすると、眠い目をこすりながら父がテントから出てきました。

 あわてふためいてもがくと溺れます。体の力を抜くと浮き上がります。不思議ですね。 

 身の回りにばたばたといろいろなことが起こって、ポティファルの筆頭家令から監獄に落とされたとき、さすがのヨセフもびっくりしたでしょう。けれども、彼は「主が私とともにいてくださる。」と思い出したのです。そうすると、もがくこともなく、そこで平安になれました。そして、この監獄の中でも平安を持って、その監獄という与えられた場での勤めに忠実に励むことが出来たのでした。やがてヨセフは監獄の長に信頼されて仕事をみな任されるようになるのです。

 

2.チャンスを捕える人とは

 

 やがてチャンスが来ました。パロのもとに仕えていた献酌官と調理官という高官が、パロの怒りに触れてヨセフのいる牢獄に入れられたのです。お読みしたように、ヨセフは彼らの夢を解き明かし、次の章ではこのことをきっかけとして、ヨセフは牢獄から引き出されるばかりか、さらにエジプトの宰相として取り立てられることになります。献酌官と調理官が牢屋に入ってきたこの時点では、それほどのチャンスが訪れたとは、誰も気づいた人はいません。が、神様のご計画の中にはちゃんと刷り込み済みだったわけです。

 献酌官と調理官という地位は、私たちにはピンと来ませんが、パロのそば近く仕える人です。江戸時代でいえば将軍のお庭番といったところでしょうか。彼らはパロの怒りに触れたとはいえ、身分ある人ですから、沮喪があってはならないということで、誰か付き人としてつけようということになったわけです。そのとき監獄の長の頭に浮かんだ適任者は、ヨセフその人以外にありませんでした

 どうして監獄の長にヨセフの顔が浮かんだのでしょうか。囚人ならばほかにでもたくさんいたわけですが。それは、ヨセフが監獄にあっても主とともに誠実に生活をしていたからです。ヨセフに任せておけば大丈夫という確信が監獄の長のうちにあったのです。

 監獄生活というのは荒れるものでしょう。一般に素行の悪い人々が集められて暮らすわけですし、生きる目的もわからないで、毎日毎日強制労働の中にあるのですから、ある意味では荒れて当たり前です。特にヨセフの場合、奴隷の身分でありながら主人である高官の妻を強姦しようとしたと訴えられたのですから、当時の基準でいえば、おそらく死刑に準ずる程度の刑を受けていたのです。いつ出られるかわからない監獄です。無期懲役囚というのは、たいへん無気力で荒れるというのが普通だそうです。

 けれども、その自分に科せられた不当な監獄生活と強制労働さえも、ヨセフの目には主がたまわった大切な勤めとして映ったわけです。ですから、いやいやながらではなく、むしろ、喜んで進んで誠実にその任務を果たしたわけで、だからこそ監獄の長にも信頼されることになったのでした。そして、やがて彼は宰相の仕事までも任されることになります。小事に忠実であったヨセフでしたから、神は大事をも彼に任されたのです。

 こうしてヨセフは神様がくださったチャンスを捕えることができたわけです。確かに神様がチャンスをお与えになったのですが、彼がチャンスを捕えることができたのは、冤罪で監獄に入れられたという状況にあっても、自暴自棄にならず、むしろ進んで忠実に小事に仕えていたからでした。摂理の信仰をヨセフはもっていたのです。

 私たちがヨセフの信仰から学ぶことは、摂理者である神に対する信頼ということです。摂理とは、配慮、配剤とも訳される言葉です。神様が、その愛する民のために、もろもろの出来事を通して、最善をなしてくださることを信じる信仰が、摂理の信仰です。

  神の摂理を信じる信仰は、人は謙虚に、そして力強い歩みをさせてくれます。

 ハイデルベルク信仰問答 問答26,27,28

問26 「わたしは、神、父、全能者、天地の造り主を信じます。」というときには、あなたは何を信じているのですか。
答 わたしは次のことを信じているのです。
わたしたちの主イエス・キリストの永遠の父が、その御子のゆえに、わたしの神様であり、わたしの父であるということを。
 神様は、天と地と、その中にあるすべてのものを、何もないところから造られました。そしてこれを、神様の永遠の御心と摂理によって、常に、保ち、支配しておられるのです。
 その神様に、わたしは、よりたのみ、疑うことをしません。
神様が、わたしに、からだと魂に必要な、すべてのものを備えてくださっているということを。
また、このなやみの多い世の中において、神様がわたしにお与えになる、どのような不幸でさえも、最もよいものに変えて下さることを。
 神様は、全能の神様ですから、これをなさることができますし、信頼できるお父さまですから、喜んで、これをしてくださるのです。

 

問27 あなたは、神様の摂理とは、何であると思いますか。
答 神様の、全能で、あらゆるところで今働いている力であると思います。
その力によって、神様は、天と地を、そのすべての被造物といっしょに、
神様ご自身のみ手によってなさるかのように、保たれ、また、支配されるのです。
なぜなら、木の葉も草も、雨も日照りも、
実り豊かな年も、実りのない年も、食べることも飲むことも、
健康も病気も、富も貧しさも、
すべてのものが、偶然にではなく、
神様の父親としてのみ手によって、わたしたちに与えられるのです。

問28 神様の創造と摂理とを知ると、わたしたちにとって何の役に立つのですか。
答 わたしたちが、あらゆる不幸の中でも、忍耐深くなり、
幸福の中では、感謝をして、
未来のことに対しては、わたしたちの信頼できる、お父様である神様に、
全面的に信頼するようになることなのです。
なぜなら、なにものも、私たちを神様の愛から切り離すことはできないからです。それは、すべての被造物が、完全に神様のみ手の内にあり、神様のご意志によらないでは、揺れることも、動くこともできないからなのです。

 

3.待たされる

 

 細かい夢の解き明かしについては今日は詳しく見ません。とにかく、2人の高官はそれぞれに夢を見まして、その夢の解き明かしをヨセフに依頼したのでした。ヨセフは主によって(創世記40:8)、彼らの夢を解き明かしました。そして、その解き明かしのとおり、献酌官長は救われ、調理官長は死刑にされてしまいました。

 ヨセフは、この献酌官長が釈放されてパロのもとに行くことを知っていましたから、彼に自分の無実の罪を訴えて監獄から解放されることを願っていました。14,15節。

 ところが、献酌官長はヨセフのことを忘れてしまいます。23節。

 

 ヨセフは、ここで神様からもう一つの訓練を受けることになったのです。それは待たされるという訓練、忍耐の訓練です。主の時を待たされるという訓練です。チャンスが到来し、それをしっかりとつかんだからこそ、待つことはヨセフにとってたいへんつらかったのではないかと推測します。けれども、主はヨセフを待たせたのです。ヨセフが、自分の才覚や努力で出獄のことが進んだと思わせないためかもしれません。それより、なにより、神様のご計画では、単にヨセフを監獄から出すだけでなく、かれをエジプトの宰相とするという壮大なプランがあったからです。

 神様の思いは、しばしば私たちの思いはかりをはるかに超えて高くかつ素晴らしいのです。素晴らしすぎて私たちの想像を越えているのです。

 

「わたしの思いは、あなたがたの思いと異なり、

わたしの道は、あなたがたの道と異なるからだ。

――主のみつげ――

天が地よりも高いように、

わたしの道は、あなたがたの道よりも高く、

わたしの思いは、あなたがたの思いよりも高い。」(イザヤ55:8,9)

 

 ですから、私たちは主の時を待つことをわきまえなければなりません。神の時をわきまえず、自分で計画し、自分で走り出すならば、神様の摂理の糸を絡ませることになるでしょう。糸がこんがらがってしまった時、あっちを引っ張りこっちを引っ張りすれば、かえって絡まってほんとうに解けなくなってしまいます。ちょっと手を休めましょう。そして、主の前に静まって、心を落ち着けて待つことです。

 時というのはたいせつなものです。何もしていない無駄とさえ思われる時が実はたいせつな場合があるのです。たとえばお漬物がそうですね。たとえば甘酒もそうですね。

 

結び

 私たちの神は摂理の神です。私たちの知恵をはるかに超えたご配慮をしてくださる神です。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画にしたがって召された人々のためには、神はすべてのことを働かせて益としてくださる」そういう神様です。

 ならば、今の苦難も偶然ではなく、神の御手から出ていることです。そして、神を愛し神を待ち望む者に、神はすべてのことを働かせて益としたまうのです。

十字架のイエス

Lk23:33-43

2017年 苫小牧受難週主日

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 1.十字架上の上で

 

 ローマ総督ピラトの法廷での裁判を終えて、主イエスは石畳のだらだらと上っていく道を一歩一歩踏みしめてついに処刑場ゴルゴタへと向かいました。途中、すでにひどく鞭打たれ憔悴していたので、途中からはひとりの巡礼者に十字架を負ってもらい、その前を主イエスは歩いて行かれました。沿道には泣いている女たち、嘲る人々の怒号がうずまいています。こうして、主イエスはエルサレム城外の処刑場である丘に到着しました。時は午前九時。処刑場は「ゴルゴタ」と呼ばれました。その意味は髑髏です。

 今日、ここがゴルゴタの丘だったと言われる場所は二か所あって、一つは4世紀にコンスタンティヌス大帝が建てた聖墳墓教会のある場所です。もう一つは19世紀半ばにゴルドン将軍が提唱した場所で、ゴルドンのカルヴァリーと呼ばれるものです。ゴルドン将軍は、この丘をある方角からみて、白い石灰岩に洞窟が黒々とあいているありさまが、どくろに見えたからでした。私としてはこちらのほうが信憑性が高いように思っています。

 ゴルゴタに到着すると、ローマ兵はイエス様を十字架の荒木の上に押し倒し、一人の兵士が腕をぐいっと引っ張ります。すると、もう一人の兵士がその腕に、長さ十センチはあろうかという釘を打ち込みました。よく聖画では釘は手のひらに打たれたように描かれていますが、近年、十字架刑になった囚人の遺骨が発掘されて、釘は手のひらではなく、前腕の二本の骨(橈骨と尺骨)の間に打ち込まれたのだということがわかりました。手のひらでは体重によって肉が裂けてしまうからでしょう。そして、もう一本の釘は足のかかとの骨を貫きました。いったいどれほどの激痛を主は、忍ばれたのでしょうか。

 そして、三本の十字架が兵士たちによって立てられました。

 「「どくろ」と呼ばれている所に来ると、そこで彼らは、イエスと犯罪人とを十字架につけた。犯罪人のひとりは右に、ひとりは左に。」23:33

 このようにして、紀元前8世紀に書かれたイザヤ書53章の「メシヤの墓は悪者どもとともに設けられる」という預言が成就したのでした。

 ところが、十字架上の神の御子はそのとき、天を仰いで次のように祈られたのです。今、まさに自分のことを憎み、あざけり、殴りつけ、つばをはきかけ、挙句の果て、服を剥ぎ取って、釘をもって十字架に打ち付けて苦しめる人々のために祈られたのです。

 

「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」23:34

 

 ・・・いったい、人間は、このような祈りをすることができるのでしょうか。主イエスはかつて弟子たちにこのように、教えてくださいました。

「あなたの敵を愛しなさい。あなたを憎む者に善を行いなさい。あなたをのろう者を祝福しなさい。あなたを侮辱する者のために祈りなさい。あなたの片方の頬を打つ者には、ほかの頬をも向けなさい。上着を奪い取る者には、下着も拒んではいけません。すべて求める者には与えなさい。奪い取る者からは取り戻してはいけません。・・・ただ、自分の敵を愛しなさい。彼らによくしてやり、返してもらうことを考えずに貸しなさい。そうすれば、あなたがたの受ける報いはすばらしく、あなたがたは、いと高き方の子どもになれます。なぜなら、いと高き方は、恩知らずの悪人にも、あわれみ深いからです。あなたがたの天の父があわれみ深いように、あなたがたも、あわれみ深くしなさい。」(ルカ6:27-36抜粋)

 主イエスは、このように教えただけでなく、そのご生涯をかけてそのまま実行なさったことを私たちは福音書を読むと知ることができます。最後に、イエスさまは、ご自分を憎み、のろい、十字架にくぎ付けにして苦しめる人々のために祝福を祈られました。ご自分をつばを吐きかけて侮辱する人々のために神の赦しを求めて祈りました。こぶしで殴りつける者には反対のほほを向けました。ローマ兵はイエス様の衣を、そして下着までも剥ぎ取られました。なんという屈辱でしょうか。その上、彼らはふざけてイエスの着物をくじ引きにして引き裂いて分け合いました。しかし、イエス様は、彼らを愛されたのです。イエス様は、激痛のなかで力を振り絞ってこの人々の赦しを願って祈られたのでした。

「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」

 

 2.主の十字架の下の人々

 

(1)父よ。彼らを・・・

 主イエスの十字架の人々とは、どのような人々だったのでしょう。民衆、指導者、兵士たちの言動が記されています。また、福音書の並行記事を読むと、その中には主イエスの弟子たちも紛れ込んでいました。

 民衆はそばに立ってながめていた。指導者たちもあざ笑って言った。「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」

 兵士たちもイエスをあざけり、そばに寄って来て、酸いぶどう酒を差し出し、「ユダヤ人の王なら、自分を救え」と言った。「これはユダヤ人の王」と書いた札もイエスの頭上に掲げてあった。」23:35-38

祭司長・学者といった民の指導者たちは、「もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」と言いました。彼らは、民衆の自分たちに対する尊敬がイエスに移っていくことについて、激しい妬みを抱きました。そして、共謀して、イエスを死刑にすることを画策した人々でした。主はそういう彼らのために「父よ。彼らをおゆるしください。彼らは自分でなにをしているのかわからないのです」と祈りました。

また、そこには多くの群衆がいました。群衆の中には、つい数日前には、ロバに乗ってエルサレムに入城する主イエスを「ホサナ!ホサナ!」と歓声を上げて、歓迎した人々も含まれていたことでしょう。彼らは、祭司長や学者たちにあおられれば、今度は無責任にも「イエスを十字架に付けろ」「十字架につけろ」と叫んだのです。群集心理というのでしょうか。恐ろしいことです。そういう、心定まらない無責任で残酷な群衆のためにも、主イエスは祈られたのです。「父よ。彼らをおゆるしください。彼らは自分で何をしているのかわらないのです。」

ローマ兵たちがいました。彼らは異邦人です。ユダヤの救い主なんぞに関心もありません。自分には無関係だと思っています。ただ、ユダヤ人の王だと名乗ったイエスが、手もなく逮捕されて、むざむざ十字架に磔にされてしまうのを見て、情けない野郎だと軽蔑していたのです。ローマの兵士たちは、「ユダヤ人の王なら自分を救え」といいました。そして、遊び半分にくじをひいてイエスの下着を分けたとあります。イエスの言葉にも、苦しみにも無関心なローマの兵隊たちのためにも、主イエスは祈られました。「父よ。彼らをおゆるしください。」

そして、群衆の中には3年間主イエスと寝食をともにしてきた弟子たちも紛れ込んでいました。彼らは昨夜は「イエスのためならば、ご一緒にいのちも捨てます」と数時間前に口にしたのですが、いざ敵が迫るとイエスを捨てて逃げてしまったのでした。イエス様に従いたい、従うぞと決心しても、サタンに足をすくわれて、主を裏切ってしまう私たち。私たちのために主は「父よ。彼らをおゆるしください。」と祈られたのです。

イエスを憎む指導者たち、その時その時にフラフラ心定まらない群衆、まるで無関心なローマ兵、そしてイエスに従って生きたいと願いながら従うことのできない弱い弟子たち。主イエスは「父よ。彼らをおゆるしください。彼らは自分で何をしているのか、わからないのです。」と祈ってくださいました。

 

(2)自分を救って見ろ

指導者たちも、民衆も、ローマ兵も、十字架の下の人々のことばを見ていますと、それらは「自分を救ってみろ」ということばに集約されます。まるで判を押したように同じようなことばです。彼らの考えでは、「人を救う救い主、王、メシヤという者は、自分を救う力がなければならない」ということでした。さらに、イエス様の隣にいた十字架上の一人の犯罪人までも同じ事を言っています。「あなたはキリストではないか。自分と私たちを救え」。この叫びは、人間が求めがちな「救い」がなんであるかということを示しています。彼らの求めていたのは、要するに「力」です。剣の力、富の力、政治の力。

しかし、剣の力によっても、お金の力によっても、政治の力によっても、知識の力、現代では科学の力でしょうか、そういうものによって、人は神の聖なる怒りから救われることはできません。政治も剣の力も知力も財力も科学の力それぞれ、無意味なものではありません。それぞれに意味あるものです。けれども、これらの「力」によって罪人に対する神の聖なる怒りから救うことはできません。神の怒りから救われなければ、永遠の滅びるのです。

 

3.二人の犯罪人

 

 ここに十字架に付けられた二人の犯罪人がいます。彼らは今その悪業の報いを受けて、処刑されています。神様はしかし、この二人に最後のチャンスを与えてくださいました。一人はそのチャンスを生かしてパラダイスにはいり、もう一人はそのチャンスをむだにして、永遠の滅びのなかに陥りました。十字架にかかられたイエス様に対する態度が、人の永遠の運命を決定するのです。

 最後の最後に救われて天国に入った犯罪人は、何か善いことをしたのでしょうか?彼は十字架で苦しむイエス様に対して水一杯差し上げることすらできませんでした。それどころか、他の福音書の平行記事によれば、彼も十字架にかけられながら、つい先ほどまでは他の人たちといっしょになって、イエスを罵っていたのです。「お前が救い主なら、自分を救い、俺たちを救え」と。けれども、彼の心は隣にいるイエス様の祈りを聞いたときに変えられました。『このお方は罪を犯してはいらっしゃらない。このお方は、尊い神の御子でいらっしゃる。』と。そうして、彼がしたことはたった二つのことでした。そのとき、彼はイエス様によってパラダイスに入れていただけたのです。その二つのこととはなにか。神に対する悔い改めと、主イエスに対する信仰です。

第一に自分の罪を認めて悔い改めたことです。

「われわれは、自分のしたことの報いを受けているのだからあたりまえだ。だがこの方は、悪いことは何もしなかったのだ。」(23:41) 自分は罪を犯した、罪の報いを受けるのはあたりまえです。このように神様の前で自分の罪を認めることが救いのためにまず必要です。なぜなら、神様がイエス様をとおして与えてくださる救いとは、罪の赦しであり、罪からの救いであるからです。自分の罪を認めない人に罪の赦しを受け取ることはできません。

第二に、この犯罪人が救いのためにしたことは、イエス様を神の御子救い主として信じて、それを告白したことです。彼はいいました。「イエスさま。あなたの御国の位にお着きになるときには、私を思い出してください。」(23:42)彼はイエス様が天国の御座におすわりになる神の御子であると信じて思い出してくださいとイエス様に頼って信頼したのです。人は心に信じて義と認められ、口で告白して救われるのです。そのとき、イエス様はおっしゃいました。

「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます。」(23:43)

 ほんとうに、すべりこみセーフでした。

 

結び

 「父よ。彼らを赦してください。彼らは何をしているのか、自分でわからないのです。」敵のためにこのように祈られたイエス様は、まことの愛の神の御子です。このお方に、自分が犯してきたすべての罪を告白しましょう。そして、イエス様、この罪深い私のことも憶えていてくださいと祈りましょう。主イエスは、必ずあなたの地上の生涯の尽きるとき、あなたをも迎えに来ておっしゃいます。

「きょう、あなたはわたしとともにパラダイスにいます。」

主がともにおられたので

創世記39章

ヨセフの生涯2

 

1.主がともにおられてヨセフを成功させた

 

 17歳の少年ヨセフは兄たちに奴隷として売り飛ばされて、縄でつながれてエジプトに連れていかれました。ヨセフはどれほど心細かったでしょうか。どんなに悲しかったでしょうか。年季奉公ではないのです。もう一生涯、言葉も知らず知った人もいないところで、奴隷として暮らしていかねばならないのです。こうして、エジプトに到着するとヨセフはエジプトの王パロの廷臣ポティファルに売られて、その家の奴隷として仕えることになったのです。

 多くの人は、こういう悲惨な状況に置かれると、「神様はどこに行ってしまったのだろうか。主は私を見放されたのだろうか。そうでなければ、こんなにひどいことにはならないはずだ。」などとつぶやきます。ところが、2節にはこうあります。「主がヨセフとともにおられたので、彼は幸運な人となり、そのエジプト人の主人の家にいた。」誰も知った人がいない、天涯孤独と思ったヨセフでしたが、「主がともにおられた」のです。ヨセフは幼い頃からまことの主なる神様のことは教わってきたでしょう。その教わってきた主なる神様にヨセフは祈らないではいられなくなり、主との交わりが、ほかに誰にも頼ることが出来ない異郷での奴隷という境遇に置かれることによって深まっていったことは容易に想像できますね。朝に昼に夕にヨセフは主と交わり、主にお話し、主とともに歩んだのです。

 

 主はヨセフとともにおられて、ヨセフに主人の家の仕事において、やることなすことみなうまくいくようにしてくださいました。3節。「彼の主人は、主が彼とともにおられ、主が彼のすることすべてを成功させてくださるのを見た。」

 真の神を知らぬ主人ポティファルが、どうしてヨセフとともに主なる神がいますことを知るようになったのでしょう。普通、部下の仕事がうまく行くのを見れば、上司は「これはよく仕事が出来る、能力のある男だ。」と評価はするでしょうが、「主なる神がこの男といっしょにいる。」などとは思わないでしょう。ポティファルがそのように判断したというのは、あきらかにヨセフがポティファルに対して真の神様のことを証言していたからにちがいありません。「お前はほんとうによくできるなあ。」とポティファルにほめられると、「いいえ、ご主人様。これは私とともにいます主なる神が、私に成功させてくださったのです。私は単なる主なる神の道具にすぎません。」というような答えをしていたに違いありません。(参照41:16)

 そうした結果、ポティファルはヨセフに妻以外の全財産を任せることにしたのです。彼は奴隷という身分ではありましたが、この家の筆頭の管理者となったのです。その結果、さらにポティファルの家は富み栄えたのです。ヨセフにとっても、まずはわが世の春という感じでした。あにたちによって奴隷として売り飛ばされてエジプトにやってきた頃のことを考えると、夢のようです。5節、6節。

 

2.誘惑

 

 こうして数年が経ちました。ヨセフはやることなすことみな成功し、ポティファルも上機嫌でした。ヨセフの評判も上々。

 しかし、サタンの誘惑がここに起こってくるのです。ヨセフが体格もよく美男子であったということが災いの一因となったようです。おそらくポティファルの妻は、年がだいぶ上のポティファルに飽き飽きしていたのでしょう。そこに頭もよく顔もよく体格もいい青年ヨセフが入ってきて、始終家の中にいるので、心引かれたのでしょう。彼女はヨセフを誘惑したのです。7節。

 もし家のマスターキーを委ねられて、ヨセフに少しでも増長したところがあったならば、ポティファルの妻の誘惑にもやすやすと乗ってしまったのではないかと思います。一回目は退けることができたとしても、彼女は何度も何度も執拗にヨセフに迫ってくるのです。10節。けれども、ヨセフは誘惑を撥ね付けることができました。それは、8,9節にあることばからわかります。

「しかし、彼は拒んで主人の妻にいった。ご覧ください。私の主人は、家の中では私より大きな権威をふるおうとはされず、あなた以外には、何も私に差し止めてはおられません。あなたがご主人の奥様だからです。どうしてそのような大きな悪事をして、私は神に罪を犯すことが出来ましょうか。」

 ヨセフは、主人ポティファルに対して恩義を感じていました。奴隷として売られてきたのに、ここまで自分を信頼して取り上げてくださった主人をどうして裏切ることができましょうということでした。けれども、それだけでヨセフはこの執拗な誘惑に勝利することはできなかったでしょう。ヨセフは、「私は神に罪を犯すことができましょうか。」と言いました。主がともにおられるという意識、臨在の意識がヨセフの断固たる姿勢の根本にあります。それがこのサタンの誘惑に勝つことが出来た理由でした。

 

 神様の信者に対するお取り扱いのプロセスという観点から考えると、ポティファルの妻の誘惑は、ヨセフの信仰の生涯のなかで、前の段階よりも1ステップアップしたなあという感じがします。前の段階では、神様はヨセフとともにおられてヨセフに次々と成功をさせてくださいました。ところが今や、ヨセフは主に対して罪を犯さないために、大きな犠牲をはらうというステップに至っているわけです。主がともにおられることによって、成功するという段階から、ともにおられる主のために犠牲をはらうという段階への前進です。

 信仰の初歩とは、私たちは自分の幸せのために主を信じるという段階です。自分が幸せになりたいから、主を信じて幸せにしていただく。成功したいから、主を信じる。確かに、聖書にもそういう人々がたくさん出てきて、それぞれに神様からの祝福にあずかっているのを見ます。病をかかえて主イエスのもとに来て癒しをいただいた人々がたくさんいます。悲しみのどん底で主イエスを知って、希望をいただいた人々がいます。孤独の中で主イエスを知って、主がともにおられることをしって平安を得た人々もいます。それはそれで、感謝すべきことであってよいことです。私たちは決して強い者ではありませんから、一生涯、信仰において主に求めるという面をもちつづけるでしょう。それはそれでよいことです。おさなごのように単純に主に必要を訴えて、お答えをいただくということは信仰生活のたいせつな一面です。

  しかし、同時に父なる神様は私たちをやがて信仰の次のステップに進ませようとなさいます。それは、主のために失う経験をすることです。私たちは主イエスを信じていることのゆえに、犠牲を払うことを迫られることがあります。ヨセフは誘惑を退けましたが、その結果、必然的にポティファルの妻の恨みを買い、主人の怒りを受けて牢屋に落とされることになりました。彼女は自分の色香に迷わないヨセフに、女性として侮辱されたと感じたのです。まあ身勝手な女ですが、それが彼女にプライドに触れたわけです。

 それでもヨセフは甘んじて獄に下りました。奴隷からせっかくパロの廷臣の家の家令職にまで上ってきたのに、今や奴隷よりももっと卑しい囚人へと転落することになりました。せっかく苦労をして得た社会的地位や名声なのに、ヨセフはそれをすべて失ったのです。それは主のためです。

 他の言い方もできます。主がヨセフとともにおられたので、ヨセフは成功したのです。けれども、肝心なことは「成功した」ことではなくて、「主がともにおられた」ということだったのです。ヨセフは主がくださった「成功」と、主ご自身と、どちらを望むかというテストを受けたのでした。そして、ヨセフは主とともに歩むことを選んだのです。「成功する」か「失敗するか」ということはヨセフにとって小さなことにすぎませんでした。表面的なことにすぎません。主がともにおられるということが大切なことだったのです。

 あなたは、主のために失ったことがありますか。

 

3.監獄で

 

 ヨセフはポティファルの怒りを買って、濡れ衣ながら監獄におとされることになってしまいました。パロの廷臣の屋敷から監獄へとヨセフの置かれた環境は激変しました。光から暗闇へという感じです。けれども、なにも変わらなかったことがあります。21節から23節。「主が彼とともにおられた」という事実です。

 「彼は監獄にいた。しかし、主はヨセフとともにおられ、彼に恵みを施し、監獄の長の心にかなうようにされた。それで監獄の長は、その監獄にいるすべての囚人をヨセフの手に委ねた。ヨセフはそこでなされるすべてのことを管理するようになった。監獄の長は、ヨセフの手に任せたことについては何も干渉しなかった。それは主が彼とともにおられ、彼が何をしても、主がそれを成功させてくださったからである。」

 ポティファルの妻のような悪女が堂々とのさばっており、正義の人であるヨセフが牢獄につながれるという状況を見て、「人は神はおられるのか?神がいらっしゃるとすれば、どうして何もなされないのか?」と多くの人はいうかもしれません。けれども、主はそこにおられた、ヨセフとともにおられたのです。

 

 またヨセフには、もう一つの危機がありました。それは恨みの獄舎につながれてしまう危険がありました。あのモンテクリス伯爵ことエドモン・ダンテスのように。自分を陥れたポティファル妻を恨み、また、もっとさかのぼれば自分を奴隷に売り飛ばした兄たちを恨み、復讐を誓うというのがただの人間の心理でしょう。多くの人は、こうした恨みの獄舎にとらわれて暮らしているものです。恨みの獄舎長はサタンです。サタンは、怒りを恨みに、恨みを殺意に変えます。

 けれども、ヨセフはそうしたサタンの罠に陥りませんでした。主がヨセフとともにおられたからです。ヨセフにとっては、自分が奴隷であろうと、家令職にあろうと、はたまた囚人であろうと、社会的な立場の違いはさほど大きな問題ではなかったように見えます。ヨセフにとって最大のことは、主がともにいてくださるかどうかということだったのです。そして、主がともにいてくださるのだから、どんな立場にあっても、彼のうちには変わることのない平安と喜びがあったのでした。

 

 むすび

 私たちもいろいろな状況に置かれることがあるでしょう。特に、人の悪意によって富や名声や地位を失って苦境に陥れられたというようなことでもあれば、その悔しさや怒りや悲しみを除くことは、容易なことではないのでしょう。しかし、注意しなければなりません。恨みを抱きつづけるならば、サタンの思う壺です。うらみつづける人はサタンの奴隷とされてしまいます。

 私たちの人生にはクリスチャンになったとはいえ、穏やかな春の野を行くような日々もありましょうが、吹雪や闇夜もあるでしょう。しかし、クリスチャンの人生はどんなときにも主がともに歩んでくださる人生です。一足、一足、御国に向かって進んで行きましょう。聖歌588

「主とともに歩むその楽しさよ 主のふみたまいし御跡をたどる 一足一足主にすがりてたえず絶えずわれは進まん

花咲く野原も血にそむ谷も導かるるまま 

主とともに行かん」

平和の王

マルコ11:1-11

 

2017年4月2日 苫小牧

11:1 さて、彼らがエルサレムの近くに来て、オリーブ山のふもとのベテパゲとベタニヤに近づいたとき、イエスはふたりの弟子を使いに出して、

 11:2 言われた。「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない、ろばの子が、つないであるのに気がつくでしょう。それをほどいて、引いて来なさい。

 11:3 もし、『なぜそんなことをするのか』と言う人があったら、『主がお入用なのです。すぐに、またここに送り返されます』と言いなさい。」

 11:4 そこで、出かけて見ると、表通りにある家の戸口に、ろばの子が一匹つないであったので、それをほどいた。

 11:5 すると、そこに立っていた何人かが言った。「ろばの子をほどいたりして、どうするのですか。」

 11:6 弟子たちが、イエスの言われたとおりを話すと、彼らは許してくれた。

 11:7 そこで、ろばの子をイエスのところへ引いて行って、自分たちの上着をその上に掛けた。イエスはそれに乗られた。

 11:8 すると、多くの人が、自分たちの上着を道に敷き、またほかの人々は、木の葉を枝ごと野原から切って来て、道に敷いた。

 11:9 そして、前を行く者も、あとに従う者も、叫んでいた。

   「ホサナ。

   祝福あれ。主の御名によって来られる方に。

 11:10 祝福あれ。いま来た、われらの父ダビデの国に。

   ホサナ。いと高き所に。」

 

 

ユダヤ三大祭りの一つである過越しの祭りの週になりました。当時、祭りの時期になると、いつもはエルサレムの人口は45000人ほどなのが、15万人から20万人に膨らんだそうです。彼らは城壁の外にキャンプして祭りに参加したのでした。そういうにぎやかな雰囲気のなかで、イエス様の一行は、いよいよエルサレムに近づきました。イエス様はエルサレムの東にある小高いオリーブ山の麓に来ました。ここには、ベタニヤとベテパゲという村があり、ベタニヤには、イエス様と親しくしていたマルタ、マリヤ、ラザロたちの家があります。イエス様は、これまでエルサレムに向けてずんずん歩いて来られましたが、立ち止まると、弟子たちを振り向いて不思議なことをおっしゃいました。

11:2「向こうの村へ行きなさい。村に入るとすぐ、まだだれも乗ったことのない、ろばの子が、つないであるのに気がつくでしょう。それをほどいて、引いて来なさい。

 11:3 もし、『なぜそんなことをするのか』と言う人があったら、『主がお入用なのです。すぐに、またここに送り返されます』と言いなさい。」

 

ご自分がエルサレムに入城なさるにあたって、乗り物を用意しなさいとおっしゃったのです。ここまで歩いて来られたのですから、そのままスタスタ歩いてエルサレムに入って行かれたらよさそうなものですが、あえてロバに、しかも、小さなロバの子の背に乗って入城なさろうとおっしゃるのでした。

そして、その調達の仕方も面白いですね。弟子たちが、その村に入っていくとロバの子が繋がれているから、それをほどいて連れてきなさいとおっしゃるのです。ロバ泥棒と間違えられそうになったら、「主が御入用なのです。あとで返しますよ」と言っておけば大丈夫だよ、と主はおっしゃるのです。

いったいどういう意味でしょうか。

 

1 預言の成就のために

 

まず、驢馬の子を連れてきなさいとおっしゃったことには、特別の意味がありました。それは、預言を成就するためでした。旧約聖書には数々のメシヤ預言があって、イエス様はそのメシヤとしてその一つ一つを成就して行かれたのでした。紀元前8世紀、ミカという預言者は、メシヤはベツレヘムというダビデの町に生まれると神からのことばを受けて預言しました。クリスマスにはよく読まれるみことばです。

5:2 ベツレヘム・エフラテよ。

   あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、

   あなたのうちから、わたしのために、

   イスラエルの支配者になる者が出る。

   その出ることは、昔から、

   永遠の昔からの定めである。

 

また同じく紀元前8世紀のイザヤという預言者は、「見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名をインマヌエルと呼ばれる」と語り告げました。そして、その子は長じると、メシヤはすばらしい知恵に満ちたダビデのような王、いやダビデに勝る王として来られるのだとも預言しました。

9:6 ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。

   ひとりの男の子が、私たちに与えられる。

   主権はその肩にあり、

   その名は「不思議な助言者、力ある神、

   永遠の父、平和の君」と呼ばれる。

 9:7 その主権は増し加わり、その平和は限りなく、

   ダビデの王座に着いて、その王国を治め、

   さばきと正義によってこれを堅く立て、

   これをささえる。今より、とこしえまで。

   万軍の【主】の熱心がこれを成し遂げる。

 

そのような預言者の一人にゼカリヤという人がおりました。彼は紀元前五百数十年の南ユダ王国の預言者でした。ゼカリヤ書9章9節に次のようなくだりがあります。

ゼカリヤ

 9:9 シオンの娘よ。大いに喜べ。

   エルサレムの娘よ。喜び叫べ。

   見よ。あなたの王があなたのところに来られる。

   この方は正しい方で、救いを賜り、

   柔和で、ろばに乗られる。

   それも、雌ろばの子の子ろばに。

 

 神が救い主を遣わす、その千数百年も前から、予告がされました。それは、実際に、その救い主が来たときには、この方がメシヤだとわかるためでした。イエス様にあって、メシヤ預言はことごとく成就したのです。

 

2.ロバ

 

 イエス様は、乗り物について詳しく指定なさいました。「誰も乗ったことのない子どものロバ」と。それはロバであること、しかも誰も乗ったことのない子ロバであることです。

 馬でなくロバでなければならないのは、古代イスラエルにおいては馬は戦争のときの兵器であり、ロバは平時の乗り物であったからです。馬が兵器であることは、競馬の様子などを見てもわかるようにその性質が非常に猛々しいものであるからです。競争心が激しく、槍や剣がひらめいていても、戦士たちの雄叫びがとどろいていても、火が燃えていても飛び込んで行くのが馬の猛々しい性質です。牡馬は去勢しなければ、乗用には危険です。「あれ~槍や刀や鉄砲でけがしそうだから、遠慮しまーす。」という性質では戦争には用いようがありません。というわけで、馬は戦争のシンボルとして聖書の中では用いられているのです。というわけで、もしイエス様が馬に乗って入城されたら、それは現代のイメージでいえば、どこかの国の首相や主席や大統領のように戦車や戦闘機に乗って、勇ましげに見せるパフォーマンスを披露するようなことになってしまいます。

 これに対して、ロバは平時の乗り物です。小さくて、足は遅いけれども、馬よりも荷物を載せられるそうで、利口なのがロバです。そして、馬に比べて性格が穏やかです。ロバは見かけは馬に似ていますが、その心はむしろ人懐こい犬に似ています。というわけで、ロバは平和の象徴なのです。預言者ゼカリヤは、「この方は正しい方で、救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる。」と言います。イエス様は戦争をもたらすために来たではなく、平和をもたらすために来られた柔和な王でしたから、ロバこそイエス様がエルサレムに入城する乗り物としてふさわしかったのです。

 

3.まだだれも乗ったことのない子ろば

 

 しかも、そのロバは「まだだれも乗ったことのない子どものロバでなければならない」と注文を付けられたのでした。旧約聖書民数記19章2節には「主が命じて仰せられた教えの定めはこうである。イスラエル人にいい、傷がなく、まだくびきの置かれたことのない完全な赤い雌牛をあなたのところに引いてこさせよ。」とあります。それは、つまり神様のための儀式専用のものであって、新品のものであるということを意味しています。神様の直接の御用には、人間が使い古したものはだめだよという意味です。

 主イエスがエルサレムに入城なさるのは、特別の聖なる意味があったので、その御用にもちいられるのは、中古品、used品、あまりものではだめで、新品でなければならない、専用でなければならないという意味です。ロバが携わるこの務めは、神の御子キリストへの奉献物としてのご奉仕なのです。

 今、祈り会でレビ記を学んでいます。主題は礼拝ということです。そこには、献身をあらわす全焼のいけにえ、罪の償いをあらわす罪のためのいけにえ、労働の感謝をあらわす穀物のささげもの、そして神様との交わりを表す和解のいけにえというのが出てきます。これらのいけにえには、今申し上げたようにそれぞれ異なる意味があるわけですが、全体に共通していることは、「傷のある物はささげものにしてはならない」ということです。牛のような高価なものをささげる経済力がなければ、羊を、それでも無理なら鳩をささげればよいとされていたのですが、牛でも羊でも鳩でも、傷がないものであることが肝要でした。お金持ちならお金持ちなりに、貧しいなら貧しいなりに、神様に聖別した最高最善をささげることが求められたのです。

イエス様の御用のためにもちいられたロバの子が「まだ誰も乗ったことのない子ロバ」であったということは、この神様へのささげもののスピリットに通じるものがあります。私たちの主へのささげものは、献金であったり、会堂清掃をはじめ、さまざまな奉仕です。それぞれ賜物は違いますから、人と比べる必要はありません。しかし、神様の前で、残り物や傷物をささげてはなりません。聖別されたものだけが、神様にはふさわしいのです。それは、神様は、私たちの愛を求めていらっしゃるからです。

 

4 イエス様の主権

 

主イエスの注文を聞いて、ふたりの弟子は村に入って行きました。村に入るとすぐに一匹の子ろばがつながれてあるのを見つけました。「このロバだねえ。イエス様のおっしゃったのは」「そうらしいね」と、弟子たちは、恐る恐るロバをつないであるひもをほどきます。そうしたら、案の定、見とがめられてしまいます。「こらこら、ろばの子をほどいたりして、どうするんだい。ドロボーかい。」そこにおっさんたちが立っていたのですから、当たり前です。

そこで、弟子たちは「主が御入用なのです」と答えました。

すると、おっさんたちは、「ああそうかい。主が御入用ならば、どうぞどうぞ」と許してくれました。弟子たちは顔を見合わせて、喜んでロバをイエス様の所に連れてきたのです。

この出来事は、何を意味しているのでしょう。イエス様があらかじめ電話をかけるか、メールを出して、おっさんたちにロバを用意しておいてくれと話をつけていた、そんな雰囲気です。もちろん電話もメールもあるわけがないのですが、イエス様はすべてをご存じでちゃんと予定しておられたのです。

預言を成就するために、すべてのことの手筈を、摂理をもって用意していらしたのでした。今更当たり前ですが、イエス様は只者ではありません。

11:4 そこで、出かけて見ると、表通りにある家の戸口に、ろばの子が一匹つないであったので、それをほどいた。

 11:5 すると、そこに立っていた何人かが言った。「ろばの子をほどいたりして、どうするのですか。」

 11:6 弟子たちが、イエスの言われたとおりを話すと、彼らは許してくれた。

 

 

6.ホシャーナー

 

 こうしてイエス様は子ロバの背に乗りました。乗ろうとすると、弟子のひとりがロバの背に上着をかけました。これは当時、王様に対して敬意をあらわすことでした。同じように、ロバが進んで行く道に人々は上着を敷き、木の枝を切って来て敷きました。弟子たちも、イエス様を迎えた人たちも、心浮き立っていました。待ちに待ったメシヤがついに来た!!という喜びでした。

11:7 そこで、ろばの子をイエスのところへ引いて行って、自分たちの上着をその上に掛けた。イエスはそれに乗られた。

 11:8 すると、多くの人が、自分たちの上着を道に敷き、またほかの人々は、木の葉を枝ごと野原から切って来て、道に敷いた。

 11:9 そして、前を行く者も、あとに従う者も、叫んでいた。

   「ホサナ。

   祝福あれ。主の御名によって来られる方に。

 11:10 祝福あれ。いま来た、われらの父ダビデの国に。

   ホサナ。いと高き所に。」

 

 群衆が主イエスを乗せた子ロバが進んでいく道にあふれています。彼らはホサナ、ホシャーナー「救い給え」と叫びます。しかし、彼ら群衆は、いったい自分たちがイエス様に何を求めているのかわかっていなかったのです。彼らは、ローマ帝国の圧政から救ってくださいとか、堅苦しい律法主神政政治から救ってくださいとか、そういうたぐいのことを願いながら、王であるイエス様にむかってホシャーナーと大声で叫んでいたのでしょう。貧困から救ってください。あの悪い人から救ってください。病気から救ってください。どの時代も、そういう思いでほとんどの人は、主に向かってホシャーナーと叫びます。

 しかし、ロバの子の背中に揺られながら進んで行かれるイエス様は、柔和であくまでも静かにしていらっしゃいました。ホシャーナー「救いたまえ」という叫びは、イエス様の耳には、どのように聞こえたのでしょうか?それは、「イエス様、どうか、私たちのために十字架で呪われ死んでください。そして、私たちを罪と神の御怒りから救い出してください」という意味でした。この道は、ゴルゴタの丘に続いていることを覚悟しながら、主イエスは進んで行かれたのでありました。

 今朝は聖餐式です。私たちは、「ホサナ。私たちを罪と神の聖なる怒りから救ってくださって感謝します。」という思いをもって、ゴルゴタの十字架に向かって行かれた、主イエスのご愛に感謝しつつこれに与かりましょう。

 

愛をもって真理を

創世記37

2017.3.26

 

 本日からヨセフの生涯を通じてあらわされた神様の御心を学んでまいります。

 

1.ヨセフ---反面教師:真理を語るなら愛をもって

1-4節 ヨセフと兄たちの悪い関係

 

 ヨセフという人物は、ヤコブの十二人の息子たちのうち11番目にあたり、母はヤコブの最愛の妻ラケルラケルから生まれた子どもはヨセフと、その弟ベニヤミンです。記事はヨセフが十七歳の時から始まります。十七歳のヨセフは兄たちの羊を飼う手伝いをしていました。ヨセフから見ると、兄たちの仕事のありさまは不十分なところが色々と目に付いたわけです。そこで、父ヤコブに特別に愛されているヨセフは、兄たちの悪い噂を父に告げていたのでした。ルベン兄さんはこうでしたとか、シメオン兄さんはこんなことをしていました、とか。父ヤコブは、そうした噂を聞くと、「おい。ルベン、お前は羊に水もやらないでさぼっていたそうじゃないか。」とか、「シメオン、羊を危険なところへ連れて行ったそうじゃないか。」とか叱責をしていたわけです。

 当然、ヨセフは兄たちから憎まれるようになりました。そしてついには奴隷としてエジプトに売り飛ばされることにまでなってしまうのです。ヤコブが兄たちの悪い噂を告げたからです。口はわざわいのもとですね。ヤコブ書3:2-10

 

 また、父ヤコブのヨセフに対する特別扱いも兄たちのヨセフに対する憎しみを増幅させました。3節。最愛の妻ラケルの忘れ形見でしたから、ヨセフは特別に愛されました。それに、年寄り子だったから、とも書かれています。若いときの子どもには厳しくしつけをするものですが、年を取ってから生まれた子にはついつい孫に対するように甘くなってしまいがちなものですね。

 しかも、ヤコブはそれを露骨に行ないました。ヨセフにだけ高価なすその長い服を作ってやって、ほかの息子たちとは完全な差別待遇をしたのです。兄たちはよれよれの短い服を着せられていましたから、そのピッカピカの長服を見るたびにはらわたが煮え繰り返るような感情を持つようになってしまったのです。

 これは実に、父親ヤコブの愚かさだったといわざるを得ません。ヤコブ自身、子どもの頃、父や母のえこいきによる苦しみを経験したはずでした。ヤコブの父イサクは兄エサウをえこひいきしました。そのことがヤコブをどれほど不安な思いにさせたでしょうか。そして母リベカはヤコブを偏愛しました。これによって、ヤコブと兄エサウとは互いに憎みあうような関係になってしまいました。そして、ついにヤコブは数十年も家を出ることになったのです。偏愛は、軽く扱われた子だけでなく、蝶よ花よと特別扱いした子をも不幸にしてしまいます。

 けれども、愚かなことにヤコブは自分の息子のことになると、ヨセフを特別扱いしました。そして、そのことは当然の結果として、兄たちはヨセフを憎むようになり、ヨセフは兄弟の仲で孤立しました。

 

ヨセフの夢(5-11節)

 ある時、ヨセフは二つの夢を見て兄たちにその話をしました。ヨセフには兄たちに対する悪意というものは無かったように思えます。兄たちに対する悪意があったなら、こんなにもあっけらかんと自分の見た夢を話すことはできなかったでしょう。

 その夢の一つは十二の麦束の夢で、ヨセフの麦束を兄たちの麦束が囲んでお辞儀をしたというのでした。兄たちが言うように、ヨセフが兄たちを支配するという意味の夢でした。もう一つは太陽と月と十一の星がヨセフを拝んでいる夢でした。両親と兄たちが自分をあがめるようになるという内容でした。今度は父親にまでたしなめられてしまいました。

 ただヨセフの夢は神からの啓示だったのです。将来起ころうとすることを、神様はヨセフにあらかじめこの夢をもって教えられたのでした。神の啓示は啓示として真理だったのですから確かに語ってよかったでしょう。しかし、十七歳の青年ヨセフの問題点についていえば、彼には悪意というものがないにしても、知恵に欠けていたといわねばならないでしょう。生まれた時からずっと特別扱いされてきたヨセフには、軽んじられてきた兄たちの傷ついた心がまるで理解できないという問題点がありました。真理は語らねばならない。けれども「愛を持って真理を語られ」なければならないのです。

 

 ヨセフは兄たちの悪い噂を父に告げました。その内容はおそらく嘘ではなく事実だったでしょう。けれども、ヨセフは兄たちを心配し、兄たちを愛して、その事実を告げたのでしょうか。おそらくそうではありませんでした。むしろ、彼は得意げにこの二つの不思議な夢を告げたのでした。また、ヨセフが語った夢の内容は、嘘でもなかったし、実際、神からの重大な啓示であり、真理でした。けれども、それを語るヨセフには、聞く兄たちに対する愛というものがかけていたように思えます。

 私たちは確かに真理を語るに当たって、人の顔を恐れてはなりません。神のみを恐れるべきです。けれども、真理を語るに当たって、神様と隣人に対する愛をもって語ることがたいせつなことです。今日、心したい第一点はこのことです。

「むしろ、愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し、かしらなるキリストにたっすることができるためなのです。」エペソ4:15

 

2.怒りは憎しみに、憎しみは殺意に--悪魔に機会を与えるな

 

12-36節 ヨセフ、兄たちによって、隊商に売り飛ばされる

 さて、そんなことがあって何日かたったときのことです。ヨセフの兄たちはシェケムに羊の放牧に出かけていました。父ヤコブはヨセフを使いにやることにしました。兄たちの様子をうかがいにいかせたのです。いつものようにヨセフは二つ返事で出かけました。これを見ても、ヨセフには兄たちに対する悪意はなかったことがわかります。どうもヨセフは兄たちにとっては、悪気なくお目付け役のような役回りをしていたのです。

 ヨセフはいつものようにあの父親の偏愛のあかしである裾の長い派手な服を着て出かけました。ですから、兄たちには遠くから見て、すぐに「あれはヨセフだ」と分かりました。18節。また、兄たちが、夢のことでヨセフのことをどれほど憎んでいるかが良く分かるせりふですね。「夢見る者がやってくる」兄たちは、もう殺意に満ちていました。

 ヨセフがやってくると、兄たちはヨセフを捕まえ、例の長服をはぎとりました。そして、空井戸にほうりこんだのです。23,24節。長服と夢がいかに兄たちの心をいらだたせていたかがよく表現されていますね。

 

 激情にかられてヨセフを穴にほうりこみ、穴からヨセフが「兄さん。助けて!」と叫ぶのを尻目に、兄たちは食事をしました。最初は「どうやってヨセフを殺そうか」などと威勢よく話していたでしょう。けれども、食事をするうちに、兄たちはさすがに弟に手をかけて殺すことが段段恐ろしくなったようです。けれども、穴から出してやれば、ヨセフのことですから、きっと父親にこのことを言いつけるにちがいありません

 どうしたらよいかと考えるうちに、うまい具合にそこにミデヤン人の隊商がやってきました。当時のオリエントにおける大きな文明は、メソポタミアとエジプトにありました。隊商はさまざまな品物を持ってこの両地域を行ったり来たりすることによって、商売をしていたのです。そこで、ユダの発案で、ヨセフを隊商に売り飛ばすことにしたのです。兄たちはヨセフを穴から引き上げました。「お兄さんありがとう。」とヨセフが言うと、兄たちは「ふん。どういたしまして。」と言って、なんと弟のヨセフを奴隷として銀二十枚で売り飛ばしてしまったのです。兄たちの残酷な愛の冷え切った心の恐ろしさです。いくら気に入らないからといって、泣いている弟を奴隷に売り飛ばすなどという不法なことがどうして尋常な人間にできるでしょうか。兄たちの心はすっかり暗闇の力に捕えられていたのです。

 

 憎しみというのは恐ろしいもので、早く捨ててしまわないと、心の中に蓄えているうちにどんどん増殖して、とんでもない罪を犯すことにもなってしまうものです。「怒っても暗くなるまで怒ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えてはいけません。」とエペソ書にあるとおりです。不当な扱いを受ければ怒りが湧くでしょう。それはある程度やむをえないことです。しかし、怒りを腹に蓄えておくことは危険です。怒りはやがて憎しみに変わります。憎しみや恨みは悪魔の大好物なのです。憎しみを抱いている人の心には悪魔がやって来て、それを殺意に変えてしまいます。ついには人殺しをしてしまうかもしれません。

 

 兄たちは憎いヨセフを奴隷に売り飛ばし、銀20枚という小遣いまで手に入れました。そして、ヨセフがいなくなったことを父ヤコブにどのように説明しようかとわるだくみをしたのです。31-33節。

 父ヤコブの嘆きはどれほどのものだったでしょうか。34節、35節をご覧ください。父「ヤコブは慰められることを拒んだ」とあります。息子たちは、父親がこんなにも悲しんでいるのをみて、初めて自分たちが犯した罪の大きさを認識したのでしょう。彼らはヨセフと再会する二十数年後まで、弟を奴隷に売り飛ばして父親を欺いたという恐ろしい犯罪の秘密を共有しつづけ、良心の呵責を感じつづけなければならなくなるのです。

 

 「怒っても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないようにしなさい。」(エペソ4:26,27)

 彼らは怒り、憎しみを蓄え、ついには本当に恐ろしい罪を犯し、良心の呵責に数十年も苦しみつづけることになってしまいました。彼らは日が暮れるまで憤ったままでいつづけために悪魔に機会を与えてしまったのです。

 

結び

 多くの教訓を含むヨセフ物語の最初の章でした。

①子どもの幸せを願うならば、決して親として子どもをえこひいきしないようにということ。

②十七歳のヨセフの舌の問題から「愛をもって真理を語る」ことのたいせつさ、

③怒りを溜め込んだ結果、サタンの罠に陥ってしまい罪を犯した兄たちから、「怒っても罪を犯してはいけません。日が暮れるまで憤ったままでいてはいけません。悪魔に機会を与えないように」すべきこと。

 いずれも大切なことばかりです。けれど、これらの問題は私たちが自分の力で解決できることではありません。私たちは、自らのうちにこういう問題点や罪があると気づいたら、それを神様の前にもって行きましょう。そして、自分の罪を告白して、神様を見上げることです。神様は罪を赦して下さり、神様の平安と力を私たちのうちに注いでくださいます。

④ もう一つの励まし。私たちの人生には罪とその結果としての悲惨があります。けれども、神様はそんな悲惨をも後の日に喜びに変えてくださいます。今日の聖書個所はヤコブ、ヨセフ、兄たちみな反面教師ばかりです。けれども、神様はこうした人間一人一人をお取り扱いになりつつ、彼らのマイナスばかりを集めて、後には彼らにすばらしいプラス=救いの業を進めようとしていらっしゃるという不思議な事実です。私たちは、それぞれの立場で神様の前に自分を吟味し、日々悔い改めつつ、神様の御手に自分を委ねて歩んでまいりましょう。

求めなさい

マルコ10:46-52                            

2017年3月26日 苫小牧主日

 

  10:46 彼らはエリコに来た。イエスが、弟子たちや多くの群衆といっしょにエリコを出られると、テマイの子のバルテマイという盲人の物ごいが、道ばたにすわっていた。

 10:47 ところが、ナザレのイエスだと聞くと、「ダビデの子のイエスさま。私をあわれんでください」と叫び始めた

 10:48 そこで、彼を黙らせようと、大ぜいでたしなめたが、彼はますます、「ダビデの子よ。私をあわれんでください」と叫び立てた

 10:49 すると、イエスは立ち止まって、「あの人を呼んで来なさい」と言われた。そこで、彼らはその盲人を呼び、「心配しないでよい。さあ、立ちなさい。あなたをお呼びになっている」と言った。

 10:50 すると、盲人は上着を脱ぎ捨て、すぐ立ち上がって、イエスのところに来た。

 10:51 そこでイエスは、さらにこう言われた。「わたしに何をしてほしいのか。」すると、盲人は言った。「先生。目が見えるようになることです。」

 10:52 するとイエスは、彼に言われた。「さあ、行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのです。」すると、すぐさま彼は見えるようになり、イエスの行かれる所について行った。

 

 

 

1 エリコの町

 

 主イエスの一行はエリコに来ました。すでにユダヤ地方にはいりエルサレムのすぐ近くの町です。エリコというのは世界最古の町の一つであると言われています。旧約聖書ではヨシュア記の中で、ヨシュアを指導者としたイスラエルの民が、神の命令にしたがってこの町の周囲を回ったところ、その城壁が崩れてしまったという出来事が有名です。

 エルサレムが近くなりイエス様の伝道の旅はまもなく終わろうとしています。イエス様には十二人の弟子だけではなく多くの群衆がガリラヤからついてきていました。

 ところで、この記事のルカ伝の並行記事を見ていただきたいと思います。ちょっと興味深いことがあります。

18:35 イエスがエリコに近づかれたころ、ある盲人が、道ばたにすわり、物ごいをしていた。

 マルコ伝とルカ伝の違いがわかるでしょうか。一見すると、矛盾しているように見えるところです。マルコ伝では、「イエスがエリコから出られると」、そこに盲人がいたということですが、ルカ伝では「イエスがエリコに近づかれたころ」とあるのです。マタイの並行記事はマルコと同じくエリコから出たところとなっています。いったいなぜ、こんな違いがあるのでしょうか。聖書を否定したい人々の喜びそうなところです。

 ところが、考古学者がエリコの町を発掘した結果おもしろいことがわかりました。イエス様の御在世当時、エリコの町は古いエリコの町と新しいエリコの町のふたつがあったのです。そして、古い町の城壁の門を抜けて、隣にある、新しいエリコの町をつなぐ道がありました。それで、古い方の町を通ってその門を出て新しい町に向かおうとしていたときのことであるとわかりました。一つのエリコの門を出て、また、もう一つのエリコの門に近づいたとき、そこに乞食がいたのです。

 一見矛盾して見える聖書箇所も、こんなふうにして実態が明らかになってくるというのは面白いことです。私たちの限りある経験や知識によって、簡単に聖書を否定するのは慎む方が賢明です。千年くらい待ったほうがいいですね。

 

2 バルテマイの求める姿

 

 日本の町は城壁に囲まれておらず、町には門はありませんが、イスラエルの町は城壁に囲まれていて、町に出入りするためには門を通らねばなりません。町の門というのは、人が一番たくさん行き来するところですから、乞食の稼ぎ場でした。今で言えば駅前ということです。門のところに一人の乞食がいました。名をバルテマイすなわちテマイの息子といいます。彼は盲人でした。当時としては盲人がつくことのできるような職業はなく、社会福祉といった働きも乏しい時代ですから、乞食をして生計を立てるほかなかったのでした。自分がもし盲人だったら、また自分が乞食をしないと食べて行けなかったら、想像するとバルテマイがどんな気持ちで暮らしていたかが少しはわかるような気がします。ごく普通の人並みな幸せも自分には縁がないのだという思いで、絶望的な状況のなかでバルテマイは生活をしていたのです。

 そんなある日、バルテマイはイエス様の噂を聞いていたのです。この記事によると、その噂によって彼は「イエス様こそ、救い主」と信じるようになっていたことがわかります。「ダビデの子」という表現は、待ち望まれたキリストすなわち救い主の別名です。いつか、自分もイエス様にお会いしたいものだ。お会いしたならば、きっとこの目を開いてほしいものだ。彼はそう考えるようになりました。

 そして、またある日、バルテマイが、いつものように古いエリコの門と、新しいエリコの門を結ぶ道端にすわっていると、回りが急ににぎやかになりました。彼が「どうしたんだい、誰か来たのかい?」と周囲の人だかりに聞くと、「ナザレのイエス様がこの門を出ていらしたんだよ。」との返事です。彼は、今こそ自分がイエス様に救いを求める、最初で最後のチャンスであると思いました。

 一刻の猶予もありません。彼は「俺は目が見えないからイエス様のところにいけないよ」とつぶやいて座り込んだままあきらめるようなことはしませんでした。目の見えないバルテマイはどうしましたか?彼には視力はありませんが、聞くことはできました。イエス様が近づいて来られたのを、その耳でキャッチできたのです。そして、しゃべることもできました。しかも、毎日の乞食商売で「右や左の旦那様。あわれな乞食にお恵みを!」と叫んで鍛えた立派な喉です。彼は欠けたものでなく、与えられた賜物を十分に活用しました。彼は大音声で叫び求めたのです。

ダビデの子よ。私をあわれんでください!」

ダビデの子よ。私をあわれんでください!」

ダビデの子よ。私をあわれんでください!」 

ダビデの子よ。私をあわれんでください!」

ダビデの子よ。私をあわれんでください!」

 バルテマイの声があまりにばかでかく、そして何度も何度もしつこいので、みんなは「イエス様はお忙しいんだ。おとめするわけにはいかない」などといってたしなめました。しかし、いかにたしなめても、バルテマイはやめません。

ダビデの子よ。私をあわれんでください!」

ダビデの子よ。私をあわれんでください!」

 

 バルテマイの主を求める姿に、私は胸打たれてしまいました。こんなにも真剣に、必死で主を求めているのです。「私は目が見えないから行けない。」「きょうは仕事だからだめ。」「きょうは風邪ぎみだから。」「世間体があるから」「恥ずかしいから」「人が見ているから」などといろんなことを言い訳にして、多くの人たちは主を本気では求めようとしません。いつでも求めようと思えば求められると高を括っているのです。そして、バルテマイのように真剣に主を求めようとはしないのです。

しかし、主はあなたが自分の都合で保留しておいて、求めたいと思えばいつでも手軽に求められるようなお方ではありません。主が近づいてくださった。今というチャンスをのがしてはなりません。

「主を求めよ。お会いできる間に。近くにおられるうちに呼び求めよ。」

 

3 主の応答

 

 主イエスは弟子たちと一緒に、バルテマイの前をすたすたと通り過ぎて行かれました。バルテマイの求めがどれほど真剣なものか主は、試しておられたようです。また周囲の者たちにも、私たちにもバルテマイのその真剣そのものの求道心を学ばせたいのでしょう。

 そしてついに、主は言いました、「あの人を呼んできなさい。」ついに主イエスがバルテマイを呼んでくださったのです。

 

 するとバルテマイは上着を脱いで、すぐ立ち上がり、イエス様がいらっしゃると思われる方向に一生懸命に歩いて行きました。盲目で右に左にふらふらしていますし、けつまずきもしますが、それでも懸命に主に近づくのです。

 主イエスは、バルテマイに尋ねました。「何をして欲しいのか?」主イエスは御存じなのです。しかし、あえて聞かれるのです。私たちは主に祈り求めるとき、あいまいなもの、抽象的なことではいけません。具体的に答えてもらいたければ、具体的に求めることです。具体的に答えられると、ああ、主が答えてくださった!とわかります。すると神様との交わりがますます親密になります。そして、恵みを受け取る器がだんだんと大きくなります。最初は御ちょこみたいな信仰が、コップのようになり、洗面器のようになり、風呂桶のようになり、やがて支笏湖のようになり、太平洋のようになります。

バルテマイは即座に具体的に答えました。「先生。目が見えるようになることです。」

あなたは「主よ」と叫んで、主が振り返ってくださったとき、「あなたは何が欲しいのか?」と問われたら、具体的に答えられますか?具体的に求めることです。具体的に答えられます。キリスト教はご利益宗教ではないと時々言われます。しかし、キリスト教は永遠のいのちをくださる、それに加えてすべてのよきものをくださる世界最大のご利益宗教でしょう。たしかにキリストにあって生きるとき、私たちは欲張りで利己的な生き方でなく、神を愛し、隣人を自分自身のように愛することを目的として生き始めます。しかし、神を愛し隣人を自分自身のように愛して生きるために必要なものがあるでしょう。神様は、生ける神です。空気もお金も水も友だちも、罪の赦し、この世のいのちも、そして次の世のいのちも、すべては神様からの賜物です。私たちが神を愛し隣人を自分自身のように愛して生きるために必要なものはすべて与えてくださいます。具体的に求めればよいのです。

 

結び.私たちがバルテマイに私たちが学ばねばならないこと。

第一。救いということに関して、私たちは無一文の乞食であるということ。

あわれみによって、私たちは救われるのです。主から祝福をいただくのです。主の祝福は報酬ではありません。恵みなのです。

第二。バルテマイは主がそばに来られたその一回かぎりのチャンスを逃がさなかったのです。私たちの人生において、主が近く臨んでくださるときというのは、そんなにたびたびあるものではありません。キリストの福音を聞いている今が、救いの時です。

第三。万難を排して主を求める

バルテマイは、言い訳しようと思えば「目が見えないから自分は主に近づけない」とか言い訳することもできたでしょう。彼には数々のハンディがありました。しかし、彼はそんな言い訳をするよりも、彼に与えられた耳をもちいて、主イエスの到来を察知し、大声を用いて真剣に主を叫び求めたのです。

第四。バルテマイが主を求めるにあたって恥も外聞も世間体もなかった。それほど真剣に主の祝福を求めたのです。求めて求めて求め続けたのです。

「求めなさい。そうすれば与えられます。

探しなさい。そうすれば見つかります。

たたきなさい。そうすれば開かれます。」

です。この率直な求めを主は期待していらっしゃいます。

第五。「何をしてほしいのか?」と主に問われたら、具体的かつ明瞭に「目が見えるようになることです」と答えたことです。

 

大審判の前夜――ノアの時代

創世記6:1-8

2016年6月19日 苫小牧夕礼拝

 

6:1 さて、人が地上にふえ始め、彼らに娘たちが生まれたとき、

 6:2 神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻とした。

 6:3 そこで、【主】は、「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう」と仰せられた。

 6:4 神の子らが、人の娘たちのところに入り、彼らに子どもができたころ、またその後にも、ネフィリムが地上にいた。これらは、昔の勇士であり、名のある者たちであった。

  6:5 【主】は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。

 6:6 それで【主】は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。

 6:7 そして【主】は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」

 6:8 しかし、ノアは、【主】の心にかなっていた。

 

 

序  最後の審判の型

聖書の観点からすると、私たちが生きている今の歴史は二度目の歴史です。つまり、一度目の歴史はいったんノアの大洪水という審判によって終わってしまいました。その後、二度目の歴史が始まって今日にいたっているのです。この二度目の歴史は、主イエスが再臨して世界をさばかれるときに終末を迎えることになります。ノアの大洪水の出来事は、そういう意味で、これから来ようとしている主の最後の審判の予型なのです。

 実際、主イエスはご自分の再臨と最後の審判について予告なさったとき、ノアの時代のことに触れていわれました。

 24:37 人の子が来るのは、ちょうど、ノアの日のようだからです。

 24:38 洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。

 24:39 そして、洪水が来てすべての物をさらってしまうまで、彼らはわからなかったのです。人の子が来るのも、そのとおりです。

 

 そういうつもりで、本日の箇所を学びましょう。

 

1 セツ族とカナン族が混ざる

6:1 さて、人が地上にふえ始め、彼らに娘たちが生まれたとき、

 6:2 神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻とした。

 

 6章2節の「神の子ら」と「人の娘」とは誰を指しているのでしょうか。ある学者たちは「神の子ら」とは天使たちを意味すると解釈していますが、それは間違いでしょう。なぜなら、主イエスがおっしゃったように、天使はめとることも嫁ぐこともないからです。むしろ、「神の子ら」という表現が意味しているのは、創世記4章に出てきたセツ族の子孫たちを意味しており、「人の娘たち」はとカイン族の子孫たちを意味していると受け取るべきでしょう。

セツ族の人々は、まことの神である主を恐れ、自らの弱さを認めつつ、主の御名を呼んで生活する敬虔な一族でした。これに対してカイン族は、神に反逆する不敬虔な一族であって、町を築き・産業や富や技術をもって、力を志向していました。二つの部族は別々の行き方をしていたのです。ところが、大審判の日が近づいたころ、それに変化が生じてきたというのが6章1,2節の記述です。「神の子らは、人の娘がいかにも美しいのを見て、その中から好き者を選んで、結婚した」というのです。セツの一族の青年たちは、結婚するにあたって相手が神様を信じているか、神様を愛している人なのかということを考えも祈りもしないで、ただ「いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んだ」というのです。自分の結婚にかんする神のみこころを祈り考えることもなく、ただ美人だとか、かわいいな・・という自分の好みで結婚をするという風潮になってしまったということです。この風潮が、大審判前夜の風潮だったというのです。

本来、結婚は、創造のときに神がお定めになった制度であり、家庭建設をとおして、三位一体の神の愛のありようをこの地上において表現し、神の栄光をあらわすためのものです。神の民に属する者でありながら、その本来の結婚の目的を忘れて、単に、かわいいな、とか、美人だな、とか、ハンサムだとか、金持ちだとか、そういう肉の欲や虚栄心で配偶者をえらぶ、そういう風潮になってしまった、それが大審判前夜の世界の風潮だったのです。つまり、神のみこころなどどうでもよくなって、自分の欲望や楽しみがすべてという風潮です。主イエスはおっしゃいました。

「24:38 洪水前の日々は、ノアが箱舟に入るその日まで、人々は、飲んだり、食べたり、めとったり、とついだりしていました。」

聖書は結婚・家庭というものを大変重要視します。国家よりも家庭のほうが根本的に重要なのです。家庭は創造のときに定められた三つの大事な制度の一つです。三つとは、安息日・労働・結婚です。国家とは、これら三つの大事な制度を無事に護るための手段にすぎません。結婚がそれほど大事なのは、結婚によって築かれる家庭から、次の子孫が生まれてくるからです。

 

ネフィリム

そのようにして、神を恐れるものがいなくなっていき、神の子たちと人の娘たちの結婚によってネフィリムが生まれてきたといいます。

6:4 神の子らが、人の娘たちのところに入り、彼らに子どもができたころ、またその後にも、ネフィリムが地上にいた。これらは、昔の勇士であり、名のある者たちであった。

 新改訳聖書では、神の子らと人の娘の結婚とネフィリムの誕生の関係がいまひとつよくわかりませんが、新共同訳では次のようにあって明瞭です。ネフィリムは、セツ族とカイン族の男女が結婚をして生まれてきた者たちでした。

 「当時もその後も、地上にはネフィリムがいた。これは、神の子らが人の娘たちのところに入って産ませた者であり、大昔の名高い英雄たちであった。」

  ネフィリムという名自体は、大洪水のあとにもこの名で呼ばれる人々が出てきて、彼らは巨人族ということになっていますが、この創世記6章の大洪水前の世界においては、肉体的に巨大だということではなくて、この世的な名士たちを意味していたということです。神を知っているセツ族の男たちが、カイン族の美女たちを選んで夫婦になり、そこに生まれてきた子たちがこの世的な名士になっていったというのです。不思議な記述ですが、少しわかるような気がしなくもありません。

クリスチャンの親のもとでは、子どもたちは世間の世俗的な家では受けられない勤勉さとか、この世離れした高い理想とかを皮膚から吸い込むことになります。ただ地上に張り付いて、親から「一番大事なのはお金だよ」とか仕込まれる家庭に育った人とは、その人生の進路が違ってきます。結局は、神に背を向けた人生を歩むことになっても、基準となる理想というものがその人の中にしみついているということになります。この世との心の距離をもちながら、なおかつ、この世のものをつかみに行ったのがネフィリムたちだったように思えます。

日本はクリスチャン人口がご存知のように非常に少なく1パーセントに満たない社会です。しかし、現在の有力政治家の中には、かつて聖書やキリスト教に近づいた経験をもった人々が割合としては非常に多いのです。実は、日本の首相には意外にクリスチャンが多い。判明しているだけでも、戦前では原敬、戦後では吉田茂片山哲鳩山一郎大平正芳細川護熙、麻生太 郎、鳩山由紀夫。戦前、戦後を通して首相の数は計62人。約13%の割合であり、日本全体の対人口比1%弱に比べるとかなり高い。現在の内閣にもクリスチャンといわれる人々が16パーセント。その言動から見て、聖書に照らして本物のクリスチャンだろうと思えるのはきわめてわずかですが、こういう人々がいわばネフィリムなのだろうと思います。とはいえ、ネフィリムたちは結局は、神に背を向けてこの世の成功に走った人々だったわけです。

 

2 神の悔やみ、決断

 

 神は、地上の惨状を神はごらんになっていました。人々は、心の思うことはみな悪いことということになりました。神を信じ恐れることが異常なことであり、神など無視してこの世的な成功がすべてだというような生き方が正常な生き方と見られるほどに、世の中がおかしくなりました。現在の日本社会のようなありさまです。

 6:5 【主】は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。

 そこで、主はおっしゃいます。

6:3 そこで、【主】は、「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう」と仰せられた。

 

 このことばは、二通りの意味に解しうるところです。一つの解釈は、世界を大洪水で滅ぼすというこの決断をしてから、その実行までを120年間にしようという意味です。神様は、ノアとその家族たちが大きく丈夫な船を建造するために十分な時間を用意してくださったということになります。

もう一つは、神さまが人間の寿命を900年から120年程度まで短くすることにしたという理解です。というのは、この世の価値観が狂ってしまっているので、長生きすればするほどに人間は罪に染まって悪魔のようになってしまうので、そうなる前にいのちを断ってしまうためです。もともときよい神の御子に似た者として造った人間が、そんなふうに悪魔のようになることを神は防止されたということです。実際、大洪水のあとから人間の寿命が急激に短くなっていったことが、創世記11章にしるされています。それぞれの解釈に一理ありますが、私は後者を一応とっておきます。

 

 人間がもはや本来の「神の似姿」としての生き方をすっかり失ってしまい、悪魔のようになってしまい、すでにその目的から外れに外れてしまったのを神はごらんになって、神は決断をなさいます。神は非常に忍耐強いお方です。「神などいるものか」と嘯いていた私たちのことも忍耐して、太陽を昇らせ雨をふらせて必要なもののすべてを与えてくださっています。

けれども、公正な裁き主でいらっしゃいますから、最後の最後まで、どこまでも悔い改めを拒み、神をないがしろにする人々には、最終的にはきびしく公正なさばきをお与えになります。

6:6 それで【主】は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。

 6:7 そして【主】は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」

 

 

 私たちの生きているこのれきしにも、ついには決着がつけられるときが来ます。2ペテロ3:3-6

 

 

「3:3 まず第一に、次のことを知っておきなさい。終わりの日に、あざける者どもがやって来てあざけり、自分たちの欲望に従って生活し、

 3:4 次のように言うでしょう。「キリストの来臨の約束はどこにあるのか。父祖たちが眠った時からこのかた、何事も創造の初めからのままではないか。」

 3:5 こう言い張る彼らは、次のことを見落としています。すなわち、天は古い昔からあり、地は神のことばによって水から出て、水によって成ったのであって、

 3:6 当時の世界は、その水により、洪水におおわれて滅びました。

 3:7 しかし、今の天と地は、同じみことばによって、火に焼かれるためにとっておかれ、不敬虔な者どものさばきと滅びとの日まで、保たれているのです。」

 

 

3 しかし、ノアは

 

 こういう真っ暗な世界のなかに、ただ1人ノアという人物がいました。

6:8 しかし、ノアは、【主】の心にかなっていた。

 直訳すれば、「ノアは主の御目の中に恵みを見出した」となります。恵みと訳されたことばは、ヘブル語でヘーン、LXXでkarisです。ヘーンは、favour, grace, elegance、好意・恵みという意味です。口語訳では「しかし、ノアは主の前に恵みを得た。」とあります。このほうが直訳に近くてよいのではないかと思います。

ノアが道徳的に完璧な人だったというわけではありませんが、主の目の中で恵みを見出したというのです。この世の人々は神に無関心で、この世のことがすべてだったのですが、彼の目は主のほうを向いていました。そして、ノアというのは「慰め」ということばから来た名前なのですが、彼は、真の神に慰めを見ていたのです。ハイデルベルク信仰問答第一問答を思い出します。

 

問1 生きるにも死ぬにも、あなたのただ一つの慰めは何ですか。 

答え わたしがわたし自身のものではなく、 

体も魂も、生きるにも死ぬにも、 

わたしの真実な救い主イエス・キリストのものであることです。 

    この方は御自分の尊い血をもってわたしのすべての罪を完全に償い、 

       悪魔のあらゆる力からわたしを解放してくださいました。 

    また、天にいますわたしの父の御旨でなければ 

       髪の毛一本も落ちることができないほどに、 

       わたしを守っていてくださいます。 

       実に万事がわたしの救いのために働くのです。 

    そうしてまた、御自身の聖霊によりわたしに永遠の命を保証し、 

       今から後この方のために生きることを心から喜び 

       またそれにふさわしくなるように、整えてもくださるのです。 

 

 

結び 今、私たちが生かされている歴史にも、ついには終わりが来ます。主イエスの再臨と審判の日は日々近づいています。あなたは、主をお迎えする用意はできているでしょうか。

 この時代にあって、私たちもノアのように、主の御目の前に恵みを見出すもの、主の御目にかなうものでありたいと思います。それは、私たちがこの世のものでなく、主のうちにただひとつの慰めを見出すものであるということです。